Masuk「まあ、ぼくに何かあるはずもないので、護衛の彼らも暇なんじゃないかと――」
ふいに、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。取り出して見てみると、長嶺組が、和彦の護衛に就く組員に渡している携帯電話からだ。 何事かと思いながら電話に出た和彦は、すぐに緊迫した空気を感じ取った。「何かあったのか?」『先生、今、トラブルが起きているんで、絶対、駐車場には来ないでください』「トラブルって……」『警官の職質です。駐車場に停めた車で待機していたら、突然パトカーがやってきたんです。通報があったと。いえ、車にはマズイものは置いていないので、職質されても問題はないんですが……、何かおかしい』 この瞬間、ゾワッと鳥肌が立つような感覚が背筋を駆け抜け、和彦は身震いする。こちらの異変に気づき、和彦の肩を抱くようにして秦が顔を覗き込んできた。『我々が迎えに行くまで、店から出ないでください。もし、警察署に連行されるような事態になったときは、組に連絡をして、『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』 英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。「あっ、先生、ここにいたんだ」 ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。『誰かいるのか?』 ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。「……兄さんには関係ない」『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』 このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』「その気はない。悪いけど……」『お前が意
ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』「里見さんはっ――」『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』 相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。 自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』「――……兄さんが出馬するという話なら」『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』 佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしてい
** 和彦はTシャツを着込むと、濡れた髪を掻き上げてから大きく息を吐き出す。そして、ドアを開けたままのバスルームにちらりと視線を向けた。 バスタブの縁にあごをのせた千尋が、目が合った途端に笑いかけてくる。締まりのない顔だが、これが長嶺の男だと思うと、可愛いと感じられるから不思議だ。いや、単に和彦が、千尋に対して甘いだけかもしれない。「先生、もっとゆっくり湯に浸かればいいのに」「……お前がまとわりついてくるから、湯あたりしそうになるんだ」「俺が介抱するけど?」「そんなこと言って、何されるかわかったものじゃないから、遠慮する」 連休の間、どれだけ千尋に我慢を強いていたのか、和彦は今日、身をもって知った気がする。とにかく普段以上に、千尋のスキンシップが激しい。ベッドに移動して、さんざん快感を貪り合ったあとも、しばらく離してもらえなかったうえに、風呂まで一緒に入ることになったぐらいだ。 この様子だと、今夜は泊まっていくつもりだろう。長嶺の男たちの〈オンナ〉である和彦には、そのことで文句を言うつもりはないが、多少心配にもなってくるのだ。自分は、長嶺組の跡目を甘やかしすぎているのではないか、と。「夕飯は外に食べに行くんだろ? まだ時間はあるから、お前はのんびり湯に浸かっていていいぞ。その間ぼくは――」 寝室の片付けをする、という言葉を寸前のところで呑み込む。首を傾げた千尋を一瞥して、逃げるように脱衣所を出た。 和彦は、情交の痕跡が生々しく残る寝室に入ると、シーツを剥ぎ取るだけではなく、汚れた床も手早く掃除する。千尋が場所を選ばず行為に及んだせいで、と責めるつもりはない。結局のところ、受け入れてしまった和彦も同罪なのだ。 寝室の空気を入れ替えるため、窓を開ける。入り込んできた風が、風呂上がりなのと、それ以外の理由で火照った体には気持ちいい。 すっかり見慣れたマンションから見渡せる街中の景色を眺めていると、ほんの数日前まで、自然に囲まれた別荘でのんびり過ごしていたことが、ずいぶん懐かしく感じられる。そのくせ、ともに過ごした三田村のぬくもりや感触などは、今でも鮮やかに思い返せる
背後から抱き締められ、うなじに唇を押し当てられる。すでに体が熱くなっていた和彦は、たったそれだけの刺激でも、吐息を洩らしてしまう。「千尋、そろそろベッドに――」「まだダメ」「ダメって、お前……」 千尋の腕が移動し、今度は腰を抱かれる。尻に押し付けられたのは、生々しい欲望だった。無駄だと思いつつ身を捩った和彦だが、やや強引に腰を掴まれて、尻を突き出したような姿勢を取らされると、もう抵抗はできない。「……俺やっぱり、性癖に問題あるかなー。いかにも上品な先生に、こういう格好させると、それだけで感じる」 そんなことを言いながら、千尋が内奥の入り口に熱の塊を押し当ててくる。指でわずかに解されただけの内奥が、凶暴な欲望でこじ開けられるのだ。背後から押し寄せてくる苦しさに和彦は呻き声を洩らし、必死にガラスに両手を突く。 腰を掴む千尋の手の力に容赦はないが、腰の動きそのものは慎重だ。和彦は、こういう形での交わりに少しばかり腹立たしさを感じはするものの、千尋の気遣いがわかるだけに、怒鳴ることもできない。大きな犬っころにじゃれつかれ、のしかかられているようにも感じられ、苦しさに喘ぎながらも、つい唇に笑みを刻む。「バカ千尋……」 小さな声で呟くと、和彦の腰を抱え込むようにして、千尋が繋がりを深くする。肩の辺りに、熱く荒い息遣いを感じた。「何か言った、先生?」 地獄耳、と今度は心の中で呟いてから、和彦は首を横に振る。すると、千尋の片手が両足の間に入り込み、欲望を掴まれた。「もう少し我慢してね。気持ちよくしてあげるから」 千尋に緩く腰を突き上げられるたびに、欲望を扱かれる。最初はただ、内奥を犯される苦しさに声を上げていた和彦だが、次第にそれ以外の感覚が湧き起こり、上げる声が艶を帯び始める。「うっ、あぁっ、はっ……」 頬を押し当てたガラスが、喘ぐたびに白く曇る。和彦の変化にとっくに気づいていたのだろう。千尋が大きく腰を動かし、内奥深くに欲望を突き込まれる。その瞬間、和彦の全身を強烈な疼きが駆け抜けた
「いいよ。ずっと先生に責任取ってもらうから」 それは困る、と思った和彦だが、千尋に性急に唇を塞がれ、言葉が口をついて出ることはなかった。 千尋の汗ばんだ両てのひらが脇腹から胸元へと這い上がり、すぐに指先に左右の突起を探り当てられ、押し潰すように刺激される。体を押し付けてくる千尋の情熱に圧倒されながら、和彦ものろのろと手を動かし、千尋の体をTシャツの上からまさぐる。いつの間にか逞しさを増した若い体だが、和彦が愛しているしなやかさは少しも損なわれていない。 Tシャツの下に手を潜り込ませ、熱く滑らかな肌を撫で回す。この肌に刺青が彫られるのかと考えると、正直惜しい。だが同時に、千尋の肌に彫られた刺青を撫で回す瞬間を想像すると、和彦はひどく高ぶるのだ。「先生、興奮してる」 和彦の両足の間を、パンツの上から押さえつけた千尋が嬉しそうに洩らす。思わず手を押し退けようとしたが、そのときにはすでに、ベルトを外されているところだった。「千尋、立ったままでっ……」「どうせ俺、若くして妙な性癖の持ち主だし」「そんなことで開き直るな。すぐそこにベッドがあるだろ」「見えない。――先生しか見えない」 真顔で千尋に囁かれ、感じた気恥ずかしさを誤魔化すように和彦は顔をしかめる。「……何言ってるんだ、お前は」「つまり、たっぷり俺と気持ちよくなろうってこと」 パンツの前を寛げられ、下着ごと引き下ろされる。ポロシャツすらも脱がされながら、無駄だと思いながら和彦は一応忠告しておく。「シャワーも浴びてないから、汗くさいぞ」「先生の汗の匂い、大好き」 半ば予測できた千尋の返答に、和彦はもう苦笑を洩らすしかない。身につけていたものをすべて脱がされてしまうと、羞恥に身じろぐ間もなく千尋に抱き締められた。 千尋のてのひらが、うなじから背、腰から尻へと移動する。たったそれだけで、鳥肌が立ちそうな疼きが背筋を駆け抜け、和彦は小さく声を洩らしていた。顔を覗き込んできた千尋と唇を啄ばみ合っていると、もう片方のてのひらが胸元をくすぐってくる。 期待で硬く
「もしかして、レッスンのせい?」「ああ。普段ジムでやっている運動とは、まったく違う筋肉を使った気がする。初めてで緊張していたから、体のあちこちに無駄な力が入ってたんだろうな」 だから、昼間からゆっくりと風呂に浸かり、しっかりと体を解そうと考えたのだ。 ちなみに、日曜日の午前中から千尋に連れて行かれた先は、ゴルフスクールだ。 本気で和彦をゴルフコースに連れ出すつもりらしく、そのためにはまず基礎を、ということで、勝手に体験レッスンを申し込んでいたのだ。しかも、レッスンプロによるマンツーマンの指導が受けられるという特別コースを。ゴルフ道具一式も一通り揃えてもらったため、いまさら嫌だとも言えず、和彦はやむなく人生で初のゴルフを経験したというわけだ。 和彦が慣れないクラブの握り方に四苦八苦している頃、千尋は別のレッスンプロから指導を受けていたそうだ。千尋もゴルフを習い始めたばかりだということなので、コースに出ると案外同じようなレベル同士、楽しめるかもしれない。「……まあ、いつになるやらという話だが」 ぼそりと和彦が呟くと、何事かという顔で千尋が前に回り込んでくる。そんな千尋の頬を、やや手荒に撫でた。「お前も、朝から動き回って疲れただろ。早く本宅に戻れ」「全然。体力あり余ってるけど」「……ぼくとお前の年齢差と体力差を考えろ」 千尋を押し退けて寝室に入る。「ぼくはゆっくりと風呂に入ったら、昼寝する。疲れた」「先生、冷たい……」 芝居がかったように恨みがましい声が背後から聞こえてきたかと思うと、いきなり抱きつかれた。驚いた和彦は声を上げ、体を捻ろうとする。「千尋っ」「――連休の間、ずっと先生に会えなかった俺に、そんなに冷たいこと言うわけ?」 突然耳元で低く囁かれ、和彦はドキリとする。千尋に対しての、後ろめたさの表れとも言えた。追い討ちをかけるように、拗ねた子供のような口調で千尋が続ける。「連休の半分以上を総和会の別荘で、三田村と一緒に過ごして、帰ってきたらきたで、今度は組関係の仕事
また指で呼ばれ、和彦は賢吾のあとについていく。工事後は待合室となるホールでは、施工業者の人間が集まって持ち込む機材について話し合っている。その様子を一瞥した賢吾は、奥の部屋へと向かう。 「……護衛の人間は?」 ホールを見て、賢吾が一人でこのフロアにやってきたのは確認した。 「物騒なツラした人間を、一般の業者がいる場所に連れてくるわけにはいかないだろ。設計士は前からの馴染みだが、業者のほうはそうじゃないんだ。クリニックを始める前に、妙な噂は立てたくない」 「自分は物騒なツラじゃない、と言いたいんだな」 皮肉でもなんでもなく、思ったまま
他人が見ている前でキスしたことが、賢吾の情欲に火をつけたらしい。 帰りの車に乗り込んだ途端、和彦が羽織っていた麻のジャケットは脱がされ、肩を抱き寄せられると同時に深い口づけを与えられた。 そこに、運転席と助手席に護衛の人間が乗り込んできたため、反射的に顔を背けようとしたが、頬に賢吾の手がかかり動けない。 三田村には見られ慣れているという状態もノーマルではないのだろうが、とにかく三田村以外の組員に、賢吾とのこんな場面を見られるのは抵抗があった。長嶺組の人間すべてが、和彦が長嶺父子の〈オンナ〉だと知っているとしても。 「んんっ」 口
長嶺組の組員なら、和彦の存在の意味を知っているだろうが、だからといって際どい光景を見たいとは思わないだろう。 和彦なりに気をつかった故の行動だったが、千尋は不思議そうに首を傾げる。 「先生?」 「お前たちから、ぼくに触れてくるならともかく、ぼくから、お前に触れているのを見たら、やっぱりいい気持ちはしないんじゃないかと思ったんだ。組にとっては、組長や、その跡取りとなると特別な存在だろ。だから――」 千尋が急に、ぐいっと顔を寄せてくる。驚いて目を丸くする和彦に、千尋はにんまりと笑いかけてきた。 「いっぱい撫でてよ。俺、先生が何げなく頭と
「これが、長嶺の本宅だ」 姿勢を正した和彦の肩を抱き、賢吾が耳打ちしてくる。 自らの存在を消すように、ずっと黙ってハンドルを握っていた三田村が車を停め、短くクラクションを鳴らす。すると、門扉が開いて三人の男たちが飛び出してきた。 後部座席のドアが開けられて賢吾が先に降り、当然のように手を差し出してくる。抵抗を覚えはしたものの、和彦はその手を取って車を降り、じっくりと建物を見上げる。 まるで、要塞だった。 建物そのものは、目を瞠る大きさではあるものの外観は普通の住宅となんら変わらない。しかしその建物の三方を、鉄製の高い塀が隙間なく







