INICIAR SESIÓN「あんた……」
愕然とする和彦を嘲笑うように、男は唇の端を微かに動かした。人を小馬鹿にしたような、嫌な笑みだ。だが、粗野な外見の男にはよく似合っていた。 特徴的な外見は相変わらずだ。オールバックにした癖のある長めの髪と、国籍不明の外国人のような彫りの深い顔。無精ひげはさらに伸びており、黒のソリッドシャツにジーンズというなんでもない格好なのに、近寄りがたさを放っている。秦が、一目見て警戒した理由もわかる。「この間、長嶺のガキが、警察を呼ぶと吠えていたから、今日は俺が先に呼んでやった」 男が一歩踏み出し、和彦ではなく、秦が身構える。男は、また嫌な笑みを浮かべ、露骨に値踏みする視線を秦に向けた。「護衛と、イイ男を伴ってお買い物とは、いいご身分だな。――長嶺のオンナってのは」 男にこう呼ばれた瞬間、和彦の体は熱くなる。血が逆流しそうだった。自分で認めている立場ではあるし、賢吾によって心と体にこの言葉は刻みつけられてもいる。だが、正体不明の男に、こんな明るい店内で呼ばれることは、屈辱でしかな「違う。……ぼくの誕生日まで、落ち着かない日が続きそうだと思ったんだ」「へえ、なんか心当たりあるの?」「心当たりというか――」 澤村と会う件で秦に協力を求めたことを、賢吾には報告してある。秦と中嶋と連れ立って動いて、賢吾の耳に入らないはずがない。だったら最初から報告しておいたほうが、精神的に楽だと考えたのだ。そもそもあの男に隠し事など、したくはなかった。バレたときが怖すぎる。 自分が生まれた日を迎えるだけだというのに、神経を遣い、根回しし、煩わしいと思う一方で、気遣われる自分の立場がくすぐったくもある。そういう状況に慣れない和彦の心理は、『落ち着かない』と表現するしかなかった。 和彦の気持ちにすり寄るように、千尋が甘えた声で尋ねてくる。「先生、部屋に寄っていい?」 わずかに体温が上がるのを感じながら和彦は、千尋の頬を優しく撫でてやった。**** グラスに注いだオレンジジュースを飲んでいると、まるで人懐こい犬のように背後から千尋がじゃれついてきた。腰に回された剥き出しの腕に何げなく触れると、まだ濡れている。和彦は、手の甲をパシッと叩いて注意した。「千尋、しっかり拭かないと、風邪を引くぞ。それと、何か着ろ」「えー、どうせすぐに脱ぐじゃん」 明け透けなことを言う千尋を、肩越しに振り返って軽く睨みつける。シャワーを浴びたばかりの千尋は、かろうじて腰にタオルを巻いているが、ほぼ裸だ。滑らかな肌を水滴が伝い落ち、しなやかな筋肉に覆われた体を、さらに魅力的に見せている。 きれいな千尋の体の中で、左腕だけは様子が違う。かつては生々しく見えたタトゥーが、部分的に色が薄くなり、代わりに赤みの強いケロイドが目立っている。ようやく痛みが取れて包帯を外したそうだが、それも数日のことだ。来週には、またレーザーを当てるらしい。 和彦は体の向きを変えると、傷に触れないように気をつけながら、タトゥーを指先でなぞる。千尋は小さく笑い声を洩らして、和彦の耳に唇を押し当ててきた。「先生のほうが、痛そうな顔してる」「&hellip
ゴルフに偏見はないが、そこにヤクザという単語が加わると、組員たちに見守られてコースを回る光景を想像してしまう。それでなくても、賢吾と出歩くときは警護が厳重なのだ。のんびりとゴルフを楽しむ姿が、和彦には思いつかない。「……体を動かすだけなら、ジムで十分だ」「そうは言うけど、そのうち先生も、接待ゴルフに招待されたりするから」 どこかおもしろがるような口調で千尋が言う。そんな千尋を、和彦はやや呆れた顔で見つめる。「お前、なんだか楽しそうだな……」「だって、先生と一緒にコースを回るところを想像したら、けっこういいなと思ってさー。本気で考えてよ。ゴルフ始めるの。それで暖かくなったら、俺とコース回ろう」 一人で騒いでまとわりつく千尋を相手しつつ、駐車場で待機している車に戻る。今日は最初から、千尋の買い物につき合ったあとは、自宅に戻ってゆっくり過ごすつもりだった。さすがに元気に出歩くには、寒すぎる。 しっかり暖められた車内に入った和彦は、ブルッと体を震わせる。そんな和彦を見て、隣に座った千尋が笑う。「寒いなら、抱き締めてあげるけど」 子供のような笑顔とは裏腹に、邪なことを言った千尋の頬を、遠慮なくつねり上げてやった。 車が走り出してすぐに、千尋が和彦の手に触れてくる。羨ましいことに、どんなに寒くても千尋の手は温かい。冷たくなっている和彦の手に、じんわりと千尋の体温が沁み込んでいく。「――先生、もうすぐ誕生日だよね」 自分の誕生日の話題が出た途端、和彦はつい身構えてしまう。澤村からの電話や、南郷からプレゼントを渡されたこともあり、どうしても愉快な気分にはなれないのだ。「そうだが……、どうして知ってるんだ?」「俺がカフェでバイトしてるとき、先生の歳聞いたら、ついでに教えてくれたんだ。俺、人の誕生日なんて興味ないんだけど、先生のだけはしっかり覚えてる」 こう言ってくれる千尋には申し訳ないが、正直、和彦の記憶は曖昧だ。千尋とは、世間話や他愛ないことまで、とにかくいろんなことを話しはしたが、そういった会話の内容を、覚えてお
**** きょろきょろと売り場を見回していた千尋に、突然手首を掴まれた和彦は、何事かと思って目を丸くした。 日曜日だけあって、広い売り場を持つスポーツ用品店の店内は、さまざまな年齢層の客たちで混雑している。だからといって、手を掴んでいないと迷子になるというほどではない。「おい、千尋――」 ふざけているのかと思い、きつい声を発しかけた和彦だが、手首を掴んだままズンズンと先を歩く千尋を見ていると、なんとなく、元気のいい犬を散歩させているような錯覚を覚え、結局、抗議の声を上げるタイミングを失ってしまった。 ジョギング用のスニーカーを見たいという千尋につき合い、さまざまなメーカーのスニーカーを一緒に見ている最中だったので、気になる商品を見つけたのだろうと、そう和彦は考えた。 だが、千尋が足を止めたコーナーは、少々意外だった。「……テニスシューズ?」 天井から吊るされたパネルを読み、和彦は首を傾げる。思わず、陳列されたテニスシューズと千尋を交互に見てしまった。「なんで、テニスシューズなんだ……」「先生、テニスはやらないの?」「高校生のとき、少しやったぐらいだな。お前は?」「実は、中学のテニス部で部長経験あり」 へえ、と声を洩らした和彦は、千尋と並んで陳列棚を眺める。ここで会話が一旦途切れたが、どうしてテニスなのか、その理由がさっぱりわからない。「で、テニスがどうしたんだ」「じいちゃんの家のテニスコートでさ、今度テニスやろうよ。道具一式揃えて」「……はあ?」 突拍子もない千尋の言葉に、和彦は露骨に身構える。そんな和彦の反応を見て、千尋は意味ありげな流し目を寄越してきた。その目つきが、食えない父親にそっくりだ。「せっかく先生も出入りできるようになったんだしさ、楽しもうよ。ジムで体力作りはできても、テニスはできないだろ?」「そういう問題じゃなくて、なんで、総和会の本部――」 千尋に詰め寄ろうとしたが、すぐ側
** 寿司屋を出ると、コートの襟を直す秦に向けて和彦は、頭を下げる。「忙しいだろうが、今日頼んだ件、よろしく頼む」 澤村と会う日時は、仕事帰りに気安く友人と会うという演出のために、二月四日の夕方を考えている。その日は火曜日だが、それ自体に意味はなく、仕事が休みで時間がある土日に、じっくりと腰を据えて話し合う状況を避けたかったのだ。「先生から頼み事ごとをされて喜んでいるんですから、頭なんて下げないでください」 和彦は頭を上げると、そっと微笑みながら今度は礼を言う。「今晩は、ありがとう。美味しかった」「先生には、わたしの店選びを信用してもらっているようなので、気合いが入ります」 一瞬、そんなことを秦に話したことがあっただろうかと考えたが、次の瞬間には、ああ、と声を洩らす。和彦が中嶋に話した内容が、秦に伝わったのだ。「中嶋が先生の部屋にお邪魔して、もてなしてもらったそうなので、今晩の食事はそのお礼です」「……もてなしてもらったのは、むしろぼくのほうだと思うが……。しかし、中嶋くんの保護者みたいな口ぶりだ」 和彦が指摘すると、秦が微苦笑を浮かべる。その表情を見て漠然と、秦と中嶋は、本人たちなりのやり方で歩み寄り、確実に距離を縮めているのだと感じた。 頼みごとを引き受けてくれ、食事まで奢ってもらったうえに、最後にいいものを見られたかもしれない。抱えた厄介事が片付いたわけではないのだが、二人の仲の進展具合を感じて、和彦の気持ちは少しだけ柔らかくなっていた。 秦と並んで歩き出す。護衛の組員は先に店を出て、すでに車で待機している。 寿司を食べつつたっぷり話はしたので、いまさらもう、車までの短い距離を歩きながら話すことはない。 そもそも今日は少し話しすぎたと、和彦は顔を背けて小さく咳き込む。なんとなく、喉が痛かった。気遣いのできる男が、すかさず声をかけてくる。「おや、風邪ですか?」「いや、外の空気が乾燥しているから……」「気をつけてください。誕生日だけでなく、バレ
「わたしが円満に、先生を連れ帰りますよ。先生が今現在、どんな環境で、どんな人間に囲まれて生活しているか、一切うかがわせずに」「そうだ。いざというとき、ぼくを守ってくれるだけでいいなら、長嶺組の組員に護衛してもらえばいいんだ。だけど、ぼくが長嶺組の身内になっていると知られるわけにはいかない」 それでなくても、澤村には千尋と、英俊には三田村と一緒にいるところを見られている。その点、秦は表向きは青年実業家という肩書きを持ち、仮に素性を調べられたところで、裏での組やその関係者との繋がりの多さが、かえって長嶺組の存在を隠してくれる。 この計画で大丈夫だろうかと、頭の中でめまぐるしく自問を繰り返す和彦に、秦は芝居がかったように明るい声をかけてきた。「そうだ、先生、中嶋も連れて行っていいですか? あいつこそ、見た目は普通の勤め人に見えて都合がいい」 何を企んでいるのかと、和彦が胡乱な目つきとなると、秦はヌケヌケとこう言った。「先生の用心棒をしつつ、デート気分を味わおうかと思いまして」「……正体不明の怪しい男には似合わない、爽やかな言葉だな」「わたしだって、手探り状態なんですよ、中嶋との関係は。即物的な繋がりを求めている反面、それだけじゃいけないとも思っている。だからこそ、先生のしたたかでしなやかな存在感に、刺激を受けるんです。いい緩衝材であり、接着剤ですよ、先生は」 中嶋の首の付け根についていた赤い痕を思い出し、なぜか和彦のほうが気恥ずかしい気分になってくる。秦と中嶋の関係に、緩衝材や接着剤という言葉はともかく、和彦は搦め捕られ、惹かれている。純粋に、性的な興味を覚えているといってもいい。こういう経験は初めてで、手探り状態なのは和彦も同じだ。「せっかくなので、わたしと中嶋で、先生へのプレゼントを用意しますよ」 秦の申し出に、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。「正直、誕生日を祝われるのは慣れてないから、いつもと同じように接してもらったほうがありがたい。……昔から、おめでとうと言われても、どういう顔をすればいいのかわからないんだ」 わずかに目を細めた秦は、寿司を口に運んだあ
『先生のためなら、わたしはなんでもしますよ。なんといっても、命の恩人であり、わたしと中嶋の仲を取り持ってくれた人でもありますから』「仲を取り持ったというより、ダシに使われたんじゃないのか、ぼくは」 秦から返ってきたのは、意味ありげな笑い声だった。だがそれもわずかな間で、すぐにまじめな声が告げた。『せっかくですから、夕食を一緒にどうですか。わたしが今いる店の近くに、美味い寿司屋があるんです。ごちそうしますよ』「これから、すぐ行く……」 さっそく和彦は行き先の変更を組員に頼み、向かってもらう。 三十分後に、ある雑居ビルの前に到着すると、黒のロングコートを羽織った秦がすでに待っていた。すでに日が落ち、代わって周囲を照らす繁華街の明かりは、秦を舞台に立つ役者のように引き立てている。本人も、他人からどう見られているかよくわかっているのだろう。 こちらの存在に気づいた秦が艶やかな笑みを浮かべる。長い足でガードレールを跨いだかと思うと、颯爽とした足取りで車に近づいてきた。「店は、そこです。歩いて行きましょう」 ウィンドーを下ろすなり秦に言われ、和彦は多少面食らいながらも、車を降りる準備をする。その間に秦は、護衛兼運転手の組員にも声をかけた。「この先にコインパーキングがあるので、車を止めたら運転手さんも寿司屋に来てください。席を取ってあるので」 寒い中、自分を護衛してくれている人間を車に残し、自分たちだけ美味しいものを食べるのは気が引ける。和彦は、ぜひそうしてくれと組員に声をかけて、車を降りた。 秦が連れて行ってくれた寿司屋は、黒を基調とした落ち着いた内装でまとめられており、雰囲気としてはバーに近い。ただ、長いカウンター席や、魚の並ぶネタケースは、やはり寿司屋のものだ。 抜け目ない秦は席を予約しておいてくれたらしく、店員に名乗ると、奥まったテーブル席に案内され、少し遅れてやってきた組員は、その隣のテーブルについた。「――それで、わたしに相談したいことというのは?」 食べきれるのかと不安になるほど、量がたっぷりのにぎり盛りが運ばれてくると、箸を手にした秦が口火を切る。