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第6話 灰色の町

last update Last Updated: 2025-08-07 20:17:09

 どれほどの間、揺られていただろうか。

 護送馬車の硬い床の上で、セレスティナの意識は浅い眠りと悪夢の淵を往復していた。夢に見るのは、決まって失われた幸福の日々だった。庭園の東屋で父と交わした薬草学の話、陽光にきらめく純白の薔薇、そして「君を生涯、大切にする」と誓ったアランの優しい笑顔。しかし、その甘い記憶は必ず、玉座の間で響いた父の絶叫と、宰相ヴァインベルクの歪んだ笑みによって引き裂かれる。はっと目を覚ますと、そこは変わらず薄暗く揺れる馬車の中。手枷の冷たさと、全身を打つ鈍い痛みが、あれは夢ではなく現実なのだと彼女に告げていた。

 時折、馬車の外から護送役の看守たちの無遠慮な声が聞こえてくる。

「しかし、あのお嬢様も哀れなもんだな。数週間前までは王都の華だったってのによ」

「自業自得だろ。親が国を売ろうとしたんだからな」

「それにしても、わざわざ辺境送りとはな。宰相閣下も人が悪い。いっそ楽にしてやった方が慈悲ってもんだろうに」

「馬鹿言え。見せしめだよ。辺境で泥水をすすって惨めに野垂れ死にする方が、よっぽど他の貴族どもへの脅しになるって寸法さ」

 下卑た笑い声が、容赦なくセレスティナの耳に届く。だが、彼女の心はもはや何の波も立てなかった。彼らの言葉は、ただ意味を持たない音の羅列として、彼女の意識の表面を滑っていくだけだった。

 旅は幾日も続いた。

 豊かだった王都周辺の景色は次第に姿を消し、街道は荒れ、沿道の村々は目に見えて活気を失っていった。痩せた土地、傾いた家々、そして道端で見かける人々の目は、一様に暗く淀んでいる。王国が抱える疲弊と貧困が、旅を進めるごとに濃くなっていくようだった。セレスティナは、鉄格子の嵌まった小さな窓から、変わりゆく景色をただ無感動に眺めていた。自分は今、この国の光の中から、最も暗く深い影の底へと運ばれているのだと、ぼんやりと思った。

 そして、旅が始まってから十日ほどが過ぎた日の午後だった。

 馬車の速度が落ち、これまで以上にひどい揺れと共に停止した。

「着いたぞ。降りろ、罪人」

 乱暴に扉が開けられ、セレスティナは外へと引きずり出された。

 そこが、彼女の終着点である辺境の町だった。

 一言で言うなら、そこは色を失った場所だった。

 空は鉛色の雲に覆われ、乾いた風が砂埃を巻き上げている。道は舗装されておらず、並び立つ建物はどれも古びた木造で、灰色か茶色にくすんでいた。人々の服装もまた、色褪せたものばかりだ。町のすべてが、厚い灰を被ったかのように生気に欠けていた。鼻をつくのは、埃と、家畜の糞と、そしてどこからか漂ってくる腐敗臭が混じり合った、不快な臭いだった。

 馬車の周りには、何事かと数人の町民が集まっていたが、彼らの目に王都の民衆のような熱狂はない。ただ、冷たく無関心な、あるいは「また厄介事が運び込まれてきた」とでも言いたげな、乾いた侮蔑の視線を向けるだけだった。その視線は、刃物よりも深く心を削る冷たさを帯びていた。

 護送の看守たちは、町の入り口に立つ粗末な役所の前で、一人の男にセレスティナを引き渡した。

「こいつが例のブツだ。確かに預かったぜ」

 中央から派遣されてきたというその役人は、不健康に肥え太り、額には脂汗を浮かべていた。彼はセレスティナを頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするようにいやらしく眺めると、鼻で笑う。

「ふん、これが元公爵令嬢様か。聞いていた話とはずいぶんと違うな。ただの汚れた小娘じゃないか」

 役人は、護送役から受け取った書類に目を通しながら、わざとらしく言った。

「名前は…セレス…なんとか。まあ、どうでもいい。ここではお前はただの追放者だ。名前なんざ、誰も覚えん」

 セレスティナは、ただ黙って立っていた。その無抵抗な態度が、役人の支配欲をさらに掻き立てる。

「おい、こいつの持ち物は何かないのか。追放者に余計な物を持たせる必要はなかろう。管理費として、俺が預かっておいてやる」

「持ち物なんざ、着てるボロくらいのもんですよ」

 看守が答えると、役人はつまらなそうに唇を尖らせた。だが、すぐに何かを思いついたように、にやりと笑う。

「まあいい。おい、お前。こっちへ来い」

 役人はセレスティナの腕を掴むと、ずかずかと歩き出した。彼女は抵抗もせず、その後に続く。

 役人に引きずられて歩く町の道は、彼女がこれまで生きてきた世界とは何もかもが違っていた。

 道の両脇には、虚ろな目をした人々が座り込んでいる。先の戦争で手足を失ったのであろう傷痍軍人や、家族を失い呆然と空を見つめる老婆。物乞いをする子供たちの手足は、泥にまみれて痛々しいほど細い。誰もが生きることに疲れ果て、希望などどこにもないという空気が、町全体を重く支配していた。ここには、父が目指した豊かで公正な国の姿は、かけらも存在しなかった。

 しばらく歩かされた後、役人が立ち止まったのは、町の最も外れにある一軒の廃屋の前だった。今にも崩れ落ちそうなほど古びており、壁には大きな穴が開き、屋根も半分抜け落ちている。

「今日からここがお前の住処だ。ありがたく思え」

 役人は、蹴破るようにして扉を開けた。中は埃と蜘蛛の巣にまみれ、かろうじて残っている家具はすべて壊れていた。床には汚れた藁が散らばり、壁の穴からはひゅうひゅうと風が吹き込んでくる。

 セレスティナがかつて暮らしたアルトマイヤー公爵邸の自室には、天蓋付きのベッドがあり、窓には陽光を和らげるレースのカーテンがかかっていた。壁は美しい織物で飾られ、彼女が愛する書物を収めた本棚が並んでいた。

 その記憶と目の前の光景の落差は、もはや悲しみや怒りといった感情さえ呼び起こさなかった。ただ、あまりに非現実的な光景として、彼女の目に映るだけだった。

「食事は一日一回、気が向けば配給してやる。それ以外は、自分で何とかしろ。まあ、こんな場所で食い物にありつきたければ、体を売るくらいしか能がないだろうがな」

 役人は最後に下卑た言葉を吐き捨てると、唾をぺっと吐いて去っていった。

 廃屋の中に、セレスティナは一人取り残された。

 しん、と静まり返った中で、彼女はゆっくりと部屋の中を見回す。そして、一番風の当たらない壁際に歩いていくと、そのままズルズルと座り込んだ。

 これから、どうなるのだろう。

 そんな問いさえ、浮かんでこない。未来を考える力は、とうに失われていた。

 陽が傾き、部屋が暗闇に包まれ始めた頃、扉が軋む音がして、誰かが何かを投げ入れて去っていった。床に転がったのは、手のひらほどの大きさの、カチカチに硬くなった黒パンと、濁った水が半分ほど入った錆びた金属の器だった。

 これが、今日の食事らしい。

 セレスティナは、それをしばらく見つめていたが、やがてゆっくりと手を伸ばした。パンを拾い上げ、機械的に口へ運ぶ。砂を噛んでいるかのように味はなく、喉を通すのにひどく難儀した。水を流し込むと、鉄錆の味が口の中に広がる。

 それでも、彼女はただ黙々と、生きるためだけの作業としてそれを胃に収めた。

 食事を終えると、彼女はまた壁際にうずくまった。壊れた窓枠の隙間から、灰色の空が見える。星も月も見えない、ただ虚無の色をした空。

 彼女は、その空をただ見つめ続けた。

 思考は停止し、心は凪いでいる。もう涙は出なかった。

 ただ息をして、時が過ぎるのを待つだけ。それが、彼女の新しい日常の始まりだった。

 この灰色の町で、ただ生きるだけの生活が、今、静かに始まったのだ。

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