Masukその一言で、リビングのざわめきはぴたりと収まった。……黒崎グループの本社ビルは、恒業グループの数倍もの大きさだった。午後四時。凪は最上階の社長室に立っていた。彼女の結婚相手は、黒崎家の三男。夜の生活に問題があると噂されている彼は、デスクで書類に目を通していた。渉の鋭さとは違い、目の前の男はとても穏やかな雰囲気をまとっていた。床までの大きな窓から差し込む光に包まれ、少しも威圧感を感じさせない。色白な肌が、その顔をいっそう際立たせている。すっと通った鼻筋の下で、輪郭のはっきりした唇が健康的なピンク色をしていた。凪の視線があまりに熱っぽかったからだろうか。男はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、彼の穏やかで人当たりの良さそうな雰囲気は、がらりと変わった。その瞳の奥から、言い知れぬ威圧感が放たれる。凪は思わず息を飲んだ。そして気づいた。あれは穏やかさなんかじゃない。何もかもに無関心なだけなのだと。「君は葵さんじゃないな」低く、魅力的な声が響いた。凪ははっと我に返ると、臆することなく背筋を伸ばした。「はい。二宮凪と申します。あなたと結婚しに来ました」空の目に、一瞬奇妙な光が宿った。目の前の美しい女性の姿が、十五年前の記憶の中の、あの少女とゆっくりと重なった。相変わらず強情で奔放そうだったが、幸せそうではなかった。彼は手の中のファイルを閉じると、低い声で言った。「結婚直前で相手を変えるだと?俺がそれを飲むとでも?」凪ははっきりと答えた。「葵が、あなたを嫌がったからです」ドアの前でノックして報告しようとしていた秘書の西村隆(にしむら たかし)は、その場で固まってしまった。二宮家は死にたいのか。よくもそんなことが言えるね。空は、世間の噂など気にも留めていなかった。ただ、軽く眉を上げただけだった。「君は嫌じゃないのか?」凪は笑みを浮かべると、正直に答えた。「お互い、利益のための結婚でしょう?恋愛感情は抜きなんですから、私が嫌がる理由なんてありません」恋愛感情、か。空は、無意識に指を丸めた。Y市にいるあの男が、凪の言った「恋愛感情」の相手なのか?彼女が幸せそうに見えないのも、あの男のせいか?空は三十秒ほど凪をじっと見つめた。その黒い瞳の奥には激しい感情が渦巻い
親戚たちは、皆首を横に振った。「長年、外で好き勝手にやってきたから、わがままになっちゃったみたいね。このまま嫁に出せば、二宮家の恥さらしだ」「誰かにつけて、しっかりとしつけ直すしかないな。しっかり躾ければ大人しくなる」「大地、黒崎家はK市一の富豪で、資産は数千億円を超えている。二宮家がさらに上の地位へ行けるかどうかは、全てこの縁談にかかっているのだ。黒崎家の御曹司に気に入られろとは言わない。だが、問題だけは起こさせんでくれ」大地の顔は、ひどく暗かった。「凪ちゃん、いい加減にしろ!早くこちらに来て、皆さんにご挨拶しろ」凪はスーツケースを引いて、彼らに歩み寄った。その視線は大地を通り越し、穏やかそうな顔つきの老人たちへと注がれた。二宮家のルーツはK市にある。先祖は名家だった。しかし残念なことに、子孫は無能で、その家業を受け継ぐことはできず、古臭いしきたりばかりが山のように残った。名家を自称し、凪の母親が孤児であることを見下していた。結婚式さえ挙げさせなかった。しかし、今ある二宮グループを築き上げたのは、他ならぬ自分の母の手腕によるものだ。昔、大地が明里と葵を二宮家に連れてきた時、凪はグループの取締役会にいる二宮家の親戚に助けを求めた。でも、彼らはこう言ったんだ。「お父さんほどの地位になれば、愛人の一人や二人、当たり前だ」なんて恥知らずなやつたち。「私が黒崎家に嫁いだら二宮家の恥になると思うなら、この縁談は葵に譲ります。それに、私は二宮グループに何の貢献もしてないとか、お母さんを二宮家から籍を抜けとか、言いましたよね?だから、親孝行だと思って、明日から二宮グループに出社します!」その言葉に、親戚の老人たちは返す言葉もなくなった。大地は怒りで顔を真っ青にしながらも、その感情を必死に抑えていた。「凪ちゃん、何を言ってるんだ。君はお父さんの長女だ。葵に君の縁談を奪わせるわけないだろう」「ふん!」凪は鼻で笑った。「K市に戻ることは滅多になかったけど、私だって黒崎家の三男さんの噂くらいは知ってるわ。可愛い葵を、子供のできない黒崎さんに嫁がせて、一生を台無しにしたくないだけでしょ?私の前で優しい父親のフリをするのはやめてくれる?」大地は、鋭く目を細めた。黒崎家の三男・黒崎空(くろさき そら)が子供
二時間半後、凪はK市の空港を出て、二宮家の車に乗り込んだ。その時、渉からメッセージがきた。【どこにいるんだ?なんでホテルに戻らない?先に役所に行ってて。俺もすぐ着く】凪は嘲るように口元を歪めた。そして、渉の連絡先を全てブロックした。しばらく待ったが、凪からの返事はなかった。渉は、眉をぐっとひそめた。いつもなら、すぐに返事がくるのに。最近、ますます気難しくなったな。彼は直接電話をかけたが、聞こえてきた機械的なアナウンスに思わず固まってしまった。以前も凪にブロックされたことはあった。だが、それはまだ二人がラブラブだった頃の話だ。恋人同士の痴話喧嘩の後、構ってほしくて拗ねてブロックする……そんな可愛げのあるじゃれ合いの一種だったのだ。今は直美がまだ意識不明なのに、機嫌をとっている余裕なんてない。スマホをポケットに押し込むと、渉はもう気にも留めなかった。せいぜい二日もすれば、凪の方からまた連絡してくるだろう。……K市、二宮家。凪の父親である大地は盛大な歓迎会を用意していた。身内だけだったが、二宮家の年長者たちが集まっていた。横山明里(よこやま あかり)は自ら玄関に立ち、凪を出迎えた。その佇まいは上品で、顔には優しい表情を浮かべている。意地悪な素振りは微塵も感じさせない。でも、この女こそが、母の初七日も済まないうちに、自分をプールに突き落とした張本人なのだ。自分は三日も高熱にうなされ、もう少しで死ぬところだった。「凪ちゃん、やっと帰ってきたのね。長いこと家を離れて、お父さんも私も、あなたのことをずっと心配してたのよ」そう言いながら、明里は凪のスーツケースを受け取ろうと手を伸ばした。凪はさっと身をかわした。「そんなに親しげに呼ばないで。あなたと親しくないから」凪はそう言い捨てると、まっすぐ家の中へ入っていった。明里の顔から笑顔が消え、表情がこわばった。彼女の二歩後ろに立っていた二宮葵(にのみや あおい)は、軽蔑したような顔つきだった。「本当に二宮家のお嬢様だとでも思ってるのかしら。随分と偉そうな態度じゃない」ちょうど葵の横を通り過ぎるところだった凪は、ぴたりと足を止め、氷のように冷たい視線を向けた。自分が高熱で死にそうになっている時に、この腹違いの妹が針で太ももを何度
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、逆に少し可笑しく思えてきた。メッセージを送りつけてはしゃいでいる直美が、まるで哀れなピエロのように思えた。凪は一度も返信せず、ただ後々のために、静かにスクリーンショットを保存した。……やがて月曜日になった。凪が買ったのは、午前11時半の飛行機のチケットだ。彼女は朝早くに起きて荷物をまとめ、朝食をとるために部屋を出ようとした。その時、渉がスペアキーでドアを開けて入ってきた。パリッとしたスーツを着こなしていたけれど、彼の表情はあまり良くなかった。凪はとっさにスーツケースを背後に隠し、一瞬、心が乱れた。彼女が渉のそばを離れることなど、今までほとんどなかったのだ。以前、二人が喧嘩をした後、酔っ払った渉が凪の手を掴んで言ったことがある。「もし俺から離れようとしたら、家に閉じ込めてやる。一生、誰にも会わせない」と。あの頃は、どんなにおかしい言葉でさえ、凪には甘く感じられた。愛していたから。でも今は、ただ嫌悪感しか残っていなかった。渉はしばらく凪をじっと見つめていた。この二日間、彼はずっとイライラを溜め込んでいた。なのに凪から連絡がなかったことで、渉は抑えきれない焦りを感じていたのだ。今、彼女が部屋でおとなしく待っているのを見て、重苦しかった胸が少し軽くなった。「荷物は置いていけ。後で仁に取りに来させる。さあ、行くぞ、婚姻届を出しに」かつてあれほど強く望んでいたことなのに、今はもう心に何の波も立たなかった。凪はリュックを背負い直し、差し出された渉の綺麗な手を見つめた。「急がないで。その前に、ちょっと付き合ってほし
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちとは絶対に揉めるな、二人の将来のためだって。それもそうか。あの頃の彼は、やっと家に認められただけの隠し子だったから。でも今は、誰もが認める中島家の次期当主だ。守りたいと思う人を、守れるだけの力がある。直美は、おびえたように渉の手を握った。その瞳は感動と憧れでキラキラしていた。まるで神でも見るかのように。「渉さん、ごめん。迷惑をかけちゃった」渉は大きな満足感を覚え、思わず凪の方に視線を向けた。でも、凪はただ無表情な顔をしているだけだった。自分が甘やかしすぎたせいで、こんなわがままで、決して折れることを知らない女になってしまった。不機嫌になると、ふくれっつらをして口をきかない。気が済まないとダメなんだから。ここがどこだか分かっているのか?好きにさせてやれる場所だとでも思ってるのか?と、渉はすごく不満なんだ。「凪ちゃん、直美と一緒に座ってて。すぐ戻るから」直美に掴まれていた手をそっと離すと、渉は二階の書斎へと上がっていった。静香はソファに腰かけていた。全身から気品が漂っているが、その表情には傲慢な軽蔑の色が浮かんでいた。「凪、あなたを見くびっていたわ。中島家に嫁ぎたい一心で、ずいぶん我慢強いじゃない」凪は彼女と口論する気になれなかった。「おばさん、冗談がお上手ですね。私はおじいさんに食事を作ってきます」凪は袖をまくって台所へ向かった。食事を作るのを最後のお礼にしよう。これで、もう中島家とは関わることもない。直美は、思わず凪の後を追おうとした。だが、すぐに何かを思いついたように、その足をぴたりと止めた
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた。挑発の動画を撮るまでもなく、本人が我慢できずに帰ってきたのだから。実に好都合だ、と直美は心の中で呟いた。直美はにこやかに笑い、親しげに声をかけた。「凪さん、どうして帰ってきたの?渉さんが、この数日はホテルに泊まるって言ってたから。ここは自分の家だと思って使っていいって言われたのよ」そう言いながら、直美は口元を覆って何度か咳をした。「私の体が弱くて、花粉がダメなの。渉さんにも、夜通し看病させちゃって……凪さん、私のこと怒ってないよね?」凪は、すでに萎れ始めている花々を冷ややかに見つめた。恒業グループを辞めた後、渉は彼女が退屈するのを心配した。そして花いじりが好きなのを知って、珍しい花の種をたくさん集めてプレゼントしてくれたのだ。中でも特に繊細な品種があって、長い時間をかけてやっと根付かせたものもあった。花が咲いた日、凪はわざわざ写真を撮って渉に送った。結婚式のブーケはこの花で作りたいって。それが今や、泥にまみれてしまっている。「いいわ、続けてちょうだい」彼女は静かに視線を外し、まっすぐ二階へ上がっていった。直美の顔色が少し変わった。凪が激怒するのを覚悟していたのに、この女はなぜこんなに落ち着いているのだろう?寝室で、凪は何年も過ごした部屋を見渡した。心にぽっかりと穴が開いたようだった。渉とはずっと別々の部屋で寝ていたけれど、彼女の部屋のものはすべてペアで揃えられていた。歯ブラシ、タオル、ぬいぐるみ、パジャマ、枕……凪は大きな黒いゴミ袋を見つけ、そのすべてを詰め込んだ。五回も往復して捨てたが、使用人は