LOGIN「ゲホッ、げほっ……」
胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。 「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」 「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。 「誠也はね、元気だよ!」 「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。 「少しだけ、じっとしていておくれ」 「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。 「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」 「うん。知ってるよ」 「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。 「……ごめんなさい」 「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」 「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。 本当は、前よりもずっと身体が苦しい。 少し立っているだけで足が震える。夜になると咳が止まらなくなって、息の仕方までわからなくなる。 腕も脚も、少しずつ細くなっていた。 前まで着ていた服が、今はぶかぶかになっている。 でも、僕は知っていた。 まだ身体の調子がよかった頃、夜中にこっそり病室を抜け出して、この病院の中を冒険したことがある。 昼間は人がたくさんいる廊下も、夜になると静かで、知らない場所みたいに見えた。 そのとき、じいちゃん先生の部屋を覗いたことがあった。 じいちゃん先生は、黒くて長い椅子の上に横になって眠っていた。 次の日、二階にいる白い服のお姉さんたちに聞いたら、 「院長先生はお疲れだから、眠っているときは入らないようにね」 と言われた。 それから何度か夜に見に行ったけれど、じいちゃん先生はいつも同じ部屋にいた。 たぶん、家に帰っていないのだと思う。 僕のせいなのかな。 僕の具合が悪いから、じいちゃん先生はずっと病院にいなきゃいけないのかな。 そう思うと、苦しいなんて言えなかった。 僕が元気になれば、じいちゃん先生も家へ帰れる。 だから、僕は元気でいなければならない。 少なくとも、じいちゃん先生の前では。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 それから、いくつもの月が過ぎた。 僕はもう、自分の力で立ち上がることもできなくなっていた。 広い病室に、ベッドがひとつ。 その上で、僕は一日のほとんどを過ごしている。 お母さんとお父さんが来てくれる回数も、前より少なくなった。 きっと、忙しいのだと思う。 お父さんは仕事があるし、お母さんだって、家でしなければならないことがたくさんある。 そうわかっている。 わかっているけれど。 「……寂しいな」 誰もいない病室で呟いても、返事はなかった。 今月で、僕がこの病院へ来てから一年になる。 窓の外では、桜が咲いていた。 開いた窓から暖かな風が入り込み、ときどき桜の花びらを病室まで運んでくる。 一枚の花びらが、白いシーツの上へ落ちた。 僕はそれを取ろうと手を伸ばしたけれど、腕は思うように動かなかった。 あと少しなのに、指が届かない。 諦めて腕を戻したとき、廊下の方から話し声が聞こえてきた。 「院長。誠也くんの容体は、悪化の一途をたどっています」 お兄ちゃん先生の声だった。 病室から少し離れたところで話しているらしい。 扉は閉まっていたけれど、廊下が静かだったから、二人の声はよく聞こえた。 「こんなことを申し上げるのは酷だとわかっています。しかし、いま投与している薬は、誠也くんにはほとんど効果が出ていません」 難しい言葉ばかりで、僕には何を話しているのかよくわからなかった。 けれど、自分の名前が聞こえたから、耳を澄ませた。 「薬の数にも限りがあります。治療を必要としている患者は、ほかにも大勢いるんです。せめて残っている分は――」 「そんなことを言うのはやめなさい!」 突然、じいちゃん先生の怒鳴り声が響いた。 あの優しいじいちゃん先生が、そんなに大きな声を出すところを、僕は初めて聞いた。 胸がびくりと跳ねた。 「し、しかし……これ以上続けても、薬剤を無駄にするだけです。本当に必要としている患者が、この病院には何人もいるんですよ」 「花澤君。私は誠也くんをご両親から託されたんだ」 じいちゃん先生の声は、怒っているのに少し震えていた。 「たとえ回復の兆しが見えなくても、私たちが先に諦めることは許されない」 「ですが、あの薬は彼の身体に合っていません。副作用の方が強く出ている。このまま続けるより、治療を打ち切って、ほかの患者に回すべきです」 「それで、誠也くんを諦めろと言うのかね」 じいちゃん先生の声が、急に低くなった。 さっきまでより静かなのに、その方がずっと怖く聞こえた。 「そ、それは……」 「君は、いずれ立派な医師になるだろう。だが、今の言葉を聞く限りでは、まだ未熟だと言わざるを得ない」 「……っ」 「あの薬は、誠也くんのご両親が、彼を助けるために必死で用意したものだ。それを誠也くんに使わず、ほかの患者に回せと?」 「僕は、感情ではなく現実の話をしています!」 お兄ちゃん先生の声も大きくなった。 「ご両親がどれほど願っても、効かないものは効かないんです! その薬があれば、助けられる患者がいるかもしれない。院長にだって、薬には合うものと合わないものがあることくらい、おわかりでしょう!」 「確かに、今の薬が誠也くんに最も適しているとは言えない。だが、無意味だと決まったわけではない」 じいちゃん先生は、ゆっくりと言った。 「少なくとも、誠也くんは当初告げられていた時期を、一年近く越えて生きている。それが薬のおかげなのか、彼自身の強さによるものなのかは、私にもわからない」 一年。 その言葉だけは、僕にもわかった。 「それでも、彼は今も生きている。息をして、笑って、私たちと話をしている。まだここにいる人間を、どうして無駄だと言えるんだ」 「院長は、あの子に入れ込みすぎです!」 お兄ちゃん先生が叫んだ。 「ほかの患者をもっと見てください! 先ほどの言い方が軽率だったことは認めます。それでも、僕の考えは変わりません」 そのあと、お兄ちゃん先生は少しだけ声を落とした。 「誠也くんは、もう長くは……」 そこで、言葉が途切れた。 「だったら、せめて残された薬で、助かる可能性のある患者を救うべきではありませんか」 次の瞬間。 ぱん、と乾いた音が廊下に響いた。 何かを叩いたような音だった。 「次に同じことを言ったら、君は解雇だ」 じいちゃん先生の声が聞こえた。 それから、廊下は静かになった。 誰も何も言わない。 僕はベッドの上で、動けないまま扉を見つめていた。 全部の意味はわからなかった。 でも、いくつかの言葉だけが、頭の中に残った。 薬の無駄。 諦める。 もう長くはない。 やがて、病室の扉がゆっくりと開いた。 じいちゃん先生が入ってきた。 「やあ、誠也くん」 いつもと同じように笑っていた。 けれど今日は、白衣がいつもより重たそうに見えた。 顔も少し青くて、目の下には深い影ができている。 「いつも同じ質問ですまないね。身体の具合はどうかな?」 僕は、さっき何を話していたの、と聞きたかった。 薬は無駄なの。 僕はもう、治らないの。 じいちゃん先生は、僕のせいで怒ったの。 聞きたいことは、いくつもあった。 けれど、どれも口には出せなかった。 じいちゃん先生の顔を見ていると、聞いてはいけないような気がした。 「ゴホッ……」 咳をすると、口の中に鉄みたいな味が広がった。 僕は気づかれないように唇を閉じ、布団の下で手を強く握った。 「げ、元気だよ」 じいちゃん先生は何も言わなかった。 ただ、僕の顔をじっと見ていた。 その目が悲しそうに見えたから、僕はもう一度、できるだけ大きく笑った。 「本当だよ。誠也は、元気だから」 僕が元気なら、じいちゃん先生は家へ帰れる。 今夜こそ、黒くて長い椅子ではなく、自分のおうちで眠れる。 そう思いながら、僕は口の中に広がった赤い味を、そっと飲み込んだ。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう