LOGIN突然書類を叩きつけられた葵は、何が起きたのか分からないまま慌てて拾い上げた。目に飛び込んできたのは、例の海外企業が大規模な投資に乗り出したというニュースだった。しかも、どこから漏れたのか、その投資資金を提供したのが二宮グループだという情報までネット上に流れている。さらに、離島リゾート開発事業で巨額の損失を出した件まで経済ニュースに取り上げられ、わずか2時間のうちに個人投資家の売りが殺到。二宮グループの株価は一気に急落し、最安値を更新していた。葵の瞳が大きく見開かれる。「そんな……ありえない!あの会社は、凪のお金を引き出すのに協力するって約束してくれたもの!それなのに、どうしてこんなことになってるわけ!」葵が取り乱すのを見て、大地も慌てて立ち上がり、書類を確認したのだが内容を読み終えた途端、目の前が真っ暗になった。そして、次の瞬間には、怒り狂った株主たちに胸ぐらを掴まれる。「二宮グループがここまで落ちぶれたのは、お前が無能だからだろ!」「会社が順調だった頃は、お前たち親子が多少好き勝手やっても見て見ぬふりをしてきたが、ここまで損失を出した今、黙ってると思うなよ!俺たちの損失を何とかしろ!」「そうだ、弁償しろ!あれだけの金を全部無駄にしやがって!経営する能力がないならさっさと退け。二宮家の中から、もっとまともな人間をトップに据える!」その言葉に大地の怒りも爆発し、目の前にいた男の頬を、いきなり殴った。「俺を降ろすだと!?ここまで二宮グループを立て直したのは俺だ!何年もお前たちに散々儲けさせてやっただろ?高級車に乗って豪邸で暮らせるのも誰のおかげだ?それが少し失敗した途端、俺を引きずり下ろそうっていうのか!ふざけるな!」「俺を殴ったな!この野郎!」それをきっかけに、社長室は一気に修羅場と化した。数人の株主が大地につかみかかり、殴り合いが始まる。駆けつけた警備員たちが総出で取り押さえ、どうにか全員を引き離した頃には、室内はすっかり荒れ果てていた。葵も泣きながら何度も海外企業へ電話をかけ続けていたが、相手は一向に出ない。とうとう苛立ちに任せて携帯を壁へ叩きつけ、半狂乱になって叫んだ。「どういうことよ!ちゃんと話はついてたじゃない!なのに、なんで電話にも出ないの!?こんなことして、訴えられるのが怖くないわけ!?
「これを飲めば、もう口から汚い言葉なんて出てこなくなるさ」「うっ……」その言い方が気持ち悪かったのか、それとも水から漂う妙な臭いに耐えられなかったのか、葵は口元を押さえ、その場から逃げ出そうとした。だが、すぐに隆に肩を押さえられる。「社長のご命令ですので、大人しく従ってください。これ以上手間をかけさせるなら、別の方法を取ることになりますよ」「別の方法って何よ!?私は凪の妹なのよ!私に何かしたら……」「どうやら口が悪いだけじゃなく、少し頭までおかしくなっているようですね。せっかく用意したお清めの水も飲めないとなると……本格的にお祓いしてもらったほうがよさそうです」隆はにこやかに言った。葵はぎょっと目を見開いた。祈祷師の背後から、白い面をつけた者たちが何人も現れたのだ。手には細い枝を束ねたものや、見るからに怪しい濁った水の入った桶まで持っている。彼らはじりじりと葵へ近づきながら、声を揃えた。「祓いたまえ、清めたまえ!」「いやぁ――!」甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。少し離れたレストランで待っていた凪にも、かすかに何か聞こえた気がしたので、振り返ろうとしたのだが、その時、ちょうどスーツ姿の空がちょうど視界を遮るように立った。「行こう」「え?まだ10分しか経ってませんよ?」あまりの早さに驚いた凪は、さっきの悲鳴のことなどすぐに忘れてしまった。「もともと話はほとんどまとまってたからな。それより、今日は例の海外企業と契約したのか?」空の視線が、凪の手に握られた契約書に向く。「うん」凪は頷き、自信ありげに口元をほころばせた。「ミツキホールディングスが契約したのは、ちゃんと海外本社ですから、問題ありません」普段の空なら、世の中に絶対などないと念を押していたかもしれない。だが、すべて思惑どおりだと言わんばかりの凪の顔を見て、今回は何も言わなかった。柔らかなソファから立ち上がる彼女を見つめ、その判断を信じることにする――凪は、やはり他の誰とも違う。……それから2日間、葵はひどい腹痛と吐き気に悩まされた。朝、ハイヒールを履いてオフィスへ入ってくる足取りにも、いつもの勢いはない。目の下にはうっすらと隈ができ、胃は今も時折むかむかする。何かよく分からない枝で叩かれたところに大した痕は残らなかったもの
薄暗い街灯に照らされた空が、石畳の上を歩きながら、凪たちの方へ近づいてきた。その冷たい視線が、まっすぐ葵の背中に突き刺さる。額に冷や汗を浮かべながら、葵はぎこちなく振り返った。次の瞬間、肩先を黒い影が横切る。空は葵の横を通り過ぎ、そのまま凪を庇うように隣へ立った。すれ違っただけなのに、背筋が凍るような威圧感に、葵はしばらく身動きすらできない。やがて恐る恐る振り返ると、長身の空が凪のそばに立っていたのだが、その瞳からは感情を読み取れなかった。ただ、低く落ち着いた声だけが響く。「俺が黒崎家にいる限り、黒崎家はずっと凪の味方だ。そんなに凪が父親のところへ泣きつく日を待ち望んでるってことは、つまり、俺に早く死んでほしいってことだな?」その言葉に、葵は顔色を変え、慌てて弁解しようとした。だがその前に、凪が空の袖を掴む。「ただの口喧嘩なんですから、そんな縁起でもないこと言わないでください。空さんにはこれからもずっと元気で、長生きしてもらわなきゃ困るんですから」言霊というくらいだから、口にした言葉が本当になってしまうことだってある。凪は明らかに不満そうな顔で、空の袖を掴む手にも少し力を込めて言った。葵の弁解も、完全に行き場を失う。一方、先ほどまで冷え切っていた空の表情は、凪の言葉を聞いた途端に和らいだ。「確かに、縁起でもないことを言うべきじゃなかったな。ごめん」それを聞いて、ようやく凪は満足したように手を離した。しかし、宏介と葵が驚愕の目で見ていることには、まるで気づいていない。あの黒崎社長が、素直に謝った?葵は慌てて首を振った。今はそんなことに驚いている場合ではない。さっき自分が口にした言葉を、空に全部聞かれていたのだ。葵はすぐさま言い訳を始める。「わ、私はただ、お姉さんと口喧嘩してただけで……それに、空さんには何の恨みもありませんし、死んでほしいなんて思うわけが……」「姉である凪に、あんな暴言を吐くんだな」空が冷たく遮った。ちょうどその時、料亭の支配人が慌ててこちらへ駆け寄ってくる。空は軽く手を上げると、何でもないことのように告げた。「この近くに、よく効くお祓いをしてくれる人がいるそうだな。ちょうどいい。妻の妹を連れていって、少しその口を清めてもらってくれ。二度と人を不快にさせるようなことを言
その夜、凪と宏介は個室のある高級料亭を選び、リーナを食事に招いた。不安で仕方のない葵は、こっそり後をつけていた。凪たちとリーナが個室へ入ってから、およそ2時間。ようやく出てきた双方の手には、それぞれ署名済みの契約書があった。凪は笑顔でリーナと握手を交わす。「これからよろしくお願いします」「こちらこそ、よろしくお願いします」リーナもにこやかに応じると、契約書を手に大地へ電話をかけた。「すべて予定どおりです」物陰でそれを聞いていた葵は、嬉しさを抑えきれなかった。これで離島リゾート開発事業で空いた資金の穴を埋められる!凪だって大したことないじゃない。結局、まんまと騙されたんだから!「こんなところで何してるの?」背後から冷たい声がして、葵はびくりと肩を震わせた。慌てて振り返ると、そこには凪が立っている。「そ、それはこっちの台詞よ!私は明日の食事の店を予約しようと思って来ただけ。ミツキホールディングスの社長ともあろう人が、私みたいに毎日レストラン探し?それとも、ミツキホールディングスって、あなたが寝てるだけでお金が入ってくる会社なの?」そう言いながら、葵は下世話な想像を滲ませるように、意味ありげな視線を凪へ向けた。男である宏介にも、その嫌味が何を指しているのかはすぐ分かった。「ミツキホールディングスは社長のもと、すべての業務が滞りなく進んでいます。仕事とプライベートは一切関係ありませんので」「あら、あなたもこの女の虜なの?」葵は鼻で笑うと、わざとらしく拍手までしてみせた。「上では空さんを味方につけて、下ではあなたみたいな幹部まで手玉に取って働かせるなんて。さすがお姉さん、男の扱いが上手いんだね」計画がうまくいったと思っているせいか、数日前まで泣き腫らしていたのが嘘のような勢いだった。凪はそんな葵を静かに見つめる。ずぶ濡れになって取り乱していたばかりなのに、今日はもう自分に噛みつく余裕があるらしい。ずいぶん強気になったものだ。凪は手にしていた書類を宏介へ渡すと、冷ややかに葵を見た。「自分が男一人つなぎ止められないからって、私にこんな優秀な部下がいるのがそんなに羨ましい?私の周りを妬んでる暇があるなら、まず自分の男が今どこにいるのか探したら?そもそも、海外まで追いかけていけるのかも怪しいけど」
凪はおもちを抱いて部屋へ戻ると、すぐに陽菜へ電話をかけた。「例の海外企業と国内の法人について、資本関係を詳しく調べてくれる?それから現地の人間に投資家を装って問い合わせてもらって、その会社の傘下に入るにはどうすればいいのか探ってほしい。内部資料も手に入れてくれたら嬉しい」陽菜は腑に落ちない様子だった。「もしかして本社の名前を借りてるだけなんじゃないかって疑ってるんですか?」「うん。念のため調べてみて」凪は電話を切ると、おもちのキャットフードを足しながら考え込んだ。もし本当に、大手企業の看板を借りて金を集めるためだけの会社なら、なぜ手当たり次第に狙わず、わざわざミツキホールディングスに目をつけたのか。そこで、今朝泉から届いたメッセージを思い出す。【社長も葵さんも妙に落ち着いてる……】凪の中で、ある疑いが急速に形になりつつあった。……二宮グループ。大地は見るからに機嫌の悪い顔で、苛立たしげに尋ねた。「どうして、凪はまだ引っかからないんだ?」葵も落ち着かず、担当している社員を食い入るように見つめている。「海外の本社には、名前を使わせてもらえるよう話がついてるんでしょ?それなのに、なんで凪を騙せないのよ。数億円規模の案件なのに、少しも欲が出ないわけ?」社員も困り果てた様子だった。「こちらの提案も契約書も、まだ断られてはいないので、興味がないわけではないと思います。しかし……今日は突然、体調が悪いから病院で人間ドックを受けると言い出して、こちらの担当者との面会を延期したんです。ミツキホールディングスの社員は丁重に対応してくれているんですが、肝心の契約については一向に話が進まなくて。こちらも何が起きているのか……」大地と葵は思わず顔を見合わせた。まさか、何か気づいたとか?だから契約直前になって慎重になっているのだろうか?どうすれば凪を完全に信用させられるのか。大地が頭を悩ませていると、ミツキホールディングスから新たな連絡が入った。「副社長が『これほど大きな取引なら、念のため海外本社の担当者と直接話をしたい』とおっしゃっておられます」「だったら本社から人を呼べ!」大地は迷わず言い放った。「向こうにはもう金を渡して話をつけてあるんだ。今さら怖がることはない!」ようやく突破口が見えたとばか
玄関のほうからは、しきりに猫の鳴き声が聞こえていた。今日は珍しく在宅勤務で、凪はまださくらんぼ柄のパジャマ姿だった。様子を見に行くと、おもちがドアを前足で引っかきながら「にゃあ、にゃあ」と鳴き、長い尻尾を凪の足に絡ませてくる。外へ遊びに行きたい。でも、毎日ごはんをくれる凪のそばから離れるのも嫌。そんなおもちの様子に、凪は思わず笑った。もともと散歩好きな猫だし、この最上階には凪と空の2世帯しか住んでいない。少しくらい廊下を歩かせても大丈夫だろうと、凪は玄関のドアを開けた。「じゃあ、ここで少しお散歩してて。新しい案件の資料を読み終わったら、あとで下にも連れていってあげるから……って、あれ?」凪は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。話しているそばから、おもちは勢いよく飛び出した。そして廊下にいた男の長い脚にしがみつき、嬉しそうに鳴き始める。凪が顔を上げると、同じく少し驚いた様子の空と目が合った。「今日は仕事じゃないんですか?」「忘れ物を取りに来たんだ」空は手にしたビジネスバッグを軽く持ち上げてみせ、それから自分の革靴の上にごろんと寝転がったおもちへ目を落とした。しゃがみ込み、大きな手で頭を撫でてやると、おもちはすっかりご機嫌になり、耳を寝かせて空の手のひらに頬をすり寄せた。凪は慌ててそばへ行ってしゃがみ込み、空の行く手を塞いでいるおもちを引き寄せた。「ちょっと外に出してあげようと思っただけなんですけど……会社に行くところだったのに邪魔しちゃいましたね」「急いでないよ」空はおもちを片手でひょいと抱き上げ、そのまま凪の腕の中へ戻した。「それより、海外企業からミツキホールディングスに、かなり急ぎの提携話が来てるらしいな」「えっ、どうして知ってるんですか?」凪は慣れた手つきでおもちを腕に抱え直し、頬を撫でて宥めながらも、驚いて空を見た。2日前、ある海外企業から突然連絡が入り、今後の事業を強化する中で、ぜひミツキホールディングスと提携したいと言われたのだった。念のため調べさせたところ、企業としての信用や実績には特に問題がなかったのだが、わずか2日の間に会食を4回も設定され、早く契約を結びたいと何度も催促されるほどに、妙に契約を急いでいた。あまりの性急さに警戒した凪は、今日は在宅勤務を理由に先方との面会を
二宮凪(にのみや なぎ)はシルクのネグリジェを身にまとい、大きな窓の前に立っていた。外に広がる街の灯りをしばらく眺めた後、スマホを取り出して実家に電話をかけた。「例の縁談、受けるわ」電話の向こうは一瞬沈黙したが、すぐに凪の父親である二宮大地(にのみや だいち)の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「凪ちゃん、いつ帰ってくるんだ?父さんが迎えに行くからな」久しく呼ばれていなかったその呼び方に、凪は思わず鼻の奥がツンとなった。「来週の月曜」それだけ言うと、凪は電話を切った。母が亡くなった途端、この男は待ちきれないとばかりに、愛人と娘を家に連れ戻ってきた。あの二人を憎
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた