INICIAR SESIÓN高校二年生として迎えた最初の一日が、ようやく終わろうとしていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、教室を淡い橙色に染めている。机や椅子の影は細長く床へ伸び、開け放たれた窓からは、春の風とともに桜の花びらが一枚だけ迷い込んできた。 それでも、教室に満ちた浮ついた空気は、朝から少しも衰えていない。 「このあと、どうする?」 「駅前に新しいカフェができたんだって。今から行ってみない?」 「いいね。ほかに誰か誘う?」 弾んだ声が、教室のあちこちから聞こえてくる。 新しいクラスになったばかりだというのに、もういくつもの輪ができていた。きっと、その中には今日初めて話した者同士もいるのだろう。誰かが笑えば、別の誰かがそれにつられて笑う。そんな光景を横目に、僕は机の中から教材を取り出し、順番に鞄へ詰め込んでいった。 教科書、ノート、筆箱。 忘れ物がないことを確かめ、鞄の口を閉じる。 別に、誘われなかったことを寂しく思っているわけではない。 僕には僕で、行きたい場所があった。 席を立って教室を出る。廊下にもまだ生徒たちの声が響いていたけれど、昇降口を抜けるころには、それも次第に遠ざかっていった。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 「はぁ……はぁ……」 学校を出てからしばらくして。 僕は現在、地味に――いや、かなり険しい坂道を登っていた。 足を一歩前へ出すたび、革靴の底が舗装された道を重たく叩く。背中にはじっとりと汗が滲み、首元を春風が撫でていくものの、火照った身体を冷ますにはまるで足りない。 始業式だけで授業らしい授業はなかったはずなのに、身体は妙に疲れていた。 新しい教室、新しい席、新しい顔ぶれ。 慣れない一日というのは、それだけで体力を使うらしい。 そこへ追い打ちをかけるように、この坂道だ。 「こんなに……きつかったっけ……」 息を吐きながら、思わず呟く。 一年前に来たときは、もう少し楽に登れた気がする。 記憶が都合よく書き換わっているのでなければ、僕の体力がこの一年で著しく衰えたということになる。思い当たる節は、残念ながらいくらでもあった。放課後はまっすぐ家に帰ることが多いし、休日に運動する習慣もない。 とはいえ、今日の目的地へ向かうには、この道を登るしかない。 春になると、そこでは「綺麗」なんて言葉だけでは言い表せないほど見事な桜を眺めることができる。 僕は、その桜を見るためにここまで来たのだ。 ……来たのだけれど。 どうして桜織市の顔とも呼べる桜を、わざわざこんな高い丘の上に植えたのだろう。 植えた人を捕まえて、小一時間ほど問い詰めたい。 もちろん、植えられた当時は、あの桜がここまで大きな存在になるとは誰も思っていなかったのかもしれないけれど。 千年近く昔の人間に文句を言っても仕方がない。 そもそも、文句を言われる筋合いもないだろう。勝手に見に来て、勝手に疲れているのは僕なのだから。 そんなことを考えながら歩き続けていると、坂の先にようやく朱色が見えた。 夕日を受けて佇む、大きな鳥居。 その向こうには、さらに石段と木々に囲まれた参道が続いている。 目的地に着いた安堵から、僕はその場で膝に手をつきかけた。けれど、鳥居の前でそれをするのはさすがに格好がつかない気がして、どうにか踏みとどまる。 「はぁ……」 肺に溜まった息をゆっくり吐き出し、乱れた呼吸を整える。 それから鳥居の前で深く一礼し、境内へ足を踏み入れた。 桜織神社。 街を見下ろす丘の上に建つ、古い神社だ。 鳥居をくぐった途端、先ほどまで聞こえていた街の音が急に遠のいた。 広々とした境内を、柔らかな風が通り抜けていく。玉砂利を踏む音と、木々の葉が擦れ合う音。どこからか聞こえてくる鳥のさえずり。そこへ、ときおり控えめな鈴の音が重なった。 境内には何本もの桜が植えられており、風が吹くたび、花びらが舞い上がる。 この神社には、桜に花を咲かせた神が祀られているという。 神話や伝承というものは、長い歳月を経るうちに尾ひれや背びれがついて、途方もない物語になっていくものだ。 けれど、桜織神社の祭神について残されている話は、不思議なほど少ない。 花を守り、桜を咲かせた。 ただ、それだけだ。 どこから現れたのか。なぜ桜を咲かせたのか。その後どうなったのか。 詳しいことは何ひとつ伝わっていない。 境内に人の姿はほとんどなかった。 僕は拝殿の前まで進み、賽銭を入れる。鈴を鳴らしてから二度頭を下げ、二度手を打つ。 願い事らしい願い事は浮かばなかった。 今年も無事に過ごせますように、と心の中で唱えてみたものの、自分でもひどく漠然としていると思う。 最後にもう一度頭を下げ、拝殿を離れた。 僕の本当の目的地は、そこからさらに境内の奥へ進んだ場所にある。 石畳に沿って歩いていくと、視界を遮っていた社殿の屋根が途切れる。 その瞬間、夕日に染まった無数の花びらが、僕の目の前を横切った。 「……ああ」 思わず、声が漏れる。 そこには、大きな桜の木が立っていた。 大きい。 そんな簡単な言葉では、とても足りないほどに。 何人もの大人が腕を広げて、ようやく囲めるのではないかと思うほど太い幹。そこから天を覆うように伸びた枝には、数え切れないほどの花が咲き誇っている。 桜織市の顔とも呼ばれる、古い桜。 ――桜翁。 春の穏やかな風を受け、桜翁は悠然と枝を揺らしていた。 夕日を透かした花びらは、淡い桃色だけではなく、白や橙、ところどころ薄紫にも見える。風が吹くたび、枝先から花びらがこぼれ落ち、ゆっくりと宙を舞っていった。 まるで、この場所にだけ春のすべてが集められているようだった。 絶景。 僕に浮かんだのは、結局その一言だけだった。 ほかにも、もっとふさわしい言葉があるのかもしれない。 荘厳だとか、幻想的だとか、息を呑むほど美しいだとか。 けれど、どれを並べても、この光景を前にすれば妙に軽くなってしまう気がした。 僕はしばらくのあいだ、何も考えずに桜翁を見上げていた。 風が頬を撫でる。 花びらが制服の肩や髪に触れては、またどこかへ飛んでいく。 どれくらいそうしていただろう。 ふと、視界の端で何かが動いた。 「……あれ?」 そこでようやく、僕は気づいた。 この場所にいるのは、僕だけではなかった。 桜翁の太い幹のすぐそばに、一人の少女が立っている。 夕日に染まるカーキ色のブレザーと、紺色のスカート。 背中まで伸びた茶色い髪は、高い位置でひとつに結ばれていた。風が吹くたび、ポニーテールが桜の花びらとともに静かに揺れている。 少女は僕に背を向けたまま、桜翁を見上げていた。 声をかけるでもなく、枝へ手を伸ばすでもなく。 ただ、そこに立っている。 その姿は、不思議なほど桜の景色に溶け込んでいた。──櫻井悠斗── 「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄
その後、僕たちは誠也くんを見つけるため、二手に分かれて病院内を捜すことになった。 月瀬さんは一階から、僕は上の階から。「何かあったら、すぐに私を呼んでくださいね」 別れる直前、月瀬さんにはそう念を押された。 そして僕は今、二階のナースステーションを捜している。「誠也くーん。どこにいるのかなぁ……?」 わざとらしく声を響かせながら、机と机の間を歩いていく。 隠れている誠也くんへ、僕が近くまで来ていることを知らせるためだ。 ……まさか、こんなふうに霊と遊ぶ日が来るなんて思いもしなかった。 僕にとって、霊とは危険な存在だった。 いや――今でも、その考えが完全に変わったわけではない。 強い恨みや悪意を持った霊は、人を簡単に傷つける。つい先ほどだって、僕は誠也くんに吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたばかりだ。 ただ、それだけが霊のすべてではないことも、今日初めて知った。 あれほど恐ろしく見えた誠也くんも、本当は家族を待ち続けていた、寂しがり屋の七歳の男の子だったのだから。 それでも僕は、母さんのように霊へ手を差し伸べることができない。 僕が、霊を恐れない母さんとは正反対の考えを持つようになった理由。 それは、十年前にまで遡る。 ――僕と母さんは、何かに襲われた。 あの日の記憶は、今も途切れ途切れにしか残っていない。 僕へ迫ってきた、得体の知れない何か。 咄嗟に僕を抱き寄せた母さんの腕。 そして、僕を庇うように立ちはだかった背中。 次に覚えているのは、白い病室の天井だった。 母さんは僕を守った代わりに、その日から一度も目を覚ましていない。 十年間、ずっと。 鼻に残る消毒液の匂い。 冷たく、どこまでも続くように思えた病院の廊下。 そして枕元から聞こえてくる、 ピッ、ピッ、という無機質な機械音。 何度呼びかけても、母さんの瞼が開くことはなかった。 手を握っても、握り返してくれない。 あの日以来、病院も霊も、僕にとっては母さんを奪った記憶と切り離せないものになった。 だから僕は、今でも霊が怖い。 誠也くんのような子もいると分かっていても、その恐怖だけは簡単に消えてくれそうになかった。「……って、今は捜すことに集中しないと」 僕は小さく頭を振り、過去の記憶を追い払った。 * 机の下。 倒れた棚の隙間。