LOGIN高校二年生になって、最初の一日がようやく終わった。
窓から差し込む淡い夕日が、教室をやわらかな橙色に染めている。黒板も机も、帰り支度を始めたクラスメイトたちの横顔も、朝とは少し違って見えた。 「ねえねえ、帰りに寄ってかない? 新しくできたカフェがあるんだって!」 「いいねー! 行こ行こっ!」 近くから弾んだ声が聞こえ、楽しげな笑い声が重なる。 朝からもう八時間近く経っているというのに、新学期特有の浮き立った空気は、少しも衰えていなかった。 なんだか、眩しい。 別に、彼女たちが羨ましいわけではない。ただ、放課後の予定を決めて屈託なく笑い合う、そんなありふれた日常が、僕には少しだけ眩しく見えたのだ。 ふと、その笑顔から視線を外し、教室の入り口へ目を向ける。 そこに、真っ黒な人影が立っていた。 「――っ」 人の形をしているのに、夕日の中で、その姿だけが黒く抜け落ちている。顔も目も見えない。それでも、そいつが女子たちをじっと睨んでいるのだと、僕には分かった。 息を呑んだことさえ悟られないよう、すぐに俯く。歪みかけた表情を隠し、机の中から教材を取り出して、鞄へ押し込んでいった。 僕があれを見ていると、気づかれてはいけない。 とにかく、この場を離れなくちゃ。 震えそうになる指で鞄のファスナーを閉じ、肩へ掛ける。なるべく足音を立てないように席を離れ、教室の入り口まで来たところで、そこにいたはずの影が消えていることに気づいた。 振り返らないほうがいい。 そう思ったのに、僕は教室を出る直前、もう一度だけ後ろを見てしまった。 影は、女子たちのすぐ目の前に立っていた。 手を伸ばせば触れられそうな距離にいるというのに、彼女たちは何も知らず、カフェの話を続けながら笑っている。 僕の足が、ほんの一瞬だけ止まった。 それでも、声をかけることはできなかった。 ――ごめん。 何も知らずに笑っている彼女たちへ、胸の内で謝る。 すぐに前を向き、僕はそのまま教室をあとにした。 昇降口で上履きを脱ぎ、革靴へ履き替えて校舎を出ると、夕日に染まった一本の桜が僕を出迎えた。 枝いっぱいに咲いた花が、風に吹かれてやわらかく揺れている。橙色の光をまとった花びらは、昼間に見るものとはまた違う美しさがあった。 「ここの桜も、十分きれいなんだよね」 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。 けれど、丘の上にそびえるあの桜を見てしまってから、どれほど美しい桜を眺めても、どこか物足りなく感じるようになってしまった。 比べるものではないと分かっているのに、我ながら贅沢になったものだ。 僕は校舎の向こうに見える丘を仰ぐと、いつもの帰り道ではなく、そこへ続く道へ足を向けた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 「ぜぇ……はぁ……」 長い坂道の途中で、僕は膝に両手をついた。 肩を大きく上下させながら顔を上げ、坂の先にようやく見えてきた大鳥居を、少しばかり恨めしく見つめる。 普段から運動とは無縁の僕にとって、この丘はあまりにも険しい。去年も同じ道を上ったはずなのに、今年はなぜか一段ときつく感じる。 高校二年生になって増えたのは学年だけで、体力のほうはむしろ減ってしまったらしい。 どうして昔の人たちは、こんな高い丘の上に、わざわざあの桜を植えたのだろう。できることなら、小一時間くらい問い詰めたいところだ。 そんな恨み言を胸の内でこぼしながら、どうにか足を前へ進める。 ようやく大鳥居の前まで辿り着くと、僕は立ち止まり、深く息を吸った。 ゆっくりと吐き出す。乱れていた呼吸と一緒に、坂への恨み言も、教室に残してきた後ろめたさも、ほんの少しだけ静まっていく。 姿勢を正し、鳥居の向こうへ一礼。 それから僕は、夕風の吹き抜ける境内へ足を踏み入れた。 鳥居をくぐるった先は、玉砂利を敷き詰めた広い境内。その右手には、桜織神社の拝殿が静かに佇んでいる。 幾度も改修を重ね、そのたびに少しずつ姿を変えながら、それでも千年ものあいだ、この丘の上にあり続けてきた社だ。傾きかけた陽が、歳月を刻んだ柱や軒を淡い橙色に染めていた。 境内には何本もの桜が植えられ、風が吹くたび、薄紅色の花びらが玉砂利の上を滑っていく。 この神社に祀られているのは、花を守り、桜を咲かせた神だという。 子どもの頃から何度も聞いてきた、桜織市では知らない者のいない言い伝えだ。 けれど僕は、その話を聞くたびに不思議に思う。 神話や伝承というものは、長い歳月を経るうちに話が膨らみ、いつの間にか途方もない物語になっているものだ。まして千年も続く神社の祭神なら、尾ひれの一つや二つ、ついていてもおかしくない。 それなのに、この神にまつわる言い伝えは、不思議なくらい短かった。 花を守り、桜を咲かせた。 ――ただ、それだけ。 どこから現れたのか。なぜ花を守ったのか。そして、その後どこへ消えたのか。 肝心なところだけが、まるごと抜け落ちている。 妙な話だと思いながら、僕は玉砂利を踏み、拝殿の前まで進んだ。 姿勢を正して二度、深く頭を下げる。胸の前で両手を合わせ、二度打ち鳴らした。 乾いた柏手が、夕暮れの境内へ澄んで響く。 その余韻が消えてから、最後にもう一度、深く頭を下げた。 拝礼を終えて振り返ると、僕は思わず息を呑んだ。 視界の先に、巨大な桜がそびえていた。 桜織市の顔とも呼ばれる大桜。学校の窓からも、町の通りからも、これまで何度となく眺めてきたはずなのに、間近に立つとまるで別のものに見える。 太い幹から四方へ張り出した枝が、夕空を覆うほどに広がっている。その一本一本を埋め尽くす薄紅色の花々が、夕日を透かし、淡く燃えるように輝いていた。 そこへ風が吹き抜ける。 頭上いっぱいに花が揺れ、無数の花びらが夕焼けの中へ舞い上がった。 ここまで上ってくるあいだにこぼした恨み言も、すっかりどうでもよくなってしまう。 やがて、舞い落ちる一枚の花びらを目で追ったとき、桜翁の太い幹のそばに人影があることに気づく。 僕以外にも、人がいた。 一人の少女が、桜翁のすぐ下に立っている。 いつから、そこにいたのだろう。 夕風が髪を揺らし、薄紅色の花びらがその肩をかすめていく。それでも少女はこちらを振り返ることなく、ただ黙って、桜翁を見上げていた。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう