LOGIN「こういうとき、見舞いに何を持ってきたらいいかわからないんだ」
「だから、ワインなのか?」「気に入らないなら、違うものを買い直して――」 三田村が立ち去ろうとしたので、慌てて和彦は玄関に引き込む。すかさず三田村に片腕でしっかり抱き締められた。「これでよかったか?」「ちょうど今、一人でワインを飲んでたんだ。だけど――こうして会いにきてくれただけで、嬉しい」 和彦がそう言うと、背にかかっていた三田村の手が後頭部に移動し、優しい男には似つかわしくない動作で後ろ髪を掴まれる。それが三田村の激しさを物語っているようで、妙な表現だが、和彦は嬉しい。 まずは互いの想いを確かめるように、濃厚な口づけを交わす。荒々しく唇を吸われ、熱い舌で犯すように口腔をまさぐられてから、和彦は両腕をしっかりと三田村の背に回し、しがみついた。 玄関で立ったまま、長い口づけを堪能する。絡めていた舌をようやく解き、息を喘がせながら和彦は、三田村の舌にそっと噛みつく。その行為に応えるように、ずっと和彦の抱き寄せ続けていた三田村の片腕に、ぐっと力が加わった。「……部屋に上がらないか?」 和彦がそう誘うと、三田村は小さく首を横に振る。「そうすると、聞かれたくない話ができなくなる」 思わず和彦が顔を強張らせると、三田村は今度は頷いた。 どうやら、この部屋に盗聴器が仕掛けられていると、三田村も察したらしい。おそらく寝室だけだと思うが、和彦も詳しく調べたわけではない。 一度体を離して三田村がくれたワインを靴箱の上に置くと、すぐに手を掴まれ、和彦はまた三田村の腕の中に戻った。「――組長には、まだ何も報告していない。あくまで俺の中で、先生の体調が少し悪そうだということで処理している。ただ、もしまた、秦から連絡があったら、さすがに報告しないわけにはいかない」 和彦は、三田村の肩に額を押し当てる。「すまない……。ただでさえ、ぼくのことで気をつかわせているのに、組長にウソをつくようなことをさせて」「ウソはついていない。俺も万能じゃないから、一つぐらい些細なグラスをゆっくり揺らしてから、ウィスキーを一口飲む。美味しい、と思わず洩らしていた。中嶋の元には、琥珀色が美しいマンハッタンが置かれ、しっかりとチェリーも添えられている。 秦は、中嶋の満足そうな顔を見て小さく微笑むと、自分の分のカクテルを作るため、カウンターに戻る。 もてなされる側の和彦と中嶋は、ゆったりと美味しいアルコールを楽しんでいるが、もてなす側に回っている秦は、テーブルとカウンターを行き来して、なかなか慌ただしい。 もっとも、秦本人は楽しそうにしているので、かつての仕事柄というより、人にサービスすることが好きな性質なのかもしれない。 しかし、いくらこんなことを推測しても、秦の本性に触れた気がしない。相変わらず謎の男のままだ。 機嫌よく飲んでいるうちに、次第に和彦も緊張を解く。いい思い出があるとは言いがたい店であることや、一緒に飲んでいる面子にクセがあるということを差し引いて、それでも気分はよかった。 護衛を待たせているという心苦しさを感じなくていいのが、その気分に拍車をかけている。 カウンターに入ってオレンジを絞っている秦を、ソファの背もたれに腕を預けて和彦は眺める。「――ああいう姿を見ていると、秦静馬というのは何者なんだろうかと思えてきません?」 和彦と同じような姿勢となって、中嶋が話しかけてくる。「何者なのかはともかく、抜け目がないな。物騒なことに巻き込まれたと思ったら、いつの間にか、長嶺組を後ろ盾にしたんだ」 若い頃、警察に目をつけられるようなこともしているらしい秦だが、結局、補導歴も逮捕歴もないのだ。やはり、抜け目がない。「あまり、何者なのか考えないほうがいいのかもしれない。ぼくは今みたいな生活を送っていて、自分の好奇心に折り合いをつけている。知りたいこと、知りたくないこと、知ったところで、つらくなるだけのこと――」「俺も、わかってはいるんですけどね。ただ、秦さんと知り合って十年以上になるのに、ほとんど何も知らないっていうのは、けっこうキツイ」 中嶋は、苦々しげに唇を歪めていた。そんな表情を目にして、和彦のほうが胸苦しくなる。
和彦は、この店で秦に安定剤を飲まされ、体をまさぐられたのだ。挙げ句、内奥にはローターを含まされた。長嶺組組長である賢吾と関わりを持ちたかった秦が、賢吾のオンナである和彦に目をつけたうえでの策略だ。 賭けに近い危険極まりない策略だが、秦は生殺与奪の権を賢吾に握られながらも、こうして艶やかな存在感を放ち、元気にしている。そのうえ、賢吾の許可を得て、和彦の〈遊び相手〉という立場に収まっている。 よくこの店に招待できたものだと、見た目に反した秦の神経の図太さに、和彦は感心すらしてしまう。「……中嶋くんに肩入れしたくなる……」 聞こえよがしに和彦が呟くと、慣れた手つきで氷を砕きながら、秦が囁くような声で言った。「わたしなりに、必死に考えたんですよ。中嶋の出世を祝いたい気持ちもあるし、中嶋の思い詰めた顔も見たくないという気持ちもあって」「だからといって、ぼくを巻き込むな。この間、確かそう言ったはずだ」 グラスに氷を入れた秦が、嫌味なほど清々しい微笑みを浮かべた。「それは、無理ですね。わたしも中嶋も、先生が好きですから」 グラスとウィスキーのボトルをカウンターに置かれ、和彦はそれらを持って席に戻る。すると中嶋が、肩に腕を回してきた。「――二人して、内緒話ですか」 いかにも酔っ払いらしい気の抜けた笑みを向けてくる中嶋だが、芝居の可能性が高い。 切れ者のヤクザで、恩人ですら利用できると断言するしたたかさを持つ反面、その恩人が絡むときだけ、妙に〈女〉を感じさせ、健気さすら見せるこの青年を、和彦なりに傷つけたくないと思っている。 周囲にいる男たちからは甘いと笑われるだろうが、中嶋に対して友情めいた感情を抱きつつあるのだ。「出世祝いに、君に何か贈ったほうがいいだろうかと、相談してみたんだ」 和彦のウソに、中嶋は一瞬真顔となってから、次の瞬間には困ったように眉をひそめた。やはり、酔ったふりをしていたのだ。和彦のウソなど、簡単に見抜かれた。「……先生は、甘いですね。男に対して」「この世界で生きていく武器
「客もホストもいないホストクラブで、男三人で飲むというのも、新鮮でしょう?」「イイ男二人に囲まれて、贅沢な気分だ」 わざと素っ気ない口調で応じると、隣で中嶋が派手に噴き出す。急に和彦は心配になり、中嶋のあごを掴み寄せて顔を覗き込む。「もしかして、もう酔っ払ったのか」 和彦の突然の行動に驚いたように中嶋は目を丸くしたあと、やけに嬉しげに笑った。「まだ、大丈夫ですよ。先生の冷めた口調と冗談の加減が、妙にツボで……」「ぼくの冗談で笑うようなら、本当に酔ってるんじゃないか」 中嶋がさらに笑い声を洩らし、和彦は、大丈夫かと秦に視線を向ける。優雅に足を組み替えた秦は、中嶋を指さした。「リラックスしてるときは、こんな感じですよ、こいつは。ホスト時代は、どれだけ客から飲まされようが、顔色一つ変えなかった。だけど、仲間内で飲むと、まっさきに酔っ払って、つまらないことで笑い転げる」「……つまらないこと……、つまり、ぼくの冗談はつまらないということだな」 ぽつりと和彦が洩らすと、失礼なことに、中嶋と秦が同時に噴き出した。「先輩・後輩揃って、失礼な連中だな……」 怒ったふりをして席を立った和彦は、カウンターへと向かう。「先生?」「カウンターの中に、いいウィスキーを隠してあるだろ。さっき見えたんだ」 なんでも自由に飲んでくれと最初に言われたため、遠慮する気はなかった。秦という男は信頼していない和彦だが、秦の店の品揃えについては信頼しているのだ。 素早く立ち上がった秦が、カウンターに入る。「封を開けるので、ちょっと待ってください。ついでに、新しい氷も出しますね」 そこに、中嶋からカクテルの注文が入り、苦笑しながら秦が準備を始める。和彦は、カウンターにもたれかかりながら、改めて店内を見回していた。 このホストクラブを訪れるのは初めてではない。実は前に一度、来ていた。 そのときのことを思い出し、和彦の頬は熱くなってくる。もちろん、酔いのせいではな
携帯電話は持っていくが、念のため、外出することを長嶺組に報告しておく。組員からは、すぐに護衛の人間を向かわせると言われたが、中嶋が同行することを告げると、渋々引き下がってくれた。 総和会の中で出世した中嶋への信頼感の表れか、何かしらの思惑があるのか――と考えるのは、穿ちすぎかもしれない。 身支度を整えた和彦がエントランスに降りたとき、約束した時間には五分ほど早かったが、マンション前まで出ると、すでにタクシーが一台停まっていた。中から中嶋が手を振っている。「――それで、どこまで行くんだ」 タクシーが走り始めてから、首に巻いたマフラーの端を弄びながら和彦は尋ねる。「知り合いの店です」 漠然と察するものがあり、和彦はじろりと中嶋を見る。一方の中嶋は、ニヤリと笑ってこう言った。「先生、そんな顔したら、せっかくの色男ぶりが台無しですよ」「……なるほど。飲みに行くのは二人だが、他にもう一人、すでに店で待っているんだな」「そういうことです」「いろいろと言いたいことはあるが、まあ、いい。誰がいるかわからない場所に連れて行かれるより、よほど安心かもしれない」 多分、と和彦は心の中でひっそりと付け足す。中嶋は、和彦が怒り出さなかったことに安堵したのか、ほっと息を吐き出してシートにもたれかかった。「正直、どんな顔をして、〈あの人〉と顔を合わせればいいのかわからないんですよ。前のように、気楽につき合いたい気もするが、そうじゃないような気もする――」「それで、ぼくを利用しようと思ったんだな」「そう言わないでください。先生と楽しく飲みたい気持ちもあるんですよ」 本音かどうか怪しいものだが、美味いアルコールを飲ませてくれることだけは、確かなようだった。** グラスに口をつけながら和彦は、横目で隣を見る。中嶋は、普通の青年のような顔をして笑っていた。 正体がわかっていながら、こうして見る姿は、とうていヤクザには見えない。ノーネクタイのため、スーツ姿とはいっても寛いで見えるが、それでも雰囲気は若いビジネスマンのものだ。
**** 時間が緩やかに流れているような夜だった。賢吾も千尋も訪れないし、書斎に閉じこもって書類仕事をする気分でもなく、急患を告げる電話もない。 言い換えるなら、退屈な夜ともいえるが、今のような生活に入る前は、これが当たり前だった。 リビングのソファに腰掛けた和彦は、ミルクがたっぷり入ったコーヒーを啜りながら、ぼんやりとDVDを観ていた。まとめ買いしたまま放置していた映画のDVDを、こういうときに消化すべきだと、妙な義務感に駆られたのだ。 最初はまじめに観ていたのだが、次第に内容が頭に入らなくなる。 外の空気が恋しくなり、マンション近くのホテルのバーに飲みに行こうかと、ちらりと考える。もちろん、考えるだけだ。寒い中、護衛の組員を呼び出してまで飲む気はない。 誰か外に誘い出してくれないだろうかと考えていると、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。 反射的に携帯電話を取り上げて、表示された名を見る。思わず和彦は、口元に笑みを浮かべていた。「――もしかして、夜遊びのお誘いか」 電話に出た和彦の開口一番の言葉に、電話の向こうから微かな笑い声が聞こえてくる。『なんだか、待ちかねていたような口ぶりですね、先生』「実は、退屈していたんだ」『気をつけてください。非日常が、今の先生にとっての日常ですから。強い刺激に慣れてしまうと、感覚はなかなか元には戻りませんよ』「……嫌なことを言う」 電話の向こうで中嶋が声を洩らして笑っている。すでに酔っているのかと思うほど、機嫌はよさそうだ。『先生が考えた通り、これから〈二人〉で飲みに行かないかと思って、こうして連絡しました。出世したおかげで、夜は人並みに楽しく過ごせるようになりましたから、さっそく満喫しようかと』「それはいい。今のぼくを気軽に誘ってくれる人間なんて、ほとんどいないからな。君が遊び歩けるようになったら、ぼくもありがたい」 三十分後に中嶋が、タクシーでマンション前まで迎えにくることで、あっさり話はまとまる。 電話を切った和彦は、すぐにク
「ああ……」 こんな生活を送っていれば、知りたくないことは山のようにある。それでも、視界に入り、耳に入るものを塞ぐことはできない。今の生活は、知りたくないことを知りながら、感情と良心に折り合いをつけて成り立っているのだ。 感情はともかく、和彦の良心は確実に磨耗している。そのうち、この世界にいて何を知っても、眉をひそめることはなくなるだろう。 上手く隠してくれという三田村への頼みは、ささやかな足掻きのようなものだ。 スタッフの採用までの流れを、確認を兼ねて打ち合わせする。三田村はクリニック経営に関わることはないが、まったく無関係というわけではない。賢吾以外で、和彦と長嶺組を強く結びつけているのは、三田村なのだ。「組絡みの患者を診るとき、先生を手伝うスタッフについては、安心してくれ。今、うちの人間が動いている。むしろ、人材集めはこっちのほうが手間はかからないかもしれない」「そうなのか?」「先生が思っている以上に、先生のクリニックに期待している人間――組は多い。医者の手伝いができる人間を捜していると言えば、どの組も喜んでツテをあたってくれる」 責任重大だ、と洩らした和彦は、開いたままだったファイルを閉じる。持ち帰って目を通すつもりだった。年明けには、一緒に働くことになる人間を選ぶのだ。履歴書のコピーと報告書を見て、慎重に考えたい。 これで打ち合わせは終わりだ。長居して、三田村の仕事を邪魔するのも悪いので、和彦は帰ることを告げ、立ち上がる。 コートを羽織ってからマフラーを取り上げると、三田村が表情を和らげた。「先生もとうとう、マフラーを巻いて出歩くようになったんだな」「……仕方ないだろ。巻いてないと、寒くないかと聞かれるんだ。こうして巻いておいたら、ぼくより、周りの人間が安心するんだと思うようにした」「先生に、風邪でも引かれたら大変だから、諦めてくれ」 傍らに立った三田村が、首に引っ掛けただけのマフラーを丁寧な手つきで巻いてくれる。こんなことをされると、車に乗っても外せない。「気をつけて帰ってくれ」「ああ」 短く