تسجيل الدخولとある日の夕暮れ時。私はレイラ様と共に街を歩いていた。後ろに5名の騎士を従えて。私の身はどうやら誰かに狙われていたらしい。私が記憶を失った原因であるあの事故も、ただの事故ではなく、誰かが裏で手を引いて起きたことらしかった。それを知らされた数日後から、私の生活は変わった。常に私の周りに護衛の騎士がつくようになったのだ。もちろん、追跡機能のあるブルーサファイアのネックレスも肌身離さずつけている。リリー・アルトワは常々とんでもない環境に身を置いていたのだろうとは思っていたが、ここまでだったとは。自分ではない別人として6年間も生き、役目を終えたかと思えば婚約者が3人も現れ、しまいには身を狙われるとは、何とも波瀾万丈な人生だ。「今日は付き合ってくれてありがとう、リリー」レイラ様がオレンジ色の光を浴びて、穏やかに微笑む。本日のレイラ様も眩い光を放ち、まるで女神のようだ。今日も行く先々でレイラ様は人々の視線を奪い、噂の的になっていた。「あの美しいお人は一体…」と。「いえ。私も楽しかったのです」笑顔でレイラ様に応えた私に、レイラ様が嬉しそうにその深い青色の瞳を細める。あの書庫での出来事以来、私たちはこうして共に過ごす時間が増えていた。今日も血の繋がりこそないが、まるで本当の姉妹のようにたくさんの場所に行き、いろいろなことを楽しんだ。「ふふ。以前の私たちはこうしてなかなか一緒に過ごせなかったから、楽しいわ」「そうなんですか?」「ええ。時間はあったのだけどね。やっぱり、私たちの関係は複雑だったから…」レイラ様の表情がほんの少し悲しげに揺れる。確かに以前の私たちの関係は複雑だったのだろう。レイラ様がいない6年もの間をレイラ様として生きてきた私と、やっとの思いで帰ってきたレイラ様。今のように真っ新な状態ならまだしも、そのような状況では、簡単に心も通わせられないはずだ。以前の私はレイラ様のことをどう思っていたのだろう。女神のように慈悲深く優しいレイラ様を、こんな顔にしてしまっていたのだろうか。「こんな状況になったからこそ、私たち、こうしていられるのよね。…ごめんなさい。不謹慎だとはわかっているのだけど、この貴重な時間が嬉しくて…」「…いえ」申し訳なさそうに眉を下げるレイラ様に、私は胸が痛くなった。きっと、以前の私たちも特殊な出会
sideリリーゆったりとソファに腰掛け、本のページをまた一枚めくる。柔らかな日差しが窓から注がれる午後。私は一人、静かに別荘の書庫で読書にふけていた。私の隣には、いつもセオドアとウィリアム様がいる。そこにたまにライアンも加わり、フローレス夫妻や今はここに滞在しているアルトワ夫妻まで現れ、私の毎日はとても賑やかなものだった。リリー・フローレスは複雑な事情を抱えているようだが、こうしてたくさんの人に愛されていたらしい。ゆっくりと文字に視線を走らせる。すると、そこに誰かの影が落ちた。…誰だろう?セオドア?それとも、ウィリアム様?疑問に思って顔を上げると、そこにはとても美しい女性がいた。艶やかな黒髪がサラッと流れる。こちらを見つめる夜空のような濃い青色の瞳は、どこまでも深い慈愛に満ちていた。ーーーレイラ様だ。ただそこで微笑んでいるだけなのに、レイラ様はまるで女神様のような輝きを放っていた。血の繋がりがないとはいえ、この人と私が書類上は双子だなんて。未だに信じられない。あまりの存在感に惚けていると、レイラ様は「隣いい?」と私の横に腰掛けた。「リリー、体調はどう?問題はない?」気遣うようにこちらを見つめるレイラ様に、見た目だけではなく、性格まで女神なのか、と感動してしまう。私が記憶を失って、1ヶ月半。レイラ様もアルトワ夫妻と同じように私を気遣い、ここに滞在している。こうして2人だけで話す機会は今までなかなかなかったが、それでも会うたびに、レイラ様は私を気にかけてくれていた。「はい。特には…。皆さんよくしてくださいますし」「そう…」私の答えに、レイラ様がその深い青色の瞳を細める。「私、アナタの気持ちよくわかるの。私もかつてアナタと同じだったから…」「…同じ?」「ええ。私も昔、馬車で事故に遭ってね。アナタと同じように記憶を失ってしまったの。アナタと違うところといえば、崖の下にあった川に流されて、遠くの村にたどり着いたことかしら」「…え」懐かしむように微笑むレイラ様に、私は思わず言葉を失った。記憶喪失だった上に、川で知らない村に流されたということは、誰もレイラ様に、レイラ様が何者なのかを教えられない状況だったということだ。見知らぬ村で、何者でもないただの平民として、生きていくしか道はなかったはずだ。レイラ様はここに辿り
sideセオドア『セオドア』僕と同じ空色の瞳が、こちらをまっすぐ見つめる。ただその瞳は、僕のものとは違い、いつも忙しなく、様々な感情を浮かべていた。怒り、呆れ、諦め。悲しみ、喜び、優しさ。見るたびに表情を変えるそれは、僕にはどんな宝石よりも輝いて見えた。あの瞳が僕だけを見つめるのなら、どれほどいいのだろうか。リリーは僕の姉さんではなくなった。以前のリリーなら、姉さんの代わりを不足なく務めるためにも、僕の言うことを何でも鵜呑みにしていた。…が、今では、そうではない。それでも、6年間刷り込み続けた距離感はそう簡単には変えられず、今でも僕は誰よりもリリーの側にいられた。ウィリアム様には許されないことも、僕になら許されるのだ。触れることも、共にいることも、決めることも、一緒に寝ることも。あとは正式に婚約するだけ。それだけだったはずなのに。ーーーリリーが記憶を失ってしまった。崖から馬車ごと落ちたと聞いた時、姉さんと同じような事故に、サァーッと全身の血の気が引いた。リリーが姉さんのように何年も行方知らずになるかもしれない、と。だが、幸いウィリアム様がつけさせていたブルーサファイアのネックレスのおかげで、リリーの居場所はすぐにわかり、リリーは早期に救出された。そんなものをリリーにつけるな、と思うが、あれがあったからこそリリーが助かったのだと思うと、複雑な気持ちだ。それでも戻ってきたリリーに、どれほど安堵したことか。その後、なかなか目覚めないリリーに生きた心地がしなかったが、それでもまずリリーという存在が、僕の目の前にただいることだけが、なんとか自分を繋ぎ止めた。やっとその空色の瞳に僕が映った時、胸の奥底から込み上がってきた喜びは、言葉では言い表せなかった。強いて例えるなら、姉さんが帰ってきたあの日のようだった。もう、こんな思い、したくない。リリーを二度と失いたくない。そのためには、もっともっと傍でリリーを囲い、守らなければならない。今までの僕のやり方は甘かった。「リリーが乗っていた馬車だけど、やっぱり魔法具が仕込まれていたよ。衝撃を緩和するものがね」微笑みを浮かべるウィリアム様の黄金の瞳が鋭く光る。別荘の一室で、僕とウィリアム様はあることについて話していた。その話とは、リリーの事故についてだ。リリーの事故には、い
記憶を失い、もうすぐ1ヶ月。私は未だに何も思い出せないままだったが、それでも少しずつ、ここでの生活に馴染んでいった。「リリー。こっち」「うん」笑顔のライアンに手を引かれ、朝日で溢れたフローレスの街を歩く。こちらを見つめるライアンの瞳はとても優しげで、彼の抱く私への情がひしひしと伝わってきた。ここ1ヶ月過ごしてきて、記憶を失った私が彼に抱いた印象は、太陽のような人、だった。燃え盛る炎のようなオレンジの短髪もそうだが、整った顔をクシャッとさせ、明るく笑う姿や、誰にでも気さくで、笑顔を振りまく姿にそう思った。本音の見えない微笑みを浮かべるウィリアム様や、厳しい物言いばかりのセオドアに比べると、ライアンは一緒にいてずっと落ち着く存在だった。「ここは幼い頃、お前とよく来た通りなんだ。今もリリーのお気に入りの店はいっぱいあるぞ」「へぇ」明るくそう説明されて、街を見渡す。別荘のある街ほどの賑わいはないが、一軒一軒個性があり、温かな雰囲気がある。店員さんも街の人もみんな知っている仲である様子で、楽しそうに話をしている人たちが何人もいた。目に映るものどれもが今日初めて見るものだ。だが、全く知らない街とはなぜか思えない。ふと、なんとなく街を眺めていた私の視界に、ある店が一瞬だけ留まる。いちご飴か…。頭の片隅で、そう思った、その時。「買うか、あれ」ライアンは私の小さな変化も見逃さず、パチンッとこちらにウィンクをすると、いちご飴屋へと向かった。そして迷うことなく、それを買い、私に渡した。「よくわかったね」お礼を言った後、感心してライアンを見る。すると、ライアンはおかしそうにそのグリーンの瞳を細めた。「わかるわかる。だって、あのお店のいちご飴、お前好きだったからな」相変わらずライアンの笑顔は眩しい。ライアンには、正直ウィリアム様やセオドアと一緒にいる時のような違和感があまりない。彼の言葉に嘘はなく、なんでもそうだった気がする、と頷ける。幼馴染であることも、間違いないのだろう。…が、許嫁、という部分だけはどうしても違和感を覚えていた。フローレス男爵令嬢時代からの幼馴染で、許嫁。かなりしっくりくるフレーズではある。しかし、なぜか上手く飲み込めない。「あ、あそこの花屋もリリーのお気に入りだぞ」考え込んでいると、ライアンは自然な
記憶がなかなか戻らない日々が続いたとある日の夕方のこと。私は綺麗に整備された別荘の芝生の上に寝転がり、ぼんやりと空を見上げていた。水色から橙色へと移り変わる空は、まるで自由に広がる雲のキャンバスのようになっている。あの雲は、クッキーみたいで美味しそう。あっちは、うさぎみたいでかわいい。ふわふわとゆっくり流れていく雲は、いろいろな形をしており、私の想像力を掻き立てた。そんな私の頬を、春の柔らかな風が撫でる。…気持ちいい。心地の良い瞬間に、私はゆっくりとまぶたを閉じた。優しい風に揺らされる草木の音。遠くから聞こえる小鳥のさえずりや、誰かの笑い声。鼻にはいっぱいの自然の香りが広がって…。なんだかふわふわして、今にも寝てしまいそう…。「おい」私の耳に、誰かの声が微かに届く。冷たいその声には、呆れが含まれている気がする。ゆっくりとまぶたを開けると、私の隣には、セオドア様…いや、セオドアがいた。本当はセオドア様と呼びたいのだが、以前の私は彼のことをセオドアと呼んでいたらしいのでそうしている。「寝るな」冷たく私を見下ろすセオドアは、少し前から特に何かをするわけでもなく、私のそばに腰を下ろしていた。綺麗で柔らかそうな黒髪が、サラサラと揺れている。私をじっと見つめる瞳は、まるで晴天の空のようで、とても綺麗だった。黙っていれば、今にも消え入りそうな儚げな彼。けれど、実際はそうではなかった。一言で言えば、セオドアは苛烈だ。あらゆる言葉で、自分とは意見の違う者たちをどんどんひれ伏させていく。ここ数日で私ももう何度、セオドアに言いくるめられたことか。そもそもセオドアは私との距離がどうもおかしい。物理的に近いことはもちろん、着る服や髪型ま
記憶を失って、1週間。私は未だに何も思い出せないでいた。だが、少しずつ状況は理解していった。まず、私が記憶を失った原因は、事故で頭を強く打ったことからだった。崖から馬車ごと落ちたそうだ。最悪死んでもおかしくない事故だったが、馬車の破損が少なかったことで、複数の打撲程度で済んだらしい。どのくらいの高さの崖から落ちたのかわからないが、運がよかったのだろう。そして何よりもウィリアム様が私を早く見つけたことから今の私があった。では、なぜ、早くウィリアム様が私を見つけられたのか。それは私の首で光るウィリアム様からの贈り物らしいブルーサファイアのネックレスのおかげだった。どうやらこれは、つけている者がどこにいるのかわかる魔法具らしい。なんてものを贈られているのだ、私は。そんなものを贈られるほど、私は危険と隣り合わせの毎日を送っていたのか。婚約者候補が3人もいて、位置情報を常に把握されている。…うん、どういうこと?「リリー?」柔らかな日差しを受け、彼の銀髪がキラリと光る。白銀にも見えるその綺麗な髪から覗く、まるで作り物のように隙のない整った顔は、柔らかな笑みを浮かべこちらを窺っていた。ここは私の住む別荘内にある温室。ガラスドームに囲われたここには、豊かで整えられた自然があり、その中で私とウィリアム様はお茶をしていた。「浮かない顔をしているね。どうしたのかな?」「…いえ。少し考え事をしていました」優しく瞳を細めるこの人に、全てを明かしていいものか、と思う。ウィリアム様は誰よりも穏やかで、私に対してとても優しい。…が、その笑みの奥の本音がどうも上手く隠されている気がするのだ。「わからないことや不安なことがあれば何でも俺に聞いてね、リリー」「はい」
次に目を覚ました時、私は死んでいなかった。見覚えのある天井に自分が今、レイラ様の部屋にいるのだと把握する。何となく体を起こす前に誰かの気配を感じたので、横を見てみれば、そこには椅子に座り、ベッドにうつ伏せになって寝ているセオドア様の姿があった。何故、ここにセオドア様が?疑問に思いながらも体をゆっくりと起こす。すごく重たい感じはするが、それ以外に特に目立った異常は感じられない。毒を飲んだ割には至って正常だ。今までの毒の中でも強力なものだと思っていたのだが、そうではなかったのかもしれない。「…ん」私が起きた気配を感じたのか、セオドア様も目を覚まし、体を起こした。それから至って
アルトワ伯爵家に来て早、1ヶ月。少しずつここでの生活にも慣れてきたのはいいのだが、セオドア様の私に対する嫌がらせは、現在も当然のように続いていた。相変わらず私のものはよく壊されるし、わざと物置や小さな部屋に閉じ込められる。さらには食べ物や飲み物に微量な毒まで入れられて、体調不良を起こすことも度々あった。嘔吐に腹痛に頭痛に熱まで。一通りの症状をここ数週間で全て経験した。しかし本当に微量の毒だったので、ちょっとした不調にしかならず、苦しんでも2日ほどだった。なので、私の体調不良をアルトワ夫妻は、環境が急に変わったストレスによるものだと思っているようだった。「あら、ちょうどいいところに
気まずすぎる夕食を終えた後、私は私に与えられたレイラ様の部屋で、明日やる勉強の予習と今日の勉強の復習を行う為に、机へと向かっていた。 白色と星空のような深い青色の家具で統一されたレイラ様の部屋は、1週間経った今でもあまり落ち着かない。 男爵家にいた頃は必要最低限のごくごく普通の家具たちに囲まれて生活していた。 それが今ではこんなどれもとても高そうなものばかりに囲まれて生活しているのだ。 どこかふわふわして落ち着かないのも無理はない。 「…はぁ」 そんな落ち着かない部屋で私はじっとノートを睨みつけ、今日も深いため息をついた。 …わからない。わからないから頭に全く入ってこない。
私、リリー・フローレスがレイラ・アルトワ様の代わりになって1週間が経った。 私は今日もレイラ様として、アルトワ伯爵邸内の広すぎる食堂で、アルトワ伯爵家の皆様と気が重すぎる夕食を共にしていた。 「レイラ。今日はレイラが好んでいた魚料理を用意させたのよ。どうかしら?美味しい?」 私がよく知る一般的なテーブルとは違い、何十人もの人が一斉に使えるであろう長く大きなテーブルの向こう側に優雅に腰掛ける30代前半くらいの見た目のグレーの綺麗な髪を後ろにまとめている美しい女性、アルトワ夫人がふわりと私に笑いかける。 私を優しく見つめる濃い青色の瞳は、明るい星空のように輝いており、その瞳に見つめられ







