LOGIN最後の光が消えてから、どれほどの時間が流れたのだろう。
僕は天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。 誠也くんたちが昇っていった場所には、もう何もない。ひび割れた天井と、長い年月をかけて広がった黒い雨染みが残されているだけだ。 それでも、あの白い光はまだ瞼の裏に焼きついていた。 「先輩、お疲れさまでした」 隣から聞こえた声に、ようやく顔を向ける。 月瀬さんは神楽鈴を鞄へ戻すところだった。涙の跡が頬に残り、肩もわずかに落ちている。声は普段と変わらなかったけれど、その顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。 「月瀬さんこそ。僕は……何もしてないけどね」 自分でも困るくらい、乾いた笑いが漏れた。 誠也くんを見つけたのも、凍りついていた心を解いたのも、最後に家族のもとへ送り届けたのも、すべて月瀬さんだ。 僕はただ、その隣で見ていただけだった。 「いいえ」 月瀬さんは鞄を閉じる手を止め、まっすぐ僕を見た。 「『かくれんぼをしよう』と、最初に提案してくださったのは先輩です」 「でも、月瀬さんには分かってたんでしょ? 誠也くんが、本当は見つけてほしがってたこと」 「想いを読み取れることと、その子に必要な手を差し伸べられることは、同じではありません」 月瀬さんは、誠也くんが眠っていたソファへ目を向けた。 「私は誠也くんを、救うべき御魂として見ていました。けれど先輩は、私の言う通り寂しくて誰かと遊びたがっている、ひとりの男の子として見てくださった」 「それは……」 「術で魂の縛めを解くことはできます。ですが、閉ざされた心を無理に開くことはできません。最後にこちらの手を取るのは、その御魂自身です」 そこで、月瀬さんは再び僕を見た。 「誠也くんが私たちを信じ、手を伸ばしてくれたのは、先輩が一緒に遊んでくださったからです。それに、最後にかけた言葉も――あの子が自分の人生を受け入れるために、必要なものでした」 「でも、僕じゃなくても……」 「どうか、『僕でなくてもできた』と、ご自分のしたことまで消してしまわないでください」 柔らかな声だった。 それなのに、今度は言い返せなかった。 僕の言葉を聞いたときに浮かべた、誠也くんの笑顔を思い出す。 僕が自分の言葉を否定してしまえば、あの子が受け取ってくれた想いまで嘘にしてしまうような気がした。 「……ありがとう、月瀬さん」 素直にそう答えると、月瀬さんは小さく微笑んだ。 その手の中にある神楽鈴を見たことで、先ほどから胸に引っかかっていた疑問が再び浮かび上がる。 「そうだ。月瀬さん……さっきの力は、いったい何だったの?」 「…………」 「誠也くんの過去を、僕にまで見せた。それに、あの祈りも……いくら巫女だといっても、あんな力があるなんて聞いたことがない」 月瀬さんの指が、神楽鈴の柄をきつく握った。 わずかに視線を逸らし、何かを考えるように唇を閉ざしている。 やはり、聞くべきではなかったのだろうか。 そう思い始めた頃、月瀬さんが静かに口を開いた。 「……私の故郷に伝わる巫術です」 けれど、そこで言葉は終わらなかった。 「そうお答えするだけで済めば、よかったのですが」 「どういう意味……?」 「あの力は、神様から授けられた祝福ではありません」 彼女の声が、かすかに沈む。 「その根にあるものは――呪いです」 「呪い……?」 「はい。私の血には、遠い昔から続く呪いが刻まれています」 一度目を伏せたあと、月瀬さんは意を決したように僕を見た。 「私は――呪われた巫女なのです」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「呪われたって……その力を使って、月瀬さんは平気なの?」 誰に、なぜ、どんな呪いをかけられたのか。 聞きたいことはいくつもあった。それでも最初に口から出たのは、彼女の身体を案じる言葉だった。 月瀬さんはわずかに目を見開いた。 そして、いつものように「大丈夫です」と答えようとして――やめたのだと思う。 「……何の代償もない、と申し上げることはできません」 神楽鈴を握る細い指が、かすかに震えている。 「ですが、この力でなければ救えない御魂がいることも事実です。ですから私は、必要なときには使うと決めています」 「その代償って、いったい……」 「申し訳ありません。今はまだ、これ以上をお話しする勇気がありません」 拒絶するような声ではなかった。 月瀬さんは神楽鈴を鞄へ収めると、申し訳なさそうに眉を下げた。 「まだ出会ったばかりの先輩に、簡単に背負わせてよい話でもありませんから」 「……分かった。無理には聞かないよ」 「ありがとうございます」 月瀬さんは、ほっとしたように小さく息を吐いた。 「いつかお話しできるときが来ましたら、そのときに少しずつ知っていただければと思います」 そう告げたあと、彼女の視線が僕を通り越した。 正確には――僕の背後へ向けられていた。 「……ん?」 つられて振り返る。 けれど、背後にあるのは朽ちた棚と汚れた壁だけだった。人影どころか、霊らしきものも見えない。 もう一度月瀬さんへ向き直ると、彼女は僕の身体を確かめるように目を細めていた。 「先輩。身体に痛みや、普段とは違う重さはありませんか?」 「えっ……?」 言われて初めて、自分の身体へ意識を向ける。 確かに、肩から背中にかけて妙に重い。 けれど、それは長く続いた緊張が解けたことや、誠也くんの過去を追体験した疲れのせいだと思っていた。 ――いや、待て。 「あ……」 ここへ来て、ようやく思い出した。 診察室を調べていたとき、一度だけ背中へ何かが入り込んだような、冷たい感覚があった。 すぐに辺りを見回した。けれど霊の姿はどこにも見えなかったから、気のせいだと思い込んでいたのだ。 「月瀬さん。もしかして、僕の後ろに何かいる……?」 「大丈夫です。悪意のあるものではありません」 「それ、何かはいるってことだよね!?」 僕の問いには答えず、月瀬さんは僕の肩越しへ静かに語りかけた。 「先生。誠也くんは、無事に還られました。もう、お姿を隠している必要はありませんよ」 「先生……?」 「先輩、背中をこちらへ向けていただけますか?」 「わ、分かった」 言われたとおりに背を向ける。 月瀬さんの気配が、一歩近づいた。 「すみません。少しだけ痛みますよ」 「え、ちょっと待っ――」 「やっ!」 ばしんっ、と背中を強く叩かれた。 「痛っ!?」 思わず前へつんのめった、その直後。 背中から何かが抜け落ちるような感覚とともに、白い煙がもくもくと立ち昇った。 「れ、霊!?」 慌てて距離を取り、振り返る。 白い煙は天井近くまで昇ると、空中で渦を巻きながら人の輪郭を形作っていく。 白い髪。 深く刻まれた皺。 古びた白衣。 その姿を、僕は知っていた。 「……じいちゃん先生?」 誠也くんの過去にいた、あの老医師だった。 老医師は何も言わない。 ただ、僕と月瀬さんを順に見つめると、腰を折って深々と頭を下げた。 やがて顔を上げた彼の口元には、あの記憶の中で誠也くんへ向けていたものと同じ、温かな笑みが浮かんでいた。 「どうして僕に……」 「ご自身の力では、もうこの建物の中を移動することさえ難しかったのでしょう」 月瀬さんは、今にも消えてしまいそうな老医師の姿を見上げた。 「だから先輩の背中をお借りして、あの子のもとまで来られたのだと思います」 僕の背中へ入り込んだ、あの冷たい感覚。 あれは僕を傷つけようとしたのではない。 誠也くんが家族のもとへ還る、その瞬間を見届けるためについてきたのだ。 「でも、巫術をしたとき、どうして一緒に行かなかったんだろう……。それに、この人も結界に縛られていたの?」 「いいえ。御札に囚われていた気配はありません」 月瀬さんは、ゆっくりと首を横に振った。 「《送魂の祈り》は、魂を無理やり連れ去る術ではないのです。現世との縛りを解き、還るための道を開くもの。還るかどうかは、最後には御魂自身が選びます」 「じゃあ、この人は……」 「還れなかったのではありません」 月瀬さんの視線が、老医師へ向けられる。 「誠也くんを見届けるまでは還らないと、ご自身の意志でここに残っていたのでしょう」 老医師は静かに目を細めた。 それが月瀬さんの言葉への答えのように、僕には見えた。 やがて彼の視線が、誠也くんの消えたソファへ向かう。 そこをしばらく眺めたあと、今度は部屋の片隅に置かれた古い机へと移った。 「先生。還りの道は、まだ閉じておりません」 月瀬さんが老医師へ深く頭を下げる。 「長い間、お疲れさまでした。どうか、あなたも安らかに」 老医師は、もう一度僕たちへ頭を下げた。 何かを言わなければ。 そう思ったとき、口から出たのは、ひどくありふれた言葉だった。 「誠也くんを……ずっと見守ってくれて、ありがとうございました」 それでも老医師は、嬉しそうに笑ってくれた。 透き通った身体が、足元から白い光へと変わっていく。 そして一筋の光となった彼は、誠也くんが還っていった道を追うように、天井の向こうへ昇っていった。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう