LOGIN「どうして黒崎さんの夫が、祖父の会社に……」「わからない。黒崎文隆の勤務先と朝霧ファーマトレードには、表向き目立った取引関係はない。少なくとも、一介の経理担当者が個人的に本社を訪れるような理由は見つからなかった」 奏人先輩はそう言うと、手元の資料からさらに一枚を抜き出した。「ただ、もっと気になることがある」「何ですか?」「黒崎文隆が最後に朝霧ファーマトレードを訪れたのは——自殺した当日だ」「……え?」 心臓が、どくんと大きく脈打った。「入館記録では、その日の午前中に本社へ入って、午後には出ている。そして同日の夕方、自宅で死亡しているのが発見された」「誰に会っていたんですか?」「そこまでは記録に残っていない」 奏人先輩は一度言葉を切る。 そして、私の目を真っすぐに見据えた。「ただし、受付を通さず、役員専用の出入り口から中へ入っていたという証言がある」「役員専用……」 背筋に冷たいものが走った。 普通の社員が自由に使える場所ではない。 つまり、朝霧ファーマトレードの中でも、それなりの権限を持った人間が黒崎文隆を招き入れた可能性が高いということだ。「黒崎真知子は、お前の母親が院長だった頃の大学病院について、何かを知っていた。そして夫の文隆は、死ぬ直前まで朝霧ファーマトレードへ出入りしていた」 奏人先輩の低い声が、静かな個室に重く落ちる。「偶然で片づけるには、少し出来すぎている」「じゃあ……」 喉がひどく乾いた。 続きを口にするのが怖い。 けれど、奏人先輩は私が言えなかった言葉を代わりに口にした。「この夫婦の死は、何者かの意思によって引き起こされたのかもしれない」 奏人先輩の表情が曇った。 私は、手にしていた資料を無意識に強く握りしめる。 ——まさか。 頭の中に、ひとりの男の顔が浮かんだ。 父——朝霧宗一郎。 私と母を捨てた父。 家族を顧みることなく、朝霧家と会社の利益だけを優先してきた人。 それでも、人の命を奪うことにまで関わっているなんて——。 そこまでは、どうしても結びつかなかった。 いや。結びつけたくないだけなのかもしれない。 もし本当に父が黒崎夫妻の死に関わっているのなら。 私は、自分が知らずにいた朝霧家の闇に足を踏み入れてしまったことになる。 そう思った途端、
奏人先輩に指定された場所は、都心の一等地に本社を構える大手総合出版社だった。 週刊誌や月刊誌だけでなく、社会問題を扱うウェブメディアも運営している会社で、奏人先輩はその中でも事件や企業不祥事を追う情報誌の編集部に所属している。 吹き抜けになった広いエントランスへ足を踏み入れると、磨き上げられた床に私の姿がぼんやりと映った。 受付の女性に奏人先輩との約束を伝え、来訪者用のソファへ腰を下ろす。 周囲では社員らしき人たちが慌ただしく行き交っていた。資料を抱えた人。スマートフォンで誰かと話しながら足早に通り過ぎる人。壁に設置された大型モニターには、この会社が刊行している雑誌の表紙やウェブ記事が次々と映し出されている。 場違いな場所へ来てしまったような心細さを覚え、膝の上で右手を握りしめた。「朝霧!」 聞き慣れた声に顔を上げると、社員証を首から下げた奏人先輩が、エントランスの奥からこちらへ歩いてきた。 今まで見た雰囲気とは違い、濃紺のジャケットを羽織っている。その姿はどこから見ても仕事のできる編集者だったけれど、私を見つめる表情には安堵と苦しさが入り交じっていた。「奏人先輩……」「久しぶり、というほどでもないか。大学病院で、黒崎真知子に襲われて以来だな」 奏人先輩はそう口にしたあと、僅かに眉を寄せた。 あの日のことを思い出したのだろう。「悪かった」「え?」「お前を守れなかった。それに、連絡も遅くなってしまった」 奏人先輩は周囲に聞こえないよう、声を落とした。「あれから黒崎真知子のことを調べていた。中途半端な情報を伝えて、またお前を危険な目に遭わせるわけにはいかなかったんだ」「先輩のせいじゃありません。むしろ、私が巻き込んでしまったんです」「それでもだ」 短く言い切った奏人先輩の目には、強い後悔が滲んでいた。 奏人先輩だって、あの時は頭に怪我を負っていた。私に関わらなければ、危険な目に遭うこともなかったはずなのに、それでも私のことを気遣ってくれる。「ここじゃ話しづらい。場所を移そう」 奏人先輩に案内され、受付奥のセキュリティゲートを通過する。 エレベーターで上階へ上がり、編集部のあるフロアへ足を踏み入れると、エントランスとは比べものにならないほどの喧騒が待っていた。 長机の上には資料や校正紙が積み重なり、
【玲司サイド】 遠ざかっていく千景の背中を、俺はただ黙って見送ることしかできなかった。「……くそ」 胸の奥で燻るものを吐き出すように、低く呟く。 俺は、千景を苦しめて捨てるつもりだったはずだ。 紗良を失ってから、俺は一人で生きていくつもりだった。 もう誰かを大切にすることも、誰かと未来を思い描くこともないと思っていた。 そんな俺の前に現れたのが、千景だった。 傷を抱えた俺に、孤独ではない未来を見せた女。 もう一度、誰かを愛してもいいのかもしれないと、そう思わせた女。 だからこそ、美玲が紗良の死に関わっていたと知ったとき、俺は千景にまで裏切られたように感じた。 俺から紗良を奪った朝霧美玲。 そして、その事実を何も知らずに生きてきた千景。 千景への愛など、もうなくなったはずだった。 それなのに――。 あいつが他の男のもとへ行こうとするだけで、どうしてこれほど腹が立つ。 俺は苛立ちを振り払うようにスマートフォンを取り出した。 二、三度の呼び出し音の後、通話が繋がる。『玲司様。どうされましたか?』 秘書である藤崎依織の淡々とした声が聞こえてきた。 その冷静な声に、不思議と胸の内で燃えていたものが僅かに鎮まる。「これから外せない会議がある。千景を見張れ。また成瀬奏人に会うつもりらしい」『承知しました』 藤崎には以前から、千景の動向を探らせていた。 その報告から、千景が成瀬奏人と頻繁に接触していることを知り、男の素性についても調べさせている。 なぜ、そこまで気になるのかは自分でも分からなかった。 ただ、千景があの男を頼り、俺の知らないところで会おうとしている。 それだけで、腹の底を掻き回されるような苛立ちを覚えた。『成瀬奏人についての報告書は、先ほどメールでお送りしております。お時間のあるときにご確認ください』「分かった。それと前にも言ったが、この件は香澄には――」 言うな——そう続けようとした。 香澄は、俺が千景に対して割り切れない感情を抱えていることに薄々気づいている。 そのうえで、俺が藤崎を使って千景の動向まで探っていると知れば、余計な不安を与えるかもしれない。 今の香澄には、腹の中の子供もいる。 余計な負担はかけたくなかった。『玲司様』 だが、藤崎は俺の
「よかった……?」 思わず聞き返すと、玲司がこちらを向いた。 「指が動かなくなるような怪我ではない。演奏に支障が残らないなら、それで――」 「だから、よかったの?」 自分でも抑えられないほど、声が震えた。 「傷が残るかもしれないって言われたのよ」 「適切な治療を続ければ、目立たなくなる可能性はある」 「完全に元どおりになるとは限らないって、今、先生が言ったでしょう!」 鋭い声が診察室に響いた。 新しいガーゼで覆われた左手が、脈打つように痛む。 けれど、それ以上に胸の奥が苦しかった。 「あなたにとっては、バイオリンさえ弾ければそれでいいの? 指の動きに後遺症が残らなければ、私がどんな傷を負っても構わないの?」 「そんなことは言っていない」 「言っているのと同じよ!」 私は処置を終えた左手を、玲司の前へ突き出した。 ガーゼの下には、赤く腫れ、水疱の浮かんだ醜い手がある。 それを思い浮かべるだけで、涙が滲みそうになった。 「人から見える場所に、一生消えない傷が残るかもしれないのよ」 しかも、火傷を負ったのは左手だった。 結婚指輪を通すそこには、傷あるいは痣が残る。 それがまるで、私たちの夫婦関係そのもののように思えた。 玲司は何も言わなかった。 その沈黙が、私の中に辛うじて残っていた理性を削っていく。 「女が傷を気にするなんて、くだらないと思っているの?」 「そんなことは思っていない」 「だったら、どうして平気でよかったなんて言えるのよ」 玲司の表情は、いつもと変わらなかった。 私が取り乱していることに困惑しているようには見えても、私と同じ痛みを感じているようには見えない。 不意に、昔の記憶が蘇った。 まだ、私たちが互いを大切にしていた頃。 演奏を終えた私の左手を取り、玲司は指先を眺めながら言ったのだ。 ――お前の手は綺麗だな。 長く細い指も。 弦を押さえ続けて、少し硬くなった指先も。 すべて、千景が努力してきた証だから綺麗なのだと。 あのときの玲司の声は、今でもはっきり覚えている。 「昔、言ったわよね……」 「何をだ」 「私の手が綺麗だって」 玲司の目が、僅かに揺れた。 「バイオリンを弾くために努力してきた手だから、綺麗だって言ってくれた」
「病院に行くの。香澄さんにやられた火傷を診てもらうの」 包帯の巻かれた左手を、玲司の目の前へ突き出す。 玲司の視線が、白い包帯に落ちた。 眉間が僅かに寄ったように見えたけれど、すぐにいつもの無表情へと戻る。 「乗れ。病院まで付き添う」 「何? 私が余計なことを言わないように、監視しようってわけ?」 「……そうじゃない」 「口では何とでも言えるわ。やましいことがあるから、放っておくのが不安なんでしょう?」 ありったけの皮肉を込め、吐き捨てるように言う。 玲司が一歩近づき、こちらへ手を伸ばしてきた。 「っ……何をするの?」 また乱暴に腕を掴まれるのかと思い、反射的に目を閉じて身体を縮こませる。 けれど、予想していた痛みはなかった。 恐る恐る目を開けると、玲司は掴んでいるのかもわからないほどの力で、そっと私の左手首に触れていた。 「予約もなしに、すぐ診てもらえる病院はほとんどない。俺のつての医者に診させる。来い」 玲司は私の返事を待たず、そのまま歩き出す。 有無を言わせない、強引な態度。 その姿に、ふと昔の記憶が蘇った。 以前、私が火傷をしたときもそうだった。 大したことはないと繰り返す私の腕を掴み、玲司は半ば無理やり病院へ連れていった。 相手を支配するためではなく、心配しているからこそ、本人の意思など無視してでも医者に診せようとする。 あの頃の玲司は、そうだった。 車に乗り込むと、高級住宅街を抜け、都市部へと入っていく。 歩道には通勤や通学へ向かう人々がまばらに行き交い、中には親しい友人と楽しそうに談笑している者もいた。 そんな穏やかな外の景色とは対照的に、車内にはひりつくような沈黙が満ちていた。 ビルの影に入るたび、窓ガラスに玲司の横顔が薄く映る。 いつもどおり、感情の見えない冷たい目で前方を見据えていた。 しばらく走ったところで、車が病院の駐車場へ滑り込む。 玲司のあとを追い、院内へ入った。 受付をしているあいだも、玲司は立て続けにかかってくる仕事の電話に応じていた。 「午前の会議は遅らせろ」 そうバッサリと告げて切ると、また次の電話の対応をしていた。そんなに忙しいなら、私の受診になど付き合わなければいいのに。 それでもここにいるのは、私が医師に余計な
「力になるって……どういうことですか?」 突然の申し出に、私は戸惑いを隠せなかった。「言葉どおりの意味です」 藤崎さんは静かに答える。「香澄様のことも、お母様のことも。そして三年前、本当は何があったのかを突き止めることについても、千景様に協力したいと思っています」「どうして、あなたがそこまで……」 玲司の秘書である彼が、なぜ私に手を差し伸べるのか。 警戒を解けずにいる私を見つめ、藤崎さんは一度、覚悟を決めるように息を吸った。「私も以前、紗良様が亡くなられた当時のことを調べたことがあります」「藤崎さんが?」「はい。玲司様から命じられた調査ではありません。私自身が、あまりにも不自然なことが多いと感じたためです」 藤崎さんは少しだけ声を落とした。「その際、当時の手術に関する情報を私へ提供してくださった方がいます」「それは誰なの?」 わずかな沈黙のあと、藤崎さんの唇が動く。「香澄様です」「……香澄が?」 思わず聞き返していた。 頭の中で、これまでの出来事が一斉に渦を巻く。「待って。玲司が紗良さんの死について調べ始めたのは、母が院長を辞めた三年前よね。その頃、玲司と香澄はまだ知り合っていなかったはずでしょう?」「はい、私が香澄様から情報を受け取ったのは、玲司様と香澄様が知り合う前のことです」「それを玲司は知っているの?」 藤崎さんは、ゆっくりと首を横に振った。「いいえ」「どうして隠しているの?」「香澄様から、玲司様には決して話さないよう固く口止めされております」「口止め……?」「私の口から玲司様の耳に入れば、困ることになると」 それまで淀みなく話していた藤崎さんが、そこで急に言葉を濁した。 伏せられた瞳に、明らかな怯えが浮かんでいる。「もしかして、何か弱みを握られているの?」 藤崎さんは答えなかった。 けれど、わずかにうなずいたその動きだけで十分だった。 背筋に冷たいものが走る。 香澄は、なぜ自分が情報を渡したことを玲司に知られたくないのだろう。 玲司に紗良さんの死を調べさせ、母への憎しみを植えつけるためだったのか。 それとも、三年前から今に至るまで、玲司の感情そのものを操っていたのか。「どこまで人を弄べば気が済むのよ……」 無意識に漏れた声が震えた。 私だけではなく玲司も、母も
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…
シェルネージュのワンピースに身を包んだ香澄は、当然のような顔で店員へバッグを預けた。「こちら、本日入ったばかりの商品でございます」 店員は先ほどまでとは打って変わって、へりくだった笑みを浮かべている。 そして次の瞬間。「奥様、こちらのネックレスなどいかがでしょう?」 その呼び方に、私の思考が止まった。 ――奥様? 香澄は独身のはずなのに、一体誰の妻だというのだろう。 いや、分かっている。 私の中では、もう答えが出ているけどそれを認めたくないだけだ。 胸の奥が、じわりと冷えていく。 店員が、私ではなく香澄を玲司の妻だと思い込むほどに、玲司と香澄は二人でこの店に頻繁に来てい
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス







