ANMELDEN告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。
白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。
その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。
黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。
正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。
「ここ」
案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。
黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。
…遺族。
胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。
ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。
昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。
眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。
「それでは、ただいまより…」
司会者の声が、マイクを通して響いた。
「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」
その名が、ホールの空間全体に放たれる。聞き慣れたはずの父の名前が、知らない敬称と階級に挟まれて、よそ行きの顔をしている。
「まずはじめに、警視庁を代表いたしまして、○○警視より弔辞を賜ります」
壇上に、一人の男が立つ。
五十代半ばくらいだろうか。短く刈り込まれた髪、眼鏡、きっちりと着こなした礼服。胸には小さなバッジが光っている。ゆっくりとマイクの前に立ち、手元の原稿を広げた。
一礼のあと、彼は一定の調子で読み始めた。
「本日ここに、警視庁を代表いたしまして、警部補 長谷慎一 殿のご冥福をお祈りし、哀悼の意を表します」
声はよく通る。マイク越しに、最後列まで均等に届くように訓練された声だ。抑揚は過不足なく、感情が乗っているようにも、いないようにも聞こえる。
「長谷警部補は、市民の安全と安心を守るため、日々職務に励み…」
何度も繰り返されてきたテンプレートのような言葉が続く。
「誠実で、責任感が強く、常に部下や後輩の模範となる警察官でありました」
「地域住民からの信頼も厚く、誰に対しても分け隔てなく接する姿は、多くの同僚の尊敬を集めておりました」
言われてみれば、そうなのかもしれない。父の職場での姿を、陸斗はほとんど知らない。警察署の中でどんな顔をしているのか、想像したこともなかった。
「…先日、職務中に発生した事件におきまして、長谷警部補は、危険を顧みることなく、市民を庇い、犯人と対峙しました」
空気が、少し固くなるのが分かった。
「その中で、胸部を刃物で刺され、尊い命を捧げられました」
尊い命。
「殉職」という単語は、あえて口にしていないように聞こえた。けれど、「命を捧げる」という言い回しが、そこに含まれている意味を補っている。
誰かが前列で鼻をすする音がした。隣の父の妹が、ハンカチで目元を押さえる。後方の席からも小さなすすり泣きが聞こえ始める。
「私たちは、長谷警部補の崇高な使命感と勇気に、深く敬意を表します」
崇高、使命感、勇気。
どれも教科書の中にありそうな言葉ばかりだ。それが今、父の名前にくっついている。
「ご遺族の皆様、どうか長谷警部補を誇りに思ってください」
その一文だけは、原稿の文字以上の重さを持って、陸斗の耳に届いた。
誇りに、思ってください。
言われているのは、自分だ。父の妹や叔父や、親戚たちも含まれるのかもしれないが、狙いの中心は明らかに自分に向いている。
胸が、妙にきゅっと縮む。
誇り。誇る。胸を張る。父は立派な警察官で、英雄で、殉職した。だから、息子である自分は堂々としていなければいけない。
…本当に?
頭のどこかが、小さく反発する。
父が死んでから、まだ何日も経っていない。病院で白いシーツをめくったときのあの冷たさと匂いは、まだ指先と鼻の奥に残っている。それなのに、「英雄」「誇り」といったきれいな言葉が、上からかぶせられていく。
「模範的な警察官であり、良き父でもありました」
その一文に、陸斗は思わず目を細めた。
良き父。
そう言われると、どこかむずがゆい。
確かに、父は酷い親ではなかった。高校まできちんと通わせてくれたし、飯も洗濯もある程度やってくれたし、暴力を振るわれたこともない。それでも、「模範的な父親」とか「理想の父」といった単語とは、少し違う気がする。
適当なところもあるし、家事の手を抜くことだってあるし、仕事の愚痴をこぼしているところも見た。それも全部含めて、「父」だった。
マイク越しの声が語る「良き父」と、自分の知っている「父」は、少しズレている。
でも、そのことをここで訂正することはできない。
弔辞は淡々と続く。
「私たちは、長谷警部補の志を引き継ぎ、これからも職務に邁進することをここに誓います」
最後にもう一度、「ご冥福をお祈りします」と結ばれ、深い一礼がなされた。
ホール全体が立ち上がる音がする。椅子が擦れる音、靴音。全員が一斉に黙祷の姿勢を取る。頭を垂れたとき、視界の端に遺影の白がちらりと映った。
黙祷の時間は、一分もなかっただろう。けれど、陸斗には妙に長く感じられた。
瞼を閉じても、真っ暗にはならない。白い光がぼんやりと透けて見える。その向こうに、病院の蛍光灯の色と、父の顔が重なった。
「続きまして、警視庁○○署、刑事課の…高瀬警部補より、弔辞を頂戴します」
司会者の声が響く。
壇上に登ったその人の姿を見て、陸斗は少しだけ姿勢を正した。
父の同僚、高瀬。昨夜、病院から葬儀場への道中、運転席に座っていた人。通夜の最中にも何度か顔を合わせた。
今の彼は、昨日見た疲れた顔とは違っていた。黒い礼服に身を包み、ネクタイをしっかりと締めている。いつもの署での姿を見たことはないが、「仕事モード」のスイッチを無理やり入れているのは分かった。
マイクの前に立った高瀬は、原稿を持つ手を一度軽く握り、開いた。深呼吸をし、静かに頭を下げる。
「長谷慎一さんの同僚を代表して、弔辞を述べさせていただきます」
声は少し掠れていたが、はっきりとしていた。言葉を選びながら話しているのが分かる。
「長谷さんは、真面目で、融通が利かないところもありますが…」
そこで、会場の何人かが小さく笑った。息を飲むような笑い。泣き笑いに近い。
「それでも、誰よりも現場を大事にする、人情のある刑事でした」
「新人の面倒をよく見ていました。若い連中が書いたしょうもない調書を、夜中まで一緒に直してやる姿は、署内の風物詩みたいなものでした」
高瀬の言葉には、さっきの幹部の弔辞にはなかった具体性があった。話しているのは、「優等生な警察官」ではなく、「職場で生きていた慎一」の姿だ。
「…私自身も、若い頃から何度も怒られました」
原稿を見ながらも、ふと目を上げて遠くを見るように高瀬は続ける。
「手抜きをすればすぐにバレて、『それで納得できるのか』と、よく詰められました」
「夜勤明けに、コンビニのおにぎりを片手に、事件の話をしていた姿が忘れられません。ああでもない、こうでもないと、目をギラギラさせて…」
そこまで話したところで、高瀬の声がわずかに震えた。
「…すみません」
一度、言葉を区切り、喉を整えるように咳払いをする。原稿を持つ手に力がこもり、紙が少し音を立てた。
「そんな長谷さんが、最後の最後まで…」
言いかけたところで、高瀬は一瞬言葉を失った。
病院の白い廊下、路地裏の血の匂い。彼の頭の中にも、あの夜の光景が甦っているのだろう。
会場が静まり返る。誰も咳払い一つしない。
高瀬は、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸ってから、もう一度口を開いた。
「最後の最後まで、誰かを庇って倒れたことは…長谷さんらしいと言えばらしいのかもしれません」
そこには、悔しさと誇りと、やり切れなさが入り混じっていた。
「でも、本当は…」
一瞬、声が素に戻りかける。
「でも、本当は…こんな弔辞を書く日が来るなんて、思っていませんでした」
「明日も、明後日も、いつものように署で会えると思っていました。くだらない冗談を言い合って、『お前のカレーはしょっぱい』と文句を言われて…そんな日常がずっと続くと思っていました」
それは、陸斗が知っている父と、知らない父の間にある「日常」の話だった。
カレーのくだりで、胸の奥が少しだけ痛む。
「長谷さんは、私たちの良き同僚であり、仲間であり…何より、息子さん思いの父親でした」
「夜勤の合間に、よく息子さんの話をしていました。『反抗期でさ』『最近は朝もなかなか起きてこない』と文句を言いながら、どこか嬉しそうでした」
そんな話をしていたのか、と陸斗は思う。
自分がうるさく起こされて「うるさい」と文句を言っていた朝。その裏で、父は職場で自分の話をしていた。その姿を、今初めて想像する。
「…長谷さん」
高瀬は、原稿から目を離し、遺影に視線を向けた。
「あなたの代わりは、どこにもいません」
「あなたが守ろうとした町と人を、私たちが守っていきます。だから…どうか、少し休んでください」
最後の言葉は、原稿にはないものだったように聞こえた。
深く一礼すると、会場のあちこちから、静かなすすり泣きが聞こえた。誰かが鼻をすする音が、前列からも後ろからも届く。
隣の父の妹は、すでにハンカチを目に当てたまま肩を震わせている。叔父も、口を固く結んだまま目を閉じていた。
「…」
陸斗だけが、泣けなかった。
胸の奥は、何かがぎゅっとつかまれているように苦しいのに、目からは一滴も水が出てこない。喉の奥が熱くなっても、それは涙にはならない。
泣いた方がいいのだろうか。息子としては、ここで泣いておくべきなのか。周りの大人たちのように、ハンカチで目元を押さえて震えるのが、「正しい悲しみ方」なのか。
「…俺、冷たいのかな」
自分でも聞こえるかどうかギリギリの声で、内側に向かって呟いた。
父が死んで、告別式で、弔辞がこれだけ胸に刺さることを言われているのに、泣けない。感情がおかしいのではないか。どこかの線が切れてしまっているのではないか。
頭の中で、誰かが「そんなことない」と言う代わりに、別の誰かが「そうかもしれない」と言う。答えのない会話が、ぐるぐると回る。
式は淡々と進んでいく。
起立、黙祷、献花。警察の儀礼に合わせた特別な動きもあり、統制の取れた立ち座りの音がホールに響く。
そのたびに、遺族席の前に誰かが立ち寄り、「立派な殉職でした」「英雄です」「ご冥福を」「誇りに思ってください」と言いながら頭を下げる。
部長クラスの幹部、同じ部署の同僚、別の署の警官、父の学生時代の友人だという男。どの顔も、真剣だ。彼らは本気でそう思っていて、本気で慰めようとしている。
それが分かるからこそ、「やめてください」と言えない。
「英雄」「誇り」「立派な殉職」。
そのたびに、胸の奥に見えない石が一つずつ積み上がっていく感覚がした。
英雄の息子。立派な殉職警官の息子。誇りに思うべき遺族。
そういうラベルが、自分の知らないところで貼られていく。
「…俺は、誇らなきゃいけないのか」
また、胸の中で呟く。
「誇りに思わないと、親不孝なのか。じゃあ、なんで俺はこんなに、腹の中が空っぽなんだ」
怒りとも悲しみともつかない、空虚な感情が、お腹のあたりで渦を巻く。ただ泣き崩れた方がまだ楽なのかもしれない。何も感じないよりは、何かを感じている方が、人間として正しい気がする。
なのに、感情は動かない。動こうとして、途中で引っかかって止まる。ブレーキだけが強くかかっているような状態だった。
やがて、司会者の声が、告別式の終わりに近づいていることを告げる。
「これより、ご親族、ご友人の方々による最後のお別れの時間といたします」
祭壇の前に、白い棺が移動される。ふたはまだ外されたままだ。その中に、慎一の身体が横たわっている。
昨夜、安置室で見たときよりも、少しだけ顔色が良く見えた。薄く化粧をされ、髭もきれいに剃られている。胸元には白いシャツとネクタイ、その上に制服のジャケットがかぶせられている。肩には、見慣れない勲章のようなものが置かれていた。
「ご親族の方から、順番にお花をお納めください」
係員の女性が、柔らかい声で促す。棺の脇に、白い菊とカーネーションの花束が山のように用意されている。
まず、父の妹が立ち上がった。足元をふらつかせながら棺に近づき、一輪ずつ花を手に取り、慎一の胸のあたりにそっと置いていく。そのたびに、彼女の肩が小さく震える。
「しんちゃん…」
か細い声が、棺の上に落ちた。
次に叔父が続き、遠い親戚たちが順々に前に出る。みんな目を赤くし、時に顔を歪めながら花を置いていく。ある者は額に触れ、ある者は頬を撫で、ある者は胸元を整える。
陸斗の順番が来た。
立ち上がろうとした瞬間、足が一瞬固まる。膝の関節がきしむように重い。
「行こう」
肩に手が置かれた。高瀬だった。いつの間にか、陸斗のすぐ後ろに立っていたらしい。
「大丈夫だ」
「…はい」
声だけは出たが、一歩が出ない。足と床の間に、透明な接着剤でも流されているみたいに動かない。
「…」
高瀬の手が、少しだけ強く陸斗の肩を押した。
その力に背中を預けるみたいにして、ようやく一歩前に出る。足元がぐらぐらする。棺が近づくにつれて、胸の奥の何かが固まっていくような感覚がした。
棺の中の父を、上から見下ろす形になる。
眠っているみたいだ、と改めて思う。目は閉じられ、唇は少しだけ開いている。顔の筋肉は緩んでいる。たぶん、顔を知らない誰かが見たら、「穏やかな顔ですね」と言うのだろう。
でも、陸斗は知っている。父の寝顔は、もっと間抜けだった。ソファで寝落ちしたときなんか、口を思い切り開けていびきをかいていたこともある。その顔とも、病院で見た冷たくなった顔とも、今目の前にある顔は少し違う。
「…父さん」
心の中で呼んでみる。
返事はない。当たり前だ。
係員から渡された白い花を、一輪、手に取る。花びらが指先に触れる。柔らかいのに、どこか冷たい。棺の中の慎一の胸元に、その花をそっと置こうとしたとき、周りからの視線を強く意識した。
親戚たち、警察関係者、葬儀場のスタッフ。それぞれが、「長谷慎一の一人息子」がどういう顔で「最後のお別れ」をするのかを見ている。
泣くのか。叫ぶのか。崩れ落ちるのか。あるいは、ぐっとこらえて父の胸を叩くのか。
「殉職した警官の息子」にふさわしい悲しみ方を、どこかで期待されている気がした。
花を置いた手が、小刻みに震えている。それは悲しみのせいか、緊張のせいか、自分でも分からない。
父の顔に、触れるべきなのか迷う。一瞬、指先が額のあたりに伸びかける。でも、その先にある冷たさを思い出し、途中で止まる。
昨夜、一度触れてしまった。あの冷たさは、まだ忘れられない。もう二度と触れたくないとさえ思っているのに、「息子としては触れるべきだ」という圧が背中を押してくる。
「…」
結局、陸斗は父の額に、そっと拳の背を当てた。皮膚と皮膚ではなく、拳越しに。ほんの一瞬だけ触れて、すぐに離す。
冷たさは、拳の皮膚の上をすべっていっただけだった。
「これで本当に、もう起きないんだな」
言葉にはならないままに、その事実だけが、すとんと胸の奥に落ちてきた。
どんなに声をかけても、この人はもう目を開けない。玄関で「行ってきます」と言うこともなければ、帰ってきて「腹減った」と言うこともない。新聞を読みながら「この政治家はダメだ」と文句を言うこともない。
「殉職」だとか「英雄」だとか、その周りについてくるきれいな言葉がどうであれ、「もうここにはいない」という事実だけが、確かだった。
花を置き、わずかに頭を下げてから、その場を離れる。背中に刺さるような視線を感じながら、ゆっくりと家族席に戻っていく。
その後も、たくさんの花が棺の中に入れられていった。胸の上、両脇、足元。白や薄紫、淡い黄色。慎一の身体は、やがて花に埋もれて見えなくなっていく。
花びらが、顔の輪郭を半分隠す。指の間に花が差し込まれ、胸元にも何重にも重なる。華やかさと、埋葬のイメージが同時に押し寄せてくる。
「それでは、棺の蓋を…」
係員の声に、会場が静まり返る。
数人の男性スタッフが棺の蓋を持ち上げ、慎重に上からかぶせる。軋むような小さな音が、ホールの隅々まで響いた。
その音が、妙に大きく感じられた。
パタン、という蓋の閉まる音は、物理的には軽いはずなのに、陸斗の耳には、何かが完全に終わる音として届いた。
父としての慎一と、殉職警官としての長谷慎一。
蓋が閉まった瞬間、その二人が完全に分かれてしまったような気がした。
これから先、自分が目にするのは、「殉職警官・長谷慎一」という名前ばかりになるだろう。新聞の記事、表彰状、警察内部の記録。そこでは、「父」としての顔は「立派な父」というひとことでまとめられ、個々の記憶は削ぎ落とされる。
ソファでだらしなく寝ていた顔、風呂上がりにタオルを頭に巻いていた姿、半額の惣菜を嬉しそうに買って帰ってきた横顔。そういう「父の慎一」の断片は、自分の中にしか残らない。
蓋の上から、係員が金具を閉めていく。カチ、カチ、と留め具がはまる音が、釘を打つ代わりのように聞こえる。
「…」
喉の奥に、何かがこみ上げてきた。
怒りかもしれない。「立派な殉職」に押し込められていくことへの反発。
悲しみかもしれない。「父」が自分の手から離れていくような喪失感。
どちらでもあり、どちらでもない、名前のつけられない感情が、胸と腹の間で膨らんでいく。
大きく息を吸い込もうとしても、空気がうまく入ってこない。肺の奥に、殉職という言葉がべったりと張り付いているみたいだ。
「これで…」
誰かが、小さく言った。
「これで、長谷は本当に…」
その言葉の続きを聞きたくなくて、陸斗は視線を落とした。
膝の上に置いた両手が、白くなるほど強く握りしめられている。爪が皮膚に食い込んでいるのが分かる。痛みはあるのに、それもどこか遠い感覚だった。
棺の蓋が閉まり、「立派な殉職」という物語が完成していく。
その外側に、父としての慎一と、自分としての長谷陸斗が取り残されているように感じながら、陸斗は、何も言えないまま黙って座っていた。
朝の光は、いつもと同じようにカーテンの隙間から差し込んでいた。違うのは、その手前に積み上がった段ボールの壁だった。光は茶色い箱の角で切り取られ、床には長方形の影がいくつも並んでいる。陸斗は、その影の一本を枕代わりにしていた腕の上に感じながら、ゆっくりと目を開けた。昨日の夜、布団はもう畳んでしまった。ベッドは解体され、フレームだけが壁に立てかけられている。だから彼は、薄いマットレスの上に寝袋のように布団をかぶって眠った。背中が少し痛い。天井の白い塗装のひびやシミをぼんやり眺める。見慣れたはずの模様なのに、「ここでその模様を見るのは、今日が最後だ」と思った瞬間、胸のあたりがじわりと重くなった。「おはよ」台所の方から、眠そうな声がした。顔だけ横に向けると、キッチンとリビングの境目あたりで、充がコンビニのコーヒーの缶を片手に立っていた。髪は寝癖で少し跳ねている。黒いスウェットとシャツの裾から、かすかに腹が覗いていて、いつもの「夜の店の人」ではなく、ただの若い大人、という感じだった。「おはようございます」声が思ったより掠れている。喉が乾いていた。「起きれるか心配だったけど、意外と起きてるな」充があくびを噛み殺しながら笑う。「今日、引っ越しの日だし」「それでも寝坊するやつはする」そう言って、充はコーヒーを一口飲んだ。缶が唇に当たるかすかな音が聞こえる。甘ったるい香りが、弱く部屋に広がった。部屋の中をぐるりと見渡すと、改めて「出ていく」という現実が目に見える形でそこにあった。テレビ台の上には、もうテレビはない。代わりに、紐で縛られたケーブルとリモコンだけが取り残されている。壁際に立てかけられたベッドフレーム。ソファには粗大ごみシールが貼られ、ひどく場違いな赤い文字が目に刺さる。キッチンのカウンターの下には、ゴミ袋がいくつも並び、ペットボトルと缶が透けて見えている。冷蔵庫の中身はほとんど空で、昨夜、最後の牛乳を飲みきったときの冷たい感触を思い出した。「トラック、九時くらいに来るってさ」
夜になって、蛍光灯の白い光が段ボールの山を均一に照らしていた。窓の外は完全に暗く、官舎の中庭に立つ街灯だけが、ぼんやりと黄色い輪を地面に落としている。さっきまで西日が伸ばしていた影は、すっかり消えていた。代わりに、部屋の中に生まれた新しい影がある。積み上げられた段ボールとゴミ袋が作る、不格好なシルエット。「今日のところは、このくらいで勘弁してやるか」充が、ガムテープを机代わりの段ボールの上に放り出しながら言った。指先には、何度もテープを切ったせいで、うっすらと粘着の感触が残っているように見える。「充分やりましたよ」陸斗は、床に置いたクッションにもたれかかりながら答えた。腕がだるい。肩も重い。身体の色んなところが、じんわりと自分の存在を主張している。荷物を持ったり、しゃがんだり立ち上がったりを繰り返したせいだ。疲労は確かにあるのに、妙に頭だけ冴えている感じが嫌だった。「飯、どうする」充が、腕時計をちらりと見る。「口に入れられるもんなら何でもいいなら、コンビニで一気に済ませるけど」「……外は、やめません?」窓の外を一瞥する。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくるような気がした。「さすがに、今からどっか行く元気ないです」「だろうな」充は、ため息まじりに笑う。「最後くらい、ちゃんとした飯食えよって言いたいとこだけど。ちゃんとした飯って、作るか外行くかの二択だしな。どっちもダルい」「ちゃんとしてなくていいです」陸斗は、少しだけ口の端を上げた。「疲れてるから、逆にコンビニが合ってるっていうか」「お前、意外と適当だな」「適当じゃないと、やってられないじゃないですか」それは半分冗談で、半分本音だった。父が死んでからの数週間、何もかもをきちんとしようとしたら、それだけで潰れてしまいそうだった。食事も睡眠も学校も、完璧なんて目指していられない。最低限生きていけるラインだけ守って、あとは「まあ、いっか」
西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ







