次の日、朝の光を感じて目を覚ますと、美形のドアップが目の前にあった。
「うわ」
「あ、起きたか。おはよう拓海」
鼻先にチュッとキスをされる。朝から心臓に悪い顔面だ。好みすぎて辛い。
「僕ってさ、ゲイだったのかな」
「ん?」
「いや、なんでもない」
変だ、カエンを見ていると平常心ではいられない。
腹の奥と胸の中がむずむずして、近づきたいような距離をとりたいような、絶妙な気持ちになる。
……朝からカエンのことを深く考えるのはよそう、いけない妄想に浸ってしまいそうだ。
昨日はとても早く寝たけれど、今は何時だろう。
立ち上がって窓を開けると、爽やかな朝の風がふわりと部屋の中に吹きこんできた。
日が昇ってからそんなに時間は経っていなさそうだ。ひやりとした空気が頬を撫でる。
ベッドの方まで風が届いたらしく、カエンの前髪もひらりと風に揺れた。
「いい天気だ。拓海、今日はなにしたい?」
「なにか用事はある?」
「いや、ないよ。拓海の行きたいところにつきあう」
「行きたいところ……この辺はなにがあるの?」
カエンはベッドに寝転がったまま肘をついて、窓際に立つ僕を楽しげに見上げる。
「南には川、東には森。北には湖があって、西側には花畑がある」
「ずいぶんざっくりとした説明だね。このあたりには人が住んでいないの?」
「ここは俺と拓海しかいないんだ。さて、朝食を食べながら行き先を決めようか。今日は髪を切ってもいいな」
僕とカエンしかいない? どこかの無人島なのだろうか……
もう少し詳しく話を聞きたかったが、ひとまずはカエンの導きにしたがって、居間に移動して朝食を食べた。
パンにバターを塗っただけでもやたらと美味しい。焼きたてなのか、中はもちっと、外側はカリッとしたバタールは実に僕好みの味だった。
ご飯を食べながら寝室の前を確認する。海の絵は片づけられていた。
「あれ」
「ん? どした?」
「ここに絵がかかっていなかった?」
「……ああ、あれか。見たいなら納屋にある」
「後で見せて」
「わかった」
朝食後はカエンと一緒に納屋を訪れた。
海の絵はひっそりと納屋の奥に仕舞いこまれていた。
屋内の暗いところで見るその絵はどことなく不吉で、僕はたちまち見る気が失せた。
「もういいか?」
「うん、ありがとう」
カエンはホッと一息つくと、元通りその絵を納屋の奥の方に押しこんだ。
彼もこの絵に、なにか嫌なモノを感じたんだろうか。
結局その日は髪を切って、家の近くを散策することにした。
髪は思いきって茶色い部分をすべて切ってしまった。カエンは器用に髪を切りそろえ、出来栄えを褒めちぎった。
「拓海、短い髪もすごく似合うな! めちゃくちゃかわいい……イタズラしたくなるな、このうなじ」
「ばか、まだ昼間だよ」
「それって夜ならいいってこと?」
「そ、れは……まあ、僕も記憶を思い出したいし、痛いことをしないなら歓迎というか」
ごにょごにょと言い訳を述べると、毛まみれの僕に遠慮なくカエンが抱きついてきた。
「そうか! なら、めちゃくちゃヨくしてやるよ。夜が楽しみだなー」
「……そんなこと大声で言うなよ」
「別に俺と拓海しかいないんだし、いいじゃん? 照れちゃってかわいー」
散々からかわれて、僕はしばらく沈黙を貫いた。
*
そんな風にして、カエンと僕は何日か森のほとりで暮らした。
彼は僕と一緒にいたがったので、川で魚を獲ったり木の実をもいだり、薪を切ったりする間ずっと一緒に行動した。
この場所はやはりおかしい。二日目にはもう、その感覚は確信に近かった。
リンゴもみかんも、ぶどうもスイカも、柿もイチジクも、森にはなんでも生えている。季節感とか植生とか総無視だ。
薪だってカエンは簡単に大きな木を切り倒して持っていくけど、普通はそんな樹齢三十年はありそうな巨木を、斧で軽く切り倒すなんて真似はできないはず。
お肉が食べたいなあ、と呟いたらその日のうちにカエンが、どこからか鳥を絞めてきたこともあった。この森では鳥の声なんて聞いたことないのに。
「カエンはさ、魔法使いなの?」
「そうだったらよかったんだけどな」
そう告げたカエンは痛みを堪えるような顔をしていたので、それ以上掘り下げて聞くのはやめた。
真実を知りたいという思いはあるけれど、カエンを悲しませてまで知りたくないような気がした。
カエンのことは、なぜかわからないけれど大切に思うのだ。いまだに彼と過ごした記憶を思い出せないけれど。
おかしいことはまだある。かまどがあって、水道がなくて、なのに電気はある。
電気と言ってもあるのは居間のランプだけで、レンジもパソコンもコンセントも見当たらない。
かまどの火は不自然なほど扱いやすいし、水桶も水を使って減ったはずなのに、川に汲みに行かなくても勝手に水が貯まっている。
パンは食べた翌日にはバスケットに元通りになっているし、今日はご飯が食べたいなあと告げると、どこからともなくカエンが白米を持ってくる。
カエンは否定したけれど、彼は魔法使いで間違いないと思う。そうでなくちゃ、僕が願った物をなんでも持ってくることなんてできないはずだ。
なんでもあるなら、絵を描く道具もあるのではと納屋を探すと、白いキャンパスと絵の具まで完備されていた。僕の愛用メーカーのものだ。
その日から、僕の毎日に絵を描くという日課が加わった。
空を描いたり、道端の草を描いたりできるのはそれなりに楽しい。
完成した絵が増えていくことには達成感があるけれど、それ以外はなにも変わっていない……僕の記憶の状態も。
最初に身体を触られた夜以来、僕はカエンに毎晩高められているけれど、あれ以上の記憶を思いだすことはなかった。
高められているというか、奉仕されているに近いのだろうか。
カエンは一方的に僕の気持ちいいところを触りまくって、僕は耐えきれずに射精する。そして眠ってしまう。
カエンとの生活は気楽で、楽しくて、なんの不満もないけれど……やっぱり僕は記憶を思いだしたい。
記憶を思い出すためには、もう少し先に進む必要があるんじゃないか。
だからその日は思いきって、僕からキスをしてみたんだ。
丁度家の外でランチを食べた後だった。僕達は二人で一緒に作ったサンドイッチを食べて、切り株の上でくつろいでいた。
木陰の合間から溢れる日の光がカエンの水色の髪を淡く縁取り、まるで一枚の絵画のような光景だ。
「どした? 拓海。また俺に見惚れてんの?」
からかうようにカエンが笑う。
悔しいことに、彼の顔形もプロポーションも、色彩も何もかもが僕の理想通りだから、彼を描いてみたいと見つめる度にこうやってからかわれる。
人物画は専門じゃないから上手く描ける気がしなくて、今のところ実行には移していないけれど。
「そうだね、見惚れてた」
思い立ったが吉日とばかりに、僕はカエンの肩を引き寄せキスをした。カエンは僕の思いがけない行動に目を丸くする。
至近距離にある青色と見つめあいながら、微かに開いたままの口の中に、意を決して舌を入れてみた。
「っ!」
カエンが目を見開く。けれど、抵抗はない。彼はスッと目を細めると、僕の舌に己の舌を絡ませた。
まるで別の生き物のようにぬるりとうごめくそれに口内をくすぐられて、喉の奥からくぐもった声が鼻へと抜けていく。
「ふ……ぐぅ……っ」
ああ、やっぱり上手い。上顎の裏を丁寧に舌先でなぞられると、ぞわぞわと快感が背筋を抜けていく。
やば、勃ってきた……けど、もうちょっと……
飲み干せなかった唾液が口の端から溢れていく。当初の目的も忘れて、心地よいキスに陶然となっていると、カチリと脳内のピースがはまる感覚がした。
カエンは花の精、とでも言えばいいのだろうか。それとも付喪神? とにかく、この懐中時計はカエンの本体で間違いない。 昨日の夜、眠る直前に思い出した記憶の続きを辿る。 僕は突風に煽られて、崖から海へ向かって落ちた。そして、ペンダントから声がしたんだ。 切羽詰まった、僕を心から案じる声。今では聞きなれたカエンの声だ。 そして気がついたら、あのネモフィラの花畑にいた。カエンの世界の中に。 その時の僕も記憶を失っていて、初対面のカエン相手にかなり警戒していた。僕はもともと、そんなに人づきあいが得意な方じゃない。 今回初めてカエンに会った時のように、あんなにも慕わしさを感じることの方が異常事態だ。 ……記憶はカエンの体液に触れたり、ペンダントを手にすることで戻るようになっている。 なぜなら僕の記憶を奪ったのは、カエンだから。カエンの残滓から記憶が流れこむことによって、僕は真実を知った。
おばあちゃんが亡くなる一ヶ月前のことだ。その日も僕はバイトの前に、おばあちゃんのお見舞いのために病院に寄った。「拓海、いつもありがとうねえ」「ううん、気にしないで。今日は具合どう?」「昨日よりはいいよ。体を起こしていても、そんなに辛くないしねえ」 おばあちゃんは入院してから体重が落ちたみたいだった。元々細かった手は更にやせ細り、まるで枯れ木のようだ。 死が確実に忍び寄ってきているように感じ怖くなって、ギュッと手を握るとひんやりとした体温を感じた。「おばあちゃん、今日は水ようかんを持ってきたんだ」「おや、嬉しいねえ。後で食べるから、そこに置いておいてくれる?」 床頭台の上に手土産を置くと、おばあちゃんに引き出しを開けるように言われる。「拓海、そこにペンダントが入ってると思うんだけど」「ああ、これ?」「そうそう、それ。拓
丘の上はびゅうびゅうと大風が吹いていた。まだ日も高いのに、ずいぶんと風が吹き荒れている。まるでカエンの心の内を表しているかのようだ。 丘を下ると風の勢いはいくらかましになり、カエンの青褪めた顔に血の色が戻りはじめる。「本当に気分が悪そうだけど、大丈夫?」「大丈夫だ、だいぶましになってきた」 カエンは無理して笑ってみせた。そういう笑顔はあんまり好きじゃない。 丘を降りる途中、大きな木の影で一度休憩をとることになった。僕のお腹が空腹を訴えたせいだ。 お腹が鳴ったのを聞くと、カエンはハッと気を取りなおしたみたいだった。昼食を食べようと提案して、テキパキと用意をしはじめる。「悪かったな、腹が減ってたのに気づかなくて。たんと食えよ」「ありがとう、いただきます」 バケットサンドにはソーセージとチーズ、それからレタスが挟まっている。僕好みの味つけのそれを味わって食べた。
朝の光が差し込む室内で、朝食を用意しているカエンの後ろ姿をぽけっと眺める。 幻想的な水色の髪、広い肩幅、骨ばった男らしい手……あの手が昨日も僕の大事なところを触って、乱して……「できた。今日は拓海が言ってたナンってやつを作ってみたぞ」 声をかけられて我に返り、淫らな妄想を振り払う。食卓に置かれたナンは、豆の煮物っぽいなにかと一緒に食べるみたいだ。「う、うん。いただきます」 僕は朝っぱらからなにを考えていたんだ。毎晩触られているうちに、頭の中までえっちになってきちゃったのかもしれない。 気を取り直して、ナンを豆の煮物に浸して口に入れる。昔インドカレー屋で食べたみたいな、スパイスが効いたカレーの味がした。「わあ、美味しい。カエンってなんでも作れるんだ」「別にそんなことないって。知ってるやつしか作れない」 それにしても、朝からカレーを作るとは思わなかった。基本的に料理はカエンに任せているから、文句
カエンが僕を高める時に、違和感を覚えるようになった。 あの湖に出かけた日の夜からだ。いや、思えばその前から変だった。 彼は僕を責めたてることには熱心だけれど、自分が責められることをよしとしない。 それに、僕に挿れようともしない。男同士のセックスってお尻の孔を使うんだよね? 曖昧な知識だけど、挿入に至らないゲイカップルというのも世間一般にいた気がする。 けれど僕は興味があった。カエンのあの、太くて長いのが僕の気持ちのいいところに当たったら、一体どうなってしまうのか。 僕はカエンのことが好きだ。 笑った顔が一番好きだけれど、下手くそな嘘も優しい声も、僕を追い詰める時の意地悪な顔も、僕の言動に一喜一憂するところも、全部好ましいと思う。 恋に落ちたという感じはしない、気がついたら好きだった。 いや、もしかしたら記憶を失う前の僕はもともとカエンのことが大好きで、恋人だったのかもしれない。残念ながら覚えていないけど。
そこは切り立った崖の上だった。眼下に広がる一面の海の上で、僕は絵筆を持ってキャンパスに色を乗せたところだった。 とても風が強い日だったけれど、あの日の僕はどうしても海が描きたかった。 台風が来るらしいし別の日にすればって、たった一人僕を気にかけてくれる友達に呆れられたけれど、絶対に今日描きたい。そう思って海に来たんだ。 だって、そうしないと……間に合わないんだ。……何に? 残念ながら、その内容までは思い出せはしなかったけれど。 僕はこの場所に来る直前に、海に来ていたことを思い出した。「……また、思い出したんだな?」 カエンが確信を持って聞いてくる。僕は息を乱しながら頷いた。「そっか……なあ、俺もうこんななんだけど。拓海から仕掛けたんだから、責任とってくれよな?」 カエンは僕を膝の上に乗せると、わざと尻に当たるように硬くなった雄を擦りつけた。うわ……僕は慄いた。