Masuk平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。
正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。
校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。
「早退させてもらえたか」
「…はい」
短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。
シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。
窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。
変わってしまったのは、自分の方だけだ。
「官舎では…ちゃんと寝られてるか」
ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。
「…あんまり」
正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。
「そうか」
それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。
官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。
駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。
「少しの間、失礼するよ」
「はい」
二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当たる。一段一段が、妙に重く感じられた。
自分の部屋の前に立つと、見慣れたドアがそこにあった。銀色のドアノブ、スチール製の無機質な質感。郵便受けには、薄いチラシが一枚挟まっている。
ポケットから鍵を取り出す。手汗で少し滑りそうになる。鍵穴に差し込み、回す。
カチリ。
聞き慣れた音がした。何百回も聞いてきた、家の扉が応える音。でも、その音のあとに続く気配は、以前とは違う。
ドアを押し開けると、官舎特有の少し古い建物の匂いと、一人暮らし用の洗剤やシャンプーの匂いが混ざった空気が、ひやりとした塊になって顔に当たった。
靴を脱ぎ、狭い玄関のたたきに上がる。すぐ横に並んでいるのは、自分のスニーカーと、父の革靴が一足。仕事用の黒い革靴と、少し履き古された茶色のローファー。
茶色のローファーは、もう誰の足も入らない。
思わず視線を逸らしたとき、背後から足音が近づいてきた。
ゆっくりとしたテンポではない。どこか場に馴染みきれない、少しだけ雑な歩幅。階段を上る音が止まり、自分たちのいる階の廊下で足音が止まる。
振り返る前から、誰なのか分かっていた。
「お疲れ」
短い声が、背中に届いた。
振り向くと、そこに桜井充が立っていた。
葬儀のときと同じ顔。黒い喪服ではなく、今日は深いネイビーのパーカーに、黒いジーンズ。ライダースジャケットを肩に引っ掛け、片手でコンビニの袋を提げている。足元は、つま先が少し擦れた白いスニーカーだった。きれいではないが、だらしなくもない、その中途半端な感じが彼らしかった。
髪は相変わらず黒く、無造作に前髪が落ちている。目つきは悪いが、眠そうというより、慣れていない場所にいる猫みたいに警戒しているように見えた。
「わざわざすみません」
三浦が、軽く会釈する。
「こちらが長谷くんの官舎です」
「はい。初めて来ました」
充は、廊下から玄関の中を覗き込んだ。薄い笑いを浮かべたような、浮かべ切れていないような顔。
「お邪魔しまーす…って言った方がいい?」
「…どうぞ」
陸斗は、一拍置いてから答えた。
自分の口から「どうぞ」という言葉が出ると、ここがもう「父と自分の家」ではなく、「自分が迎え入れる場所」になってしまったような気がした。
充はスニーカーを脱ぎ、揃えて玄関に置いた。その隣には、父の茶色いローファーと黒い革靴。見慣れない若い男の靴が、そこに加わる。狭い玄関に、靴の色が増えるだけで、風景が変わって見えた。
「靴、多くて悪いっす」
冗談めかして言いながら、充は上がり框をまたいだ。
「大丈夫だよ。今後は…ここが出入り口のひとつになるわけだから」
三浦がかぶせるように言った。
その言葉に、「出入り口」という単語が妙に引っかかった。
自分の家の扉が、誰かの出入り口になる。父以外の誰かが、当たり前のような顔をして鍵を使うようになる未来が、唐突に現実を持った。
「とりあえず、リビングでいいかな」
三浦が先に靴を脱ぎ、細い廊下を進んでいく。充がその後ろに続き、最後に陸斗がついていった。
リビングのドアを開けると、そこはあの日のままだった。
テーブルの上に置きっぱなしの新聞、読みかけの雑誌、リモコン。ソファの背もたれには、父のジャケットが一枚掛かっている。テレビ台の上には、小さな写真立てと、百均で買った観葉植物の鉢。窓辺には、洗濯したばかりのタオルが一枚だけ掛けられたままだ。
空気は少しこもっていた。誰もいない部屋に数日間閉じ込められていた匂い。自分ひとりでここに戻ったときは、その匂いに押し潰されそうになった。今は、同じ匂いの中に、別の人間の体温が混ざっている。
「…長谷さんっぽいな」
充が、部屋をぐるりと見渡しながら言った。
「きれいってほどでもねえけど、汚いわけでもない。妙に几帳面なとこだけ片づいてて、細かいのは放置」
「そうですね…」
思わず相槌を打ってしまう。
三浦は、テーブルの上の新聞を端に寄せ、鞄から封筒や書類を取り出した。
「少し、話をさせてください」
促されるまま、陸斗はソファに腰を下ろした。充は迷ったように一瞬立ち尽くし、それからソファの反対側の端に腰を掛けた。間に小さなクッションが一つ挟まっている。距離が、微妙に測られている感じがした。
三浦は、テーブルの向かいに正座する。書類を広げる手付きは、慣れたものだった。
「先日は、葬儀の場でざっくりとした流れをお話ししましたが…今日は少し、具体的な日程について確認させてください」
そう言って、一枚の紙をテーブルの上に置いた。
そこには、カレンダーのような枠が印刷されていた。一マスごとに小さな数字が入っている。今月の日付、その下に来月、再来月。
「まず、官舎の件です」
三浦は、ボールペンの先で一つのマスを指し示した。
「管理側と協議した結果、正式な退去期限は、ここ」
ペン先が止まったマスには、「○月三一日」と書かれていた。
「ここまでは、今まで通り住んでいて構いません。それ以降は、新しい入居者の準備もありますので…」
「三月…」
陸斗は、数字を目で追った。
今日の日付から、そのマスまでの距離。何日分のマスが間に挟まっているか、指でなぞって数えたい衝動に駆られる。
二十日、三十日。カレンダーの中の一つ一つの数字が、落とし穴みたいに見えた。
「実際には、その一週間ほど前までに、荷物の搬出などを終えておく必要があります」
三浦は続ける。
「ですから…引っ越しは、この辺りを目安に」
ペン先が、退去期限の一週間前のマスを指した。
「その前に、粗大ごみの申し込みや、電気・ガス・水道の解約手続きなども必要になります。こちらも、できる範囲でお手伝いしますが…」
「…結構、すぐですね」
口に出してみると、自分の声が少し掠れていた。
三浦は、小さく頷いた。
「そうだね。『いつか』ではなく、『あと何日』という感覚になると思う」
その言い方に、心臓がすっと冷える。
今まで、「官舎を出なければならない」という言葉は、どこか遠くの未来の話だった。「そのうち」「いずれ」。具体的な日付が、輪郭を与えられたことによって、急に現実になってしまった。
「引っ越し先については…」
三浦が、もう一枚の書類をめくる。
「桜井さんのお宅に、一時的にというか、しばらくの間お世話になる方向で、話を進めています。法律的な手続きについては、児童相談所とも連携しながら…」
「手続き、まだ終わってないんですよね」
充が、口を挟んだ。
「一応、引き取るって言ったのに、俺のとこに連れて帰れないの、なんか変な感じですけど」
「それだけ慎重に…ということです」
三浦は苦笑を浮かべる。
「桜井さんのようなケースは…そう多くありませんからね。前例を探しつつ、うまくやれるように」
「前例ないことばっかやってんだな、あの人も」
充が、ソファの背にもたれながら天井を見上げる。
「あんな死に方、前例あったら困るか」
その冗談めいた一言に、室内の空気がわずかに凍った。
陸斗は、不意に胸の中がざわつき、視線をテーブルに落とした。三浦も、瞬きの間をひとつ置いてから、穏やかな声で話を続ける。
「とにかく、桜井さんのところに移るまでの間は、この官舎が長谷くんの『家』であることに変わりはありません」
家、という単語が、空気の中で浮かんだ。
「ただ…期限がついた、というだけで」
付け足されたその一言が、余計に重かった。
「学校の方も、担任の先生と話をしました。しばらくは、無理のない範囲で通ってくれればいいと言っていましたよ」
三浦は、少しだけ微笑む。
「登校できた日は、その日だけで十分。できなかった日は、それも仕方がない。そういうふうに」
「…はい」
たぶん、そう言うしかないのだろう。
「他に、何か不安なこととか、聞いておきたいことはあるかな」
急にこちらに水を向けられ、陸斗は言葉に詰まった。
聞きたいことはいくつもあった。「ちゃんと生きていけるのか」とか、「父の保険金はどのくらい残るのか」とか、「桜井充という人間をどこまで信じていいのか」とか。
でも、それを今ここで並べたところで、具体的な答えが返ってくるとは思えなかった。
「…今は、特に」
ようやく出てきたのは、またその言葉だった。
三浦は、それ以上追及しなかった。
「じゃあ、今日はこのくらいにしておこうか」
書類をまとめ、封筒に戻す。
「また来週、一度伺います。それまでに、何かあれば電話を」
名刺の束から一枚抜き、テーブルの端に置いた。その白い紙切れが、「何かあれば」という言葉を代弁しているみたいだった。
三浦が立ち上がり、玄関の方へ向かう。充も立ち上がり、廊下へ続こうとした。
靴を履く前に、三浦がふと振り返る。
「桜井さん」
「はい」
「…あまり、無理はしないでくださいね」
意外な言葉だった。怒られると思っていたのか、充は一瞬きょとんとした顔をしてから、笑った。
「無理するほど、いい大人じゃないんで」
軽口で返すと、三浦も小さく笑い、玄関の扉を開けた。
「じゃあ、失礼します」
扉が閉まる。さっきと同じ音がしたのに、今度は内側に残った人数が違う。
玄関の靴箱の前には、父の靴と、自分の靴と、充のスニーカーだけが残った。
リビングに戻ると、部屋の空気が少し変わっていた。三浦のきっちり整えられた空気が抜け、かわりに、充の存在感が濃くなっている。
「…座ってていい?」
充が、リビングの入り口で立ち止まりながら聞いた。
「どうぞ」
そう答える自分の声が、どこか他人のものみたいに聞こえる。
充は、さっきと同じソファの端にもう一度腰を下ろした。ジャケットを脱ぎ、背もたれに掛ける。パーカーの袖を少し捲ると、手首に薄い傷跡がいくつもあるのがちらりと見えた。
「ふう」
一息ついてから、彼は天井を見上げた。
「…なんか、変な感じだな」
「何がですか」
「ここ」
充は、視線を部屋の中に巡らせる。
「いつも話で聞いてたからさ。『うちの官舎なんかボロいぞ』とか、『隣のやつの足音がうるせえ』とか、『風呂場の排水溝がすぐ詰まる』とか」
「そんなこと言ってたんですか」
思わず笑いそうになる。
「言ってた。愚痴半分、楽しんでるの半分で」
充は、窓の方を指さす。
「思ったより、日当たりいいんだな」
「四階だから、わりと」
「洗濯物、すぐ乾きそう」
父が同じことを言っていたのを思い出す。ベランダでタオルを干しながら、「高いところだと乾き早いな」と、妙に嬉しそうにしていた。
「…そんなことまで、話してたんですね」
「暇なとき、あの人しゃべりたがりだから」
充は、テーブルの上のリモコンや雑誌を眺める。
「で」
彼は、改めて陸斗の方に向き直った。
「とりあえず今日は、全体を一回見たいと思って」
「全体」
「うん。どれくらいの荷物があるか、だいたい把握しときたい。何往復くらい必要かとか、どこから手ぇ付けるかとか」
実務的な言い方だった。
「…別に、今日いきなり全部どうこうするわけじゃねえけどさ。見ておくだけ見とかないと、後で泣く」
「泣く…」
「退去前日とかに、『まだこんなに残ってる』ってなって、発狂するパターン」
それは想像できた。夏休みの宿題を八月三十一日に慌ててやる感覚に似ている。あれを人生レベルでやるのはごめんだ。
「クローゼットとか、押し入れとか」
充が、廊下の方に目をやる。
「見られんの嫌か?」
少しだけ間を置いて尋ねられ、陸斗は言葉に詰まった。
正直、他人にクローゼットの中を見られるのは、気持ちのいいものではない。服や私物だけじゃない。乱雑に突っ込んだプリント、折り畳まれたままの手紙、誰に見せるつもりのなかったもの。
「嫌なら、無理にとは言わねえよ」
充は肩をすくめる。
「でもな」
彼は、少しだけ真剣な顔になった。
「ここにある物って、これから全部、お前が抱えてくか、手放すかのどっちかになるんだろ」
「…そうですね」
「俺も手伝うけど、判断するのはお前だし。見られたくねえもんは、そのとき『見んな』って言ってくれりゃ、開けねえから」
あっさりとした言い方だった。
「…別に、見られて困るようなもんは、たぶんないです」
口に出してみると、いや、と心の中で訂正する。困るかどうかは、見せたあとでしか分からない。
「じゃ、ちょっと見学ツアー」
充が立ち上がった。
「案内してよ。長谷家の官舎」
「…長谷家って」
苦笑しながらも、立ち上がる。自分の家を他人に案内するのは、妙にこそばゆい。
まずはキッチンからだった。
流し台の上には、洗い終えたマグカップが二つ。ひとつは市販のキャラクターマグ、ひとつはシンプルな白いもの。ガスコンロの横には、調味料の瓶と、半分使いかけのサラダ油。冷蔵庫の上には、カップ麺のストックがいくつか並んでいる。
「お、出た。カップ麺タワー」
充が近づき、容器を手に取る。
「これ、しょっちゅう食ってたんだよな。夜勤前にとか、明けにとか」
「家でも、たまに」
そう言いながら、陸斗は冷蔵庫を開ける。中には、半分使った豆腐と、賞味期限の迫った卵、ペットボトルのお茶。引き出しには、冷凍餃子と冷凍うどん。
「…意外とちゃんとしてる方かも」
充が呟く。
「俺の冷蔵庫、もっとひでえ。アイスとビールと、水しか入ってねえときある」
「そんなので生きていけるんですか」
「ギリ」
そんな会話をしている間にも、父の生活の痕跡が目に入る。シンクの下の戸棚を開けると、安いレトルトカレーが数袋出てきた。棚の一番上には、滅多に使われないホットプレートが埃をかぶっている。
次に、寝室。
父の部屋であり、たまに二人でテレビを見たりした部屋。ダブルサイズではない、ごく普通のシングルベッド。掛け布団は整えられたままだ。
クローゼットの扉を開けると、スーツが数着、同じ方向にハンガーで吊るされている。ネクタイが三本、まとめてかけられていた。その下には、折り畳んだシャツや、ジーンズ。奥の方には、季節外れのコート。
「…うわ、真面目」
充が小さく笑う。
「クローゼットの中、俺よりきれいだ」
その言葉に救われるような気がした。父の生活が、冗談の素材になっていることが、変な話だが嬉しい。
クローゼットの床には、紙袋に入れられた書類の束もあった。封筒、メモ、職場から持ち帰ったらしいファイル。
充は、それには手を伸ばさなかった。
「こういうのは、高瀬さんとかに見てもらった方がいいな」
「ああ…たぶん、後で来るって」
自室の方は、正直言ってあまり見せたくなかった。
ベッドの上には、脱ぎ捨てたパーカーが一枚。机の上には、参考書やノートが積み上がっている。ペン立てには、使いかけのシャーペンと折れた芯。クローゼットの中は、父の部屋ほど整っていない。
「ここ、あんまり散らかってないな」
充が、意外そうに言う。
「高校の頃の俺の部屋、床が見えなかった」
「普通です」
「普通ね」
教科書が並ぶ本棚の隅に、漫画が何冊か刺さっている。小学生の頃に読んでいた絵本も、まだ残っていた。ベッドの下には、着なくなった服の袋詰めと、体育祭のゼッケン。
押し入れを開けると、布団と一緒に、壊れかけたゲーム機や、使わなくなったおもちゃの箱がいくつか出てきた。
「これ、持っていく?」
充が、色あせたプラモデルの箱を持ち上げる。
「…さあ」
返事に困る。
別にいらない。でも、捨てると決めるには、何かに区切りをつける必要がありそうで、躊躇する。
「今日、決めなくていいよ」
充は、箱をそっと元の場所に戻した。
「何を持っていくか、何を置いていくかは、ちょっとずつでいい。見るだけ見て、『これはいらねえな』って思えたやつから捨てれば」
「…はい」
廊下に出ると、ふと、壁にかかった小さなカレンダーが目に入った。
父がガソリンスタンドからもらってきた、ロゴ入りのやつ。今月の日付に、赤いペンで小さな丸がいくつか付けられている。夜勤の日、遅番の日、給料日の印。
「この丸、もういらねえんだな」
充が、無造作に言った。
「…そうですね」
今月のカレンダーの下には、来月、再来月のページが控えめに顔を覗かせている。その紙の端をめくれば、まだ白紙のマス目がいくらでもある。そこに自分の予定を埋めていくのは、自分だけだ。
一通り部屋を巡り終えると、二人は再びリビングに戻った。
ソファに座ると、さっきよりも部屋の広さを意識した。誰かが出入りし、少しだけ空気が循環したせいか、匂いも変わっている気がする。
充は、テーブルの上で指を組み、少しだけ考えるように黙った。
「…だいたい分かった」
しばらくしてから、彼は言った。
「予想してたより、物は多いけど、どうしようもないレベルではない。家具と家電は、一部だけ持ってって、あとはこっちで処分する感じだな」
「あの…」
陸斗は、口を開いた。
「迷惑じゃないですか」
「何が」
「こんな…」
部屋の中を軽く見渡す。
「全部、手伝ってもらうの」
充は、少しだけ目を丸くした。
「…迷惑って」
窓の外に視線を逸らし、それから戻した。
「迷惑なら、あそこで『引き取る』なんて言ってねえよ」
「あれは…」
葬儀場の和室。煙草の匂いと線香の匂いが混ざる空間で、自分の知らない大人たちが話していた場面が蘇る。
「…勢いとか、そういうのもあったんじゃないかと思って」
自分で言っておいて、少し嫌な聞き方だと思う。
充は、肩をすくめた。
「勢い、ゼロとは言わねえけど」
少しだけ笑う。
「でも、今こうしてここ来てる時点で、その勢いは継続中ってことで」
「…」
冗談なのか、本気なのか、判別に困る言い方だった。
「退去までの間」
充は、指を折りながら数える。
「何回かここ通う。荷物の整理、一人でやらせると絶対サボるタイプだろ、お前」
「そんなこと…」
あるかもしれない。
「だから、土日とか、俺の昼空いてるときに来る。平日でも、昼間にちょっと顔出せる日があったら、そのときも。引っ越し前日には、ここに泊まる」
さらっと言われた言葉に、心臓が小さく跳ねた。
「泊まる…」
「そう」
充は頷いた。
「前日まで作業して、当日の朝から動けるようにした方が効率いいから。俺、夜の仕事だし、朝弱いし」
そう言いながら、どこか楽しそうなような、不安そうなような顔をしている。
「ここに泊まるの、楽しみなんですか」
つい口をついて出てしまう。
「楽しみ…っていうとあれだけど」
充は、少し視線を逸らした。
「俺、こんなちゃんとした『家』に泊まったこと、あんまないから」
その一言で、彼の背景の一部が見えた気がした。
夜の街の匂い、狭い部屋、誰かのベッドの隅。そういうものとは違う、「普通の家」の空気。自分にとっては当たり前で、時にはうっとうしいとさえ思っていたこの狭い官舎が、誰かにとっては「ちゃんとした家」に見える。
「…なんか、変な言い方ですみません」
充が自分で付け足す。
「いや」
否定しながら、自分の方が少し恥ずかしくなっていた。
居心地が悪い。けれど、誰かと空間を共有していることが、完全に嫌というわけでもない。その曖昧さが、一番落ち着かない。
「まあ、とりあえず」
充が、ソファから立ち上がった。
「今日は、全体のイメージ掴んだってことでよしとしよう。学校から帰ってきたばっかだろ。疲れてんじゃねえの」
「別に…」
と言いかけて、あくびが出そうになり、慌てて飲み込んだ。
「無理して起きてると、ろくなこと考えねえからな」
そう言いながら、充は玄関の方へ歩いていく。
「今日は、これで帰るんですか」
思わず聞いていた。
「ああ。夜、仕事あるから」
靴を履きながら、彼は振り返る。
「また連絡する。いつ来れそうか、三浦さん経由でもいいし、直接でもいいし」
「直接って…」
「番号、後で送る」
当然のように言う。
「嫌か?」
「…別に」
嫌という感情より先に、「そんなふうに自分の生活に入り込んでくる人がいる」ことへの戸惑いが立った。
玄関のドアを開ける前に、充は一瞬だけ振り返った。
「長谷」
「はい」
「期限、決まったな」
さっき三浦が指したカレンダーのマスが、頭に浮かぶ。
「…はい」
「焦る必要はねえけど、止まってても時間は進むからさ」
充は、少しだけ口の端を上げた。
「止まってる間くらいは、俺が横でガタガタ動いてるから。うるさかったら、うるせえって言えよ」
「…分かりました」
言葉にしてみると、不思議と少しだけ胸の圧迫が軽くなった気がした。
「じゃ、今日は帰る」
充は、片手を軽く上げて見せた。
「ちゃんと鍵かけとけよ」
「…はい」
扉が閉まる。さっきと同じ音が、今度は自分と部屋だけを内側に閉じ込めた。
玄関に残されたのは、自分の靴と、父の靴だけ。充のスニーカーの跡は、すぐに消えた。でも、そこにいったん増えた「誰かの気配」は、まだ薄く残っている。
リビングに戻ると、室内は、さっきよりも広く感じられた。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上のカレンダーの紙を照らしている。三浦のペン先が示した「退去期限」のマスが、白い紙の上で静かに光っていた。
「あと…何日だ」
口の中で、数字を数えてみる。
ひとつ、ふたつ、と指を折りたたえながら、頭の中のカレンダーをなぞる。数え終わる頃には、何日目か、正確な数字はよく分からなくなっていた。
ただ一つだけ分かるのは、「いつか」だったものが、「あと○日」に変わったということ。
そして、そのカウントダウンの間に、あの見知らぬ男が何度かこの部屋に来て、自分と一緒にクローゼットを開け、押し入れを開け、何かを捨て、何かを箱に詰めるのだということ。
まだ父の匂いが残るこの空間に、別の匂いが混ざり始める。そこに自分はどんな顔で立っているのだろう。
想像はうまくできなかった。ただ、窓から入り込んだ冷たい風が、カレンダーの紙を少しだけめくり上げた。めくられた紙の下には、白いマス目がまだいくつも並んでいた。
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が
告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの