頭の中に浮かんだのは、しわくちゃのおばあちゃんの顔だった。
脳裏にひらめく海、貝殻、空、青色の絵具、美しい絵画、お気に入りの筆、綺麗な景色……
気心の知れた数少ない友達、ネモフィラの花、それからチーズとソーセージ。
……すべて僕の好きなものや、お気に入りの人や場所だ。
「おばあちゃん……」
僕のおばあちゃんは二ヶ月ほど前に死んだ。見つかった時には既に末期ガンで、余命三ヶ月と宣告された。
僕はバイトや絵の仕事の合間をぬって、おばあちゃんに会うために病院に通った。
両親共に仕事が好きで、よくおばあちゃんの家に預けられていた子どもだったから、大人になった今でもおばあちゃんっ子な自覚がある。
おばあちゃんは僕にとって、とても安心できる大好きな人だった。
バイトではじめてお金を稼いだ時も、両親よりも先におばあちゃんへのプレゼントを買ったくらいだ。
とても穏やかで優しくて、僕を一番大切にしてくれる人だった。
そんなおばあちゃんが、死ぬ間際に……あれ、なんだっけ。そこから先がどうしても思いだせない。
「拓海? ぼーっとしてるけど平気か?」
「あ、ごめん」
「いいけどさ。俺がいるのに、他の人のことなんて考えないでくれよ」
カエンは脱力している俺の体にのしかかり、ぎゅーっと抱きしめた。少し重い……
我ながらキスをした後に別の人のことを考えるのは酷いなと思ったので、ぼやくのはやめて抱きしめ返した。
「……もう大丈夫、いろいろ思いだしただけ」
「おばあちゃんのこと?」
「そう。あと好きな物とか、人とか」
「ふぅん」
カエンは興味なさそうに呟いた。なんでだろう、協力してくれたのに、全然興味がなさそうだ。
「俺の言ったとおり、青色が好きだっただろ?」
「え? ああ、そうだね」
確かにそうだった。思いだした綺麗な景色や絵画は、大体が青色の海だったり空だったり、緑が美しい風景だった。
あとはそう、さっきの丘に咲いていた、ネモフィラの花を題材にしたものもあった。
僕は風景画を専門に描いていたらしい。
僕の返事を聞いて、カエンは青い目を細めて微笑んだ。
カエンの青も好きだ。瞳は海のようだし、髪の水色はネモフィラの花と同じ色をしている。
ネモフィラはおばあちゃんが好きだった花で、彼女が亡くなる前年まで、シーズンになるたびに花を見に誘っていた。
一面の青と、それを目にして喜ぶおばあちゃんの笑顔を見ると、僕まで嬉しくなったものだった。
「拓海、疲れただろ? いったん休憩しよう。いきなりいろいろ思いだしても混乱するだけだと思うし、ゆっくりいこうな」
「そう? ……わかった」
あんな気持ちのいいことなら、少しと言わずもっと続けてもらってもいいのだけれど、確かに体も頭も疲れている。
カエンが体を起こしてベッドから降りる。僕も起きあがった。
外を見ると日が暮れてきていた。びゅうびゅうと風が吹いているようだ。木々のざわめく音が頭上から聞こえてくる。
「夕方が過ぎたら、あまり外に出ない方がいいぞ。特に丘の方は強風が吹くんだ。崖もあるし危ないから、丘の方には一人で行くなよ」
「わかった。丘って、さっき歩いてきた花畑の方であってる?」
「そうそう、それな」
窓ガラスに触れてみる。暮らしぶりも家もとても古風なのに、ガラスは現代の物と遜色なく精巧で、つるりとしている。
窓には平凡な容姿をした若い男が映っていた。ああ、僕か。こんな顔をしていたっけ、そういえば。
よく言えば優しそう、悪く言えば凡庸で気弱そうな顔立ちだ。
髪は肩近くまで伸びていて、茶色く染めた部分より上は黒髪だ。五センチくらいプリン状態になっていてみっともない。
「ねえカエン、髪を切りたいんだけれど」
「その前にこれ着て」
「わぷっ」
なにやらごそごそとタンスを物色していたカエンが、服を投げてよこした。
黒いTシャツに文句も言わず袖を通す。やっぱりちょっとサイズが大きい。
下着とパンツも身につけた頃には、カエンは隣の部屋で料理をしていた。ランプが居間を明るく照らしている。
彼は火がついたかまどの前に立って、フライパンでなにかを調理している。卵料理のようだ。
フッとかまどの火が消えて、皿に卵が盛りつけられた。今まで明々と燃えていたのに、かまどの火ってそんな急に消えるものだっけ……
違和感を覚えるけれど、かまどなんて扱ったことがないから普通がわからない。
「はい、どーぞ」
スクランブルエッグとトースト、それとサラダらしき野菜が皿に乗っていた。いつの間にやら、ケチャップまで卵にかかっている。
「ありがとう……食べていいんだよね? いただきます」
「召しあがれ」
カエンは僕が食べる様子をニコニコしながら見つめている。一口食べると、彼も自分の皿を持って席についた。
ふわふわの卵とシャキシャキのレタスが美味しい。こんな朝食みたいなメニューでお腹が膨れるのか疑問だったけれど、食べ終わる頃には満腹になっていた。
「ごちそうさま」
「美味かった?」
「うん」
「そりゃよかった」
見ればカエンの皿も空になっている。彼は立ち上がると皿を洗いだした。
「僕がやるよ」
「いいから座ってな」
カエンは手際よく皿の汚れを落として、桶の水で流している……ないのか、水道。
手持ち無沙汰な僕は窓の外を見た。ごおごおと風の音がする。木々に遮られて月の光も星の明かりも届いていない、完全に真っ暗だ。
「……」
家の中は別世界のように凪いでいた。まるで別の空間に閉じこめられているような。
「どうした、拓海」
「いや、ランプが明るいなって思って」
電球みたいに明るいのに、ろうそくのように揺らぐ光を見ていると、だんだん目の前がぼやけてくる。
「……?」
「拓海? 疲れたのか? もう寝よう。ベッドに運ぶぞ」
なにかがおかしい、おかしいはずなのに、なにがおかしいのかよくわからない。頭がボーッとする。
力の抜けた体をひょいと抱き上げたカエンは、僕を寝室まで運んだ。
鳥の雛に触れるような柔らかさで、僕の額にバードキスを落としたカエンは、慈しむように微笑んだ。
「おやすみ、拓海。安心して、明日はまだ俺のことを覚えているから」
そっと目蓋を包むかのように大きな手のひらで包まれて、僕はすとんと眠りに落ちた。
カエンは花の精、とでも言えばいいのだろうか。それとも付喪神? とにかく、この懐中時計はカエンの本体で間違いない。 昨日の夜、眠る直前に思い出した記憶の続きを辿る。 僕は突風に煽られて、崖から海へ向かって落ちた。そして、ペンダントから声がしたんだ。 切羽詰まった、僕を心から案じる声。今では聞きなれたカエンの声だ。 そして気がついたら、あのネモフィラの花畑にいた。カエンの世界の中に。 その時の僕も記憶を失っていて、初対面のカエン相手にかなり警戒していた。僕はもともと、そんなに人づきあいが得意な方じゃない。 今回初めてカエンに会った時のように、あんなにも慕わしさを感じることの方が異常事態だ。 ……記憶はカエンの体液に触れたり、ペンダントを手にすることで戻るようになっている。 なぜなら僕の記憶を奪ったのは、カエンだから。カエンの残滓から記憶が流れこむことによって、僕は真実を知った。
おばあちゃんが亡くなる一ヶ月前のことだ。その日も僕はバイトの前に、おばあちゃんのお見舞いのために病院に寄った。「拓海、いつもありがとうねえ」「ううん、気にしないで。今日は具合どう?」「昨日よりはいいよ。体を起こしていても、そんなに辛くないしねえ」 おばあちゃんは入院してから体重が落ちたみたいだった。元々細かった手は更にやせ細り、まるで枯れ木のようだ。 死が確実に忍び寄ってきているように感じ怖くなって、ギュッと手を握るとひんやりとした体温を感じた。「おばあちゃん、今日は水ようかんを持ってきたんだ」「おや、嬉しいねえ。後で食べるから、そこに置いておいてくれる?」 床頭台の上に手土産を置くと、おばあちゃんに引き出しを開けるように言われる。「拓海、そこにペンダントが入ってると思うんだけど」「ああ、これ?」「そうそう、それ。拓
丘の上はびゅうびゅうと大風が吹いていた。まだ日も高いのに、ずいぶんと風が吹き荒れている。まるでカエンの心の内を表しているかのようだ。 丘を下ると風の勢いはいくらかましになり、カエンの青褪めた顔に血の色が戻りはじめる。「本当に気分が悪そうだけど、大丈夫?」「大丈夫だ、だいぶましになってきた」 カエンは無理して笑ってみせた。そういう笑顔はあんまり好きじゃない。 丘を降りる途中、大きな木の影で一度休憩をとることになった。僕のお腹が空腹を訴えたせいだ。 お腹が鳴ったのを聞くと、カエンはハッと気を取りなおしたみたいだった。昼食を食べようと提案して、テキパキと用意をしはじめる。「悪かったな、腹が減ってたのに気づかなくて。たんと食えよ」「ありがとう、いただきます」 バケットサンドにはソーセージとチーズ、それからレタスが挟まっている。僕好みの味つけのそれを味わって食べた。
朝の光が差し込む室内で、朝食を用意しているカエンの後ろ姿をぽけっと眺める。 幻想的な水色の髪、広い肩幅、骨ばった男らしい手……あの手が昨日も僕の大事なところを触って、乱して……「できた。今日は拓海が言ってたナンってやつを作ってみたぞ」 声をかけられて我に返り、淫らな妄想を振り払う。食卓に置かれたナンは、豆の煮物っぽいなにかと一緒に食べるみたいだ。「う、うん。いただきます」 僕は朝っぱらからなにを考えていたんだ。毎晩触られているうちに、頭の中までえっちになってきちゃったのかもしれない。 気を取り直して、ナンを豆の煮物に浸して口に入れる。昔インドカレー屋で食べたみたいな、スパイスが効いたカレーの味がした。「わあ、美味しい。カエンってなんでも作れるんだ」「別にそんなことないって。知ってるやつしか作れない」 それにしても、朝からカレーを作るとは思わなかった。基本的に料理はカエンに任せているから、文句
カエンが僕を高める時に、違和感を覚えるようになった。 あの湖に出かけた日の夜からだ。いや、思えばその前から変だった。 彼は僕を責めたてることには熱心だけれど、自分が責められることをよしとしない。 それに、僕に挿れようともしない。男同士のセックスってお尻の孔を使うんだよね? 曖昧な知識だけど、挿入に至らないゲイカップルというのも世間一般にいた気がする。 けれど僕は興味があった。カエンのあの、太くて長いのが僕の気持ちのいいところに当たったら、一体どうなってしまうのか。 僕はカエンのことが好きだ。 笑った顔が一番好きだけれど、下手くそな嘘も優しい声も、僕を追い詰める時の意地悪な顔も、僕の言動に一喜一憂するところも、全部好ましいと思う。 恋に落ちたという感じはしない、気がついたら好きだった。 いや、もしかしたら記憶を失う前の僕はもともとカエンのことが大好きで、恋人だったのかもしれない。残念ながら覚えていないけど。
そこは切り立った崖の上だった。眼下に広がる一面の海の上で、僕は絵筆を持ってキャンパスに色を乗せたところだった。 とても風が強い日だったけれど、あの日の僕はどうしても海が描きたかった。 台風が来るらしいし別の日にすればって、たった一人僕を気にかけてくれる友達に呆れられたけれど、絶対に今日描きたい。そう思って海に来たんだ。 だって、そうしないと……間に合わないんだ。……何に? 残念ながら、その内容までは思い出せはしなかったけれど。 僕はこの場所に来る直前に、海に来ていたことを思い出した。「……また、思い出したんだな?」 カエンが確信を持って聞いてくる。僕は息を乱しながら頷いた。「そっか……なあ、俺もうこんななんだけど。拓海から仕掛けたんだから、責任とってくれよな?」 カエンは僕を膝の上に乗せると、わざと尻に当たるように硬くなった雄を擦りつけた。うわ……僕は慄いた。