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12.捨てるもの、連れていくもの

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2026-01-03 13:48:15

土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。

陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。

生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。

やる気は、まだ出ない。

インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。

「長谷」

ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。

玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。

「おう」

充が片手を上げる。

「本日の力仕事要員、参上」

「…よろしくお願いします」

陸斗は、少しだけ頭を下げた。

高瀬も、軽く笑う。

「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」

三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。

「段ボール、届いてるな」

高瀬がリビングを覗き込みながら言う。

「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」

彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。

慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。

「これは署で預かる」

高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。

「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」

「はい」

陸斗は、言われるままに頷く。

制服は、ビニール越しでも見慣れた形だ。白いシャツに濃紺のジャケット。胸には、名前の刺繍と階級章。

それを見てしまうと、どうしても病院の白いシーツの上の姿が頭に浮かびそうで、視線を少しだけ横にそらした。

「これは…残しといた方がいいな」

高瀬が、別の筒を取り出した。中から出てきたのは、大きな賞状だった。硬い紙に金の模様が施され、黒々とした筆文字で何かが書かれている。

「勤務十年の表彰。こういうのは、家に飾っといてもおかしくない」

「飾る場所、ありますかね」

陸斗が言うと、高瀬は少し笑った。

「まあ、段ボールに入れて、新しい家に持って行けばいいさ。どこか落ち着いたら、また考えればいい」

表彰状、感謝状、賞状。次々と出てくる紙の束に、慎一がこの十数年どれだけ仕事をしてきたかが、黙って刻まれていた。

「このときさ…」

高瀬が、一枚の賞状を見てふっと笑う。

「署内で表彰されて、めちゃくちゃ照れてた。『こういうのは人前で読むもんじゃねえ』とか言って」

「そうなんですか」

「家では自慢してたくせにな」

そんなやり取りをしながら、高瀬は書類の山を、手際よく「署に持っていくもの」と「家に残すもの」に分けていく。

勤務評定の書類、給与明細、年金関係。細かい字の印刷された紙の束が、机の上に並んだ。

「これは俺が持ってく」

高瀬が、「署に」と書いた付箋を貼ったファイルをカバンに入れる。

「生活安全課とも共有しておく。何か必要になったらすぐ出せるようにしておいた方がいいからな」

「ありがとうございます」

陸斗は、何度目か分からない礼を言った。

書類の仕分けが一段落すると、高瀬は腕時計をちらりと見た。

「悪い。午後から会議入ってるんだ」

「え、もう行っちゃうんですか」

思わず声が上ずる。

「本当はもっといたいけどな。書類関係だけは、俺が触っといた方が安全だからって言われてるし」

高瀬は、立ち上がりながら充の方を見た。

「後は任せたぞ、桜井」

「またそうやって簡単に投げる」

充は、寝室の入り口に立ったまま、口を尖らせた。

「人使い荒いんすよ、あんたら」

「人使いが荒いのは、長谷さん譲りだ」

高瀬が笑う。

「困ったら俺か三浦に電話しろ。何でも自分たちで抱え込もうとするなよ」

「はい」

陸斗と充、二人の返事が重なった。

玄関で靴を履きながら、高瀬は振り返る。

「長谷」

「はい」

「今日は、無理に全部やろうとしなくていいからな。一歩進めば十分だ」

その言葉を残し、彼は出て行った。

ドアが閉まる音が、静かな室内に響く。

残されたのは、段ボールの山と、父の生活の痕跡と、知らない大人と、自分。

「…さて」

充が、両手を腰に当てた。

「書類班は退却したし。残りの雑兵で何とかするか」

「雑兵…」

「俺ら、雑兵」

半ば冗談のように言いながら、充はリビングに戻り、床に積まれた段ボールをひとつ引き寄せた。

「まずは組み立てるところからだな。段ボールが箱になってないと、何も入らねえ」

ガムテープを器用に剥がし、底を折り畳んで固定していく。テープを貼るときのビリビリという音が、やけに大きく響いた。

「どこからいきます?」

陸斗は、自分の手元に一枚の段ボールを引き寄せながら尋ねた。

「キッチンかな」

充は、迷いなく答える。

「食い物関係は、早めにチェックしといた方がいい。腐ったら悲惨」

「…ですよね」

嫌な想像が頭をよぎる。冷蔵庫の奥に忘れられた何か。賞味期限をとっくに過ぎた何か。

二人でキッチンに向かう。

シンクの上には、洗い物がいくつか残っていた。葬儀の前に慌ただしく済ませた食器、最近使ったマグカップ。流し台の金属の匂いと、食器用洗剤の柑橘系の香りが混ざり合っている。

「冷蔵庫、開けるぞ」

充が、宣言するように言った。

「覚悟はいいか」

「そんなにですか」

「だいたいこういうとき、冷蔵庫って戦場だから」

冗談めかした言葉のあと、冷蔵庫のドアが開いた。

中から、一斉に冷気が押し寄せてくる。プラスチックと食材と、少し酸っぱいような匂い。

「…まだましだな」

充が感想を漏らした。

野菜室には、萎びかけたネギが一本と、しわの寄ったにんじんが二本。上の棚には、卵のパックと、開封済みの豆腐のパック。調味料のボトルが並び、ペットボトルのお茶が一本立っている。

「卵、賞味期限いつだ」

「えっと…」

パックを手に取って確認する。

「昨日までです」

「ギリいける」

充は、即断した。

「茹でるなり、何なり。今日中に消化な」

「そんなに卵、食えますかね」

「ゆで卵なら一気にいけるだろ。最悪、俺が持って帰る」

豆腐の賞味期限は、さすがに過ぎていた。パックの上にうっすら膨らみがある。

「これはアウト」

充が、ためらいなくゴミ袋に放り込む。

調味料の棚を確認する。醤油、みりん、酒、ソース、マヨネーズ。ラベルに印字された小さな日付を、一つ一つ読み上げる。

「このソース、三年前って書いてあるんですけど」

陸斗が、目を凝らしながら言う。

「三年前」

充が一瞬固まり、それから笑った。

「それはもうソースじゃねえな。なんか別の生き物だな」

蓋を開ける勇気は誰にもなく、そのままビニール袋に入れて口を固く縛る。

冷凍庫には、冷凍うどんと餃子が詰まっていた。こちらはまだ使える。段ボールに「冷凍食品」と書き、運ぶ対象にする。

棚の上には、インスタントラーメンとカップ麺のストックが並んでいた。カップ焼きそばが二つ、塩ラーメンが三つ。

「長谷さん、これ好きだったなあ」

充が、カップ焼きそばを手に取る。

「夜勤前に、『これ食うと力出る』とか言ってさ」

「家でも、たまに食ってました」

父が鍋でラーメンを作るときの匂いが、鼻の奥によみがえる。

棚の奥から、箱に入ったカレールウが出てきた。

「あ」

陸斗の声が、いつもより少しだけ高くなった。

「これ…」

黄色い箱に、見慣れたメーカーのロゴ。いつも父が買ってくるブランドだった。中辛。表には、具のごろっとした写真が印刷されている。

「長谷名物カレーの素か」

充が、箱を覗き込む。

「そう…ですね」

カレーの匂いが、幻のように舌の奥に蘇る。にんじんとじゃがいもと玉ねぎと、安い肉。とろとろになるまで煮込んだ汁を、ご飯にかけて食べる夜。

「それ、どうする」

充が尋ねる。

「捨てるか、持ってくか」

即答だった。

「持っていきます」

自分でも驚くほど、迷いはなかった。

「これだけは、持っていく」

充は、少しだけ目を細めた。

「そっか」

彼は、箱を段ボールの中にそっと入れる。

「じゃ、それがうちでの初カレーだな」

「初カレー」

「引っ越し祝い。カレー作ろうぜ。俺、野菜切るくらいはできるから」

その未来の話が、ほんの少しだけ現実味を帯びて聞こえた。

キッチンの整理を終える頃には、ゴミ袋が二つほど膨らみ、段ボールが一つ、食器と調味料で満たされていた。

「じゃ、次は衣類だな」

充が、手をパンパンと叩いた。

「重いのは先にやっといた方がいい」

寝室に戻る。

クローゼットの扉を開けると、慎一のスーツがずらりと並んでいる。濃紺、グレー、黒。どれも似たような形をしているのに、微妙に色味や生地の厚さが違う。

「まず、スーツな」

充が、ハンガーを一本一本手に取る。

「全部持ってくと、クローゼット死ぬぞ」

「でも…」

口から出かかった言葉を、陸斗は飲み込めなかった。

「全部、置いていくのは…」

喉の奥がきゅっと縮む。

スーツを一着手に取ると、わずかに洗剤の香りと、父の体温の残り香のようなものが鼻を掠めた。袖口の擦れた部分、微妙に変色した襟元。それらすべてが、「着ていた人間」の存在を否応なく思い出させる。

「全部は、置いていかねえよ」

充は、柔らかい声で言った。

「形見として、一着か二着。あとは写真撮っときゃいい」

「写真…」

「全部抱えてたら、物理的にしんどいって話な」

彼は、クローゼットの奥を指す。

「お前、これからうちでも自分の服増えるだろ。長谷さんのスーツでクローゼット埋めてどうすんだよ。毎日それ眺めながら生活すんのか」

現実的な言葉だった。

「クローゼットに入りきらないなら、クローゼットを増やすとかじゃなくて、物を減らすしかねえ。俺の部屋なんか、服減らしたらちょっとマシになったからな」

「……」

頭では分かる。全部持っていったところで、着る機会はほとんどないだろう。制服ではないスーツを、父と同じように着る自分を想像することもできない。

でも、「いらないから置いていく」と口にしてしまうのは、高い裏切りに思えた。

充は、一本のスーツを持ち上げた。

「これは、残しとけ」

濃紺の、少しだけいい生地のやつ。胸ポケットに、警察手帳を入れていた跡がうっすら残っている。

「式典のときとか、これ着てた。表彰状の写真、たぶんこれだろ」

横に掛けられていたネクタイも一本選ぶ。落ち着いたワインレッド。慎一がよく締めていた色だ。

「これも、残しとけ」

反対に、あまり着ていなさそうなスーツや、古い形のものは、別のハンガーにまとめる。

「これは…」

陸斗が、手が伸びたのは、ネイビーのチェックのシャツだった。休日によく着ていた、柔らかい生地のシャツ。スーパーに一緒に行くときや、洗車をするときに腕をまくっていた姿が浮かぶ。

「それは?」

「これ…好きでした」

自分でも気づかないうちに、そう呟いていた。

充は、一瞬だけ笑った。

「じゃ、それ残そう」

シャツを丁寧に畳み、別の段ボールに入れる。「父の服」と書いた箱。

結局、スーツは一着とネクタイ一本、私服のシャツを二枚、それから冬用のコートを一つだけ残すことにした。残りは、大きな袋にまとめる。リサイクルショップに持って行くのか、古布として処分するのかは、まだ決まっていない。

袋が膨らむたびに、胸の奥に何かが削られていく感覚があった。

父の匂いを抱えた布が、ビニールの口の中に押し込まれていく音が、妙に生々しい。

「…苦しいか」

充が、袋の口を縛りながら尋ねた。

「別に」

即座に返したが、声が少し震えた。

「別に…です」

「そうか」

それ以上、彼は何も言わなかった。

クローゼットの中の空間が少しずつ増えていく。ハンガーの数が減り、奥の壁が見えてくる。その余白が、「ここにはもう誰も立たないのだ」と告げているようで、余計に寂しかった。

午後になり、少し遅めの昼食をコンビニのおにぎりで済ませた頃、インターホンが鳴った。

「はーい」

陸斗が玄関に向かうと、ドアの向こうに紀子が立っていた。父の妹だ。手にはスーパーの袋を提げている。その後ろには、前にも見た伯父の姿もあった。

「ああ、よかった。いた」

紀子は、ほっとしたように笑う。

「差し入れ持ってきたのよ。片づけしてるって聞いたから」

「ありがとうございます」

玄関に招き入れると、紀子はすぐに靴を脱いで上がってきた。伯父も続く。

リビングに入ると、段ボールとゴミ袋がごちゃごちゃと並んでいる光景が目に飛び込んでくる。

「わあ…」

紀子が、少し驚いたような声を漏らした。

「本当に、片づけ始めたのね」

「まあ、少しずつ」

陸斗は曖昧に笑う。

充は、段ボールの横でガムテープを手に持ち、しゃがんだままの姿勢で二人を見上げた。

「こんにちは」

紀子が、少し遠慮がちに挨拶する。

「桜井さん、でしたっけ。ずいぶん、お手伝いしてもらってるみたいで…」

「いや、まあ」

充は、立ち上がって頭を下げた。

「桜井です。お邪魔してます」

伯父が、彼を上から下まで眺める。ジャージにパーカー、少し擦れたスニーカー。

「若いのに、えらいねえ」

伯父が言う。

「夜の仕事だって聞いたけど、大丈夫なの?」

「ぼちぼちです」

充は、苦笑する。

「ちゃんと寝てるんで」

「夜のお仕事って…」

紀子が、言葉を選ぶように言う。

「体、壊したりしない?」

「気をつけます」

そのやり取りを聞きながら、陸斗の胸の中に、細い棘のようなものが刺さった。

心配してくれているのは分かる。でも、その心配は「夜の仕事」という言葉に向いていて、「段ボールを前にしゃがんでいる自分たち」には向いていない気がした。

今必要なのは、「かわいそうね」と言う口ではなく、ゴミ袋を持ってくれる手だ。

紀子は持ってきた袋をテーブルに置いた。中には、カットフルーツのパックや、ペットボトルのお茶、お菓子がいくつか入っている。

「これ、よかったらおやつにでも」

「ありがとうございます」

表情を作るのが、少しだけ面倒になってきていた。

「何か必要なものがあったら言ってね」

紀子が、部屋を見渡しながら言う。

「タオルとか、お皿とか、足りないものあれば…」

「今のところは、大丈夫です」

そう答えながらも、「本当に必要なもの」と「言えるもの」の間に距離があるのを感じる。

必要なのは、「一緒に片づけてくれる人」か、「具体的な段取りをしてくれる人」か、あるいは「ただ隣で黙っていてくれる人」か。どれも、簡単に口に出せる種類の助け方ではない。

「本当に、かわいそうね」

紀子が、小さな声で言った。

「こんなに若いのに、お父さん亡くして…」

「そうだなあ」

伯父も頷く。

「これからが大変だよな」

「でも、いい人がいてよかったね」

紀子が、充の方を見て微笑む。

「桜井さん、これからも、よろしくお願いしますね」

「…はい」

充は、少しだけ硬い笑顔を浮かべた。

「できる範囲で、頑張ります」

「無理しちゃだめよ」

紀子は、そう言って彼の腕をちょんと叩く。

「若いんだから」

「若いから無理きくって言われるのかと思ってました」

充が冗談を言うと、伯父夫婦は少し笑った。

十数分ほど、他愛ない会話が続いた。親戚の近況、仕事の愚痴、テレビの話題。どれも、「日常」の話題でありながら、今の自分にはどこか遠く感じられる。

その間、段ボールの山は増えも減りもしないまま、部屋の片隅で黙っていた。

「じゃあ、私たちはそろそろ」

紀子が、時計を見て立ち上がる。

「本当に、何かあったら遠慮なく…」

「はい」

陸斗は、また同じ返事をする。

玄関まで二人を見送り、ドアが閉まると、室内の空気がまた違う重さに変わった。

「…ふう」

充が、テーブルに置かれたお菓子の袋を眺めながらため息をつく。

「差し入れのおやつ、ありがたいけどさ。作業手伝ってくれたらもっとありがたいよな」

「あ…そう思いました?」

自分以外の人間も同じことを考えていたと知って、少しだけ救われる。

「思った」

充は、ぽん、と段ボールを軽く叩いた。

「まあ、あっちからしたら、こういうもんなんだろうけどな。『かわいそうね』って言ってる方が、安心する」

「安心…」

「『自分は何もしてやれない』ってちゃんと自覚してる人間ほど、『かわいそう』って口にする気がする」

言葉は辛辣だったが、その声には責めるような尖りはなかった。

「でも、まあ。おやつはありがたく食うか」

充は、フルーツのパックをひとつ開けて、爪楊枝で一切れのオレンジを口に運んだ。

「食っとけ。糖分足りねえと、余計にしんどくなる」

「…そうですね」

陸斗も、キウイを一切れ刺して口に入れた。酸味が舌に広がり、少し目が覚める。

午後も、中身の重い作業が続いた。

リビングの本棚からは、本や雑誌が次々と取り出される。実用書、警察関係の専門書、小説、文庫、漫画。父と自分の趣味が入り混じった棚から、「今後も読みそうなもの」「しばらく読まなさそうなもの」に分けて段ボールに詰める。

押し入れからは、布団やシーツ、毛布が出てくる。夏用と冬用、来客用。使われることのなくなった「誰かの布団」が、ビニールに包まれたまま眠っていた。

「これ、持ってく?」

充が、押し入れの奥から古い電気ストーブを引っ張り出した。

「コード、ちょっと危なそうだな」

「…新しいの買った方がいいかもしれないですね」

「そうだな。火事出したら笑えねえ」

電気製品は、使えそうなものだけを选んで持っていくことにした。レンジや電気ケトル、炊飯器。古いラジカセは、迷った末に処分の袋に入れる。

部屋の中で、段ボールの山とゴミ袋の山が、少しずつ高くなっていく。

窓から差し込む光の角度が変わり、床に落ちる影が長く伸び始めたころには、目に見えて部屋の風景が変わっていた。

クローゼットの中は、隙間が増えた。棚の上からは不要なものが消え、本棚の段の一部は空白になっている。押し入れの中の布団は、必要な枚数だけが残され、残りは圧縮袋に入れられた。

「だいたい…大物は目星ついたな」

充が、腰に手を当てて周囲を見渡す。

「家具は、どうする?」

「ベッドは…持っていくんですよね」

「うん。お前のベッドは持ってこ。長谷さんのベッドは…うち、そんなスペースねえから、処分かな」

リビングのテーブルとソファも問題だった。

「テーブルは…うち、小さいのあるからいいかな」

充が首を傾げる。

「ソファは…」

二人でソファを見る。

父と一緒にテレビを見ていた場所。休日に横になって昼寝していた場所。少しへたったクッションと、肘掛けの擦れた生地。

「これ、持っていったら狭くなりますよね」

「うち、ほんと狭いからな」

充が苦笑する。

「ソファ置いたら、床見えなくなる」

「じゃあ…」

口に出そうとして、胸が少し痛くなる。

「処分…ですかね」

「粗大ごみの申し込み、三浦さんが紙置いてってたな」

充は、冷蔵庫に貼られた紙を指さす。

「電話して、回収日決めよう。引っ越しの直前くらいに来てもらえばいい」

言葉にしてしまえば、淡々とした段取りになる。

ソファの布地に指を滑らせると、そこにまだ父の体重の感触が残っている気がした。クッションを押すたびに、膝の上に寝転んでいた父の腕の重さや、寝ぼけた声が蘇る。

それでも、このままここに置きっぱなしにはできない。誰かにとってはただの古いソファであり、自分にとっては思い出の固まりであり、官舎を出る日にはどのみち残せないもの。

捨てる、という言葉が口にできなくても、「粗大ごみ」という単語に包んでしまえば、少しだけ飲み込みやすい。

「今日は、このくらいにしとくか」

充が、時計を見ながら言った。

外はすでに夕方で、窓の外の空は淡いオレンジ色に染まり始めている。ベランダから見える隣の棟の壁にも、西日が斜めに差し込んでいた。

「えっと…」

陸斗は、部屋をぐるりと見渡した。

朝から動き続けて、身体はじんわりと疲れていた。腕や腰が重い。喉も乾いている。

「けっこう…変わりましたね」

「だな」

充も頷く。

「散らかってたところが、違う種類の散らかり方になった」

「違う種類…」

確かに、床を見れば、午前中とは別の乱雑さだった。

朝は、生活の雑多さが散らばっていた。読みかけの新聞、脱ぎ捨てた靴下、放り出されたリモコン。父と自分の「今」が、無造作に置かれていた。

今は、段ボールとゴミ袋が散らばっている。「これから持っていくもの」と、「ここに置いていくもの」の塊。どちらも、まだ行き先が完全には決まっていない。

テーブルの上には、「父 書類」「父 服」「キッチン」「本・雑誌」と、黒い字で書かれた段ボールが、整然とは言えないまでも並んでいる。

クローゼットの奥に、ぽっかりと空いた空間があった。棚の隅っこにも、いつも見えなかった壁紙が顔を出している。押し入れの下段には、空のスペースが生まれていた。

それらの「余白」が、部屋から誰かが抜けていった跡のようで、胸が少し痛む。

「達成感、ある?」

充が、ソファの背にもたれながら尋ねた。

「…どうですかね」

陸斗は、正直に答える。

「なんか…スカスカしてる感じの方が強いです」

「だろうな」

充は、段ボールに書かれた「父 服」の文字を眺める。

「片づけってさ。進めば進むほど、部屋が抜け殻になってく感じするから。達成感と喪失感、両方くる」

「喪失感の方が多いです」

「最初はな」

彼は、少しだけ笑う。

「でも、そのうち段ボールの方が重くなってくるよ。持ってくもんが増えると、『次の場所』のイメージが勝手に頭に浮かぶから」

「次の場所…」

まだ見ぬ充のアパート。

扉を開けた瞬間にどんな匂いがするのか、窓から何が見えるのか、床は畳なのかフローリングなのか。想像しようとしても、具体的な映像は浮かんでこない。

それでも、「この段ボールはそこに運ばれる」という事実だけは、段ボールの側面に黒々と書かれた文字が教えてくれる。

「今日のところは、『捨てるもの』『連れていくもの』の線を、ちょっとだけ引けただけで十分」

充が、ざっくりとまとめる。

「全部抱えていこうとすると、絶対潰れるからな」

「…はい」

膝に置いた手をぎゅっと握る。指先に、段ボールの紙の感触が残っていた。ざらざらとして、少し硬い。

窓の外で、子どもの笑い声が聞こえた。官舎の下で遊んでいるのだろう。誰かがボールを蹴る音と、それを追いかける足音。夕方の空気に混ざって、遠くからパトカーのサイレンもかすかに届く。

その音は、以前なら「父がどこかで働いている証拠」として聞こえていた。今は、ただの街の音だ。それでも、耳が勝手に反応してしまう。

「…とりあえず、水飲もうぜ」

充が立ち上がる。

「片づけの後は、脱水との戦い」

「医者みたいなこと言いますね」

「医者より現場の方が怖いんだよ」

彼がキッチンに向かい、ペットボトルの水とコップを持ってくる。冷たい水が喉を滑り落ちる感覚が、身体の奥まで染み渡った。

日が傾き、窓からの光がオレンジから青みを帯びたグレーに変わっていく。段ボールの影が長く伸び、部屋の隅々にかさなっている。

中身の詰まった箱と、口を閉じたゴミ袋と、空白の増えたクローゼット。それらをまとめて眺めながら、陸斗は、自分の胸の中にも同じような「空き」と「詰まり」ができていることに気づいた。

失ったものばかりが目に見える一方で、その隣にはかすかに、まだ形の定まらない「これから」が転がっている。

疲れはひどく、喉も渇き、腕も重い。そのくせ、頭のどこかだけが妙に冴えていた。

抜け殻になっていく部屋の真ん中で、段ボールに書かれた「連れていくもの」の文字を見つめながら、陸斗は、自分がほんの少しだけ前に進んでしまったことを、ようやく実感し始めていた。

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    平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   10.俺が引き取る、と言ってしまう瞬間

    控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   9.居場所が消える音

    畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   8.煙草の煙と罪悪感

    葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   7.殉職という言葉の重さ

    告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの

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