登入
プロローグ
「死んだふりしてんじゃねえ、とっとと起きろ!」
その一撃は、五臓六腑の位置がずれるかと思うほどの威力であった。
颯斗は朦朧としながら目を開ける。強烈な光が差し込み、視界が一気に開けた。
午後の陽光だろうか。目が眩むほどにまぶしく、周囲は有刺鉄線が張り巡らされた高い壁に囲まれている。
そこは広場のような場所で、颯斗は筋肉隆々の荒くれ者たちに取り囲まれていた。
野次馬の中には喝采を叫ぶ者もいれば、不気味な高笑いを上げる者もいる。どいつもこいつも、出来損ないか凶悪犯といった面構えだ。
とりわけリーダー格とおぼしき大男は、肩幅が広く腰回りも太い。鼻筋には見るもおぞましい刀傷が走り、全身から危険な気を放っていた。
颯斗はゆっくりとあたりを見回し、自分を含めた全員が囚人服を身に着けていることに気づく。
ここは……刑務所か?
口を開こうとした瞬間、鉄錆の味が広がった。颯斗は血の混じった唾を吐き捨て、嘲笑と罵声を浴びながら、ようやくの思いで体を起こす。
だが、足元が定まらぬうちに、再び手酷い一撃を食らった。
「来いよ!どうした、やり返さねえのか?吠える犬ほど噛まぬ、ってか?」
人だかりから、どっと笑い声が沸き起こる。
「あんた誰だ、一体何を……!」
しかし、相手は颯斗に口を挟む隙も与えない。拳と蹴りが嵐のように降り注ぎ、颯斗は反撃の余地もなく、両手で頭をかばいながら後退するしかなかった。いつの間にか壁際まで追い詰められ、逃げ場を失っている。
それでも相手は容赦なく、攻撃はいよいよ苛烈さを増していく。まるで颯斗を人間として見ておらず、ただのサンドバッグとして扱っているかのようだ。
俺はなぜここにいる?
こいつはなぜ俺を殴る?
疑問が次々と脳裏に浮かぶが、考える暇などない。颯斗は呆然とあたりを見回し、野次馬たちに助けを求める視線を送った。
だが、誰一人として義憤に駆られ助太刀しようとする者はなく、それどころか、まるで興奮剤でも打ったかのように、もっと悲惨な目に遭えと願っている様子だった。
「死にたいか?」
意識が朦朧とする中、冷徹な声が脳内に響いた。
「いや、死にたくない……」
颯斗はこの状況がまるで理解できていなかったが、このままでは間違いなく殴り殺されるということだけは分かっていた。
――ならば、抗え。
一片の感情もこもらぬ声が、脳裏に再び響く。
颯斗は頭を抱え、ガンガンと痛む頭で叫んだ。
「俺だってそうしたいさ!」
だが、目の前の大男は体格も力も自分をはるかに上回っている。こんな相手に、どうやって抗えというのか。
――口に出せ。
まるで颯斗の心の声が聞こえているかのように、その声は続けた。
――心に思うことを言え。心の奥底に埋もれた欲望と感情を、言葉にするのだ。
時を同じくして、丼鉢ほどの大きさの鉄拳が迫ってきた。これが最後の一撃、致命傷になるだろう。
命にかかわるその刹那、颯斗は突然何かに目覚めたかのように、何もかもを投げ打って叫んだ。
「やめろ――ッ!」
奇妙なことに、その言葉を叫んだ瞬間、大男の攻撃がぴたりと止まった。
拳は、颯斗の顔面からわずか一センチのところで静止している。
大男は呆気に取られていた。手首を動かそうとするが、まるで呪縛にでもかかったかのように、びくともしない。
颯斗はこの好機を逃さず、大男の膝を思い切り蹴り上げ、必死に叫んだ。
「俺にひざまずけ!」
大男の膝がガクンと折れ、ドスンという鈍い音と共に、颯斗の前に片膝をついた。
場の形勢は瞬く間に逆転し、周囲の男たちは顔を見合わせ、ざわめき始める。何が起きたのか理解できないのは明らかだ。ついさっきまで圧倒的優位に立っていた大男が、なぜ一瞬にして相手にひざまずいたのか。
颯斗は拳を握りしめ、口元の血をぬぐうと、裏拳で大男を殴り飛ばした。大男はずりずりと数メートルも後退する。
「俺に謝りやがれッ!」
颯斗が言い終わるや否や、大男は本当に言われた通り地面に這いつくばった。悔しさと屈辱に下唇を噛み切り血を流しながらも、一言一句、絞り出すように告げた。
「ご、め、ん、な、さ、い」と。
一瞬にして、復讐を遂げた快感がこみ上げ、電流のように脳天を突き抜けた。
だが残念なことに、颯斗がその喜悦を十分に味わう間もなく、手足に痺れが走り、頭の中が真っ白になったかと思うと、硬直した体のまま激しく倒れ込んだ。
その時ようやく、不意打ちを食らったのだと気がついた。
高電圧の警棒が、背中を強打したのだ。
颯斗は痙攣しながら地面に這いつくばり、口が麻痺して言葉も発せない。警棒を手に、刑務官の制服を着た長身の人影が、ゆっくりと彼の前まで歩み寄ってきた。
「ついて来い」
男は彼を見下ろし、冷たい声で告げた。
彼女の名前は芳川千尋。この研究所の研究員だ。仕事に真面目に取り組む責任感の強い女性で、明るく人当たりもよく、誰とでもすぐに打ち解けられる。そのため、哲から練の担当を任され、週に一度の定期健診を通じて、練の健康状態に異常がないかを確認する役割を担っていた。練が研究所に来てから、すでに一ヶ月以上が経っていた。本来なら、千尋との会話にもとっくに慣れているはずだった。しかし、長年にわたって外界から隔離された生活を送ってきたせいで、人と接する際にはどうしても表情や話し方に硬さが残ってしまう。練は背筋を伸ばし、服を着ながら言った。その態度は、依然としてどこかよそよそしい。「ありがとう、芳川さん」「芳川さんなんて堅苦しい呼び方はやめてよ。みんなと同じように、ちーちゃんって呼んでね」千尋も、練がわざと距離を置いているわけではないと分かっていた。練が他人と円滑にコミュニケーションを取れるよう支えることも、哲から任された仕事の一つだった。だから千尋はまったく気にする様子もなく、笑顔で印刷した健診結果を練に手渡した。練は結果を受け取ると、尋ねた。「ちーちゃん。健診結果に何か問題はあったか?」千尋は答えた。「今のところ、体の状態はすべて良好よ。自分ではどう? 最近、どこか具合が悪いと感じることはない? 例えば、イライラするとか、眠れないとか」そう尋ねられると、練の表情は次第に暗く沈んでいった。「眠れないわけじゃない。ただ……」練の困惑した表情を見て、千尋は少し考え込んだあと、軽く身を乗り出した。「ただ、何なの? もしかして、所長さんのこと?」練は下唇を
哲は室内を見回して言った。「そうか? それならよかった。 大きな屋敷に住み慣れている君が、急にこんな狭い場所に移って、戸惑うんじゃないかと心配していたんだ。何しろ、突然の一人暮らしだ。勝手が分からなくて当然だろう」練は顔を上げて哲を見た。「あんたは? 俺と一緒には住まないのか?」哲はソファの肘掛けにゆったりと腰を下ろした。「俺は普段、ここには住んでいない。 だが、仕事の都合上、毎日最低でも十時間はここにいるし、夜を明かすこともある。だから、ここが俺の半分の家だと言っても差し支えないな」練は唇を噛み締めながら哲を見つめ、何か言いたげにしていたが、結局口を開くことはなかった。一晩だけでもいいから、ここに残ってほしい。そう頼み込みたかった。しかし、今日一日だけでも十分にわがままを言った自覚がある。これ以上、哲の厚意に甘えて図に乗り、多くを望むわけにはいかなかった。「そんな顔をして、俺に言葉一つかけないところを見ると、よほど疲れ切っているようだな」哲は笑いながら手を伸ばし、練の頬を指先で軽く撫でた。それから立ち上がり、練の肩を抱いて寝室へと向かった。哲は床から天井まであるクローゼットの前に立ち、スライド式の扉を開けた。「ベッドはもう整えてある。布団が薄いと感じたら、いつでも言ってくれ。ああ、そういえば着替えを持ってきていなかったな?」中には衣類がずらりと掛けられていた。どれも練の年齢や身長にぴったり合うサイズだった。哲はしゃがみ込み、クローゼットに並んだ服の中から探し始めた。「君のサイズに合わせて、あらかじめ仕立てておい
颯斗が答える間も与えず、哲は悪びれる様子もなく笑い出した。「まあいい、そんなに険しい顔をするな。君とちょっと議論してみたかっただけで、他意はない。君たちみたいに真面目くさって、法律や道徳を口にする人間を見ると、ついからかってみたくなる性質でね」「俺たち?」哲は颯斗の胸元を指差し、笑みを浮かべた。「ああ。君と、それに練だ。君たちがずっと信じて疑わない価値観を解体してみて、一体どんな面白い反応を見せるのか、試してみたかっただけさ」「悪趣味だな。あんた、酔ってるだろ」そう言うと、哲はようやく立ち上がり、壁に掛かっていた上着を手に取って、腕時計を見ながら言った。「酔っているかどうかは関係ない。俺の生来の性質だ。さて、雑談はここまでにしておこう。時間が惜しい。人命救助が先決だ。君も早く準備しろ。三十分後に出発する」颯斗は不思議そうに尋ねた。「出発? 具体的な場所が分かったのか?」哲は振り返り、自信に満ちた微笑を向けてきた。「言っただろう、よく馴染みのある場所だってな。あそこは以前、研究所だった。所有者は、俺だ」---しとしと、しとしと……なんだろう?……雨の音?それに混じって、聞き覚えのある声が、ずっと耳元で優しく響いている。練は重い瞼をゆっくりと開け
「練が唯一の被害者ってわけじゃないんだろ?」「もちろんだ。良介は、練が退学した後、また別の者に矛先を向けたのさ」「そんなのありかよ? 大人は誰もあいつを止めようとしなかったのか?」哲は振り返り、口元に皮肉めいた冷笑を浮かべた。「以前はいたそうだが、後に学校を解雇されたらしい。これが、俺と練の世界だ。君のようにずっと陽の当たる場所で、両親の愛情を受けて育ってきた人間には、到底理解できないだろうな」颯斗は心が重くなったが、返す言葉も見つからず、ただ黙り込むしかなかった。哲は仰け反るようにしてグラスに残っていた酒を飲み干すと、低く吐き捨てた。「公平など、端から存在しない。力こそが、すべてだ」颯斗はふと立ち止まり、顔を上げた。「じゃあ、あんたが練のために殺した相手って、あいつのことか?」哲も振り返り、平然と視線を合わせた。「正確に言えば、永遠に目を覚まさない状態にしたんだ。君が監視カメラの映像で見た通りにな」山下良介。颯斗はスマホを取り出し、検索エンジンにその名前を打ち込んだ。案の定、あいつに関する情報はほとんどなく、見つかったものはごくわずかだった。唯一見つかったのは、睡眠中に突如脳の病気を発症し、植物状態になったというニュースだけだ。日付を見ると、実に二十年も前のものだった。ざっと計算すると、当時の良介は高校生だったはずだ。そして、あいつの家族もこの件に関して何の異議も唱えなかったらしい。
哲は俯いたまま、長いこと沈黙していた。「あの男は、山下良介というんだ」やがて、哲はゆっくりと口を開いた。「練の、小学校の同級生だ」「小学校……?」颯斗は一瞬呆然とし、次の瞬間、脳裏に雷が落ちたような衝撃に襲われた。まさか、幼い頃の練を追い詰めた、あの学校のことか?哲は何も答えなかった。無言のまま立ち上がってリビングへ行き、再び書斎に戻ってきた時、彼の手にはウイスキーのボトルとグラスが二つ握られていた。哲はグラスに酒を半分ほど注ぐと、一つを颯斗に差し出し、もう一つを自分の前に置いた。酒は人の口を軽くすると言われるが、その言葉に嘘はなかった。二、三杯グラスを空けた後、重苦しかった空気がようやく少し和らぎ、ずっと押し黙っていた哲も、酔いに任せて重い口を開き始めた。それは、練が八歳になり、小学二年生に上がったばかりの頃のことだった。練は幼い頃から賢く、他の子供たちのように遊び回ることはせず、成績も常にトップクラスだった。そのため、教師たちの目には、常に品行方正で優秀な優等生として映っていた。当時、高学年に悪ガキとして名高い劣等生がいた。それが、良介だった。良介の父親、つまり貴久は不動産業を営む実業家で、表向きはまともな商売をしているように見えたが、その実、裏社会にも顔が利く男だった。親の背を見て子は育つと言うが、子供は日頃から大人の振る舞いを目にしており、自然と大人の悪い習慣を身につけてしまうものだ。良介たちは徒党を組み、弱い者いじめを繰り返していたのだ。中でも良介が最も気に入らなかったのが、教師の言うことをよく聞く、大人しい優等生たちだった。そうして、練は当然のように良介に目をつけられ、彼らの標的となってしまったのである。
「山下社長、準備はすべて整いました。いつでも実験を開始できます」白衣を着た医師が貴久の前に歩み寄り、そう報告した。「よし」貴久は顔色一つ変えずに振り返ったが、その鷹のように鋭い眼差しには、待ちきれないと言わんばかりの興奮が浮かんでいた。「実験、開始」貴久の号令が下ると同時に、大型機材の前に座っていたオペレーターがスイッチのボタンを押した。手術室内のすべての機材が、稼働時特有の低く鈍い音を立て始め、縦横に張り巡らされた管が、まるで何かのデータを転送しているかのように青い光を点滅させ続ける。誰もが固唾を呑み、緊張した面持ちで手術台の中央に横たわる二人の姿を見つめた。しかし、ほどなくして異変が起きた。手術台の中央に横たわっている練の顔が、どういうわけか青ざめ、激しい苦痛に満ちた表情に変わった。瞬く間に額には汗の粒がびっしりと浮かび上がったのだ。それに続くように、機材の一つの画面に不規則な波形が現れ始めた。曲線の高低差は次第に大きくなり、波形の振幅もますます激しくなっていった。「実験体の脳波に激しい変動が見られます。これは……拒絶反応です!」「かまわん、同調レベルを上げろ!」貴久は歯を食いしばり、頑として譲らなかった。その時、貴久のそばにいたもう一人の医師が、険しい顔つきで制止に入った。「山下社長、あえて申し上げます。このままでは実験が失敗に終わるどころか、実験体が脳死に陥る可能性が極めて高いです!もし本当に命を落とすようなことになれば、我々が刑務所行きになるのは確実ですし、社長ご自身にとっても、息子さんが目覚めるための最後の一縷の望み







