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19.祈り奉る

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-23 11:28:38

──櫻井悠斗──

「……あ」

 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。

 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。

 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。

 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。

 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。

 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。

 ……なんだったんだ、今のは。

 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。

 むしろ、分かりすぎてしまった。

 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。

 ただ映像を見せられたんじゃない。

 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。

 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。

 霊能力者。

 巫女。

 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。

 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。

 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。

 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。

「月瀬さん……今のは……」

 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。

「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」

 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。

「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」

「送り届ける……?」

「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」

 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。

「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」

 それから、傍らに置いていた鞄を開く。

「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」

 鞄から取り出されたのは、細い柄に金色の鈴が幾つも連なったものだった。鈴の下には、色褪せた紅白の布が垂れている。

 あれは――神楽鈴だ。

 巫女が舞を奉納するときに使うものだというくらいは、僕にも分かる。

 月瀬さんが神楽鈴を胸の前へ掲げた、その瞬間だった。

 部屋の空気が変わった。

 肌を撫でる冷気に、思わず息を呑む。

 ただ寒くなったわけじゃない。廊下で軋んでいた床も、割れた窓を抜けていた風も、何もかもが一斉に息を潜めた。

 まだ鈴は鳴っていない。

 それなのに、耳の奥が痛くなるほど、空気が張り詰めている。

 月瀬さんは指先で涙を拭うと、背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

 そして、誰もいないはずの虚空へ向かって、凜とした声を響かせる。

「掛けまくも畏き、|現世《うつしよ》と|幽世《かくりよ》を分かちし天地の理に|申し奉る《もうしたてまつ》。

 これより我、月瀬美琴、山口誠也が|御霊《みたま》を現世の縛めより解き、還るべき幽世へ送り奉らん。

 この言挙げを標となし、還りの道を開き、我が祈りに御力を添え給え。

 ――恐み恐みも|白《まを》す」

 それは、僕たちへ聞かせるための言葉ではなかった。

 誰が、誰の魂を、どこへ送り届けるのか。

 これから行うすべてを、この世界そのものへ告げる宣言――僕には、そう聞こえた。

 直後。

 月瀬さんの手は動いていないのに、神楽鈴の一つが小さく揺れた。

 ――ちりん。

 澄んだ音が、静まり返った院長室へ広がる。

 それはまるで、今の言葉を何かが聞き届けた返事のようだった。

 月瀬さんがゆっくりと神楽鈴を持ち上げる。

 ――しゃん。

 先ほどよりも強い鈴の音が響いた。

「此処に留まり続けるは、やがて汝を蝕む縛めとならん。

 されば我、に祈り奉る。

 汝を現世に結びし未練を|解《ほど》き、

 悲しみも苦しみも、今こそ放ち|給《たま》え。

 何ものにも阻まれぬ安らかなる道を|往《い》き、

 天地の理に従いて、還るべき幽世へ還り給え。

 ――送魂《そうこん》の祈り」

 すると、ひび割れた床の隙間から、濁った灰色の光が滲み出した。

 一つ、また一つ。

 壁の染みから。崩れかけた天井から。錆びた棚や、朽ちた扉の向こうから。

 数え切れないほどの光が、煙のように揺らめきながら浮かび上がってくる。その中心では、黒い染みのようなものが脈打っていた。

「な、何だ……これ……」

「魂ではありません」

 月瀬さんは神楽鈴を構えたまま、光から目を逸らさずに答えた。

「この病院で亡くなった方々が遺した、悲しみや苦しみの残滓です。長い歳月をかけて、この建物へ染みついてしまったんです」

「これが残っていると、どうなるの……?」

「同じ痛みを抱えた魂を引き寄せ、ここへ縛りつけてしまいます。誠也くんと同じように、還る場所を見失ったまま、長い時間を過ごすことになる」

 ――しゃん。

 再び、鈴が鳴る。

「ですから、誠也くんを送ると同時に、すべて浄めます。追い払うのではありません。ここに残された痛みを、もう誰も傷つけないものへ還すんです」

 月瀬さんが神楽鈴を振るたび、濁った光の中から黒い染みが剥がれ落ちていく。

 灰色だった光は、少しずつ透き通った白へ変わった。

 やがてそれらは白い蛍の群れとなり、月瀬さんと誠也くんの周囲を静かに巡り始める。

 異常だ。

 霊を見る僕でさえ、そう思った。

 僕がこれまで知っていた現実が、鈴の音を聞くたびに形を失っていく。

 それでも、不思議と目を逸らす気にはなれなかった。

 そのとき、ソファがかすかに軋んだ。

「え……?」

 眠っていた誠也くんの身体が、ふわりと宙へ浮かび上がる。

 風なんてないはずなのに、髪と病衣の裾が柔らかく揺れていた。その小さな身体を包んだ光が、指先から少しずつ輪郭をほどいていく。

 誠也くんが、ゆっくりと目を開いた。

 その瞳の奥には白い光が宿り、どこにも焦点が合っていない。

『……お姉ちゃん』

 声は耳からではなく、胸の内側へ直接届いた。

 誠也くんは月瀬さんの居場所を探すように、わずかに顔を動かす。

『誠也はもう……みんなのところへ行けるの?』

「うん」

 月瀬さんは神楽鈴を下ろし、誠也くんと目線を合わせるように身を屈めた。

「誠也くんをここへ縛っていたものは、もうなくなったよ。だから、お母さんとお父さん、それから……誠也くんが大好きなお兄ちゃんのところへ行ける」

『そっかぁ……』

 誠也くんの口元に、小さな笑みが浮かぶ。

『難しいことはよく分からないけど……なんだか、身体がぽかぽかするよ』

「誠也くん」

 月瀬さんは白い光に包まれた小さな手へ、自分の手をそっと重ねた。

「あなたは、確かにここにいた。あなたが寂しかったことも、苦しい中で懸命に生きたことも、私たちは忘れないよ」

『……うん』

 誠也くんは、嬉しそうに頷いた。

『誠也、ここにいたよ』

 何かを言わなければ。

 なぜだか、そう強く思った。

 ただ可哀想だったと伝えるんじゃない。

 彼は愛されていた。

 そして、彼が生きた時間を知る人間が、今ここにいる。

 そのことを、きちんと伝えたかった。

「誠也くん」

 震えそうになる声を、どうにか押し出す。

「君は、置いていかれたんじゃない」

 誠也くんの白い瞳が、僕の声へ向いた。

「お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも……最後まで、ずっと君を愛してた」

 胸の奥に刻まれた、あの人たちの顔を思い出す。

「君は、本当に強い子だったよ。苦しくても、寂しくても、ずっと『大丈夫』って笑ってた。君がここで生きて、みんなを待ち続けたことを、僕は覚えてる」

 これが正しい言葉なのかは分からない。

 それでも、僕が誠也くんの過去から受け取ったすべてを、言葉へ乗せた。

「だから、もうひとりで待たなくていい。みんなのところへ、行っておいで」

『……ありがとう、お兄ちゃん』

 誠也くんは、泣き笑いのような顔をした。

『最初は攻撃しちゃって、ごめんなさい』

 胸の奥が詰まり、声が震えそうになる。

 それでも、今度は飲み込まなかった。

「謝らなくていいよ」

 ここは誠也くんにとって、たった一つ残された居場所だった。

 そこへ踏み込んだ僕を、彼は怖がっただけなのだ。

「誠也くんが悪い子じゃないって、僕はもう知ってる。だから――大丈夫」

『……うん!』

 そのときだった。

『……あれ?』

 誠也くんが不意に顔を上げる。

 焦点の合っていなかった瞳が、初めて誰かを見つけたように大きく見開かれた。

『……お母さんの匂いがする』

 閉ざされていたはずの院長室を、柔らかな風が通り抜けた。

 白い光の向こうに、三つの人影が浮かんだ――ように見えた。

『お母さん……? お父さん……お兄ちゃん……!』

 小さな身体が、大きく震える。

『うっ……ぐすっ……うわあああん……!』

 誠也くんは両腕をいっぱいに広げ、何もないはずの空間へ飛び込むように身を乗り出した。

『会いたかった……! ずっと、ずっと会いたかったよぉ……!』

 宙へ伸ばした腕が、まるで誰かに抱き留められたかのように止まる。

 光の向こうに揺らめく三つの人影が、誠也くんを包み込むように身を屈めた――そんな気がした。

 誠也くんは涙を溢れさせながら、そこにいる誰かの胸へ頬を寄せる。

 やがて、彼を包む光がひときわ強く輝いた。

 小さな身体が、幾千もの光の粒へと変わっていく。

 その顔にはもう、寂しさも恐れもなかった。

 最後に見えたのは、ずっと帰りを待っていた家族に抱かれた子供のような、安心しきった笑顔だった。

 四つの光が一つに重なり、院長室の天井をすり抜けていく。

 すると、白い蛍のように漂っていた無数の光も、そのあとを追うように昇り始めた。

 一つ、また一つ。

 長い光の道を描きながら、すべてが空の彼方へと還っていく。

 僕と月瀬さんは、最後の光が見えなくなるまで、ただ黙ってその行方を見送った。

 ────────────────

 掌に残る あの日のかたち

 逢えぬ日々にも 愛は消えず

 名を呼ぶ声 ついに届きて

 長き孤独を いま解き放ち

 待ちし光へ 還りゆかん――

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