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10.俺が引き取る、と言ってしまう瞬間

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2026-01-01 13:45:49

控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。

実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。

座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。

紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。

「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」

生活安全課の男が、言葉を続けていた。

「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」

その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。

紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。

「…とりあえず、今日はこのくらいに」

生活安全課の男が一息ついた。

「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」

また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。

陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。

「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。

自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。

「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」

生活安全課の男が頭を下げる。上司もそれに合わせて軽く会釈した。

紀子が、小さく「いえ…」と返す。叔父夫婦も、「こちらこそ」と言う。

大人たちの会話は、どこか終わりかけているように見えた。話し合いは一応終わり、あとは各自がこの場から散っていくだけ。そんな空気が、じわじわと和室に満ちていく。

そのときだった。

襖の向こうから、足音が近づいてきた。二人分の靴底が、畳ではなく廊下のフローリングを踏む音。テンポの違う、二つのリズム。

コンコン、と控えめなノックの音がして、襖が少しだけ開いた。

「失礼します」

顔を覗かせたのは、高瀬だった。さっきまで同じ部屋にいたはずなのに、いつの間にか席を外していたらしい。ジャケットは持っておらず、ワイシャツ姿のまま。

その後ろから、もう一人、知らない男が顔を出した。

黒でも紺でもない、濃いグレーのシャツに、黒いジャケット。喪服ではないが、色味は抑えられている。髪は黒く、寝ぐせともセットともつかないラフな乱れ方をしている。顔立ちは整っているのに、そこに浮かぶ表情はどこか不機嫌そうで、場違いな若さが目立っていた。

「…誰だ」

叔父が、小声で漏らす。声に出さなくても、部屋にいる全員の目が同じ疑問を宿していた。

「ちょっといいですか」

高瀬が、部屋の中を見渡しながら言った。

「席、詰めてもらえる?」

「ええ…」

紀子が少し横に動き、叔父夫婦も腰をずらす。座布団が擦れる音が畳に広がる。

その隙間に、高瀬が腰を下ろし、隣にさっきの男が座った。正座ではなく、崩したあぐらに近い姿勢。膝に肘を乗せ、指を組んでいる。

近くで見ると、予想以上に若かった。二十代前半くらいだろうか。目つきは鋭いが、どこかまだ少年っぽさが残っている。

場違い、という言葉が真っ先に浮かんだ。

父の葬儀の控室にいるには、あまりにも「親族」から遠い。警察でもない。スーツでもない。喪服でもない若い男。

「こちら、桜井さん」

高瀬が、短く紹介した。

「慎一さんが、仕事を通して関わってた人間です」

「…桜井です」

男が、ぶっきらぼうに頭を下げる。名字だけ。声は意外と低く、よく通る。

仕事を通して、という言い回しが、何をどこまで意味しているのか分からない。

事件のことなのか。自分が知らない父の仕事の一部なのか。とにかく、「父に関係のある誰か」だということだけは分かった。

紀子が、少し戸惑ったように目を瞬かせる。

「長谷の、親しい…方?」

「まあ、昔から…ちょこちょこ、世話になってました」

桜井と名乗った男が、言葉を選びながら答える。

「補導されたり、説教されたり」

補導、という単語に、叔父の眉がわずかに動いた。

「ちょっと、ヤンチャだっただけです」

桜井が、先回りして付け加える。

「今は、真面目に働いてるんで」

「そうですか…」

紀子は、それ以上は深く聞かないことにしたらしい。代わりに、高瀬を見る。

「高瀬さん?」

「俺の方から声かけた」

高瀬は、短く言った。

「慎一さんが、よく話してたからな。『どうしようもないガキが一人いて』って」

「ひでえな」

桜井が、小さく笑った。

「でも、まあ。合ってるから否定できねえ」

そのやりとりだけで、二人の関係が長い時間を共有してきたものだと、何となく分かる。父と高瀬、そしてこの桜井という男の間には、自分の知らない時間がいくつもあったのだろう。

「…今、ちょうど、陸斗くんの今後の話をしていたところで」

生活安全課の男が、空気を整えるように口を挟んだ。

「官舎のことや、学校のこと、住まいのことなどを…」

「聞いてました」

桜井が、テーブルの上のメモに視線を落とした。

「廊下で、少し」

誰かの話し声は、襖越しにも漏れる。それをわざと聞いていたのか、意図せず耳に入ってきたのかは分からない。

「…そうですか」

男は、微妙な表情を浮かべながら頷く。

「まあ、プライバシーの問題もありますから、本当はあまり…」

「すみません」

桜井は、素直に頭を下げた。

陸斗は、自分の前のテーブルと、その向こうに座る見知らぬ男とを交互に見た。

父の葬儀に現れた、知らない若い男。その見た目は、正直、父の同僚たちとは明らかに違う。髪の乱れも、ジャケットの着崩し方も、座り方も。

「誰だよ」と言いたい気持ちと、「父に関係のある誰かなら、完全な部外者ではないのかもしれない」という奇妙な納得とが、胸の中で混ざる。

「…で、さっきの話の続きなんだけど」

高瀬が、座卓の上のメモ用紙を指先でとん、と軽く叩いた。

「官舎のことと、生活のこと。今日のところは、方向性だけでも決めておきたい」

「そうね…」

紀子が、疲れた声で答える。

「結局、親戚の誰も…『すぐに引き取ります』って言えない状況で…」

「本当にごめんね」

叔母が、陸斗の方を見る。

「うちも、子どもが小さくて…」

「うちも店があるしなあ…」

叔父も、再び同じ言葉を繰り返す。

理解はできる。でも、そのたびに、「ごめんね」と言われるたびに、「自分が迷惑な荷物になっている」という感覚だけが強くなる。

「児童相談所や里親制度については、こちらで引き続き動きます」

生活安全課の男が言う。

「もちろん、施設に入るにしても、本人の意向は尊重したいので…」

本人、という言葉に、陸斗の胸の奥がわずかに反応した。

意向を尊重する、と言われているわりに、今のところ誰も、「どうしたい?」とは聞いてこない。さっきも、「何か質問はある?」とは聞かれたが、「どこで暮らしたい?」とは聞かれていない。

自分の意見を言うのが怖いのか、聞かれる前に黙るのが楽なのか、その境目も分からない。

「ひとまず、しばらくは官舎に住み続けてもらうことになります」

男は続けた。

「退去までの間に、次の住まいを探す形で…」

「…一人で?」

思わず、声が出た。

全員の視線が一瞬こちらに向く。陸斗は、自分が口を開いたことに少し驚いたが、もう遅い。

「官舎には、しばらく一人で…ってことですか」

「あ…」

男は一瞬言葉に詰まった。

「そう…なる、ね」

高瀬が、代わりに答えた。

「もちろん、俺たちもできるだけ顔出すし…」

「顔出すって言ったって、毎日は無理だろ」

叔父がぽつりと漏らす。

「警察だって忙しいしさ。そんなに甘くないよ」

「…分かってます」

陸斗は、それ以上何も言えなかった。

官舎に一人で。

あの狭い部屋に、父のいない空間に、自分一人。夜、玄関の鍵を閉める音も、スリッパの音も、テレビのニュースも、自分しか鳴らさない。

電気を消した後の暗闇。冷蔵庫のモーター音。壁の向こうの隣人の生活音。そして、秒針の音。

いままで、それらの音のすべてに、「父がそこにいる」という前提があった。たとえ夜勤でいない日でも、「戻ってくる」人の気配が、部屋の隅々に残っていた。

それが、ある日を境に完全になくなる。

「…」

喉の奥に何かが詰まり、言葉が消えた。

そのとき、座卓の端で黙っていた桜井が、初めて深く息を吸い込んだ音が聞こえた。

「…やっぱ、変だわ」

低い声が、部屋の空気を揺らす。

全員が、彼の方を見る。

「何が、変なの?」

叔母が、おそるおそる尋ねる。

「この空気」

桜井は、わずかに眉をひそめた。

「さっきからずっと聞いてましたけど…誰も悪くねえのは分かってるんすよ」

言葉遣いが、いきなりくだけた。敬語とタメ口の境界線を、軽々と跨いでいる。

「みんな、自分の生活あって、仕事あって、家族いて。簡単に『引き取る』なんて言えないのも、頭では分かってる」

彼は視線をテーブルの上に落とし、メモ用紙の「退去目安」の文字を見た。

「でも、さ」

指の甲で、紙の端を軽く弾く。

「ここに一人、ガキがいるわけで」

ガキ、という言い方に誰かが眉をひそめたが、桜井は構わず続ける。

「そのガキの居場所をどうするかって話を、みんなでしてて。『寮のある学校』『施設』『里親』…」

列挙する言葉の一つ一つに、軽い皮肉が混ざる。

「何にも決まってねえのに、『選択肢はあります』『大丈夫です』『サポートします』って。よく言えるなって」

生活安全課の男の顔が、わずかに固くなる。

「桜井さん…私たちも、できる範囲で…」

「分かってますって」

桜井は、手のひらをひらひらと振った。

「アンタら個人を責めてんじゃない。制度とか、仕組みとか、そういうふわっとしたものに対して、ムカついてるだけです」

ムカついている。その感情を、自分以外の誰かがここではっきり言葉にしたのは、初めてだった。

「…口が悪いわねえ」

叔母が、小さく苦笑する。

「すみません」

軽く頭を下げるが、桜井の目は笑っていなかった。

「でも、そういうふわっとしたものの外側にさ」

彼は、横目で陸斗を見る。

「一人のガキが、ぽん、って座らされてるわけで」

視線がぶつかる。陸斗は、とっさに目を逸らした。

鋭い視線だった。でも、そこには軽蔑や興味本位の色はなかった。何かを見極めようとしているような、妙に真っ直ぐな目。

「…桜井さん、でしたっけ」

生活安全課の男が、慎重に問いかける。

「あなたは、どういうお考えで…」

「俺?」

桜井は、短く笑った。

「考えってほど、ちゃんとしたもんじゃないっすよ」

彼は、一度深呼吸をした。肺に空気を入れてから、ゆっくり吐き出す。その間、部屋は不自然なくらい静かだった。

遠くから、葬儀会場の片づけの音が微かに聞こえる。段ボールが擦れる音、誰かの笑い声とも溜息ともつかない声。

「…あの夜」

桜井が口を開いた。

「あの人に言われたんすよ」

あの人、というのは、言われなくても分かる。慎一のことだ。

「『陸斗を、頼む』って」

紀子が、ハンカチを口元に当てた。高瀬は、目を伏せる。上司は、目を細めて桜井を見た。

陸斗の胸の中で、何かが跳ねた。

自分の名前が、父以外の誰かの口から出る。そのこと自体は何度も経験しているはずなのに、今は特別だった。亡くなった父が、自分の知らない場所で、自分の名前を誰かに託していたという事実。

「路地裏でさ。血だらけになって、息もろくにできてないのに。あの人、わざわざ、俺の顔見てそう言った」

桜井は、拳を軽く握りしめた。

「そのとき俺、頷いちゃったんだよね」

軽く笑おうとしたが、その笑いは途中で途切れた。

「『分かった』って。あの状況で、嘘つくわけにもいかねえし。あの人に『無理っす』って言える根性もなかったし」

拳の甲に、血管が浮き上がる。爪が掌に食い込んでいるのが分かるほど、力が入っていた。

「…でも、今ここで、誰も手ぇ挙げねえまま、この話が終わったらさ」

桜井は、ゆっくりと言葉を続けた。

「俺、あの約束、守らないってことになるじゃないですか」

「桜井さん」

男が何か言おうとしたが、桜井はそれを手で制した。

「分かってますって。俺が勝手に頷いた約束で、法律上なんの効力もねえのも」

彼は、一度目を閉じ、少しだけ顔を上げた。天井の蛍光灯の光が、瞼越しに透ける。

「でもさ」

目を開けたとき、その中にあった迷いは、まだ完全には消えていなかったが、別の何かに押されていた。

「俺、あそこで『うん』て言った自分のこと、嫌いたくないんすよ」

自分で吐き出した言葉に、自分で驚いているような声だった。

部屋の空気が、さらに一段重くなった気がした。

「…だから」

ほんの一瞬だけ、桜井は歯を食いしばった。それから、テーブルの上を見据えて、低く言った。

「俺が、引き取ります」

しん、とした。

本当に、音が消えたようだった。廊下の足音も、遠くの片づけの物音も、その瞬間だけは届かなかった。

空気だけが、静かに震えている。

「…は?」

叔父が、最初に声を出した。

「今、なんて…」

「だから」

桜井は、同じ言葉を繰り返した。

「俺が、引き取ります。長谷陸斗」

自分の名前が、はっきりとその口から出た。

陸斗は、自分の胸の内側を誰かに掴まれたような感覚を覚えた。心臓が、一拍遅れて打つ。耳の奥で血の音がする。

「ちょ、ちょっと待ってください」

生活安全課の男が、慌てて手を上げた。

「桜井さん、あなたは…その…ご家族は?」

「いません」

桜井は、即答した。

「一人です。親父は死んでますし、母親も…まあ、行方知れず。兄弟もいない」

あまりにもあっけらかんとした言い方に、場にいた誰かが息を飲んだ。

「今は、夜の店で働いてます。風俗じゃないですけど、まあ、夜職です。給料は…正直、めちゃくちゃいいってわけじゃないですけど、一人暮らしして、もう一人食わせるくらいなら、なんとかなる」

「夜の店…」

叔母が、不安そうに呟く。

「そういう…環境に、高校生を…」

「夜は俺がいない時間もありますけど」

桜井は、真正面からそれを認める。

「でも、日中はいます。シフトも、ある程度は融通きく。学校の送り迎えまでは無理でも、飯作るくらいはできる。弁当も、簡単なやつなら」

弁当、という単語が、妙に現実味を持って耳に刺さった。

「住まいは…」

生活安全課の男が、質問を重ねる。

「今は、アパート借りてます。一人暮らし用ですけど、部屋は二つあるんで、布団くらいは敷けます」

桜井は、言葉を並べながら、自分でも不安そうに笑った。

「…まあ、立派な家じゃないし、官舎よりは狭いかもしれないですけど」

「ちょっと待ってくれ」

今度は高瀬が、真剣な声で口を挟んだ。

「お前、本気で言ってんのか」

「冗談でこんなこと言わねえっすよ」

桜井は、高瀬の方を見た。

「あの人、死ぬ間際に俺のこと『拾ったガキ』って言ったんすよ。俺も、そう思ってる。だったらさ…」

彼は一度視線を落とし、それから陸斗の方をちらりと見た。

「次は、俺が誰か拾ってもいいかなって」

言葉は軽いようで、その奥にあるものは重かった。

紀子が、涙を浮かべながら口元を押さえる。

「でも…でもね」

彼女は、震える声で言った。

「桜井さんって…血のつながりもないでしょう?急にそんな、知らないお兄さんの家に行けって言われても…」

「そうですよ」

叔父も頷く。

「悪いけど、どこの誰かも分からない若い兄ちゃんのとこに、甥っ子預けるって…」

「慎一さんが拾ったガキですよ」

桜井は、自分で言って、自分で苦笑した。

「どこの誰か、って言われたら、まあ、そうなんすけど。少なくとも、長谷さんが、何度も説教して、更生させようとしてくれた相手です」

「その言い方もどうかと思うが…」

高瀬が頭を掻いた。

「法律的なこともある」

生活安全課の男が、冷静さを取り戻そうとしているように見えた。

「未成年者を引き取るには、親権者との関係や、後見人の手続き、里親登録など、かなり複雑なプロセスが必要です。桜井さんのように血縁関係のない成人男性が、単独で未成年者を養育するケースは…」

「イレギュラーですよね」

桜井は、先に言った。

「分かってます。俺、法律詳しくねえけど、面倒くさいことになるのは想像つきます」

彼は、少しだけ笑った。その笑いは、開き直りと自嘲とが混ざっている。

「でもさ」

視線を、座卓の向こうにいる陸斗に向ける。

「『法律的に面倒だから』『制度的に前例がないから』って理由で、何もしないで見過ごす方が、俺にはきついんすよ」

何もしないで見過ごす。その言葉に、陸斗の胸が小さくざわついた。

今までの話し合いは、どこか「正しいこと」を探しているように見えた。制度に沿って、最善の選択を。誰も大きな間違いをしないように。

でも、その「正しさ」の外側には、「誰かがきついと思うこと」が置き去りにされているのかもしれない。

「…あなた」

紀子が、桜井に問いかけた。

「本当に…本当に、それでいいの?」

「良くないことも、たくさんあります」

桜井は、即答した。

「俺だって、二十そこそこで、高校生一人抱えるなんて…正直、怖いし。責任なんて、ちゃんと取れるか分かんねえし」

その正直さが、逆に嘘っぽさを消していた。

「でも」

彼は、視線を落とし、拳を膝の上でぎゅっと握った。

「あそこで頷いた自分のこと、信じたいんすよ。『お前に任せた』って言ったあの人のことも」

慎一の顔が、頭の中に浮かぶ。病院の白いシーツの上ではない。朝、味噌汁の湯気の向こうで、新聞を片手に「行ってきます」と言ったときの顔。

自分の知らない路地裏で、その人が誰かに「陸斗を頼む」と言った。その相手が、今、目の前に座っている。

「…長谷くん」

不意に、高瀬が、真っ直ぐ陸斗を見た。

「どうする」

部屋の空気が、一気に陸斗の方に向かう。

紀子も、叔父も、叔母も、生活安全課の男も、桜井も。全員の視線が、一瞬、彼に集中した。

今まで、誰も真正面から聞いてこなかった問い。

「どうしたい?」

その要約が、「どうする」だった。

喉が渇く。唾を飲み込もうとしても、うまくいかない。舌が上顎に貼りつく。胸の奥が、急に狭くなったように感じる。

父の葬儀に現れた見知らぬ男が、自分の人生の進路を一言で変えようとしている。そう考えると、怖い。

でも、その男は「父に関係のある誰か」だった。父が拾ったガキ。父に説教され、怒鳴られ、それでも離れなかった相手。その男が、今度は自分を拾おうとしている。

施設に入るのか。遠くの親戚の家に行くのか。官舎に一人で残るのか。それとも、この見知らぬ男の家に行くのか。

どの選択肢も、怖い。どの道も、先が見えない。ただ、その中でひとつだけ、「父の延長線上にある道」がある気がした。

桜井は、不器用そうに、しかし逃げずに陸斗の目を見ていた。そこには、「かわいそうな子を見る大人の目」ではない、別の何かがあった。

「…俺は」

声を出そうとして、喉が詰まる。

言葉が、すぐそこまで来ているのに、口の形にならない。今ここで「はい」と言えば、すべてが決まってしまう。「いいえ」と言えば、この場にさらに重い沈黙が落ちる。

どちらも、怖かった。

「…」

結局、陸斗は何も言えなかった。

ただ、心臓の音だけが自分の耳にやけに大きく響いていた。世界の音は遠く、座卓の上の紙の「退去目安」の文字だけが、やけにくっきりと浮かんで見えた。

世界が、また別の方向に動き出そうとしている音だけが、静かな部屋のどこかで鳴っている気がした。

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    畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   8.煙草の煙と罪悪感

    葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   7.殉職という言葉の重さ

    告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの

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