ログイン「本当は誕生日当日に渡したかったんだけど、俺はじいちゃんに同行してるから時間が取れそうにないからさ、今のうちにと思ったんだ。――と、じいちゃんで思い出した」
千尋が反対側のポケットをさぐり、てのひらサイズの桐箱を取り出す。なんとなく嫌な予感を感じて和彦は身構えたが、それに気づいた様子もなく千尋は嬉しそうに言った。「これは、じいちゃんから先生への誕生日プレゼント」「えっ、ぼくに、って……。会長がそう言ったのか?」「うん。先生に、けっこう前から準備してたみたい。思いついてすぐに準備できるものじゃないから。この〈特別な〉プレゼント」 開けてみるよう促され、長嶺の男二人の強い視線を受けながら和彦は、そっと蓋を開ける。 桐箱に納まっていたのは、バッジだった。精巧な「春から、ゴルフを始めるんだろ」「……まあ、千尋は張りきってるみたいだが……」 その千尋は、守光からの誕生日プレゼントを和彦に渡してすぐに、慌しく出かけていった。 わかってはいたが、当然のように和彦は本宅に泊まることになり、入浴後はこうして賢吾の部屋で時間を過ごしていた。いつものように――と言ってしまうには、今夜は少しだけ空気が違っている。「覚悟しろよ。先生とコースを回りたがる人間は多いぞ。なんならレッスンプロを雇うか?」 賢吾の気の早さに苦笑しつつ、最後の爪を切り終える。「ゴルフ道具だけじゃない。先生に買い与えてやりたいものは、まだある」「なんだ?」「来週にでも一緒に出かけるぞ。そのとき教えてやる。――先生は、金のかかった誕生日プレゼントが苦手なようだからな。だからあえて、誕生日を過ぎてから買ってやる」 それは屁理屈だと、口中で呟きながらも和彦は、親指の爪に丁寧にヤスリをかけてやる。初めてにしてはなかなかだと、出来上がりに満足していると、唐突に賢吾が切り出した。「――秘密を抱えている顔だな、先生。艶っぽい表情からして……、色事絡みか?」 この瞬間、心臓を掴み上げられたような気がした。強張った顔を賢吾に見られた時点で、誤魔化すことなど不可能だった。それに和彦は、心のどこかで待っていたのだ。賢吾からこう問われることを。聞き出された、という前提があるだけで、ずいぶん気は楽だ。 ただし和彦が話すのは、二つの隠し事のうち、一つだけだ。 切った爪ごと新聞をゴミ箱に捨てると、賢吾に手を取られて引き寄せられる。髪を弄ばれながら和彦は硬い表情で口を開いた。「あんたに相談しないまま、独断で総和会に連絡を入れたんだ」「どんな用で?」「……先週、クリニックの近くのファミレスで食事をしていたら、総和会の南郷さんが現れて、誕生日プレゼントをくれた。ブレスレットだ。ぼくが勝手に勘違いをして、会長から贈られたものだと思い込んだ。でも、そうじゃなかったみたいだ」「それで今日、千尋が
「本当は誕生日当日に渡したかったんだけど、俺はじいちゃんに同行してるから時間が取れそうにないからさ、今のうちにと思ったんだ。――と、じいちゃんで思い出した」 千尋が反対側のポケットをさぐり、てのひらサイズの桐箱を取り出す。なんとなく嫌な予感を感じて和彦は身構えたが、それに気づいた様子もなく千尋は嬉しそうに言った。「これは、じいちゃんから先生への誕生日プレゼント」「えっ、ぼくに、って……。会長がそう言ったのか?」「うん。先生に、けっこう前から準備してたみたい。思いついてすぐに準備できるものじゃないから。この〈特別な〉プレゼント」 開けてみるよう促され、長嶺の男二人の強い視線を受けながら和彦は、そっと蓋を開ける。 桐箱に納まっていたのは、バッジだった。精巧な象眼細工によって描かれているのは総和会の代紋で、和彦は息を呑んで指先を這わせる。バッジの表面に打ち込まれているのは、おそらく純金だろう。「ダイヤモンドを埋め込むような悪趣味さはなかったようだな、総和会会長には」 皮肉っぽい口調で言ったのは賢吾だ。その言葉に反応もできず、和彦は困惑しながらバッジを見つめる。 一枚の大きな葉と、十枚の同じ大きさの葉が『総』の字を囲む総和会の代紋は、すでに和彦にとって馴染みの存在となったが、こんなに間近でバッジを見るのは初めてだった。総和会に限ったことではないが、揉め事や警察の監視の目を極力避けるため、組バッジを堂々とつけて出歩く人間は多くないのだ。「これを、ぼくに……?」「先生みたいに、総和会の協力者という立場の人には、普通は渡さないんだけどね。先生は長嶺組の庇護下にあるから、事情が違う」 少し意地の悪い見方をするなら、総和会のバッジを悪用する可能性が低いと判断されたのかもしれない。「俺、先生の誕生日のこと誰にも話してなかったのに、なぜかみんな知ってるんだよなー」 千尋がぼやきながら、賢吾に視線を向ける。つられて和彦も見ると、意味ありげな笑みとともに賢吾が言った。「俺からも、先生にプレゼントがあるから、楽しみに待っていろ」「
夕方になって突然〈決められた〉のだが、実はこれから、長嶺の本宅に向かわなければならない。賢吾から電話がかかってきて、いつものように夕食に誘われたのだ。クリニックを開業してから何かと多忙な和彦の食生活を、長嶺組として気遣っているらしい。夕食の誘いは頻繁だ。 ただ、今日に限っては間が悪いとしか言いようがない。 エレベーターの中で和彦は、手荒く自分の頬を撫でる。顔の筋肉が強張ってしまい、不自然な表情になりそうなのだ。興奮が鎮まった代わりに、今度は緊張感が肩にのしかかる。 昼間、里見に会ったあと、夕方からは賢吾と顔を合わせるのだ。大蛇を潜ませたあの目に見つめられれば、問われもしないうちに、何もかも話してしまいそうで、怖い。だからといって誘いを断る選択肢は、和彦にはなかった。 ビルを出ると、いつもの手順で迎えの車に乗り込み、長嶺の本宅に向かう。 組員に出迎えられて玄関に入ると、コートとアタッシェケースを預けて、まっすぐ賢吾の部屋へと行く。 緊張のあまり、不自然な態度を取ってしまうのではないかと危惧していたが、寛いだ様子で座卓についた賢吾の姿を見ると、胸の奥がじわりと熱くなった。 自分にとっての日常が、目の前にある。理屈ではなく、本能的にそう思った和彦は、すぐには声が出せず、ただ立ち尽くして賢吾を見つめる。 ニュース番組を観ていた賢吾が、そんな和彦を見てニヤリと笑い、テレビを消した。「――どうかしたのか、先生。いまさら俺の顔なんざ、珍しくもないだろ」 賢吾の言葉に我に返り、和彦は慌てて部屋に入って障子を閉める。「別に……、あんたの顔を見ていたわけじゃない。人を呼びつけておいて、悠然としているなと思ったんだ」「なんだ。俺に玄関まで出迎えてほしかったのか?」 からかってくる賢吾に抗議しようとすると、組員がお茶とおしぼりを運んできたため、和彦も座卓についた。 賢吾が正面からじっと見つめてくる。いつになくその視線を意識しながら、熱いおしぼりで手を拭いた和彦は、さりげなく障子のほうを見る。「千尋は?」「すぐにやってくる。先生に渡したいものがあるそうだ」
「佐伯審議官に相談を持ちかけられたときも、半信半疑だった。だが、写真を見せられて気が変わった。――今の君を放っておくべきじゃないと」 困る、という一言が出てこなかった。思いがけない里見の登場に、明らかに和彦の心は揺れている。ただの元家庭教師というだけでなく、佐伯家で居場所のなかった和彦にとって、里見の存在は特別だった。 里見のおかげで、和彦は〈大人〉になれた。家族と馴染めないからこそ、足りないものを他人とのつき合いで補う術を教えてくれたのだ。 佐伯家の人間とは会いたくない。しかし、里見とは――。 気持ちが掻き乱され、何も考えられない和彦は、危うくすべてを話してしまいそうになったが、寸前で脳裏を過ったのは、今関係を持っている特別な男たちの顔だった。 唇を引き結んだ和彦は、里見の顔をまっすぐ見据える。「……ごめん、里見さん……。もう時間がないんだ。そろそろ戻らないと、患者さんを待たせることになる」 里見は穏やかに微笑んだ。「医者として仕事をしているらしいと、君の友人から話は聞いていたんだが、本当みたいだな」「もちろん」「ならまあ、君の口から情報を一つ引き出せたことに、満足しておこう」 そんなことを言った里見が、名刺入れから一枚の名刺を取り出し、手早く何か書き込む。渡された名刺を受け取った和彦は、それが携帯電話の番号だと知った。「これ……」「連絡先を教えてほしいとは言わない。その代わり、わたしの連絡先を知っておいてくれ」 困惑する和彦に、里見はこう付け加えた。「卑怯な言い方をするなら、佐伯審議官の心象を悪くしないためにもわたしは、君と連絡を取れる立場を確保しておきたい。――君から連絡が欲しい。もっと言うなら、また会いたい」 ズルい大人のようなことを言う里見から、嫌な印象はまったく受けなかった。口調があまりに切実だったからだ。「……実家のことでいろいろと聞きたいことはあるけど、今は本当に時間がないんだ。それに、いつ電話できるか、約束もできない」「
「ただ、わたし自身、君に会いたかったというのもある。大人になった君に、わたしはもう必要とされていないという意識もあったから、どんな理由であれ、会える口実ができたことを素直に喜んでいた」 ここで和彦はメッセージカードを取り出し、里見の前に置く。里見は照れたように笑った。「佐伯審議官から、君と接触を持ってほしいと頼まれたんだ。君の友人は、佐伯家のほうに不信感を持ち始めて、そろそろ協力的ではなくなったからと。その点、わたしはうってつけだ。佐伯家とのつき合いは長いし、かつての君の家庭教師であり、佐伯審議官からの命令に逆らえない立場だからね。――君の誕生日プレゼントにこのカードをつけたのは、わたしの独断だ。自分で選んだプレゼントだから、ちょっとした細工をするのは簡単だった。……君がこの場に来なければ、わたしでは連絡役は務まらないと報告するつもりだった」「つまりぼくは、里見さんの目論見にまんまと釣られたわけだ」「君の気持ちを試した。大人は、ズルいんだよ」「ぼくはもうとっくに、そのズルい大人だよ、里見さん」 和彦の言葉に何かを刺激されたのか、里見が強い眼差しを向けてくる。穏やかで優しいだけではない里見の性質が、わずかに透けて見えたようだ。 綺麗事だけで官僚の世界を生きてきたわけではなく、アクの強い父親の忠実な部下でいるには、それなりのしたたかさや狡猾さが必要なのだ。里見は、子供であった和彦にもそういったことを隠さず教えてくれ、だからこそ和彦は、里見を信頼していた。「佐伯審議官からは、君に実家に顔を出すよう促してくれと頼まれた。いろいろと相談したいことがあるそうだ。それと、君が今どこで暮らし、働いているかを聞き出してくること。どんなトラブルに巻き込まれているかも知りたいそうだ」 かつての家庭教師ぶりを思い出す、歯切れよい里見の話に、和彦は苦笑を浮かべる。まさか、ここまではっきり言うとは思っていなかったのだ。「里見さんとしては、ぼくが実家に顔を出すことをどう考えている?」「早く顔を見せて、家族を安心させたほうがいい――と言うつもりはない。佐伯家は今、英俊くんの国政出馬のことでピリピリしている。その状況で、これまで放任して
目の前に里見がいるということが、いまだに信じられなかった。 和彦の記憶の中にある里見は、活力に溢れた二十代の青年で、当時から人好きのする魅力的な外見の持ち主だった。今は、年齢を重ねた分、包容力と知性がさらに増したように見える。まさに、紳士という表現がしっくりくる。 優しげな眼差しで和彦を見つめる癖がまったく変わっていないことに、安堵する反面、気恥ずかしいものを感じ、和彦はカップを覗き込むように顔を伏せる。「――なんだか不思議だ」 里見の言葉に、ハッとした和彦はすぐに顔を上げる。目が合うと、里見特有の優しい雰囲気に搦め捕られたようになっていた。「何、が……?」「君が、先生と呼ばれる職業に就いているなんて。わたしが知っている君は、高校の制服を着ている姿までだからな。そしてわたしは、そんな君に勉強を教えている〈先生〉だった」「里見さんのおかげだよ。ぼくが優等生でいられたのは」 昔のことを思い出したのか、里見は短く声を洩らして笑う。その拍子に前髪が額にかかり、自然な仕草で掻き上げた里見の左手を、さりげなく和彦はチェックしていた。あって当然だと思っていた結婚指輪は、薬指にはない。 妙なことに気づいた自分に居心地の悪さを覚え、和彦は思わず視線をさまよわせる。「まじめな家庭教師だったのは、君が中学生のときまでだ。あとはもう息抜きと称して、君を連れ回していた」「……やっぱり、里見さんのおかげだよ。ぼくが人並みの子供らしく、外の世界に触れられたのは。そうじゃなかったら、ぼくは陰気な子供のままだった」 和彦が佐伯家のことを口にした途端、里見は表情を曇らせる。こんな表情まで、渋くて魅力的だと思うと、里見がいい形で年齢を重ねてくれたことに、和彦は内心で感謝せずにはいられない。 危機感を持つべき状況だと頭ではわかっているのだが、このときの和彦は、里見に会ったことで舞い上がっていた。里見が少しでも、家庭的なものを匂わせたり、仕事疲れによる陰鬱なものをまとっていればまた違ったのかもしれないが、幸か不幸か、和彦を失望させるものを里見は何も持っていない。「――相変わらず、