Mag-log inからかうように言う賢吾から強引にジャケットを脱がせ、これもコートハンガーにかける。賢吾に背を向けた和彦は、懸命に平静さを保つ。里見の調査を鷹津に依頼したと、賢吾に知られるわけにはいかなかった。
ふいに、賢吾の唇が耳に押し当てられた。「あまり、誰にでもいい顔をするなよ。お前は、俺に一番いい顔を見せていればいいんだ」 鼓膜を愛撫するようなバリトンの囁きに、和彦の胸の奥が疼く。「……わかって、いる……」「だったら、体で俺に尽くしてもらおう。――日曜日も働いてきた俺の体を、先生、温めてくれるか?」 恐怖からではなく、純粋な欲望に促されるように、和彦は頷いた。*
*
バスタブに湯が溜まるのを待ってから、賢吾に半ば強引に服を脱がされ、バスルームに連れ込まれる。この頃には和彦も諦めがつき、日曜日の昼間から、ヤクザの組長との入浴タイムを楽しむことにした。
体を洗ってから湯に浸かるなり、賢吾に腰を引き寄せられる。ガウンの紐を解かれ、Tシャツをたくし上げられて直に肌にてのひらが押し当てられる。胸元を荒々しく撫で回されたところでやっと和彦は、与えられる感触があまりに生々しいと感じる。その違和感のおかげで、目を開けられた。 意識にへばりついたような眠気を強引に引き剥がしているうちに、視界に入る光景をようやく認識できるようになる。 つけたままのテレビの明かりがぼんやりと壁を照らしていた。その壁に、大きな影が映っていた。 声を上げるより先に、飛び起きようとしたが、背後からがっちり抑え込まれているため、身動きが取れない。咄嗟に首を動かそうとして、寸前のところで恐怖が勝った。自分が誰の腕の中に捕らえられているか、本能的に悟ってしまったからだ。 和彦の怯えを堪能するかのように、背後からきつく抱き締められる。分厚いてのひらが動き回り、胸の突起を捏ねるように刺激される。そして、もう片方の手が下肢に伸び、両足の間をぐっと押さえつけてきた。 このときには和彦は完全に眠りから覚め、全身から冷や汗が噴き出す。本能的な怯えから声も出せず、それでもベッドから抜け出そうとしたが、逞しい両腕に捕らえられた体は動かない。 背後で気配が動き、耳元に獣の息遣いがかかる。ゾワッと鳥肌が立った。「――別に、取って食いやしない」 耳に直接唇を押し当てて注ぎ込まれた声に、やはり、と和彦は思った。自分は今、南郷の腕の中にいるのだ。「ど、して……」 和彦がようやく言葉を絞り出す間にも、南郷の手は油断なく動き続ける。さらには、唇も、舌も。 刺激を与えられ、強引に反応を促されて胸の突起が凝ってくると、待っていたように南郷の太い指に摘み上げられる。同時に、耳朶を舌で舐られ、唇で挟まれていた。不快さに、たまらず首をすくめて声を洩らす。 顔を見なくとも、和彦の反応の意味を察したのだろう。南郷が低く笑い声を洩らした。「どんな男も咥え込んで甘やかす体のくせに、あんた自身は、俺が嫌いで堪らないんだな」 当然だと言いたかったが、そう言い放った瞬間、自分が縊り殺されるような気がして、和彦は唇を引き結ぶ。しかし、心の中を読んだのか、胸元をまさぐって
それに、賢吾がこちらの状況をある程度把握している様子なので、急いで連絡する必要性はなさそうだ。しかも、何日も滞在するわけではないのだ。 和彦はそう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。こうして中嶋を寄越してくれた効果は、絶大だというわけだ。 ボストンバッグを足元に置いて、和彦は頭を下げる。 「こちらの事情に巻き込んで、面倒をかけてすまなかった。それと……ありがとう」 「俺としては下心たっぷりなので、先生に頭を下げられると、心苦しいんですが」 「それでもいいよ。ここにぼくがいることを、君だけじゃなく、組長も把握していると知って、安心した」 中嶋がふいに腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。何事かと和彦は目を丸くした。 「……なんだ?」 「いえ、明かりのせいかとも思ったんですが、先生、顔色が悪いですね」 「別に体調が悪いわけじゃないが、今日は疲れた……」 だからといってすぐにまた横になる気にはなれない。昼間は雨に濡れ、うたた寝をしている最中には汗をかいた体は気持ち悪い。それに、今日は朝からほとんど何も食べていないので、さすがに胃に何か入れておきたかった。 和彦が腹に手をやると、察したように中嶋が提案してくれた。 「来る途中で、弁当を買ってきたんですよ。どうせここだと、インスタントか、冷凍食品を温めるだけかと思ったんで。俺の分も買ったんで、ここで食べて帰っていいですか?」 和彦が頷くと、持ってきますと言い置いて中嶋が部屋を出ていく。その後ろ姿を見送った和彦は改めて、中嶋を寄越してくれた賢吾の気遣いを、心憎く思っていた。中嶋特有の配慮は、今はとにかく心地よい。 久しぶりに会った兄より、下心があると言い切るヤクザに対して安心感を覚えるとは――。 皮肉っぽくそう考えた和彦は、口元に淡い苦笑を刻んだ。** 中嶋が帰ったあとの隠れ家は、まるで建物全体が息を潜めているかのように静かだった。和彦以外に二人の男が滞在しているのだが、そもそも建物自体が広いため、少数の人間が動いたところで物音も聞こえないのだ。 かつては何人もの男たちが同時に入っていたであろう風呂も
板張りの薄暗い部屋には、ベッドやテーブルセット、テレビにエアコンだけではなく、クローゼットまで揃っており、他の部屋とは明らかに様子が違う。「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」 家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。 まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。 英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。 億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。 ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。 賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。** 瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。「――……何、してるんだ……」 ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」「……つまらないぞ、見ても」 和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」 危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分
** まだ午後三時にもなっていないというのに、和彦が車から降りたとき、日暮れかと錯覚するほど辺りは薄暗かった。 すかさず差しかけられた傘に雨が落ちる音がする。鬱陶しいほどの湿気は覚悟していたが、街中で生活していてはまず嗅ぐことのない、青草と土の匂いが立ちこめていた。 移動の間中、後部座席はカーテンで覆われていたため、外の様子がよくわからなかったのだが、ようやく和彦は周囲をじっくりと見渡すことができる。山間の、木々に囲まれた場所だった。天気のせいだけではないだろう。なんとなく、鬱蒼とした景色だと思った。 少なくとも、活気はない。なんといっても、和彦の目の前に建つ一軒家以外、辺りに人家が見当たらないのだ。当然のように、人も車もまったく通っていない。とにかく静かで、総和会の男たちがぼそぼそと交わす会話は、重苦しい静寂を打ち破るほどの威力はない。 日常から切り離されたような――という表現が、ふと和彦の脳裏に浮かぶ。観光地として、あえて静かな環境を保っているという様子はなく、ここは普段、人が立ち入らないような場所なのだろう。 だからこそ、身を隠すにはうってつけだ。 和彦はそっと息を吐き出すと、傘を差しかけている男に短く問いかける。「ここが?」「はい。佐伯先生には日曜日まで、ここで過ごしてもらいます。不便でしょうが、我慢してください」 和彦はもう一度息を吐き出して、車中で受けた説明を思い返す。 デパートの地下駐車場で車に乗り込んだあと、一旦身を隠してもらうと言われたものの、どんなところに連れて行かれるのかと不安でたまらなかったのだが、いざ目的地に連れて来られると、不安が解消されるどころか、新たな不安が募る。 長嶺組から、和彦の護衛を完全に引き継いだ総和会の目的は、理解したつもりだ。和彦と長嶺組の繋がりを、佐伯家に知られる事態は避けなければならない。 そのため、英俊と別れた和彦に尾行がついていれば、長嶺組は一旦手を引き、和彦の身を総和会に委ねることにしたのだという。これは、総和会という仕組みに関係がある。 総和会に名を連ねる十一の組の誰かが犯罪を犯して逮捕されたとき、組の名が表に出ることは
** 歩くごとに、靴の裏から水が染み込んでくるかのように、足取りが重かった。さらに、ムッとするような湿気が体中にまとわりついてくる。とにかく、何もかもが不快だった。 急き立てられるように速足のせいか、さきほどのレストランでのやり取りのせいか、和彦の息遣いは荒く、心なしか頭が痛い。 雨で濡れた髪を掻き上げた和彦は、左頬に触れる。すでに痛みはないが、少しだけ熱を帯びている。ここであることに気づき、自分の手を見る。微かに震えていた。正直、殴られることは想定していたが、喉元に手をかけられたことには衝撃を受けた。当然、英俊は本気ではなかっただろうが、脅しとしては効果的だ。 子供の頃、英俊からさんざん与えられた痛みの記憶が一気に噴き出してきて、気分が悪い。意識した途端、その場で嘔吐してしまいそうだ。 なのに和彦は、歩くのをやめられない。立ち止まった瞬間、英俊に背後から腕を捕まれそうな恐怖があった。もしかすると、本当に英俊が背後から尾行してきているのかもしれないが、振り返って確認することもできない。 傘を差して歩いている人たちの間を縫うようにして、ひたすら前を見据えて歩き続けるのが精一杯だ。 長嶺組の組員からは、英俊と別れたあと、タクシーを数回乗り換えてほしいと言われていた。佐伯家が尾行をつけていないか確認してからでないと、迂闊に和彦と接触できないのだ。 本当はホテルのエントランスからすぐにタクシーに乗り込みたかったが、天候のせいでタクシー待ちの客が並んでおり、悠長に列に加わる気にはなれなかった。歩き出してはみたものの、通りを走るタクシーはほとんど客を乗せている。 少し座って休みたいと思い、慎重に周囲を見回す。すると突然、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。一瞬、英俊かと思って動揺しかけたが、すぐに思い直す。着信音は、組などとの連絡に使っている携帯電話のものだ。「もしもし――」『佐伯先生、尾行がついています。このまま真っ直ぐ行って、その先にあるデパートの地下二階の駐車場に降りてください。それと、後ろは振り返らないで』 聞き覚えのない声に、和彦の頭は混乱する。「誰だ?」『今日先生を護
ほお、と芝居がかった口調で洩らした英俊の目に、狡知な色が浮かぶ。それと同時にゆっくりとイスから立ち上がった。 その光景が、和彦の記憶を刺激する。子供の頃の体験が生々しく蘇っていた。 本能的な危機感から、怯える小動物さながらの動きでテーブルを離れる。和彦が出入り口の扉に行かないよう牽制しつつ、英俊が近づいてくる。広い個室とはいえ、逃げ回れるほどのスペースがあるわけではなく、あっという間に和彦は窓際へと追い詰められていた。 英俊はあくまで優雅な仕種で、和彦の喉元に片手をかけてきた。力を込められたわけではないが、それだけで息苦しくなり、完全に動きを封じられる。「あまり、お前の顔を殴るのは好きじゃない。忌々しいぐらい、わたしに似ている顔だからな。だからといって、蹴るのは野蛮だ」 英俊に冷たい迫力に圧され、無意識に後退った和彦の背に窓ガラスが当たる。完全に逃げ場を失った和彦に対して、英俊が顔を寄せ、低く抑えた声で囁いてきた。「里見さんが気になることをちらりと洩らしていたが、なるほど。こういうことか」「何、が……」「こちら側の動きを、お前がある程度把握しているということだ。確かに、お前の今の物言いは、何かを知っている感じだ。どこまで知っている? 誰から聞き出した? いつからこちらの動きを探っている?」 立て続けに質問をぶつけられながらも、和彦が気になるのは、喉元にかかった英俊の手にじわじわと力が込められていることだった。 体格はほぼ同じなので、英俊を押しのけることは不可能ではない。それどころか、顔を殴りつけることもできるはずなのだ。だが、和彦の手は動かない。頭ではわかっていても、兄に逆らうという行為に、体がついてこない。「お前単独での動きじゃないはずだ。身を潜めながら日常生活を送り、そのうえでこちらの動きを探るなんて、一介の医者には無理だ。協力者なんて言い方はしない。――お前のバックには誰がいる?」 間近から目を覗き込まれ、和彦は唇を引き結び、瞬きもせず見つめ返す。かまわず英俊は話し続ける。「わたしは正直、あの画像を見たとき、お前が性質の悪い奴に騙されたか、自ら進んで仲間になって、佐伯家を
**** 段ボールに本を詰め込んでいた和彦は、インターホンが鳴って手を止める。一瞬ドキリとしたのは、賢吾が迎えにきたからではないかと思ったせいだが、次の瞬間には、それはないと否定する。 自分の都合で和彦を連れ回す男だが、身の安全を考えてか、朝のうちに絶対に連絡を入れてきて、三田村とともに部屋まで迎えにやってくる。知り合って間もないとはいえ、賢吾が一人になったところはまだ見たことがなく、必ず組の人間を一人は連れていた。あらかじめ決めたスケジュールの中で、賢吾は和彦を振り回しているのだ。 今朝、賢吾から電
一人残された和彦は、周囲を見回してからまたサングラスをかけると、他の家具を見て回ることにする。気に入ったものがあれば、〈自分の金〉で買うつもりだった。 寝室に置くチェストを、ベッドの色と合わせるべきだろうかと、忌々しく感じながらも思案していると、ふいに傍らから声をかけられた。 「――先生のサングラス姿、初めて見た」 ハッとした和彦は、素早く隣を見る。ブルゾンを羽織った千尋が立っていた。 「千尋っ……」 「そうやってると、先生本当にカッコイイよね」 サングラスをずらしてまじまじと千尋を見つめた和彦は、片手を伸ばして軽く千尋
「見つけたら教えてくれ」 澤村らしい言葉に軽く手を上げて答えると、和彦は仕事を再開しようとしたが、すぐに気が変わって、デスクの引き出しを開ける。中に仕舞った携帯電話を手に取った。 あの日、拉致されて辱められてから解放されたあと、和彦は携帯電話の番号を替える手続きを取り、そのとき千尋に関するものをすべて削除した。千尋の父親の忠告に従い、関係を絶ったのだ。 あんな連中に歯向かってまで、千尋と情熱的な関係を続ける気はない。何より命が惜しいし、その次に、今の生活が大事だ。 「察してくれよ、千尋……」 口中で小さく呟いた和彦は携帯電話を再び
和彦の内奥を的確に指と道具で犯す男の背後に立ったのは、高そうなダブルのスーツをこれ以上なく見事に着こなした中年の男だった。四十代半ばぐらいだろうが、一目見て圧倒される存在感を持っていた。 全身から漂う空気は剣呑としており、それでいて威嚇するような攻撃的なものではなく、ただ静かな凄みを放っている。衰えを知らないような厚みのある体つきに相応しいといえた。何より、彫像のように表情が動かない顔は、冷徹そのものではあるが、端整だ。 だが、容貌はさほど重要ではない。男が持つ独特の鋭さや冷ややかさ、年齢を重ねているだけでは醸せない落ち着きが、男の存在自体を圧倒的なものにしてい