Share

2.レイラ・アルトワの代わり

last update publish date: 2026-06-02 22:55:42

私、リリー・フローレスがレイラ・アルトワ様の代わりになって1週間が経った。

私は今日もレイラ様として、アルトワ伯爵邸内の広すぎる食堂で、アルトワ伯爵家の皆様と気が重すぎる夕食を共にしていた。

「レイラ。今日はレイラが好んでいた魚料理を用意させたのよ。どうかしら?美味しい?」

私がよく知る一般的なテーブルとは違い、何十人もの人が一斉に使えるであろう長く大きなテーブルの向こう側に優雅に腰掛ける30代前半くらいの見た目のグレーの綺麗な髪を後ろにまとめている美しい女性、アルトワ夫人がふわりと私に笑いかける。

私を優しく見つめる濃い青色の瞳は、明るい星空のように輝いており、その瞳に見つめられる度にホンモノのレイラ様の顔が頭をよぎった。

ここに来る前、初めてお父様に見せられた小さな肖像画のレイラ様も奥方様と同じ瞳をしていたからだ。

私とレイラ様の容姿は瓜二つだったが、瞳の色だけはほんの少し違った。雲一つない、晴天の空のような青色、それが私の瞳の色なのだ。

「…とても美味しいよ、お母様」

まだ奥方様のことを〝お母様〟と呼ぶことも、奥方様に対して砕けた口調で話すことも慣れておらず、どこか気持ちが悪いし、変な気分になる。

だが、それでも私はもうここのレイラ様なので、当然のようにこうするしかなかった。

「ふふ、やっぱりそうよね。レイラは魚料理が好きだったもの。気に入った魚料理を見つけては、この魚は何の魚なのかとよく聞いていたわよねぇ」

「そうだな。レイラはすぐいろいろなものに興味を持ち、常に答えを追い求める子だった」

私の答えに嬉しそうにしている奥方様に応えたのは、奥方様と同世代であろう黒髪の落ち着いた雰囲気のこれまた美しい男性、アルトワ伯爵様だ。

伯爵様の瞳の色はレイラ様や奥方様とは違い、明るい青色で、まさに私と同じ空のような瞳をしていた。

…レイラ様の弟君、セオドア様とも同じ色だ。

そんな伯爵様は一番奥の席に座り、奥方様と同じように嬉しそうに笑い、頷いていた。

「…あははは」

嬉しそうな2人に合わせて私も何となく笑ってみる。

だが、柔らかく微笑む彼らとは違い、私の表情は強張っていた。優しい2人の私の扱いが、どうしても不気味でどこか怖さを感じるからだ。

2人は私のことを行方不明だったこの半年間で記憶を失ったレイラ様だと思い、そう扱っている。

なので、2人がそう私を扱う以上、周りの人々もそうしていた。

違う人物だと分かっていても、だ。

アルトワ夫妻と微笑み合いながら、視界の端で何となくまだ一言も発していない私の隣に座るセオドア様を盗み見る。

セオドア様の歳は私とレイラ様の一つ下、11歳だ。

セオドア様の艶やかな長すぎず、短すぎない黒髪と明るい青の瞳は父親である伯爵様譲りのもので、レイラ様が奥方様と瓜二つなら、セオドア様は伯爵様と瓜二つだった。

さらに伯爵様も奥方様も美しいので、その遺伝を受け継いだセオドア様もまた美しく、セオドア様を一言で表すなら、儚い雰囲気の今にも消え入りそうな美少年だろう。

そんなセオドア様は微笑み合う私たちなど気にも留めずに黙々と食事を口に運んでいた。

「…何」

私の視線に気がついたセオドア様が酷く機嫌が悪そうにこちらを睨みつける。

美しいが故にその姿には相変わらず迫力がある。

「…いえ、何でもございません」

そんなセオドア様の迫力に押されて、私はすぐに申し訳なさそうにセオドア様から視線を逸らした。

アルトワ夫妻は先ほども言ったが、私を記憶を失ったレイラ様として大変大切に扱っている。

少し不気味で怖いと思うところもある2人だが、それ以上に、私自身に何か危害を加えることもなく、むしろ優しくしてくれるので、有り難いとさえ思っているし、好感もあった。

だがしかし、レイラ様の弟君であるセオドア様は違った。

セオドア様はレイラ様が消えた穴を埋めるように現れたニセモノの私をとても忌み嫌っているのだ。

そしてその表れとして、いつも私に冷たく、夫妻がいないところでいろいろな嫌がらせをしてきた。

この1週間でセオドア様から受けた嫌がらせは、すれ違いざまに足を引っ掛けられる、私の持っていたものをゴミだと言って捨てられる、私のものを壊される…などだ。

いつも理不尽なセオドア様が私はとても苦手だった。

慕っていた姉を失い、代わりにやってきた私が許し難いことはわからなくもない。

だが、私は女神のように慈悲深いわけではないのだ。

気持ちはわかっても、それを許すことは到底できない。

日々、セオドア様に対して、何故、私がこのような仕打ちを受けなければならないのか、好きでここにいるわけではない、と文句を言いたくなる時もあったが、ただの男爵家の娘である私には、そんなことできるはずがなかった。

「レイラ?何故、セオドアに敬語を使うの?」

セオドア様と私のほんの一瞬のやり取りをも見逃さなかった奥方様が不思議そうに私を見つめる。

「レイラとセオドアは姉弟よ?以前は砕けた口調で仲良くしていたじゃない?そんな他人行儀なよそよそしい態度ではなかったわ。ねぇ、アナタ?」

「そうだな。セイラ」

夫人に同意を求められて伯爵も頷く。

2人は心の底からそう思っている様子でこちらをおかしなものでも見るような目で見つめていた。

「…姉弟?」

そんな2人に反応したのはセオドア様だ。

儚げな美少年から発せられたものとは思えない地を這うような低い声がこの広すぎる食堂に静かに響く。

「こんなやつ僕の姉さんじゃない!姉さんは母さんと同じ星空のような青い瞳だったじゃないか!髪だってもっと艶やかなもので長かった!右目の下には僕と同じホクロだってあったのに!こいつは全部違う!姉さんに似ても似つかないニセモノだ!」

ダァン!とその場で机を叩いて、セオドア様が叫ぶ。

今にも泣き出しそうな悲鳴にも近い言葉。

セオドア様にとって、やはりレイラ様という存在はとても大きく代えがたいもので、その大切な存在がどこの馬の骨かもわからないニセモノで埋められるなど耐えられない、という様子だ。

「ニセモノ?」

セオドア様の言葉を聞き、奥方様が静かに呟く。

先ほどと変わらず、優しい微笑みを浮かべる奥方様だが、その表情は明らかに柔らかいものではなくなっていた。

「何を言っているの?セオドア。レイラはレイラでしょう?レイラはアナタの姉さんよ?」

これだ。

私が奥方様たちを怖いと思う理由がこれなのだ。

何でもないようにそう言う奥方様はどこか狂っている雰囲気を帯びていた。

奥方様は…いや、アルトワ夫妻はレイラ様を愛するあまりついに狂ってしまったのだろう。

だからレイラ様にそっくりな私、リリーを見つけた時に、レイラ様の代わりにしようとした。

普通の感覚でならあり得ない答えだ。

「セオドア。落ち着くんだ。お前の横にいるのは私たちの家族、レイラだろう?」

「…違う。お父様もお母様もどうかしてる。コイツは姉さんのニセモノで…」

「セオドア」

最初こそ、セオドア様を宥めようと優しい声音だった伯爵様だが、セオドア様の変わらぬ答えにその語気を強くする。

たった一言、セオドア様の名前を呼んだだけだったが、それだけで伯爵様の静かな怒りが私にまで伝わってしまった。

「お前の横にいるレイラはお前の姉だ。そうだろう?」

「…」

伯爵様に強くそう言われてしまい、セオドア様が不服そうに黙る。

まだ何か言いたげなセオドア様だったが、それを許すような雰囲気ではなかった。

「レイラ」

「…」

「レイラ」

「…」

「レイラ、大丈夫か?」

「あ」

そうだ。私は今、レイラ様だった。

伯爵様に心配そうに顔を覗かれて、初めて伯爵様が私を呼んでいたことに気がつく。

つい先ほどまで行われていた言い争いに気を取られて、自分の役割をすっかり忘れてしまっていた。

「…だ、大丈夫、で…あ、だよ」

突然のことに思わず、レイラ様ではなく、リリーとして伯爵様に応えそうになってしまうが、何とかそれを堪える。

不自然極まりないことは重々承知だが、こればかりは仕方がない。

明らかにおかしい私を見て伯爵様は「セオドアの態度に動転しているんだな。可哀想に」と、本当に心配そうにしていた。

全く違う解釈をしているが有り難い。レイラ様のこととなると、伯爵様には変なフィルターがかかるようだ。もちろんそれは奥方様にもだ。

「レイラ?いい?アナタはセオドアの姉さんなの。だからこそ、敬語は使わないし、砕けた口調で喋るのよ。前みたいにね」

「…う、うん」

ふわりと微笑む奥方様に私も何とか微笑む。

引き攣った笑みのまま、セオドア様の方へと視線を向ければ、セオドア様はこちらを見たくない、と言わんばかりに視線を下へと落としていた。

「レイラ、あの頃のようにセオドアを〝セオドア〟と呼んであげなさい。きっとセオドアも喜ぶだろう」

セオドア様を見たまま固まってしまった私に伯爵様が優しくそう言う。

善意からの伯爵様の言葉に私は心の中で頭を抱えた。

今、セオドア様のことをレイラ様として〝セオドア〟と呼ぶなど火に油を注ぐ行為ではないか。

本当は微笑むだけ微笑んで、ここにいるレイラ様の代わりである私は何もしたくない。しかしそんなレイラ様は伯爵夫妻には望まれていなかった。

私はもう伯爵夫妻の望む娘、レイラ・アルトワなのだ。

そうでなければ、フローレス男爵家は伯爵家から支援を受けることができず、お父様とお母様は変わらぬ苦労をし続けなければならない。

男爵家の為にも私は夫妻の望み通りに動くしかない。

「…セオドア。気分を害してしまってごめんね。これからは姉と弟として仲良くしよう?」

私の左隣に座るセオドア様にレイラ様らしさを意識して、奥方様みたいにふわりと笑ってみる。

するとセオドア様はこちらを一切見ることなく、ただただ不満げに小さく頷いた。

アルトワ夫妻が見ている以上、セオドア様もそうするしかないようだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   【番外編 レイラ・アルトワ 4.最後に笑うのは】

    私の思惑通りにことは進み、あの子はついに〝レイラ・アルトワ〟であることを手放した。 私にその名を返し、リリーとしてアルトワを出ていくらしい。 父と母にそう知らされた時、どんなに嬉しかったことか。 その嬉しさが表に出ないように、どれほど耐えたことか。 あの子は周りの迷惑も考えず、早朝にここから出ていくそうだ。 仮にもアルトワの娘の旅立ちだ。当然、この家の使用人たちは、彼女を見送りに集まらなければならない。 父も母もそうするようで、何とセオドアやウィリアムまでもそこに立ち会うと言っていた。 何も全員で見送らなくても。 あの子はただの男爵令嬢であり、アルトワの所有物にすぎないというのに。 そう思うが、女神のように慈悲深く、完璧なレイラ・アルトワならそんなこと、口にしない。 早朝から出る迷惑なあの子の行いに、嫌な顔ひとつせず、朗らかに微笑むのだ。 どうか、お元気で、と。 ーーーそう、なるはずだった。 「セオ…!ウィル…!」 私から悲痛な声が漏れる。 伸ばした細い指先の向こうには、どんどん遠ざかっていく馬車がある。 あの馬車には、セオドアとウィリアムが乗っていた。 どうして。 どうしてこうなってしまったの。 あの子は1人でここから消えるはずだった。 だが、蓋を開けてみれば、あの子は消えるどころか私の大切な人を連れ去ってしまったのだ。 『姉さん。コイツはね、いずれ、今とは違う形で僕たちの家族になる人なんだ。そんな家族を1人にするわけにはいかないでしょ?』 つい先ほど、当然のようにそう言ったセオドア。

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   【番外編 レイラ・アルトワ 3.悲劇のヒロイン】

    レイラ・アルトワとして、全てを取り戻す。その為に、まずは味方を作った。アルトワには、元々私こそがレイラであると知っている使用人たちもいる。彼らの中には、当然、今の状況に難色を示す者の方が多い。そんな彼らに、私は不安と涙を見せた。「私は今の状況に何一つ不満はないの。けれど、リリーがね、私に全てを奪われると思ったのか、とても冷たいの。目が合えば鋭い目つきになるし、言葉数も少なくて…」辛そうにそんなことを言い、まぶたを伏せれば、皆、私に同情した。実際、あの子は、積極的に私と関わろうとしない。いつもどこか一歩引いている。その姿をこれでもかと悪く見えるように言えば、あの子のなんてことない言動一つが、私を攻撃しているように見えるだろう。私の思惑通り、使用人たちは正義感から私を守ろうとし、時にあの子に攻撃もした。どんどんあの子に対して、使用人たちは冷たくなり、世話をする者は消え、さらにはあの子に毒を盛った者まで現れた。そして、今はあの子が使っている私の部屋から、レイラ様のものを取り戻すのだと、服やアクセサリーなどを運び出す動きもあった。けれど、この騒ぎが大きくなればなるほど、その黒幕が暴かれやすくなるというもの。私はあくまで被害者である、というスタンスを崩さず、さらには、いつも弱々しく、彼らにこう言っていた。「ねぇ、どうか私がこんな弱音を吐いていることなんて誰にも言わないでね。私は常に完璧でいたいから」すると、彼らは私の尊厳も守るのだ!と、決して涙を見せた私の話を他言しようとはしなかった。これで屋敷内でのあの子の居場所はなくなった。ーーーだが、これだけでは足りない。私はまだまだその手を止めなかった。レイラ・アルトワにはたくさんの苛烈なお友達がいるのだ。社交界で強者であり続ける為には、そういったお友達も必要だ。自分の手を汚さず、邪魔者

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   【番外編 レイラ・アルトワ 2.私のもの】

    〝レイラ〟という名は、私のものだ。だが、私は今も〝アイリス〟として生きていた。そうアルトワで決めたからだ。では、何故そうなったのか。それはレイラと名乗る私の代わりであるあの子と私を今急に入れ替えるとなると、双方に悪影響が及ぶと判断されたからだった。私とあの子では、何もかもが違う。6年前は、私に似ていたらしいあの子にはもう、ホンモノである私のような輝きはない。そんな私たちが入れ替われば、誰だって違う存在がレイラを名乗っている、となるだろう。私がホンモノだというのに。そうなれば、いろいろな悪い噂やしなくてもいい苦労をすることになる。そうならないためにも、数年単位で徐々に、私たちを入れ替えるという結論に辿り着いた。この話を父と母から聞かされた時、私は酷く心が冷えた。一体、何を恐れてそんなことを言っているのか。私が悪い噂などに屈するはずがないのに。私ならどうにでもできる。それを両親も弟も、わかっているはずなのに。あの子を悪者にすればいい、私が悲劇のヒロインになればいい。ホンモノである私はリリーの手によってどこかに監禁され、リリーはその状況にほくそ笑み、レイラのフリをして、いつまでもそこに居座り続けていた、だとか、レイラはリリーからの暴力を恐れ、逆らえなかった、だとか。思いつく酷い話など山ほどあるし、貴族とは時に自身の利益のためならそうやって、世論を嘘で動かすものだろう。けれど、そうしないのは、両親があの子にも愛情を注いでいるからだ。彼らは、リリーを家族として認め、最善を尽くそうとしているのだ。その事実が、私は癪に障った。あの子はなんの血の繋がりもない、ただの男爵令嬢だ。それも男爵家のために売られた存在。我が家の所有物、使用人と同じような立場なのだ。そんなもの、捨て置けばいいものを。何故、私と同等に扱うのか。「アイリスもまた今度一緒にレイラの学院で

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   【番外編 レイラ・アルトワ 1.特別な少女】

    ーーーアイリス。それが、私の名前だ。私には、苗字がない。かつてはあったのかもしれない。けれど、私にはその記憶がない。数ヶ月前、ある村の近くの川辺に、天使のように美しい少女が倒れていた。その少女は驚くことに自分が何者かさえもわからないという記憶障害を起こしており、村人たちは保護した当初、大変困り果てていた。ここはこの国の中でも、山の奥深くにある辺境の地。人探しをする情報を集めようにも、その術がないのが現状なのだ。それでも優しい彼らは、記憶を失い、身元さえもわからない少女を、せめて自分たちの村の子どもとして育てようと受け入れた。医者によるとおそらく12歳くらいだと言われた少女。彼女には、新たに〝アイリス〟という名前が与えられた。山に囲まれた小さな村。簡易的な似たような家や店、畑が並ぶこの自然豊かな村で、私は1人、異質な存在だった。ふと、目にした家の窓に、その異質な存在である私が映る。鎖骨の下まで伸びる艶やかな黒髪に、そこから覗く明るい星空のように輝く濃い青色の瞳。右目の下には控えめなホクロがあり、忘れられない印象を与える。この村の人々は皆、質素で、特徴の薄い、またはあまり整っていない顔立ちの人が多い。その為、彼らと私では、何もかもが違っていた。私だけが特別な輝きを放っていた。おそらく、私は彼らとは違うものなのだろう。川辺に倒れていたということは、どこかから流れて来たということだ。天上から流されてきた天使だ、という村人もいるが、そうであってもおかしくはない。ここにいる誰もが望んでも行くことのできない、そんな場所から私は来たのではないか。そう証明したいのだが、私にはそうするための記憶が綺麗に失われていた。どんなに美しくとも、どんなに他と違おうとも、それを証明する術がない限り、私はただの小さな村にいる一住人にすぎない。特別でもなんでもない

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   33.最後に笑うのは

    もうすぐここから出られる。ただその事実だけを胸にこの嫌がらせを受け続ける最悪な日々を耐えてきた。そして、今日、私はやっと解放される。歩き慣れてしまったアルトワ伯爵邸内の廊下を1人で軽やかに歩く。荷物はもうあちらに送っているので、今私の手には何もない。この綺麗で洗練された美しいお屋敷とも今日でお別れだ。もうここへは来ないのだと思うと、少々寂しい気もするが、それでもやはりこれからの自由を思うと、嬉しさの方が勝つ。新しい生活の場となる別荘に着いたらまずはお父様とお母様に会いに行こう。それからこの6年間のことをたくさんたくさん話すのだ。のんびり過ごすのもいい。好きな刺繍に没頭するのもいい。アルトワ伯爵家に支援されているとはいえ、いずれは独り立ちせねばならないので、事業を始める傍らで、どこかで働くのもありだ。フローレスの事業を手伝うのもいいだろう。あちらに行ってやりたいことが私にはたくさんあった。明るい未来に胸を躍らせながら、久しぶりに明るい気持ちで、私は玄関ホールまで向かう。そしてそこに広がっていた光景に目を見開いた。何故かたくさんの使用人たちがまるで私を見送るかのようにそこにいたからだ。私はここからひっそりと出るつもりだった。だから人の注目を集めない早朝にここから出ると決めていた。だが、まだ朝の4時だというのに、何故かそこは使用人たちで溢れていた。…ニセモノの最後でも見にきたのか?疑問に思いながらも使用人たちの間を歩くが、悪意や怒りの視線は感じない。どの使用人も厳かな雰囲気で私を見守っていた。「リリー!」使用人たちの間からついに玄関の扉まで辿り着いた私を奥方様が優しい笑顔で迎え入れる。奥方様の横には当然、伯爵様もおり、さらにセオドアとレイラ様、ウィリアム様までいた。アルトワ一家の皆様が私のことを見送りに来るのはわかるのだが、何故、何の

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   32. 欲しかった言葉

    「ニセモノのくせに本当、図々しい女ね」朝、人気のない学院内の廊下を珍しく1人で歩いていると、イザベラ様たちと遭遇した。先頭にイザベラ様を始め、彼女の後ろに控える友人たちの鋭い視線に朝から嫌な気分になる。ここにせめてウィリアム様かセオドアがいてくれれば、壁になってもらえたのだが、今はいないのでそういうわけにもいかない。これは長引きそうだ。「レイラ様がお可哀想だわ」「ニセモノはニセモノらしく引っ込んでおけばいいものを」「ホンモノには敵わないからと自分こそがホンモノだと主張し続けるなんて」早速始まったイザベラ様の後ろに控えるご令嬢たちの私を責める言葉に気が滅入る。何故、このご令嬢たちは真実かどうかもはっきりとわかっていないことを、誰かの言葉だけを簡単に信じて、人のことを責められるのだろうか。「ねぇ、早く私の親友、ホンモノのレイラを返して」状況にげんなりしていると、イザベラ様はそんな私に詰め寄り、ドンッと強く私の胸を押した。私を押したイザベラ様と、私を睨む複数のご令嬢たち。怒りの感情に晒され続けることが息苦しくて仕方がない。本当は今すぐでも自分がニセモノであることを認め、レイラ様がもうすぐ帰ってくることを伝えたい。だが、アルトワの方針では一応、私とレイラ様が入れ替わるまでは、私がレイラ様だ。たとえ、もう私がニセモノだと広まっていたとしても、その方針に逆らうつもりはない。なので、私は未だにこちらを力強く睨み続けるイザベラ様にいつも通り淡々と応えることにした。「ご安心ください。もう少しお待ちいただければイザベラ様の望む結果になりますので」「はぁ!?もうその話はやめてくれる?いつもそう言うけど、結局次の日もお前がここにレイラとして来るじゃない!」「ですが、信じていただければ…」「お前

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   5.誰が一体悪者なのか

    次に目を覚ました時、私は死んでいなかった。見覚えのある天井に自分が今、レイラ様の部屋にいるのだと把握する。何となく体を起こす前に誰かの気配を感じたので、横を見てみれば、そこには椅子に座り、ベッドにうつ伏せになって寝ているセオドア様の姿があった。何故、ここにセオドア様が?疑問に思いながらも体をゆっくりと起こす。すごく重たい感じはするが、それ以外に特に目立った異常は感じられない。毒を飲んだ割には至って正常だ。今までの毒の中でも強力なものだと思っていたのだが、そうではなかったのかもしれない。「…ん」私が起きた気配を感じたのか、セオドア様も目を覚まし、体を起こした。それから至って

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   4.嫌がらせを受ける日々

    アルトワ伯爵家に来て早、1ヶ月。少しずつここでの生活にも慣れてきたのはいいのだが、セオドア様の私に対する嫌がらせは、現在も当然のように続いていた。相変わらず私のものはよく壊されるし、わざと物置や小さな部屋に閉じ込められる。さらには食べ物や飲み物に微量な毒まで入れられて、体調不良を起こすことも度々あった。嘔吐に腹痛に頭痛に熱まで。一通りの症状をここ数週間で全て経験した。しかし本当に微量の毒だったので、ちょっとした不調にしかならず、苦しんでも2日ほどだった。なので、私の体調不良をアルトワ夫妻は、環境が急に変わったストレスによるものだと思っているようだった。「あら、ちょうどいいところに

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   3.代わりなどいない

    気まずすぎる夕食を終えた後、私は私に与えられたレイラ様の部屋で、明日やる勉強の予習と今日の勉強の復習を行う為に、机へと向かっていた。 白色と星空のような深い青色の家具で統一されたレイラ様の部屋は、1週間経った今でもあまり落ち着かない。 男爵家にいた頃は必要最低限のごくごく普通の家具たちに囲まれて生活していた。 それが今ではこんなどれもとても高そうなものばかりに囲まれて生活しているのだ。 どこかふわふわして落ち着かないのも無理はない。 「…はぁ」 そんな落ち着かない部屋で私はじっとノートを睨みつけ、今日も深いため息をついた。 …わからない。わからないから頭に全く入ってこない。

  • 逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。   1.リリー・フローレスは死んだ

    その日、没落寸前の男爵家の一人娘、リリー・フローレスは死んだ。 「リリー。お前は我がフローレス男爵家建て直しの為に、アルトワ伯爵家に行くんだ。アルトワ伯爵家のたった1人のご令嬢、レイラ・アルトワ様として」 私の向かい側に座るお父様がそう神妙な面持ちで言う。 同じくお父様の隣に座るお母様もずっとお父様と同じような表情で、時折、心苦しそうに私から視線を逸らしていた。 12年間生きてきた中で初めて乗った豪華な馬車。 私たち没落寸前の男爵家の力では一生乗ることのできなかったもの。 そんなものに今乗って移動しているのは、私が今日からレイラ・アルトワ様になるからだ。 レイラ・アルトワ様。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status