ログイン【奏人side】 「……何やってるんだ、俺は」 病室を出てから何度目になるかわからないため息を吐きながら、廊下を歩く。 情けないにもほどがある。 危うく、朝霧に自分の気持ちを伝えてしまうところだった。 あいつは人妻だ。たとえ久我玲司との夫婦関係が破綻していたとしても、今はまだ法律上の妻であることに変わりはない。 それに何より、朝霧は重い病気を患っている。 今のあいつに必要なのは、安心して治療に専念できる環境だ。 俺の身勝手な感情を押しつけて、これ以上悩みを増やしてどうする。 「……最低だな」 小さく呟いた自分の声が、病院の廊下に酷く響いた。 まだ、日中で人も多くいるというのに自分が声を発した一瞬だけ他の音が消えたのではと錯覚するほどだった。 藤崎の話をしていたとき、朝霧が浮かべた複雑そうな表情。 あれを見て、もしかしたらと期待してしまった。 自惚れもいいところだ。 朝霧が俺をどう思っているのかなんて、わかるはずもない。 ましてや、あいつはずっと久我玲司を愛していた。 どれだけ傷つけられても、簡単に捨て去ることのできない想いがあったはずだ。 そんな相手に対して、俺は何をしようとしていたのか。 それでも最後に見た朝霧の表情が、頭から離れなかった。 頬を薄く赤く染め、戸惑うようにこちらを見つめていた瞳。 あのとき、朝霧は何を考えていたのだろう。 もしも、あいつも俺と同じ気持ちだったとしたら――。 「……やめろ」 自分に言い聞かせるように呟き、首を振った。 これ以上、都合のいい想像をするのはやめよう。 俺が今すべきなのは、朝霧が追っている過去の真相を明らかにすること、ただそれだけだ。 エレベーターで一階へ降り、そのまま病院のロビーを抜けようとする。 平日の午後ということもあり、広々としたロビーには患者や見舞客の姿がまばらにあった。 受付の前を通り過ぎ、正面玄関へ向かおうとした、そのときだった。 「…………ん?」 視界の端に、見覚えのある人影が映った。 長い黒髪を綺麗にまとめ、落ち着いた色合いのスーツを身にまとった女性。 すらりとした立ち姿には、どこか知的で洗練された印象がある。 「……藤崎?」 思わず、その名を口にした。 久我玲司の秘書、藤
そこまで言いかけて、奏人先輩が不自然に言葉を止めた。 何かを言おうとして、けれど言葉にならない。 そんな様子で私を見つめる奏人先輩の顔が、次第に赤くなっていく。 そして、私もようやく気づいた。 奏人先輩が何を言おうとしたのか。 その言葉の続きを、私はもう知っているのではないだろうか。 「……朝霧」 名前を呼ばれ、胸が跳ねた。 奏人先輩の視線が、まっすぐ私に注がれている。 いつもと同じ優しい眼差し。 それなのに、今はどこか違って見えた。 その瞳の奥に、普段は隠されている熱のようなものが宿っていたからだ。 思わず視線を逸らそうとして、できなかった。 どうして……? これまでだって、奏人先輩と二人きりになったことは何度もあった。 優しい言葉をかけてもらったことも、心配してもらったこともある。 そのたびに安心して、温かい気持ちになっていた。 なのに、今は違って心臓が落ち着かない。 鼓動が少しずつ速くなっていく。 だけど、不思議と目を逸らしたくなかった。 「俺は……」 奏人先輩の唇が、ゆっくりと動いた。 その続きを聞いてはいけないと頭のどこかでは、そう思っていた。 私は玲司の妻なのだから、たとえもうあの人との間に夫婦らしい関係が残っていなかったとしても。 それでも、奏人先輩の言葉を待ってしまっている自分がいた。 そのときだった。 ――コン、コン。 「久我さーん。失礼します。お身体の具合はいかがですか?」 突然響いたノックの音と看護師さんの声に、私たちは同時に肩を跳ねさせた。 「あっ、は、はい!」 慌てて返事をすると、ドアが開いて看護師さんが顔を覗かせる。 「あら、お客様がいらしていたんですね」 「え、ええ。ちょうど帰るところだったんです」 私が何かを答えるより早く、奏人先輩が立ち上がった。 「じゃあ、朝霧。俺はそろそろ失礼するよ」 「あ……はい」 「無理はするなよ。今はゆっくり休んでくれ。また何かわかったら連絡する」 「はい。今日はありがとうございました」 奏人先輩はいつもの穏やかな笑みを浮かべて頷いた。 けれど、その表情にはどこかぎこちなさが残っていた。 それはきっと、私も同じだったのだと思う。 「……じゃあ、またな」 「はい。
「…………え?」 思わず、布団から顔を出してしまった。 今、なんて言ったのだろう。 「藤崎って……藤崎依織さんのことですか?」 「ああ、そうだけど」 奏人先輩は、まるで何でもないことのように頷いた。 けれど、私にとっては到底聞き流せる言葉ではなかった。 藤崎依織さん。 玲司の秘書として働き、私が体調を崩してからも何かと気にかけてくれていた女性。 その藤崎さんと奏人先輩に接点があったなんて、思いもしなかった。 「奏人先輩……藤崎さんと、知り合いなんですか?」 私の問いかけに、奏人先輩は少しだけ意外そうな顔をした。 まるで、私がそんなことを尋ねるとは思ってもいなかったかのように。 そして、どこか懐かしむように目を細めた。 「ああ。大学を卒業して、しばらくアメリカに滞在していた時期があってな。その頃に知り合ったんだ」 「アメリカで?」 「当時、藤崎は大学付属の語学プログラムに留学していたんだ。ビジネス英語や国際ビジネスについて勉強していたらしい。将来は大手企業で働きたいって言っていたな」 「そうだったんですね……」 「俺はその大学のバスケットボールチームを取材しに行っていたんだ。大学スポーツが盛んなところでな。そこで偶然、日本人らしい女の子を見かけて声をかけたのがきっかけだった」 そう言うと、奏人先輩は小さく笑った。 「もっとも、最初はずいぶん警戒されたけどな」 「警戒?」 「ああ。突然知らない男に日本語で話しかけられたんだから、当然と言えば当然なんだけどな。しかも俺、取材用のカメラを首から下げていから、怪しい人間だと思われたらしくて、大学の警備員を呼ばれそうになった」 「ふふっ……それは大変でしたね」 「笑い事じゃないぞ。必死になって身分を説明したんだからな」 当時のことを思い出したのか、奏人先輩は苦笑した。 「でも、そのあとが藤崎らしかったな。誤解だとわかると何度も頭を下げて謝ってきてさ。お詫びに何か手伝わせてほしいって言うんだ」 「それで、どうしたんですか?」 「ちょうど取材先の選手に会うための場所がわからなくて困っていたから、案内を頼んだんだ。そしたら彼女、案内するって言ったくせに途中で道に迷ってな」 「えっ?」 「結局、二人で大学中を歩き回ることになったよ。彼女のほうが先に留学
「入ってもいいか?」 控えめなノックに続いて聞こえてきた声に、私は思わず身体を強張らせた。 「ちょ、ちょっと待ってください!」 慌てて手ぐしで髪を整える。 けれど、昨日からまともに手入れもできていない髪は、指を通した程度ではどうにもならない。 それでも、少しでも見苦しくないようにと髪を撫でつけてから、扉へと声をかけた。 「は、はい。どうぞ」 ゆっくりと扉が開き、その向こうから奏人先輩が顔を覗かせた。 「よかった。起きていたみたいだな」 「奏人先輩……」 その顔を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。 ついさっきまで、今にも切れてしまいそうなほど張り詰めていた何かが、少しずつ緩んでいく。 別に、先輩が来てくれるのを待っていたわけじゃない。 それでも、見慣れた穏やかな表情を目にしただけで、これほど安心できることが自分でも不思議だった。 「また倒れたみたいだな。体調はどうだ?」 「あ、はい。まだちょっとつらいですけど、大丈夫です」 そう答えながら、私は無意識に胸元へ手を添えた。 昨日よりは随分と楽になったものの、身体の奥に鉛でも詰め込まれたような重さは相変わらず残っている。 少し上体を起こしているだけでも疲れてしまうし、こうして話している間にも、息が浅くなっているのが自分でもわかった。 けれど、そんな姿を奏人先輩にまで見せたくなかった。 「そうか。あんまり無理するなよ」 「はい。……でも、どうして私が入院していることを知っているんですか?」 ふと疑問が浮かび、首を傾げる。 昨日、私が倒れたのは玲司と一緒にいたときだ。 そのまま病院へ運ばれ、入院することになったのだから、奏人先輩が知る機会なんてなかったはず。 「ああ……ちょっと知り合いに病院関係者がいてな」 「病院に、ですか?」 「ああ。偶然お朝霧のことを聞いたんだ」 「そうだったんですね」 奏人先輩にしては、どこか歯切れの悪い答えだった。 それでも、記者として働く先輩の顔の広さは私も知っている。 取材を通じて知り合った人の中に、医療関係者がいたとしても別におかしなことじゃない。 そう納得していると、奏人先輩はベッドの傍らまで歩いてきた。 「座ってもいいか?」 「あ、はい。もちろんです」 「ありがとう」
以前なら、こんなことを考えるだけで涙が溢れていた。 玲司が憎くて、悔しくて。 それでも、あの人への愛情を捨てきれない自分が嫌で仕方なかった。 だけど、不思議と今は涙が出てこなかった。 もう、疲れてしまったのかもしれない。 玲司に愛されたいと願うことも。 あの人の一挙手一投足に傷つくことも。 香澄の存在に嫉妬し、自分と比べて惨めになることも。 何もかも。 あの人が今夜、香澄さんのもとへ帰ろうが、もうどうでもよかった。 かつては想像するだけで胸が張り裂けそうになったことなのに、今では何の感情も湧いてこない。 それはきっと、私の中に残っていた玲司への愛情が、完全に冷めてしまったということなのだろう。 今さら優しくされたところで、もう何も変わらない。 むしろ、あの人が私を心配する理由を考えることさえ億劫だった。 「……はぁ」 深く息を吐こうとして、途中で胸が苦しくなった。 小さく何度か呼吸を繰り返し、再び天井へと目を向ける。 私の人生は、いったいどこで間違ってしまったのだろう。 幼い頃の記憶は曖昧で、自分が何者なのかさえ知らずに育った。 ようやく見つけたと思っていた幸せも、今では跡形もなく壊れてしまった。 愛した人から憎まれ、信じていた人たちに裏切られ、大切な子どもまで失った。 そして今度は、自分自身の命にさえ期限を突きつけられている。 余命一年。 その言葉が頭をよぎる。 治療を受ければ、まだ生きられる可能性はあるのだという。 けれど、そのためには長く苦しい闘病生活を送ることになるかもしれない。 たとえ病気を乗り越えたとしても、その先に何が残るのだろう。 もう一度、誰かを愛せるのだろうか。 誰かを信じて、幸せになりたいと願えるのだろうか。 少なくとも、今の私には想像もできなかった。 だからといって、死ぬことを望んでいるわけではない。 ただ、これ以上生きることに執着する理由が、見つからないのだ。 諦めなのかもしれない。 あるいは、これ以上傷つきたくないという、私自身の弱さなのかもしれない。 それでも、一つだけ確かなことがある。 私は、知りたい。 どうして、こんなことになってしまったのか。 私と紗良さんの間に何があったのか。
病院に運ばれた翌日。 私は一人、静まり返った病室のベッドに横たわり、ぼんやりと白い天井を見つめていた。 昨夜から何度か輸血を受けたおかげか、意識を失う前に感じていた息苦しさは幾分か和らいでいた。 それでも、身体は鉛でも詰め込まれたかのように重い。 少し身じろぎするだけで心臓が早鐘を打ち、胸の奥からじわじわと息苦しさが込み上げてくる。先ほど看護師が来たときも、上体を起こそうとした途端に目の前が暗くなり、慌ててベッドへ横になる羽目になった。 結局、今の私にできるのは、こうして横になっていることくらいだった。 「はぁ……」 小さく息を吐き、視線だけを動かして室内を見渡す。 白を基調とした清潔感のある室内には、病院のものとは思えないほど立派なソファーが置かれていた。その向かいには大型のテレビが設置され、壁際には冷蔵庫や収納棚まで備え付けられている。 窓からは街並みが一望でき、広々とした空間には生花まで飾られていた。 どう考えても、一般の患者が入る病室ではない。 おそらく、玲司が手配したのだろう。 あの人がこの病院でどのような立場にいるのか、私はいまだに詳しく知らない。けれど、こうした特別扱いを受けられる程度には権力を持っているらしい。 もっとも、今さらそんなことを知ったところで、どうということもないのだけれど。 「……今日、行くはずだったのに」 誰に聞かせるでもなく呟く。 本来なら今日、星見の丘の前施設長だった榊原さんに会いに行くはずだった。 あの人なら、紗良さんのことも、私が幼い頃に受けた移植手術のことも、何か知っているかもしれない。 ようやく真実に近づけるかもしれないと思っていた。 それなのに、こんなところで足止めされるなんて。 焦りに突き動かされるように身体を起こそうとして、すぐに諦めた。 「っ……はぁ……」 ほんの少し力を込めただけなのに、胸が苦しい。 頭の奥がじんわりと重くなり、視界が揺れる。 思わず目を閉じ、呼吸が落ち着くのを待った。 自分の身体なのに、思いどおりに動かすことさえできないなんて情けない。 けれど、これが今の私の現実なのだろう。 治療を受けなければ、余命はおよそ一年。 もちろん、死ぬことへの恐怖がまったくなかったわけではない。 それでも
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…