LOGIN院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。
室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄ちゃん……』 不意に、誠也くんの唇から声が零れた。 『お母さん……お父さん……』 家族を捜すように、腕の中の木彫りの犬を強く抱き締める。 穏やかだった眉が寄り、幼い顔が苦しそうに歪んだ。 家族からの想いを受け取り、僕たちに見つけてもらえた今でも、誠也くんは夢の中で孤独を彷徨っている。 月瀬さんの指が、その頬を慰めるようにそっと撫でた。 「……先輩」 先ほどまでの柔らかな声とは違う、静かで真剣な声だった。 「この子は、長いあいだ苦しみ続けてきました。ですから、もう解放してあげましょう」 「解放する……」 月瀬さんは巫女だと言っていた。 誠也くんをあるべき場所へ還すための最後の一手を、彼女は知っているのだろう。 「誠也くんは、お兄様の想いを受け取りました。そして、かくれんぼを通して、誰かに見つけてもらうこともできました」 月瀬さんは眠る誠也くんへ目を落としたまま、静かに続ける。 「それによって、この子の中にあった大きなわだかまりは、確かに解け始めています」 「だったら、もう成仏できるんじゃないの?」 「いいえ」 月瀬さんは、ゆっくりと首を横へ振った。 「誠也くんは、あまりにも長いあいだ、この病院へ縛られてしまいました。その間に積み重なった悲しみや苦しみは、一つの願いが叶っただけでは消えてくれないのです」 「それじゃあ……」 かくれんぼをしても、この子は解放されないのか。 けれど月瀬さんは、もう解放してあげようと言った。 ならば、まだ何か方法があるはずだ。 これ以上誠也くんを苦しめず、長い孤独から救い出す方法が。 「何をすればいいの?」 「この子の過去を知ることです」 「過去を……知る?」 予想もしなかった答えに、思わず聞き返した。 「それは、誠也くんが目を覚ましたあと、本人から話を聞くってこと?」 月瀬さんは、再び首を横へ振る。 「いいえ。これから私は、巫術の一つである『過去視』を行います」 「巫術……?」 聞き慣れない言葉が、次々と出てくる。 「それに、過去を見るって……そんなことが本当にできるの?」 「はい」 月瀬さんは、少しも躊躇わずに答えた。 その表情に冗談めいたところはなく、僕を見る瞳は真剣そのものだった。 過去を見る。 テレビで、物に触れただけで過去の光景が見えると語る霊媒師を目にしたことはある。 けれど正直に言えば、僕は信じていなかった。 霊を見ることのできる僕でさえ、そこまでは作り話だと思っていたのだ。 その力を、今から目の前で使うと月瀬さんは言っている。 「魂に刻まれた記憶は、誰にも届かないまま閉ざされ続けると、澱のように残ってしまうことがあります」 月瀬さんは、誠也くんが抱く木彫りの犬へそっと手を添えた。 「ですが、生きている者がその記憶を受け取り、その人が確かに生きていたことや、抱えていた痛みを知ることで、魂は少しずつ記憶を手放せるようになります」 「僕たちが誠也くんの過去を見ることが……供養になる?」 「はい。この子の苦しみを、もうこの子一人だけのものにしない。それが、最後に残された未練を解くことにつながるのです」 なるほど、と素直に頷けるほど、僕は霊について詳しくない。 魂に刻まれた記憶。 過去を見る巫術。 記憶を誰かと分かち合うことで行う供養。 理解しようとしても、頭が追いつかなかった。 「……ごめん。難しいことは、まだよく分からないんだけど」 僕は一度言葉を切り、自分なりに整理する。 「つまり月瀬さんは、これから誠也くんの過去を見るんだよね?」 「はい」 「それを見れば、この子を解放できるかもしれない」 「その可能性は高いと思います」 「分かった。それなら――」 「先輩」 言葉を続けようとした僕を、月瀬さんが静かに制した。 「その記憶を、先輩にもお見せすることができます」 「僕にも……?」 「はい。ただし、きっと穏やかな記憶ばかりではありません」 月瀬さんの眼差しが、僅かに翳る。 「誠也くんが何を見て、何を感じ、どのような想いで最期を迎えたのか。それを、先輩も同じように目にすることになります」 胸の奥が、重く沈んだ。 「とても辛い過去を見ることになるでしょう。ですから、無理にとは言いません」 見るか、見ないか。 月瀬さんは、その選択を僕へ委ねている。 つまり彼女は本当に、誠也くんの過去を見ることができる。 それだけではない。 何らかの方法で、その記憶を僕にも共有できるのだ。 あまりにも現実離れしている。 今でも、すべてを信じられたわけではない。 それでも――誠也くんが何十年も一人で抱えてきた苦しみを、辛いからという理由だけで見ないふりはしたくなかった。 この子が耐えてきたものから、僕だけが目を背けるべきではない。 「……見るよ」 僕は月瀬さんの目を見て、はっきりと答えた。 「僕にも、誠也くんの過去を見せてほしい」 月瀬さんはしばらく僕を見つめたあと、静かに頷いた。 「分かりました。では、始めます」 姿勢を正し、右手の人差し指と中指を揃える。 そして、その二本の指先を誠也くんの額へそっと当てた。 「最後の光が消えてから、どれほどの時間が流れたのだろう。 僕は天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。 誠也くんたちが昇っていった場所には、もう何もない。ひび割れた天井と、長い年月をかけて広がった黒い雨染みが残されているだけだ。 それでも、あの白い光はまだ瞼の裏に焼きついていた。「先輩、お疲れさまでした」 隣から聞こえた声に、ようやく顔を向ける。 月瀬さんは神楽鈴を鞄へ戻すところだった。涙の跡が頬に残り、肩もわずかに落ちている。声は普段と変わらなかったけれど、その顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。「月瀬さんこそ。僕は……何もしてないけどね」 自分でも困るくらい、乾いた笑いが漏れた。 誠也くんを見つけたのも、凍りついていた心を解いたのも、最後に家族のもとへ送り届けたのも、すべて月瀬さんだ。 僕はただ、その隣で見ていただけだった。「いいえ」 月瀬さんは鞄を閉じる手を止め、まっすぐ僕を見た。「『かくれんぼをしよう』と、最初に提案してくださったのは先輩です」「でも、月瀬さんには分かってたんでしょ? 誠也くんが、本当は見つけてほしがってたこと」「想いを読み取れることと、その子に必要な手を差し伸べられることは、同じではありません」 月瀬さんは、誠也くんが眠っていたソファへ目を向けた。「私は誠也くんを、救うべき御魂として見ていました。けれど先輩は、私の言う通り寂しくて誰かと遊びたがっている、ひとりの男の子として見てくださった」「それは……」「術で魂の縛めを解くことはできます。ですが、閉ざされた心を無理に開くことはできません。最後にこちらの手を取るのは、その御魂自身です」 そこで、月瀬さんは再び僕を見た。「誠也くんが私たちを信じ、手を伸ばしてくれたのは、先輩が一緒に遊んでくださったからです。それに、最後にかけた言葉も――あの子が自分の人生を受け入れるために、必要なものでした」「でも、僕じゃなくても……」「どうか、『僕でなくてもできた』と、ご自分のしたことまで消してしまわないでください」 柔らかな声だった。 それなのに、今度は言い返せなかった。 僕の言葉を聞いたときに浮かべた、誠也くんの笑顔を思い出す。 僕が自分の言葉を否定してしまえば、あの子が受け取ってくれた想いまで嘘にしてしまうような気がした。「……ありがとう、月瀬さ
──櫻井悠斗── 「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄