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第15話 遠吠え

last update Last Updated: 2025-08-16 20:55:27

 夜明けは、厚い毛布の温もりと共に訪れた。

 それは、セレスティナがこの辺境の地に来てから、初めて経験する穏やかな目覚めだった。壁の隙間から吹き込む風は相変わらず肌を刺したが、ライナスから与えられた上質な毛布が、その冷気を確かに遮ってくれていた。自分の体温で温められたその空間は、まるで小さな巣のようだ。

 彼女はゆっくりと身を起こした。体の節々の痛みは残っているが、昨夜の温かいスープと柔らかなパンのおかげか、昨日までの鉛のような疲労感は薄らいでいる。

 彼女の視線は、足元に畳まれた毛布と、空になったスープの器に向けられた。

 辺境伯、ライナス。

 あの男が、これを。

 なぜ。その問いが、再び彼女の心に浮かんでは消える。

 断罪の場で見た、あの冷徹な金色の瞳。罪人を容赦なく裁き、「俺が法だ」と断言した、絶対的な支配者の姿。その姿と、この温かい毛布が、どうしても結びつかない。

 彼は、自分をどうしたいのだろうか。

 気まぐれな同情か。あるいは、これはより質の悪い、新たな支配の形なのかもしれない。飴と鞭。絶望を与えた後に、ささやかな温もりを与えることで、相手の心を完全に掌握する。父の書斎にあった書物の中に、そんな統治術について書かれたものがあったことを、彼女はふと思い出した。

 そうだ、きっとそうなのだ。あの「狼」が、見返りもなく他人に情けをかけるはずがない。

 セレスティナは、そう結論づけようとした。だが、心のどこかで、その結論に納得しきれない自分がいることにも気づいていた。兵士が残した「風邪など引くな」という、ぶっきらぼうな言葉。その響きには、計算された支配者のそれとは違う、不器用な何かが含まれていた気がしてならなかった。

 混乱したまま、彼女は立ち上がり、廃屋の扉を押し開けた。

 町の空気は、明らかに変わっていた。

 空は相変わらず鉛色だったが、人々を支配していた重苦しい絶望の澱が、少しだけ晴れているように感じられた。道端に座り込む人々の数は減り、代わりに、三々五々集まってひそひそと何かを話し込む姿が見られる。その顔にはまだ、鉄狼団への恐怖の色は濃いが、昨日までの理不尽な搾取から解放されたことへの、確かな安堵が浮かんでいた。

 広場へ向かうと、その変化はより顕著だった。

 労働者たちを監視しているのは、黒鉄の鎧をまとった鉄狼団の兵士たちだけになっていた。鞭を振り回す監督役人も、威張り散らす中央の役人も、もうどこにもいない。兵士たちは相変わらず無表情で、労働者たちに必要以上の言葉をかけることはない。だが、理不尽な暴力や罵声がなくなっただけで、現場の空気はまるで違っていた。

 その日の作業も瓦礫の撤去だったが、以前のような殺伐とした雰囲気はなかった。人々は黙々と、しかし昨日よりは少しだけましな顔つきで働いている。

 セレスティナは、その光景を静かに見つめていた。

 ライナスがもたらしたものは、恐怖だけではなかった。彼は、腐敗した権力を一掃し、この町に新しい秩序をもたらした。その秩序は、あまりに暴力的で、独善的かもしれない。だが、それは少なくとも、誰かが不当に虐げられることのない、公正な秩序だった。

 父が目指した理想とは、あまりにかけ離れたやり方だ。しかし、その結果として、今、目の前の人々がほんの少しだけ救われているのもまた、事実だった。

 彼女のライナスに対する評価は、恐怖と混乱と、そしてほんのわずかな理解の間で、激しく揺れ動いていた。

 昼餉の時間。

 配給されたのは、昨日と同じ、薄いが温かいスープと、以前よりは随分と柔らかい黒パンだった。人々はそれを、感謝とも畏怖ともつかない複雑な表情で受け取る。

 セレスティナが壁際で食事を摂っていると、一人の女性が、おずおずと彼女の隣に座った。数日前、セレスティナが咳をしていた娘を助けた時に、手伝ってくれた女性の一人だった。

「お嬢様…」

 女性は、声を潜めて話しかけてきた。

「昨夜、鉄狼団の兵隊さんが、お嬢様のところに何か持ってきたって、本当かい?」

 噂は、あっという間に広まるものらしい。セレスティナは何も答えず、ただ静かにスープをすする。

 女性は、その沈黙を肯定と受け取ったようだった。

「やっぱり…。辺境伯様は、お嬢様のことを気にかけてらっしゃるんだね。あんたがあの役人どもに逆らって、あたしたちを助けようとしてくれたこと、きっと見ててくれたんだよ」

 その言葉には、かすかな希望が滲んでいた。この町の新しい支配者が、理不尽を許さず、正しい行いをする者を認めてくれるのかもしれない。そんな期待が、人々の間に生まれ始めていた。

 セレスティナは、その言葉を聞きながら、心の中で静かに首を振った。

 違う。きっとそうではない。あの男は、そんな感傷的な理由で動く人間ではないはずだ。彼女の行動の裏にある価値を、冷徹に計算したに過ぎない。

 そう自分に言い聞かせなければ、心が揺らいでしまいそうだった。あの男に、何かを期待してしまいそうだった。それは、危険なことだと彼女の本能が告げていた。一度裏切られた心は、新たな希望を受け入れることをひどく恐れていた。

 その日の午後、小さな事件が起きた。

 瓦礫を運んでいた年配の男が、突然その場に崩れ落ちたのだ。彼は数日前から咳き込んでおり、昨日の冷え込みで一気に体調を悪化させたらしかった。

 周囲の労働者たちが、どうしたものかと遠巻きに見ている。以前なら、病人は監督役人に報告され、働けなくなった道具のように町の外れにある病棟(という名の、死を待つだけの小屋)へ放り込まれるだけだった。

 セレスティナは、駆け寄ろうとして、はっと足を止めた。

 彼女にはもう、彼を助けるための薬草がない。先日の役人たちの襲撃で、全て奪われてしまった。無力感が、再び彼女の胸を締め付ける。

 その時、近くで監視していた鉄狼団の兵士が、倒れた男に気づいて近づいてきた。その兵士は、ライナスの側近であるギデオンにどこか雰囲気が似た、精悍な顔つきの男だった。

 兵士は男の様子を一瞥すると、すぐに他の兵士に指示を出す。

「医務班を呼べ。急げ」

 その手際の良さに、周囲の労働者たちは驚きの表情を浮かべた。中央の役人たちならば、病人が出ても見向きもしなかっただろう。

 兵士の視線が、男のそばで立ち尽くすセレスティナに向けられた。

「お前。何か知っているのか」

 低い、感情のない声だった。セレスティナは、自分が彼に見られていることに気づき、びくりと肩を震わせる。

 彼女は口を開こうとして、言葉が出てこないことに気づいた。何か月もの間、言葉を発することをやめていた声帯は、うまく機能しない。

 だが、彼女は必死に声を絞り出した。かすれた、ほとんど空気の漏れるような声で。

「…数日前から、咳を。体が、冷え切っているはずです」

 兵士は、その言葉を聞くと、セレスティナの顔をじっと見つめた。その鋭い視線に、彼女の過去のすべてが見透かされているような気がして、思わず目を伏せる。

「そうか。お前が、薬草で病人を手当てしているという『人形令嬢』か」

 やはり、彼らは全てを知っていたのだ。セレスティナは唇を噛む。

 やがて、医務班と呼ばれる兵士たちが担架を持って駆けつけ、倒れた男は手際よく運ばれていった。その光景は、この町では革命的な出来事だった。

 兵士は、再びセレスティナに向き直った。

「閣下は、城に新しい医務室を設けるおつもりだ。だが、俺たちには薬草の知識を持つ者が少ない」

 彼はそこで言葉を切ると、命令する。

「今日の作業が終わったら、城へ来い。お前の知識が、役に立つかもしれん」

 それは、拒否を許さない、決定事項の通達だった。兵士はそれだけ言うと、背を向けて持ち場へと戻っていった。

 セレスティナは、その場に立ち尽くしていた。

 城へ? あの、辺境伯ライナスのいる、狼の巣へ?

 彼女の心臓が、恐怖と混乱で激しく鼓動を打つ。

 だが、それと同時に、彼女の心の奥底で、忘れかけていた感情が蘇りつつあるのを感じていた。

 役に立つ。

 その言葉が、彼女の心を揺さぶった。この場所で、自分はただの罪人、労働力でしかなかった。だが、彼女が持つ知識が、父と共に学び、愛した薬草学の知識が、必要とされている。

 それは、失われた自尊心を取り戻すための、最初の小さな一歩になるかもしれなかった。

 恐怖と、ほんのわずかな希望。二つの相反する感情に引き裂かれながら、彼女はその日の残りの作業を、上の空でこなした。

 その夜、辺境の町は、厳しい吹雪に見舞われた。

 風が獣のような唸り声をあげ、雪が容赦なく窓のない廃屋に吹き込んでくる。セレスティナは、ライナスから与えられた毛布に深くくるまり、壁際で小さくなっていた。

 今日の作業が終わった後、彼女は結局、城へは呼ばれなかった。吹雪のために、予定が変更になったのかもしれない。彼女はそれに安堵する一方で、わずかに失望している自分に気づき、戸惑っていた。

 彼女は、これからどうなるのだろう。本当に、あの城へ行くことになるのだろうか。そして、あの男、ライナスと、再び顔を合わせることに…?

 様々な考えが、吹雪の音と共に頭の中を駆け巡る。

 その時だった。

 激しい風の音を切り裂くように、遠くから、異様な音が聞こえてきた。

 アオォォォーーーン……!

 それは、以前にも聞いた、狼の遠吠えに似ていた。だが、もっと低く、地を這うような、複数の声が重なり合った雄叫びだった。それは、自然の獣の声ではない。人間の、それも大勢の男たちが、戦意を高めるために発する、鬨の声。

 その声は、城の方角から聞こえてくるようだった。

 町のあちこちの家から、恐怖に満ちた囁き声が漏れ聞こえてくる。

「なんだ、今の音は…」

「狼だ! 鉄狼団の狼どもが、吠えてるんだ!」

「辺境伯様が、何かにお怒りなんだろうか。我々は、何か気に障るようなことをしてしまったのか…?」

 人々は、その得体の知れない雄叫びに、絶対的な支配者の怒りを感じ取り、恐怖に身を震わせている。

 セレスティナもまた、その声に背筋が凍るのを感じた。それは、理性を失った獣の咆哮。圧倒的な暴力の予感。

 だが、彼女の心の中には、恐怖だけではない、別の感情も生まれていた。

 なぜ、彼らは吠えているのか。

 あの声の先に、一体何があるというのか。

 先日の役人たちの粛清とは、明らかに違う。あれは静かで、迅速な狩りだった。だが、今夜のこれは、獲物に向けて放たれる、威嚇の咆哮。

 町の外では、役人たちの支配力が消えたことを好機と見た、ならず者の盗賊団が活動を活発化させているという噂を、彼女は耳にしていた。

 まさか。

 その声は、辺境の治安を乱す、新たな敵に向けられたものなのではないか。

 セレスティナは、毛布を握りしめたまま、じっと闇に耳を澄ませた。

 恐怖は、まだある。だが、それ以上に、彼女の心を占め始めていたのは、この辺境という土地と、ライナスという男の真の姿を知りたいという、抑えがたい知的好奇心だった。

 「虐げられる日々」は、終わったのかもしれない。

 だが、それは穏やかな日々の始まりを意味するわけではなかった。彼女は今、より大きく、より危険な物語の入り口に立っている。

 遠吠えが、吹雪の夜を切り裂き、新たな章の幕開けを告げていた。彼女のすみれ色の瞳は、もはや虚空を彷徨ってはいなかった。音のする闇の向こう側を、じっと見据えていた。

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