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17.残された時間

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-22 11:01:00

「ゲホッ、げほっ……」

 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。

 白い布に、小さな赤い染みがついていた。

 まただ。

 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。

 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。

 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。

 咳は、前よりもひどくなっている。

 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。

 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。

 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。

「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」

「じいちゃん先生、おはよう!」

 僕はすぐに身体を起こそうとした。

 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。

「誠也はね、元気だよ!」

「そうかい」

 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。

 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。

「少しだけ、じっとしていておくれ」

「うん」

 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。

 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。

 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。

「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」

「うん。知ってるよ」

「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」

 声はいつもと同じように優しかった。

 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」

「うん」

 僕は頷いた。

 けれど、本当のことは言えなかった。

 本当は、前よりもずっと身体が苦しい。

 少し立っているだけで足が震える。夜になると咳が止まらなくなって、息の仕方までわからなくなる。

 腕も脚も、少しずつ細くなっていた。

 前まで着ていた服が、今はぶかぶかになっている。

 でも、僕は知っていた。

 まだ身体の調子がよかった頃、夜中にこっそり病室を抜け出して、この病院の中を冒険したことがある。

 昼間は人がたくさんいる廊下も、夜になると静かで、知らない場所みたいに見えた。

 そのとき、じいちゃん先生の部屋を覗いたことがあった。

 じいちゃん先生は、黒くて長い椅子の上に横になって眠っていた。

 次の日、二階にいる白い服のお姉さんたちに聞いたら、

「院長先生はお疲れだから、眠っているときは入らないようにね」

 と言われた。

 それから何度か夜に見に行ったけれど、じいちゃん先生はいつも同じ部屋にいた。

 たぶん、家に帰っていないのだと思う。

 僕のせいなのかな。

 僕の具合が悪いから、じいちゃん先生はずっと病院にいなきゃいけないのかな。

 そう思うと、苦しいなんて言えなかった。

 僕が元気になれば、じいちゃん先生も家へ帰れる。

 だから、僕は元気でいなければならない。

 少なくとも、じいちゃん先生の前では。

    。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 それから、いくつもの月が過ぎた。

 僕はもう、自分の力で立ち上がることもできなくなっていた。

 広い病室に、ベッドがひとつ。

 その上で、僕は一日のほとんどを過ごしている。

 お母さんとお父さんが来てくれる回数も、前より少なくなった。

 きっと、忙しいのだと思う。

 お父さんは仕事があるし、お母さんだって、家でしなければならないことがたくさんある。

 そうわかっている。

 わかっているけれど。

「……寂しいな」

 誰もいない病室で呟いても、返事はなかった。

 今月で、僕がこの病院へ来てから一年になる。

 窓の外では、桜が咲いていた。

 開いた窓から暖かな風が入り込み、ときどき桜の花びらを病室まで運んでくる。

 一枚の花びらが、白いシーツの上へ落ちた。

 僕はそれを取ろうと手を伸ばしたけれど、腕は思うように動かなかった。

 あと少しなのに、指が届かない。

 諦めて腕を戻したとき、廊下の方から話し声が聞こえてきた。

「院長。誠也くんの容体は、悪化の一途をたどっています」

 お兄ちゃん先生の声だった。

 病室から少し離れたところで話しているらしい。

 扉は閉まっていたけれど、廊下が静かだったから、二人の声はよく聞こえた。

「こんなことを申し上げるのは酷だとわかっています。しかし、いま投与している薬は、誠也くんにはほとんど効果が出ていません」

 難しい言葉ばかりで、僕には何を話しているのかよくわからなかった。

 けれど、自分の名前が聞こえたから、耳を澄ませた。

「薬の数にも限りがあります。治療を必要としている患者は、ほかにも大勢いるんです。せめて残っている分は――」

「そんなことを言うのはやめなさい!」

 突然、じいちゃん先生の怒鳴り声が響いた。

 あの優しいじいちゃん先生が、そんなに大きな声を出すところを、僕は初めて聞いた。

 胸がびくりと跳ねた。

「し、しかし……これ以上続けても、薬剤を無駄にするだけです。本当に必要としている患者が、この病院には何人もいるんですよ」

「花澤君。私は誠也くんをご両親から託されたんだ」

 じいちゃん先生の声は、怒っているのに少し震えていた。

「たとえ回復の兆しが見えなくても、私たちが先に諦めることは許されない」

「ですが、あの薬は彼の身体に合っていません。副作用の方が強く出ている。このまま続けるより、治療を打ち切って、ほかの患者に回すべきです」

「それで、誠也くんを諦めろと言うのかね」

 じいちゃん先生の声が、急に低くなった。

 さっきまでより静かなのに、その方がずっと怖く聞こえた。

「そ、それは……」

「君は、いずれ立派な医師になるだろう。だが、今の言葉を聞く限りでは、まだ未熟だと言わざるを得ない」

「……っ」

「あの薬は、誠也くんのご両親が、彼を助けるために必死で用意したものだ。それを誠也くんに使わず、ほかの患者に回せと?」

「僕は、感情ではなく現実の話をしています!」

 お兄ちゃん先生の声も大きくなった。

「ご両親がどれほど願っても、効かないものは効かないんです! その薬があれば、助けられる患者がいるかもしれない。院長にだって、薬には合うものと合わないものがあることくらい、おわかりでしょう!」

「確かに、今の薬が誠也くんに最も適しているとは言えない。だが、無意味だと決まったわけではない」

 じいちゃん先生は、ゆっくりと言った。

「少なくとも、誠也くんは当初告げられていた時期を、一年近く越えて生きている。それが薬のおかげなのか、彼自身の強さによるものなのかは、私にもわからない」

 一年。

 その言葉だけは、僕にもわかった。

「それでも、彼は今も生きている。息をして、笑って、私たちと話をしている。まだここにいる人間を、どうして無駄だと言えるんだ」

「院長は、あの子に入れ込みすぎです!」

 お兄ちゃん先生が叫んだ。

「ほかの患者をもっと見てください! 先ほどの言い方が軽率だったことは認めます。それでも、僕の考えは変わりません」

 そのあと、お兄ちゃん先生は少しだけ声を落とした。

「誠也くんは、もう長くは……」

 そこで、言葉が途切れた。

「だったら、せめて残された薬で、助かる可能性のある患者を救うべきではありませんか」

 次の瞬間。

 ぱん、と乾いた音が廊下に響いた。

 何かを叩いたような音だった。

「次に同じことを言ったら、君は解雇だ」

 じいちゃん先生の声が聞こえた。

 それから、廊下は静かになった。

 誰も何も言わない。

 僕はベッドの上で、動けないまま扉を見つめていた。

 全部の意味はわからなかった。

 でも、いくつかの言葉だけが、頭の中に残った。

 薬の無駄。

 諦める。

 もう長くはない。

 やがて、病室の扉がゆっくりと開いた。

 じいちゃん先生が入ってきた。

「やあ、誠也くん」

 いつもと同じように笑っていた。

 けれど今日は、白衣がいつもより重たそうに見えた。

 顔も少し青くて、目の下には深い影ができている。

「いつも同じ質問ですまないね。身体の具合はどうかな?」

 僕は、さっき何を話していたの、と聞きたかった。

 薬は無駄なの。

 僕はもう、治らないの。

 じいちゃん先生は、僕のせいで怒ったの。

 聞きたいことは、いくつもあった。

 けれど、どれも口には出せなかった。

 じいちゃん先生の顔を見ていると、聞いてはいけないような気がした。

「ゴホッ……」

 咳をすると、口の中に鉄みたいな味が広がった。

 僕は気づかれないように唇を閉じ、布団の下で手を強く握った。

「げ、元気だよ」

 じいちゃん先生は何も言わなかった。

 ただ、僕の顔をじっと見ていた。

 その目が悲しそうに見えたから、僕はもう一度、できるだけ大きく笑った。

「本当だよ。誠也は、元気だから」

 僕が元気なら、じいちゃん先生は家へ帰れる。

 今夜こそ、黒くて長い椅子ではなく、自分のおうちで眠れる。

 そう思いながら、僕は口の中に広がった赤い味を、そっと飲み込んだ。

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