FAZER LOGIN控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。
実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。
座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。
紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。
「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」
生活安全課の男が、言葉を続けていた。
「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」
その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。
紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。
「…とりあえず、今日はこのくらいに」
生活安全課の男が一息ついた。
「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」
また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。
陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。
「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。
自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。
「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」
生活安全課の男が頭を下げる。上司もそれに合わせて軽く会釈した。
紀子が、小さく「いえ…」と返す。叔父夫婦も、「こちらこそ」と言う。
大人たちの会話は、どこか終わりかけているように見えた。話し合いは一応終わり、あとは各自がこの場から散っていくだけ。そんな空気が、じわじわと和室に満ちていく。
そのときだった。
襖の向こうから、足音が近づいてきた。二人分の靴底が、畳ではなく廊下のフローリングを踏む音。テンポの違う、二つのリズム。
コンコン、と控えめなノックの音がして、襖が少しだけ開いた。
「失礼します」
顔を覗かせたのは、高瀬だった。さっきまで同じ部屋にいたはずなのに、いつの間にか席を外していたらしい。ジャケットは持っておらず、ワイシャツ姿のまま。
その後ろから、もう一人、知らない男が顔を出した。
黒でも紺でもない、濃いグレーのシャツに、黒いジャケット。喪服ではないが、色味は抑えられている。髪は黒く、寝ぐせともセットともつかないラフな乱れ方をしている。顔立ちは整っているのに、そこに浮かぶ表情はどこか不機嫌そうで、場違いな若さが目立っていた。
「…誰だ」
叔父が、小声で漏らす。声に出さなくても、部屋にいる全員の目が同じ疑問を宿していた。
「ちょっといいですか」
高瀬が、部屋の中を見渡しながら言った。
「席、詰めてもらえる?」
「ええ…」
紀子が少し横に動き、叔父夫婦も腰をずらす。座布団が擦れる音が畳に広がる。
その隙間に、高瀬が腰を下ろし、隣にさっきの男が座った。正座ではなく、崩したあぐらに近い姿勢。膝に肘を乗せ、指を組んでいる。
近くで見ると、予想以上に若かった。二十代前半くらいだろうか。目つきは鋭いが、どこかまだ少年っぽさが残っている。
場違い、という言葉が真っ先に浮かんだ。
父の葬儀の控室にいるには、あまりにも「親族」から遠い。警察でもない。スーツでもない。喪服でもない若い男。
「こちら、桜井さん」
高瀬が、短く紹介した。
「慎一さんが、仕事を通して関わってた人間です」
「…桜井です」
男が、ぶっきらぼうに頭を下げる。名字だけ。声は意外と低く、よく通る。
仕事を通して、という言い回しが、何をどこまで意味しているのか分からない。
事件のことなのか。自分が知らない父の仕事の一部なのか。とにかく、「父に関係のある誰か」だということだけは分かった。
紀子が、少し戸惑ったように目を瞬かせる。
「長谷の、親しい…方?」
「まあ、昔から…ちょこちょこ、世話になってました」
桜井と名乗った男が、言葉を選びながら答える。
「補導されたり、説教されたり」
補導、という単語に、叔父の眉がわずかに動いた。
「ちょっと、ヤンチャだっただけです」
桜井が、先回りして付け加える。
「今は、真面目に働いてるんで」
「そうですか…」
紀子は、それ以上は深く聞かないことにしたらしい。代わりに、高瀬を見る。
「高瀬さん?」
「俺の方から声かけた」
高瀬は、短く言った。
「慎一さんが、よく話してたからな。『どうしようもないガキが一人いて』って」
「ひでえな」
桜井が、小さく笑った。
「でも、まあ。合ってるから否定できねえ」
そのやりとりだけで、二人の関係が長い時間を共有してきたものだと、何となく分かる。父と高瀬、そしてこの桜井という男の間には、自分の知らない時間がいくつもあったのだろう。
「…今、ちょうど、陸斗くんの今後の話をしていたところで」
生活安全課の男が、空気を整えるように口を挟んだ。
「官舎のことや、学校のこと、住まいのことなどを…」
「聞いてました」
桜井が、テーブルの上のメモに視線を落とした。
「廊下で、少し」
誰かの話し声は、襖越しにも漏れる。それをわざと聞いていたのか、意図せず耳に入ってきたのかは分からない。
「…そうですか」
男は、微妙な表情を浮かべながら頷く。
「まあ、プライバシーの問題もありますから、本当はあまり…」
「すみません」
桜井は、素直に頭を下げた。
陸斗は、自分の前のテーブルと、その向こうに座る見知らぬ男とを交互に見た。
父の葬儀に現れた、知らない若い男。その見た目は、正直、父の同僚たちとは明らかに違う。髪の乱れも、ジャケットの着崩し方も、座り方も。
「誰だよ」と言いたい気持ちと、「父に関係のある誰かなら、完全な部外者ではないのかもしれない」という奇妙な納得とが、胸の中で混ざる。
「…で、さっきの話の続きなんだけど」
高瀬が、座卓の上のメモ用紙を指先でとん、と軽く叩いた。
「官舎のことと、生活のこと。今日のところは、方向性だけでも決めておきたい」
「そうね…」
紀子が、疲れた声で答える。
「結局、親戚の誰も…『すぐに引き取ります』って言えない状況で…」
「本当にごめんね」
叔母が、陸斗の方を見る。
「うちも、子どもが小さくて…」
「うちも店があるしなあ…」
叔父も、再び同じ言葉を繰り返す。
理解はできる。でも、そのたびに、「ごめんね」と言われるたびに、「自分が迷惑な荷物になっている」という感覚だけが強くなる。
「児童相談所や里親制度については、こちらで引き続き動きます」
生活安全課の男が言う。
「もちろん、施設に入るにしても、本人の意向は尊重したいので…」
本人、という言葉に、陸斗の胸の奥がわずかに反応した。
意向を尊重する、と言われているわりに、今のところ誰も、「どうしたい?」とは聞いてこない。さっきも、「何か質問はある?」とは聞かれたが、「どこで暮らしたい?」とは聞かれていない。
自分の意見を言うのが怖いのか、聞かれる前に黙るのが楽なのか、その境目も分からない。
「ひとまず、しばらくは官舎に住み続けてもらうことになります」
男は続けた。
「退去までの間に、次の住まいを探す形で…」
「…一人で?」
思わず、声が出た。
全員の視線が一瞬こちらに向く。陸斗は、自分が口を開いたことに少し驚いたが、もう遅い。
「官舎には、しばらく一人で…ってことですか」
「あ…」
男は一瞬言葉に詰まった。
「そう…なる、ね」
高瀬が、代わりに答えた。
「もちろん、俺たちもできるだけ顔出すし…」
「顔出すって言ったって、毎日は無理だろ」
叔父がぽつりと漏らす。
「警察だって忙しいしさ。そんなに甘くないよ」
「…分かってます」
陸斗は、それ以上何も言えなかった。
官舎に一人で。
あの狭い部屋に、父のいない空間に、自分一人。夜、玄関の鍵を閉める音も、スリッパの音も、テレビのニュースも、自分しか鳴らさない。
電気を消した後の暗闇。冷蔵庫のモーター音。壁の向こうの隣人の生活音。そして、秒針の音。
いままで、それらの音のすべてに、「父がそこにいる」という前提があった。たとえ夜勤でいない日でも、「戻ってくる」人の気配が、部屋の隅々に残っていた。
それが、ある日を境に完全になくなる。
「…」
喉の奥に何かが詰まり、言葉が消えた。
そのとき、座卓の端で黙っていた桜井が、初めて深く息を吸い込んだ音が聞こえた。
「…やっぱ、変だわ」
低い声が、部屋の空気を揺らす。
全員が、彼の方を見る。
「何が、変なの?」
叔母が、おそるおそる尋ねる。
「この空気」
桜井は、わずかに眉をひそめた。
「さっきからずっと聞いてましたけど…誰も悪くねえのは分かってるんすよ」
言葉遣いが、いきなりくだけた。敬語とタメ口の境界線を、軽々と跨いでいる。
「みんな、自分の生活あって、仕事あって、家族いて。簡単に『引き取る』なんて言えないのも、頭では分かってる」
彼は視線をテーブルの上に落とし、メモ用紙の「退去目安」の文字を見た。
「でも、さ」
指の甲で、紙の端を軽く弾く。
「ここに一人、ガキがいるわけで」
ガキ、という言い方に誰かが眉をひそめたが、桜井は構わず続ける。
「そのガキの居場所をどうするかって話を、みんなでしてて。『寮のある学校』『施設』『里親』…」
列挙する言葉の一つ一つに、軽い皮肉が混ざる。
「何にも決まってねえのに、『選択肢はあります』『大丈夫です』『サポートします』って。よく言えるなって」
生活安全課の男の顔が、わずかに固くなる。
「桜井さん…私たちも、できる範囲で…」
「分かってますって」
桜井は、手のひらをひらひらと振った。
「アンタら個人を責めてんじゃない。制度とか、仕組みとか、そういうふわっとしたものに対して、ムカついてるだけです」
ムカついている。その感情を、自分以外の誰かがここではっきり言葉にしたのは、初めてだった。
「…口が悪いわねえ」
叔母が、小さく苦笑する。
「すみません」
軽く頭を下げるが、桜井の目は笑っていなかった。
「でも、そういうふわっとしたものの外側にさ」
彼は、横目で陸斗を見る。
「一人のガキが、ぽん、って座らされてるわけで」
視線がぶつかる。陸斗は、とっさに目を逸らした。
鋭い視線だった。でも、そこには軽蔑や興味本位の色はなかった。何かを見極めようとしているような、妙に真っ直ぐな目。
「…桜井さん、でしたっけ」
生活安全課の男が、慎重に問いかける。
「あなたは、どういうお考えで…」
「俺?」
桜井は、短く笑った。
「考えってほど、ちゃんとしたもんじゃないっすよ」
彼は、一度深呼吸をした。肺に空気を入れてから、ゆっくり吐き出す。その間、部屋は不自然なくらい静かだった。
遠くから、葬儀会場の片づけの音が微かに聞こえる。段ボールが擦れる音、誰かの笑い声とも溜息ともつかない声。
「…あの夜」
桜井が口を開いた。
「あの人に言われたんすよ」
あの人、というのは、言われなくても分かる。慎一のことだ。
「『陸斗を、頼む』って」
紀子が、ハンカチを口元に当てた。高瀬は、目を伏せる。上司は、目を細めて桜井を見た。
陸斗の胸の中で、何かが跳ねた。
自分の名前が、父以外の誰かの口から出る。そのこと自体は何度も経験しているはずなのに、今は特別だった。亡くなった父が、自分の知らない場所で、自分の名前を誰かに託していたという事実。
「路地裏でさ。血だらけになって、息もろくにできてないのに。あの人、わざわざ、俺の顔見てそう言った」
桜井は、拳を軽く握りしめた。
「そのとき俺、頷いちゃったんだよね」
軽く笑おうとしたが、その笑いは途中で途切れた。
「『分かった』って。あの状況で、嘘つくわけにもいかねえし。あの人に『無理っす』って言える根性もなかったし」
拳の甲に、血管が浮き上がる。爪が掌に食い込んでいるのが分かるほど、力が入っていた。
「…でも、今ここで、誰も手ぇ挙げねえまま、この話が終わったらさ」
桜井は、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺、あの約束、守らないってことになるじゃないですか」
「桜井さん」
男が何か言おうとしたが、桜井はそれを手で制した。
「分かってますって。俺が勝手に頷いた約束で、法律上なんの効力もねえのも」
彼は、一度目を閉じ、少しだけ顔を上げた。天井の蛍光灯の光が、瞼越しに透ける。
「でもさ」
目を開けたとき、その中にあった迷いは、まだ完全には消えていなかったが、別の何かに押されていた。
「俺、あそこで『うん』て言った自分のこと、嫌いたくないんすよ」
自分で吐き出した言葉に、自分で驚いているような声だった。
部屋の空気が、さらに一段重くなった気がした。
「…だから」
ほんの一瞬だけ、桜井は歯を食いしばった。それから、テーブルの上を見据えて、低く言った。
「俺が、引き取ります」
しん、とした。
本当に、音が消えたようだった。廊下の足音も、遠くの片づけの物音も、その瞬間だけは届かなかった。
空気だけが、静かに震えている。
「…は?」
叔父が、最初に声を出した。
「今、なんて…」
「だから」
桜井は、同じ言葉を繰り返した。
「俺が、引き取ります。長谷陸斗」
自分の名前が、はっきりとその口から出た。
陸斗は、自分の胸の内側を誰かに掴まれたような感覚を覚えた。心臓が、一拍遅れて打つ。耳の奥で血の音がする。
「ちょ、ちょっと待ってください」
生活安全課の男が、慌てて手を上げた。
「桜井さん、あなたは…その…ご家族は?」
「いません」
桜井は、即答した。
「一人です。親父は死んでますし、母親も…まあ、行方知れず。兄弟もいない」
あまりにもあっけらかんとした言い方に、場にいた誰かが息を飲んだ。
「今は、夜の店で働いてます。風俗じゃないですけど、まあ、夜職です。給料は…正直、めちゃくちゃいいってわけじゃないですけど、一人暮らしして、もう一人食わせるくらいなら、なんとかなる」
「夜の店…」
叔母が、不安そうに呟く。
「そういう…環境に、高校生を…」
「夜は俺がいない時間もありますけど」
桜井は、真正面からそれを認める。
「でも、日中はいます。シフトも、ある程度は融通きく。学校の送り迎えまでは無理でも、飯作るくらいはできる。弁当も、簡単なやつなら」
弁当、という単語が、妙に現実味を持って耳に刺さった。
「住まいは…」
生活安全課の男が、質問を重ねる。
「今は、アパート借りてます。一人暮らし用ですけど、部屋は二つあるんで、布団くらいは敷けます」
桜井は、言葉を並べながら、自分でも不安そうに笑った。
「…まあ、立派な家じゃないし、官舎よりは狭いかもしれないですけど」
「ちょっと待ってくれ」
今度は高瀬が、真剣な声で口を挟んだ。
「お前、本気で言ってんのか」
「冗談でこんなこと言わねえっすよ」
桜井は、高瀬の方を見た。
「あの人、死ぬ間際に俺のこと『拾ったガキ』って言ったんすよ。俺も、そう思ってる。だったらさ…」
彼は一度視線を落とし、それから陸斗の方をちらりと見た。
「次は、俺が誰か拾ってもいいかなって」
言葉は軽いようで、その奥にあるものは重かった。
紀子が、涙を浮かべながら口元を押さえる。
「でも…でもね」
彼女は、震える声で言った。
「桜井さんって…血のつながりもないでしょう?急にそんな、知らないお兄さんの家に行けって言われても…」
「そうですよ」
叔父も頷く。
「悪いけど、どこの誰かも分からない若い兄ちゃんのとこに、甥っ子預けるって…」
「慎一さんが拾ったガキですよ」
桜井は、自分で言って、自分で苦笑した。
「どこの誰か、って言われたら、まあ、そうなんすけど。少なくとも、長谷さんが、何度も説教して、更生させようとしてくれた相手です」
「その言い方もどうかと思うが…」
高瀬が頭を掻いた。
「法律的なこともある」
生活安全課の男が、冷静さを取り戻そうとしているように見えた。
「未成年者を引き取るには、親権者との関係や、後見人の手続き、里親登録など、かなり複雑なプロセスが必要です。桜井さんのように血縁関係のない成人男性が、単独で未成年者を養育するケースは…」
「イレギュラーですよね」
桜井は、先に言った。
「分かってます。俺、法律詳しくねえけど、面倒くさいことになるのは想像つきます」
彼は、少しだけ笑った。その笑いは、開き直りと自嘲とが混ざっている。
「でもさ」
視線を、座卓の向こうにいる陸斗に向ける。
「『法律的に面倒だから』『制度的に前例がないから』って理由で、何もしないで見過ごす方が、俺にはきついんすよ」
何もしないで見過ごす。その言葉に、陸斗の胸が小さくざわついた。
今までの話し合いは、どこか「正しいこと」を探しているように見えた。制度に沿って、最善の選択を。誰も大きな間違いをしないように。
でも、その「正しさ」の外側には、「誰かがきついと思うこと」が置き去りにされているのかもしれない。
「…あなた」
紀子が、桜井に問いかけた。
「本当に…本当に、それでいいの?」
「良くないことも、たくさんあります」
桜井は、即答した。
「俺だって、二十そこそこで、高校生一人抱えるなんて…正直、怖いし。責任なんて、ちゃんと取れるか分かんねえし」
その正直さが、逆に嘘っぽさを消していた。
「でも」
彼は、視線を落とし、拳を膝の上でぎゅっと握った。
「あそこで頷いた自分のこと、信じたいんすよ。『お前に任せた』って言ったあの人のことも」
慎一の顔が、頭の中に浮かぶ。病院の白いシーツの上ではない。朝、味噌汁の湯気の向こうで、新聞を片手に「行ってきます」と言ったときの顔。
自分の知らない路地裏で、その人が誰かに「陸斗を頼む」と言った。その相手が、今、目の前に座っている。
「…長谷くん」
不意に、高瀬が、真っ直ぐ陸斗を見た。
「どうする」
部屋の空気が、一気に陸斗の方に向かう。
紀子も、叔父も、叔母も、生活安全課の男も、桜井も。全員の視線が、一瞬、彼に集中した。
今まで、誰も真正面から聞いてこなかった問い。
「どうしたい?」
その要約が、「どうする」だった。
喉が渇く。唾を飲み込もうとしても、うまくいかない。舌が上顎に貼りつく。胸の奥が、急に狭くなったように感じる。
父の葬儀に現れた見知らぬ男が、自分の人生の進路を一言で変えようとしている。そう考えると、怖い。
でも、その男は「父に関係のある誰か」だった。父が拾ったガキ。父に説教され、怒鳴られ、それでも離れなかった相手。その男が、今度は自分を拾おうとしている。
施設に入るのか。遠くの親戚の家に行くのか。官舎に一人で残るのか。それとも、この見知らぬ男の家に行くのか。
どの選択肢も、怖い。どの道も、先が見えない。ただ、その中でひとつだけ、「父の延長線上にある道」がある気がした。
桜井は、不器用そうに、しかし逃げずに陸斗の目を見ていた。そこには、「かわいそうな子を見る大人の目」ではない、別の何かがあった。
「…俺は」
声を出そうとして、喉が詰まる。
言葉が、すぐそこまで来ているのに、口の形にならない。今ここで「はい」と言えば、すべてが決まってしまう。「いいえ」と言えば、この場にさらに重い沈黙が落ちる。
どちらも、怖かった。
「…」
結局、陸斗は何も言えなかった。
ただ、心臓の音だけが自分の耳にやけに大きく響いていた。世界の音は遠く、座卓の上の紙の「退去目安」の文字だけが、やけにくっきりと浮かんで見えた。
世界が、また別の方向に動き出そうとしている音だけが、静かな部屋のどこかで鳴っている気がした。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
その知らせを持ってきたのは、夕方のラストの電話が途切れた直後だった。風俗店のバックヤード。薄汚れたソファと、書類の詰まったスチールラックと、電子レンジと、湯沸かしポット。それらを無理やり同じ空間に押し込めた六畳ほどの部屋に、蛍光灯の白い光が広がっている。カーテンの向こう側では、電話が鳴れば男のスタッフが受話器を取り、女たちが笑い声を作り、車の鍵がジャラジャラと鳴る。ここだけ切り離されたみたいな静けさがあるようで、実際には壁が薄いせいで全ての音がじんわり染み込んでくる。桜井充は、デスクの上に置かれた出勤簿にボールペンを走らせていた。今日の売上
コンビニの明かりだけがやけに白く浮いて見える夜だった。新宿の外れ、駅から少し歩いた先の交差点脇にある二十四時間営業の店。その前のスペースに、原付が二台、斜めに寄せて止めてある。マフラーにべたべたとステッカーを貼られたそれは、どこか安っぽい威嚇をまとっていた。店先の灰皿の前で、桜井充はコンビニ袋を片手でぶらぶらさせながら、もう片方の手でタバコを弄んでいた。細長いフィルターを唇に咥えるが、火はつけない。ただ咥えていると、口の中が落ち着く気がした。「おい充、はやくしろよ」自販機の横に腰を掛けていた連れの男が、缶チューハイを振りなが
目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさ