LOGIN告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。
白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。
その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。
黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。
正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。
「ここ」
案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。
黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。
…遺族。
胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。
ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。
昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。
眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。
「それでは、ただいまより…」
司会者の声が、マイクを通して響いた。
「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」
その名が、ホールの空間全体に放たれる。聞き慣れたはずの父の名前が、知らない敬称と階級に挟まれて、よそ行きの顔をしている。
「まずはじめに、警視庁を代表いたしまして、○○警視より弔辞を賜ります」
壇上に、一人の男が立つ。
五十代半ばくらいだろうか。短く刈り込まれた髪、眼鏡、きっちりと着こなした礼服。胸には小さなバッジが光っている。ゆっくりとマイクの前に立ち、手元の原稿を広げた。
一礼のあと、彼は一定の調子で読み始めた。
「本日ここに、警視庁を代表いたしまして、警部補 長谷慎一 殿のご冥福をお祈りし、哀悼の意を表します」
声はよく通る。マイク越しに、最後列まで均等に届くように訓練された声だ。抑揚は過不足なく、感情が乗っているようにも、いないようにも聞こえる。
「長谷警部補は、市民の安全と安心を守るため、日々職務に励み…」
何度も繰り返されてきたテンプレートのような言葉が続く。
「誠実で、責任感が強く、常に部下や後輩の模範となる警察官でありました」
「地域住民からの信頼も厚く、誰に対しても分け隔てなく接する姿は、多くの同僚の尊敬を集めておりました」
言われてみれば、そうなのかもしれない。父の職場での姿を、陸斗はほとんど知らない。警察署の中でどんな顔をしているのか、想像したこともなかった。
「…先日、職務中に発生した事件におきまして、長谷警部補は、危険を顧みることなく、市民を庇い、犯人と対峙しました」
空気が、少し固くなるのが分かった。
「その中で、胸部を刃物で刺され、尊い命を捧げられました」
尊い命。
「殉職」という単語は、あえて口にしていないように聞こえた。けれど、「命を捧げる」という言い回しが、そこに含まれている意味を補っている。
誰かが前列で鼻をすする音がした。隣の父の妹が、ハンカチで目元を押さえる。後方の席からも小さなすすり泣きが聞こえ始める。
「私たちは、長谷警部補の崇高な使命感と勇気に、深く敬意を表します」
崇高、使命感、勇気。
どれも教科書の中にありそうな言葉ばかりだ。それが今、父の名前にくっついている。
「ご遺族の皆様、どうか長谷警部補を誇りに思ってください」
その一文だけは、原稿の文字以上の重さを持って、陸斗の耳に届いた。
誇りに、思ってください。
言われているのは、自分だ。父の妹や叔父や、親戚たちも含まれるのかもしれないが、狙いの中心は明らかに自分に向いている。
胸が、妙にきゅっと縮む。
誇り。誇る。胸を張る。父は立派な警察官で、英雄で、殉職した。だから、息子である自分は堂々としていなければいけない。
…本当に?
頭のどこかが、小さく反発する。
父が死んでから、まだ何日も経っていない。病院で白いシーツをめくったときのあの冷たさと匂いは、まだ指先と鼻の奥に残っている。それなのに、「英雄」「誇り」といったきれいな言葉が、上からかぶせられていく。
「模範的な警察官であり、良き父でもありました」
その一文に、陸斗は思わず目を細めた。
良き父。
そう言われると、どこかむずがゆい。
確かに、父は酷い親ではなかった。高校まできちんと通わせてくれたし、飯も洗濯もある程度やってくれたし、暴力を振るわれたこともない。それでも、「模範的な父親」とか「理想の父」といった単語とは、少し違う気がする。
適当なところもあるし、家事の手を抜くことだってあるし、仕事の愚痴をこぼしているところも見た。それも全部含めて、「父」だった。
マイク越しの声が語る「良き父」と、自分の知っている「父」は、少しズレている。
でも、そのことをここで訂正することはできない。
弔辞は淡々と続く。
「私たちは、長谷警部補の志を引き継ぎ、これからも職務に邁進することをここに誓います」
最後にもう一度、「ご冥福をお祈りします」と結ばれ、深い一礼がなされた。
ホール全体が立ち上がる音がする。椅子が擦れる音、靴音。全員が一斉に黙祷の姿勢を取る。頭を垂れたとき、視界の端に遺影の白がちらりと映った。
黙祷の時間は、一分もなかっただろう。けれど、陸斗には妙に長く感じられた。
瞼を閉じても、真っ暗にはならない。白い光がぼんやりと透けて見える。その向こうに、病院の蛍光灯の色と、父の顔が重なった。
「続きまして、警視庁○○署、刑事課の…高瀬警部補より、弔辞を頂戴します」
司会者の声が響く。
壇上に登ったその人の姿を見て、陸斗は少しだけ姿勢を正した。
父の同僚、高瀬。昨夜、病院から葬儀場への道中、運転席に座っていた人。通夜の最中にも何度か顔を合わせた。
今の彼は、昨日見た疲れた顔とは違っていた。黒い礼服に身を包み、ネクタイをしっかりと締めている。いつもの署での姿を見たことはないが、「仕事モード」のスイッチを無理やり入れているのは分かった。
マイクの前に立った高瀬は、原稿を持つ手を一度軽く握り、開いた。深呼吸をし、静かに頭を下げる。
「長谷慎一さんの同僚を代表して、弔辞を述べさせていただきます」
声は少し掠れていたが、はっきりとしていた。言葉を選びながら話しているのが分かる。
「長谷さんは、真面目で、融通が利かないところもありますが…」
そこで、会場の何人かが小さく笑った。息を飲むような笑い。泣き笑いに近い。
「それでも、誰よりも現場を大事にする、人情のある刑事でした」
「新人の面倒をよく見ていました。若い連中が書いたしょうもない調書を、夜中まで一緒に直してやる姿は、署内の風物詩みたいなものでした」
高瀬の言葉には、さっきの幹部の弔辞にはなかった具体性があった。話しているのは、「優等生な警察官」ではなく、「職場で生きていた慎一」の姿だ。
「…私自身も、若い頃から何度も怒られました」
原稿を見ながらも、ふと目を上げて遠くを見るように高瀬は続ける。
「手抜きをすればすぐにバレて、『それで納得できるのか』と、よく詰められました」
「夜勤明けに、コンビニのおにぎりを片手に、事件の話をしていた姿が忘れられません。ああでもない、こうでもないと、目をギラギラさせて…」
そこまで話したところで、高瀬の声がわずかに震えた。
「…すみません」
一度、言葉を区切り、喉を整えるように咳払いをする。原稿を持つ手に力がこもり、紙が少し音を立てた。
「そんな長谷さんが、最後の最後まで…」
言いかけたところで、高瀬は一瞬言葉を失った。
病院の白い廊下、路地裏の血の匂い。彼の頭の中にも、あの夜の光景が甦っているのだろう。
会場が静まり返る。誰も咳払い一つしない。
高瀬は、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸ってから、もう一度口を開いた。
「最後の最後まで、誰かを庇って倒れたことは…長谷さんらしいと言えばらしいのかもしれません」
そこには、悔しさと誇りと、やり切れなさが入り混じっていた。
「でも、本当は…」
一瞬、声が素に戻りかける。
「でも、本当は…こんな弔辞を書く日が来るなんて、思っていませんでした」
「明日も、明後日も、いつものように署で会えると思っていました。くだらない冗談を言い合って、『お前のカレーはしょっぱい』と文句を言われて…そんな日常がずっと続くと思っていました」
それは、陸斗が知っている父と、知らない父の間にある「日常」の話だった。
カレーのくだりで、胸の奥が少しだけ痛む。
「長谷さんは、私たちの良き同僚であり、仲間であり…何より、息子さん思いの父親でした」
「夜勤の合間に、よく息子さんの話をしていました。『反抗期でさ』『最近は朝もなかなか起きてこない』と文句を言いながら、どこか嬉しそうでした」
そんな話をしていたのか、と陸斗は思う。
自分がうるさく起こされて「うるさい」と文句を言っていた朝。その裏で、父は職場で自分の話をしていた。その姿を、今初めて想像する。
「…長谷さん」
高瀬は、原稿から目を離し、遺影に視線を向けた。
「あなたの代わりは、どこにもいません」
「あなたが守ろうとした町と人を、私たちが守っていきます。だから…どうか、少し休んでください」
最後の言葉は、原稿にはないものだったように聞こえた。
深く一礼すると、会場のあちこちから、静かなすすり泣きが聞こえた。誰かが鼻をすする音が、前列からも後ろからも届く。
隣の父の妹は、すでにハンカチを目に当てたまま肩を震わせている。叔父も、口を固く結んだまま目を閉じていた。
「…」
陸斗だけが、泣けなかった。
胸の奥は、何かがぎゅっとつかまれているように苦しいのに、目からは一滴も水が出てこない。喉の奥が熱くなっても、それは涙にはならない。
泣いた方がいいのだろうか。息子としては、ここで泣いておくべきなのか。周りの大人たちのように、ハンカチで目元を押さえて震えるのが、「正しい悲しみ方」なのか。
「…俺、冷たいのかな」
自分でも聞こえるかどうかギリギリの声で、内側に向かって呟いた。
父が死んで、告別式で、弔辞がこれだけ胸に刺さることを言われているのに、泣けない。感情がおかしいのではないか。どこかの線が切れてしまっているのではないか。
頭の中で、誰かが「そんなことない」と言う代わりに、別の誰かが「そうかもしれない」と言う。答えのない会話が、ぐるぐると回る。
式は淡々と進んでいく。
起立、黙祷、献花。警察の儀礼に合わせた特別な動きもあり、統制の取れた立ち座りの音がホールに響く。
そのたびに、遺族席の前に誰かが立ち寄り、「立派な殉職でした」「英雄です」「ご冥福を」「誇りに思ってください」と言いながら頭を下げる。
部長クラスの幹部、同じ部署の同僚、別の署の警官、父の学生時代の友人だという男。どの顔も、真剣だ。彼らは本気でそう思っていて、本気で慰めようとしている。
それが分かるからこそ、「やめてください」と言えない。
「英雄」「誇り」「立派な殉職」。
そのたびに、胸の奥に見えない石が一つずつ積み上がっていく感覚がした。
英雄の息子。立派な殉職警官の息子。誇りに思うべき遺族。
そういうラベルが、自分の知らないところで貼られていく。
「…俺は、誇らなきゃいけないのか」
また、胸の中で呟く。
「誇りに思わないと、親不孝なのか。じゃあ、なんで俺はこんなに、腹の中が空っぽなんだ」
怒りとも悲しみともつかない、空虚な感情が、お腹のあたりで渦を巻く。ただ泣き崩れた方がまだ楽なのかもしれない。何も感じないよりは、何かを感じている方が、人間として正しい気がする。
なのに、感情は動かない。動こうとして、途中で引っかかって止まる。ブレーキだけが強くかかっているような状態だった。
やがて、司会者の声が、告別式の終わりに近づいていることを告げる。
「これより、ご親族、ご友人の方々による最後のお別れの時間といたします」
祭壇の前に、白い棺が移動される。ふたはまだ外されたままだ。その中に、慎一の身体が横たわっている。
昨夜、安置室で見たときよりも、少しだけ顔色が良く見えた。薄く化粧をされ、髭もきれいに剃られている。胸元には白いシャツとネクタイ、その上に制服のジャケットがかぶせられている。肩には、見慣れない勲章のようなものが置かれていた。
「ご親族の方から、順番にお花をお納めください」
係員の女性が、柔らかい声で促す。棺の脇に、白い菊とカーネーションの花束が山のように用意されている。
まず、父の妹が立ち上がった。足元をふらつかせながら棺に近づき、一輪ずつ花を手に取り、慎一の胸のあたりにそっと置いていく。そのたびに、彼女の肩が小さく震える。
「しんちゃん…」
か細い声が、棺の上に落ちた。
次に叔父が続き、遠い親戚たちが順々に前に出る。みんな目を赤くし、時に顔を歪めながら花を置いていく。ある者は額に触れ、ある者は頬を撫で、ある者は胸元を整える。
陸斗の順番が来た。
立ち上がろうとした瞬間、足が一瞬固まる。膝の関節がきしむように重い。
「行こう」
肩に手が置かれた。高瀬だった。いつの間にか、陸斗のすぐ後ろに立っていたらしい。
「大丈夫だ」
「…はい」
声だけは出たが、一歩が出ない。足と床の間に、透明な接着剤でも流されているみたいに動かない。
「…」
高瀬の手が、少しだけ強く陸斗の肩を押した。
その力に背中を預けるみたいにして、ようやく一歩前に出る。足元がぐらぐらする。棺が近づくにつれて、胸の奥の何かが固まっていくような感覚がした。
棺の中の父を、上から見下ろす形になる。
眠っているみたいだ、と改めて思う。目は閉じられ、唇は少しだけ開いている。顔の筋肉は緩んでいる。たぶん、顔を知らない誰かが見たら、「穏やかな顔ですね」と言うのだろう。
でも、陸斗は知っている。父の寝顔は、もっと間抜けだった。ソファで寝落ちしたときなんか、口を思い切り開けていびきをかいていたこともある。その顔とも、病院で見た冷たくなった顔とも、今目の前にある顔は少し違う。
「…父さん」
心の中で呼んでみる。
返事はない。当たり前だ。
係員から渡された白い花を、一輪、手に取る。花びらが指先に触れる。柔らかいのに、どこか冷たい。棺の中の慎一の胸元に、その花をそっと置こうとしたとき、周りからの視線を強く意識した。
親戚たち、警察関係者、葬儀場のスタッフ。それぞれが、「長谷慎一の一人息子」がどういう顔で「最後のお別れ」をするのかを見ている。
泣くのか。叫ぶのか。崩れ落ちるのか。あるいは、ぐっとこらえて父の胸を叩くのか。
「殉職した警官の息子」にふさわしい悲しみ方を、どこかで期待されている気がした。
花を置いた手が、小刻みに震えている。それは悲しみのせいか、緊張のせいか、自分でも分からない。
父の顔に、触れるべきなのか迷う。一瞬、指先が額のあたりに伸びかける。でも、その先にある冷たさを思い出し、途中で止まる。
昨夜、一度触れてしまった。あの冷たさは、まだ忘れられない。もう二度と触れたくないとさえ思っているのに、「息子としては触れるべきだ」という圧が背中を押してくる。
「…」
結局、陸斗は父の額に、そっと拳の背を当てた。皮膚と皮膚ではなく、拳越しに。ほんの一瞬だけ触れて、すぐに離す。
冷たさは、拳の皮膚の上をすべっていっただけだった。
「これで本当に、もう起きないんだな」
言葉にはならないままに、その事実だけが、すとんと胸の奥に落ちてきた。
どんなに声をかけても、この人はもう目を開けない。玄関で「行ってきます」と言うこともなければ、帰ってきて「腹減った」と言うこともない。新聞を読みながら「この政治家はダメだ」と文句を言うこともない。
「殉職」だとか「英雄」だとか、その周りについてくるきれいな言葉がどうであれ、「もうここにはいない」という事実だけが、確かだった。
花を置き、わずかに頭を下げてから、その場を離れる。背中に刺さるような視線を感じながら、ゆっくりと家族席に戻っていく。
その後も、たくさんの花が棺の中に入れられていった。胸の上、両脇、足元。白や薄紫、淡い黄色。慎一の身体は、やがて花に埋もれて見えなくなっていく。
花びらが、顔の輪郭を半分隠す。指の間に花が差し込まれ、胸元にも何重にも重なる。華やかさと、埋葬のイメージが同時に押し寄せてくる。
「それでは、棺の蓋を…」
係員の声に、会場が静まり返る。
数人の男性スタッフが棺の蓋を持ち上げ、慎重に上からかぶせる。軋むような小さな音が、ホールの隅々まで響いた。
その音が、妙に大きく感じられた。
パタン、という蓋の閉まる音は、物理的には軽いはずなのに、陸斗の耳には、何かが完全に終わる音として届いた。
父としての慎一と、殉職警官としての長谷慎一。
蓋が閉まった瞬間、その二人が完全に分かれてしまったような気がした。
これから先、自分が目にするのは、「殉職警官・長谷慎一」という名前ばかりになるだろう。新聞の記事、表彰状、警察内部の記録。そこでは、「父」としての顔は「立派な父」というひとことでまとめられ、個々の記憶は削ぎ落とされる。
ソファでだらしなく寝ていた顔、風呂上がりにタオルを頭に巻いていた姿、半額の惣菜を嬉しそうに買って帰ってきた横顔。そういう「父の慎一」の断片は、自分の中にしか残らない。
蓋の上から、係員が金具を閉めていく。カチ、カチ、と留め具がはまる音が、釘を打つ代わりのように聞こえる。
「…」
喉の奥に、何かがこみ上げてきた。
怒りかもしれない。「立派な殉職」に押し込められていくことへの反発。
悲しみかもしれない。「父」が自分の手から離れていくような喪失感。
どちらでもあり、どちらでもない、名前のつけられない感情が、胸と腹の間で膨らんでいく。
大きく息を吸い込もうとしても、空気がうまく入ってこない。肺の奥に、殉職という言葉がべったりと張り付いているみたいだ。
「これで…」
誰かが、小さく言った。
「これで、長谷は本当に…」
その言葉の続きを聞きたくなくて、陸斗は視線を落とした。
膝の上に置いた両手が、白くなるほど強く握りしめられている。爪が皮膚に食い込んでいるのが分かる。痛みはあるのに、それもどこか遠い感覚だった。
棺の蓋が閉まり、「立派な殉職」という物語が完成していく。
その外側に、父としての慎一と、自分としての長谷陸斗が取り残されているように感じながら、陸斗は、何も言えないまま黙って座っていた。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っ
ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方な
グラスの縁についた水滴が、じわりと広がって輪郭を溶かしていく。その様子をぼんやり眺めていたとき、店内の空気が、ほんの少しだけ変わった。音量が上がったわけでもない。照明が劇的に切り替わったわけでもない。ただ、あちこちのテーブルから漏れていた笑い声が、一瞬だけ揃って同じ方向を向いたような、そんな感じがした。「今日、みっこいる?」隣のボックスから、女の客の弾んだ声が聞こえる。「まだじゃない? さっき上がってきたって言ってたけど」「今日もシャンパン入れさせよ」くすくす笑いとグラスの音が続く。その名前を