ANMELDEN紬は何のためらいもなく、滑らかなペン運びで書類の訂正箇所に署名した。一方の成哉は、ペンを握りしめたまま、しばし逡巡するように動きを止めていた。「どうなさいました?一日も早く望美と籍を入れたいのではなくて?」紬は、あえて挑発するように言った。その言葉が引き金になったのか、成哉は迷いを振り払うように、一気に自分の名を書き殴った。あと三十日。この猶予期間のうちに、社内の不正を正し、内通者を必ずや炙り出してみせる。その暁には、改めて紬にすべてを打ち明けるつもりだった。二人の離婚がまだ「受理待ち」の段階に過ぎないと知った望美は、あからさまに落胆の色を浮かべた。あと一歩で、名実ともに「天野夫人」の座を手に入れられたというのに!そうなさえすれば、たとえ治が過去の証拠を盾に脅してきたとしても、夫である成哉が黙って見過ごすはずがないのだ。天野家の男を選ぶのであれば、あの情緒不安定な狂人と化した治よりも、成哉と共に生きる方が賢明なのは火を見るより明らかだった。たかが一ヶ月のこと。待ってやろうではないか。――一方、紬は二度目の離婚手続きに心を乱されることもなく、自身のスタジオ「Nirvana」のオープン準備を着々と進めていた。離婚への道筋がつき、新たな門出を迎える。まさに二重の喜びに満ちていた。その朗報に、カナはまるでお祭りのように声を弾ませた。「盛大にお祝いしなくちゃ!私、準備してきます!」スタジオは路地の奥にひっそりと佇む、隠れ家のような場所だ。人通りは少ないが、その入り口には開店を祝う大きな花輪や胡蝶蘭が華やかに並び、小さな中庭では屋外バーベキューの準備が進められていた。紬がカナの戻りを待っていると、不意に外から陽気な声が聞こえてきた。「紬!スタジオのオープンに私を呼ばないなんて、水臭いじゃない!」姿より先に、快活で愛らしい声が響き渡った。紬は弾かれたように顔を上げ、喜びに目を輝かせた。「……いつ帰国したの?」声の主――レイは、大きなサングラスを外すと、勢いよく紬を抱きしめた。紬は、レイが最近A国での映画撮影に臨んでいると聞いていた。そのため、スタジオのことは報告済みだったが、オープニングセレモニーの日程までは、負担をかけまいとあえて知らせていなかったのだ。まさか、この日のためにわざわざ駆け
今回、望美は事を円滑に運ぶため、あえて人の少ない目立たぬこの店を選び、成哉を連れ出した。それなのに、まさかこんな場所で紬と鉢合わせするとは――腐れ縁というべきか、まるで金魚のフンのようにつきまとう存在に、吐き気すら覚える。だが、それ以上に彼女の胸に引っかかったのは、成哉の表情だった。まさか、すでに何かに気づいているのではないか。望美は瞳の奥に潜む憎悪を必死に押し隠し、いかにも心配しているかのような面持ちで歩み寄る。その声を聞いた成哉は、冷えきった視線を一瞬だけ彼女に向け、再び拳を強く握りしめた。「紬、お前と過ごした時間は、俺の人生最大の屈辱だ。お前との婚姻関係は、今日限りで終わりにする」吐き捨てるように言い放つと、彼は望美を引き寄せた。「俺が一生愛するのは望美ちゃんだけだ。いい加減、未練を断ち切れ」望美の心臓は今にも口から飛び出しそうだったが、その言葉を聞いた瞬間、ようやく胸を撫で下ろした。――やっぱりあの女、私のいない隙にまた出鱈目を吹き込んだのね。幸い、成哉の記憶はまだ自分を愛していた頃に留まっている。そうでなければ、すべてが取り返しのつかない事態になっていたはずだ。紬は、呆れたように冷ややかな笑みを浮かべた。「……それはありがたいね。なら、明日にはきちんと離婚の手続きを済ませてちょうだい」前回は事故の影響で、結局離婚届は受理されないままだった。ようやく事態が落ち着いたと思えば、今度は肝心なところで成哉が記憶を失う始末。征樹からも、彼に刺激を与えないよう特別に頼まれていたため、再会してからは彼女なりに自制してきた。だが、向こうから切り出した以上、もはや遠慮する理由はない。望美は内心で歓喜しながら、成哉の様子を窺う。変わらぬ嫌悪の眼差しで紬を見据えているのを確認し、確信を深めた。「言われなくても分かっている。明日役所で、遅れるな」そう言い放ち、成哉は望美の手を引いて個室へと戻っていった。「成哉、あまり怒らないで。紬さんも、一時の気の迷いで男に騙されているだけよ」「望美ちゃん、本気でそう思っているのか?」成哉は低く唸るように言った。「俺は今日、あの女がどれだけ卑劣な手段を使ってきたかを知った。まさか俺と結婚していたなんてな。君たちが刺激を恐れて隠していたのは分かっ
治は――あの変質じみた男は、よりにもよって彼女が成哉と会っている最中にまで手を出そうとしてくる。本当に、虫唾が走るほど忌々しい。弱みを握られていなければ、あんな男の言いなりになるはずがない。今夜、彼女は酒の中に相当量の「特効薬」を仕込んでいた。もし成哉がこれでも従わないというのなら、この機に乗じて株式譲渡書にサインをさせてやるつもりだ。望美は、成哉が薬の入ったグラスに手を伸ばすのをじっと見つめ、胸の奥で密かな高揚を膨らませていた。――そうよ、そのまま飲んで。息を詰めてその瞬間を待ちわびていた矢先、成哉の手がふいに止まった。望美は探るように声をかける。「どうしたの、成哉?」次の瞬間、返ってきたのはガラスが砕け散る乾いた音だった。成哉はグラスを叩きつけるように割り、そのまま部屋を飛び出していく。彼は思い出した――つい先ほど、廊下を通り過ぎる理玖の姿を目にしたのだ。そして、その腕に抱かれていたのは、紛れもなく紬だった。抑えようとしても抑えきれない怒りが、胸の奥から噴き上がる。成哉は焦燥に駆られて走り出したが、足をもつれさせて激しく転倒した。頭を石に打ちつけ、鈍い音が響く。幸い出血はなかった。頭の奥で鈍痛が脈打ち、次の瞬間、記憶が映画の断片のように一気に溢れ出した。成哉は息を呑み、苦悶に顔を歪めながらも、なお立ち上がる。すぐにスマホを取り出し、紬に何度も電話をかけるが、繋がらない。拳を握りしめ、扉を蹴破るような勢いで後を追った。――その頃。紬は理玖の腕の中で、必死に身をよじっていた。「降ろして。一人で歩けるから!」理玖はそれを完全に聞き流す。先ほど一度降ろそうとした時、ひどい千鳥足で今にも倒れそうだった。そんな言葉を二度も信じるつもりはない。「紬、お前は自分が既婚者だという自覚があるのか!」成哉の陰鬱な声が、唐突に廊下へと響き渡った。だが理玖は聞こえないふりをし、変わらぬ歩調で紬を抱えたまま進み続ける。その態度が、成哉の怒りにさらに火を注いだ。彼は駆け寄り、力任せに紬を引き剥がそうとする――だが、びくともしない。激昂のあまり、理玖の顔面めがけて拳を振り抜いた。先ほど隣の個室にいた男女は――やはり、この二人だったのだ。怒りは頂点に達し、その一撃にはほ
「彼女は水尾茜という名前で、月汐岬の南浦町に住んでいる。夫は地元の漁師だ。二人には息子が一人いるが、娘は幼い頃に事故で亡くなっていて、その悲しみのあまり、茜さんは左目の視力を失った。ここ数年、茜さんはずっと月汐岬の周辺で空きペットボトルを拾って生計を立てている」理玖が親子鑑定書を差し出したとき、紬はすでに驚きのあまり言葉を失っていた。そこには、茜に関する情報が余すところなく記されている。どれほどの時間と労力が費やされたのか、一目でわかるものだった。――自分が諦めていたものを、ずっと誰かが黙って探し続けてくれていたのだ。「どうしてまた泣いているんだ」理玖は苦笑し、指先で彼女の目尻に滲んだ涙をそっと拭った。紬は長い睫毛を震わせる。「この開店祝い……あまりにも重すぎるわ」「君が喜んでくれれば、それでいい」その間に、テーブルの料理はすっかり冷めてしまっていた。紬は涙を滲ませたまま、迷いなく酒を注ぐ。「この一杯、あなたに捧げるわ」理玖は困ったように笑った。「飲めるのか?」「馬鹿にしないで。これからは経営者になるんだから、お酒も飲めないようじゃ、仕事の話なんてできないでしょう」紬は勢いよくグラスを満たした。冗談半分だと思っていた理玖は気にも留めなかったが、三杯目を飲み干す頃には、案の定、向かいに座る彼女の意識はおぼろげになり始めていた。「か……神谷さん、ありがとうって言っちゃダメだって言われたけど、やっぱりお礼は言わせて」紬はふらりと立ち上がる。「このプレゼント、本当に嬉しいの。私……絶対に、絶対に頑張って、あなたの投資を最高の利回りで返してみせるから」理玖は背もたれに身を預け、頬を赤らめた彼女をじっと見つめながら、静かに笑った。「その日を楽しみにしているよ。明日目が覚めても、今の言葉を覚えているといいんだが」「覚えてるわよ!絶対に忘れない!」紬は不満げに手を振る。「あの日、あなたが海辺の岩陰に隠れてたとき、青いズボンを履いていたことだって覚えてるんだから。私、記憶力はいいのよ」理玖の口元の笑みが、ゆっくりと固まった。「……何だって?」「あなたのことよ、りっくん」紬は酒の匂いをまとわせたまま、どこか照れくさそうに微笑む。「一緒に誘拐犯から逃げて、洞窟で
スタジオはまだ準備の途上にあったが、紬は病院で時間を無駄にすることを惜しみ、その日のうちに退院の手続きを済ませた。遊園地の責任者が賠償の合意書に署名を求めて病院を訪れた時には、すでに彼女の姿はなかった。あまりに突然の惨事に、現場に居合わせた子連れの親たちは、今なおその恐怖から抜け出せずにいた。遊園地側が被った損失もまた、甚大なものであった。紬には、どうしても腑に落ちないことが一つだけあった。「なぜ、閉まっていたはずの窓が、勝手に開いたのだろう」あの観覧車は一般的な遊覧用のものとは違い、窓はスタッフが遠隔で操作しない限り開かない仕組みになっていた。事故当時、完全な制御不能に陥ったのは、紬と芽依が乗っていたゴンドラだけだったのである。「綾瀬様、この件につきましては必ず厳正に調査し、結果をご報告いたします」責任者は紬に向かって深く頭を垂れた。その謝罪には、偽りのない誠意が滲んでいた。双方が賠償金の支払いについて合意し、署名を交わした上で、紬は調査の結果を待つことにした。六月の末、スタジオの準備が万端に整った。紬はそこに自らの希望のすべてを託し、スタジオを「Nirvana(ニルバーナ)」と名付けた。その間、成哉は頻繁に悠真を連れてスタジオに顔を出した。「お前の息子だ。責任を持って面倒を見ろ」幸いなことに、今の悠真はすっかり聞き分けが良くなっていた。以前のように騒ぎ立てることもなく、望美のことに至っては一言も触れようとしなかった。紬はスタジオで悠真に宿題をさせながら、共に時間を過ごした。新しく採用されたスタッフたちも、皆こぞって彼を可愛がり、何かと気にかけた。そんな日々が続くうち、成哉が自ら送り迎えに現れる頻度も、次第に増えていった。「Nirvana」が正式に開業する前夜、理玖は紬を月汐岬へと誘った。「開店祝いのプレゼントを用意したんだ」「プレゼント?」紬は、ただ食事に誘われただけだと思っていた。二人はレストランの海に面したテラスに立っていた。次の瞬間、夜空を無数の花火が駆け上がり、息を呑むほど美しく咲き誇った。紬は思わず口元を押さえた。三日月のように細められた瞳が、またたく間に驚きと感動に見開かれる。花火の宴は十分間にもわたって続き、最後は夜空に大きなハートが描かれて
悠真は焦燥に駆られ、成哉の腕を掴んだ。――火に油を注いでどうするんだよ、パパ!成哉の身体が微かに震えた。「……今、何と言った?」悠真は、事の顛末を必死に説いた。「ママは芽依ちゃんを喜ばせたくて、一緒に観覧車に乗ってあげたんだ!それに、芽依ちゃんが落ちそうになった時、支えてくれたのはママなんだよ!どうしてそんなふうに、何もかもママのせいにするのさ!」悠真は今にも泣き出しそうな剣幕だった。「芽依ちゃんだってママが産んだ子なんだ。ママが芽依ちゃんを傷つけるわけないじゃないか!」「成哉!」望美が血相を変え、足早に駆け寄ってきた。「紬さんも、ただ芽依ちゃんを遊びに連れて行きたかっただけなのよ。大丈夫、まずは芽依ちゃんが目を覚ましてから、状況を確認しましょう」成哉は押し黙った。だが、その視線は依然として、紬と理玖が握り合ったままの手に注がれている。望美は、悠真の最後の言葉が成哉の胸にどこまで届いたのか測りかね、内心穏やかではいられなかった。「……二度とこのようなことは起こすな」成哉は冷ややかに言い放つと、悠真を伴ってその場を去った。「紬さん、成哉は今、心身ともに本調子ではないの。彼の前であまり余計なことを吹き込まないでちょうだい!」理玖がいる手前、望美の言葉はあからさまな脅しではなかったが、その声には紛れもない棘が潜んでいた。言い終えると、望美もまた急いで二人の後を追った。紬は深い徒労感に包まれた。だが、ふと掌に残る温もりに気づき、頬を染めて反射的に手を引いた。「……芽依ちゃんの様子を見てくるわ」そう言い残し、彼女は逃げるように病室へ駆け込んだ。理玖は彼女の赤くなった耳朶を見つめ、口の端を微かに綻ばせた。――非常階段の踊り場で、望美は成哉たちを追うのをやめた。彼女の胸には、拭い去ることのできない不安が渦巻いていた。紬に言われた通り、成哉に真実を隠しおおせる時間は、もはや長くは残されていないだろう。彼女は治に電話をかけた。「計画を早めて。もう一刻の猶予もないわ」一方、成哉は悠真を連れて病院を後にした。「パパ、ママにあんな態度を取っちゃダメだよ!このままじゃ本当に離婚しちゃう。パパはあんなにママを大切にしていたのに、記憶がないからって、どうしてそんなに冷たくできる







