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9.居場所が消える音

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-12-31 15:08:45

畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。

葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。

テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。

壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。

畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。

斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。

全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。

遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。

その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。

紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。

「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。

「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」

「はい…」

父の妹が、小さく頷く。目の周りは赤いが、さっきよりは少し落ち着いているように見える。叔父たちも、黙って同意を示した。

陸斗は、自分も頷いた方がいいのか迷い、結局首をわずかに動かした。

「まず、お住まいの件です」

男は、ファイルから数枚の紙を取り出した。文字のびっしり印刷された書類や、図表のようなものがちらりと見える。

「現在お住まいの官舎ですが、こちらはあくまで警察職員用の住宅になります。基本的には、職員本人とその家族の方が対象でして…このような形でご本人が亡くなられた場合にも、一定期間の猶予をもって、退去していただく決まりになっております」

官舎の写真が頭に浮かんだ。

狭い廊下、共用の階段、薄い壁。けれど、自分にとってはそれが「家」だった。朝、父が出ていき、夜帰ってくる場所。洗濯物を干し、テストを投げ出し、インスタントラーメンの匂いが染みついた二DK。

「退去…」

紀子が、言葉を繰り返した。

「それは…すぐに、ということですか?」

「いえ、いきなりということではありません」

男は、すぐに首を振った。

「長谷さんは殉職ですし、こちらとしてもできる限り配慮はさせていただきます。通常は一ヶ月ほどの猶予ですが、今回のケースですと二ヶ月、場合によっては三ヶ月までは…」

「三ヶ月」

その数字が、鮮明に耳に届いた。

一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。三十日が一つの塊になって、その塊が三つ並んでいるイメージが浮かぶ。

三つ分のカレンダーを破り終わったら、自分はあの部屋にいられなくなる。

「…退去の時期については、ご親族や関係機関とご相談しながら決めていく形になりますので」

男は、フォローを重ねる。

「『追い出す』という言い方はしたくありません。ただ、お住まいについては、いずれにせよ検討が必要になる、ということだけは、ご理解いただければ」

追い出す、という言葉を敢えて口にしたのは、もしかしたら陸斗に伝わりやすくするための配慮なのかもしれない。けれど、実際に「追い出す」という音が空気に乗った瞬間、胸の奥で何かがぎゅっと縮んだ。

「官舎には…その、遺族は住めない、ってことなんですね」

紀子が、慎重に言う。

「ええ…原則としては」

男は、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「非常に心苦しいのですが、他にも、入居をお待ちになっている職員の方がたくさんいらっしゃいますので…」

心苦しい。その言葉が、「けれども決まりですから」という意味をやわらかく包んでいるのが分かる。

心苦しさでルールが変わるわけじゃない。

「…まあ、しょうがないよね」

叔父が、小さく呟いた。

「うちのマンションだって、契約者が死んだら、更新のときにいろいろ手続き必要だしさ」

彼の妻も、頷いた。

「そうね…官舎って、公のものだから余計にきびしいのかも」

「そういうもんだ」と大人たちは納得しているようだった。反論する人はいない。

「住む場所については、いくつか選択肢があります」

生活安全課の男は、話を先に進めた。

「ご親戚のどなたかのお宅で、一時的あるいは長期的にお世話になるか。あるいは、児童相談所と連携して、里親の家庭や、児童養護施設といった場を検討するか…」

児童相談所、里親、児童養護施設。

音だけは知っている言葉だ。ニュースで、社会科の授業で、遠くの誰かの話として聞いたことがある。でも、自分の現実の選択肢として並べられることを、想像したことはなかった。

「また、学校の先生とも相談になりますが…寮のある学校に転校していただく、という方法もあります。いわゆる全寮制の高校ですね」

全寮制の高校。漫画やドラマの中では聞いたことがある。寮生活、おしゃれな制服、きれいなグラウンド。そういうイメージの断片が浮かぶ。でも、それが自分の未来の現実になる絵は、まるで見えない。

「…あの」

紀子が、おずおずと口を開いた。

「私のところは、北海道で…夫もまだ働いていますし、子どもも二人いて。上の子が高校生で、下の子が中学生なんです。部屋もそんなに余裕がなくて…」

「ええ」

男は、頷いた。

「紀子さんのところは、距離もありますしね」

「もし、私がこっちに引っ越してこれればいいんだけど…」

紀子は、膝の上でハンカチを握りしめたまま言う。

「そんな簡単に仕事を辞めたり、家を手放したりもできなくて。勝手なこと言ってるのは分かってるんだけど…」

「分かりますよ」

男の声は、柔らかい。

「そのお気持ちだけでも、十分ありがたいです」

叔父が、口を挟んだ。

「俺のところも…店があってなあ。地方で小さい居酒屋やってんだけど、人を置いてこられないんだよ。奥さんに全部任せるわけにもいかねえし」

奥さんと呼ばれた女性が、苦笑いを浮かべる。

「うちも部屋が三つしかなくて、子どもと私たちでいっぱいで…」

誰も、「面倒を見たくない」とは言わない。「無理」「嫌だ」とはっきり拒否する人もいない。みんな、「本当は何とかしてあげたいんだけど」と前置きをしながら、「でも」という現実を次々に並べる。

仕事、家族、自分たちの生活。

そのどれもが、嘘ではないのだろうと陸斗は思う。彼らだって生活をしている。自分の家があって、守るものがある。

だから、彼らを責めることはできない。頭ではそう分かっている。分かっているけれど、「ごめんね」「ごめんね」と繰り返されるたび、自分がどこかの真ん中に座らされて、「申し訳なさそうな視線」を一身に浴びているような気分になった。

「ごめんね、本当に」

紀子が、陸斗の方を見て言う。

「しばらくこっちにいられたら、少しは違うんだろうけど…」

「…大丈夫です」

反射的にそう答えた。

大丈夫、という言葉ほど、意味が空っぽなことばはない。大丈夫ではないから、こんな場が設けられているのに。

「長谷くん」

高瀬が、横からそっと声をかけた。

「高校のことはな。学校と話をして、なるべく今のまま通えるようにする。少なくとも、すぐにやめろとか、何か変われとか言うやつはいないから」

「…はい」

高校。教室。黒板。クラスメイトの顔。

今朝までの葬儀の景色と、その先にあるはずの日常の風景が、頭の中で全く繋がらない。翌週には、教卓の前で担任が「長谷は、服喪中だから」とか言うのだろうか。クラスメイトは「大変だったな」と声をかけてくれるのだろうか。

想像しようとしても、映像がすぐに霧散してしまう。

「学費についても、いくつか方法があります」

生活安全課の男が、別の書類を開いた。

「まず、長谷さんの生命保険と、殉職に伴う給付金が出る見込みです。それと、遺族年金ですね。これらを組み合わせて、当面の生活には困らないように…」

保険、給付金、年金。

数字の話が続くが、頭の上を風が通り抜けていくような感覚だった。万円、十何万円、月額、支給。金額が具体的に口にされても、それが実際の生活にどう変換されるのか、うまくイメージできない。

「それでも、不足分については、奨学金や、各種支援制度があります」

男は、ファイルからカラフルなパンフレットを一枚取り出した。

青と緑のグラデーションが印刷された紙。笑顔の学生の写真。「夢をあきらめないで」「あなたの進学を応援します」といったキャッチフレーズ。

「高校は、授業料無償化の制度もありますし…大学に進学する場合でも、こういった制度を使えば…」

言い方は丁寧だが、その声の調子はどこか「何度も同じ説明をしてきた人」のそれだった。必要な情報を漏らさず伝えようとする、業務的なリズム。

「今すぐに決める必要はありません。高校卒業まで、まだ時間はありますし…」

それも分かっている。今はとりあえず、高校をどうするか、住む場所をどうするかだけで精一杯だ。

けれど、「選択肢はたくさんある」という言葉が続くたびに、「だから安心していいですよ」という含みが透けて見える気がして、どこか居心地が悪かった。

安心、という言葉を口にされるほど、安心が遠のいていく。

「…児童相談所というのはですね」

生活安全課の男が、パンフレットをめくりながら説明を始める。

「お子さんの福祉全般を扱う機関でして。家庭環境が変わった場合に、どういう支援が必要かを一緒に考えてくれるところです。決して、無理やりどこかに連れて行く場所ではありませんから…」

お子さん。

その呼び方に、陸斗は少しだけ引っかかった。

自分のことを指しているのは分かっている。でも、「お子さん」と呼ばれると、自分が急に三つか四つくらい歳を戻されたような気分になる。十七歳の自分とは、少しズレた場所から話をされているような感覚。

「里親制度というのもありまして…」

里親。家庭。親。

「血のつながりはなくとも、子どもを育ててくださるご家庭に…」

説明は続く。パンフレットの写真には、笑顔の大人と子どもが一緒に写っている。明るいリビング、整った家具、レンガ造りの家。

その写真が、陸斗にはまるで別の星の風景に見えた。

「…すみません」

紀子が、また申し訳なさそうに言う。

「本当に、私のところで見てあげられれば良かったんだけど…」

「そんな、紀子さんのせいじゃ」

叔父が慌てて言う。

「誰だって、いきなり高校生一人引き取れって言われても、すぐには動けないって」

「そうですよ」

生活安全課の男も、頷いた。

「ご親族の皆様も、それぞれ生活がある中で、こうして集まってくださっているだけで、十分ありがたいことです」

ありがたい、という言葉が空中を漂う。

その一方で、「誰も引き取れない」という事実だけが、座卓の上にじわじわと積もっていく。

「…あの」

しばらく黙っていた高瀬が、意を決したように口を開いた。

「仮の話だがな」

彼は、生活安全課の男と、親戚たちを順に見やった。

「もし、俺が一時的に預かるっていうのは…」

その言葉に、部屋の空気が少し変わった。

紀子が顔を上げる。叔父と叔母が驚いたように目を見開く。生活安全課の男は、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。

「高瀬さん」

彼は、慎重に言葉を選ぶようにして声を出した。

「お気持ちは、本当にありがたいんですが…」

「俺、独身寮出て、どっか部屋借りるってのは…」

高瀬は構わず続ける。

「勤務は不規則だけど、署に頼めばシフトの融通も多少は利くし。高校だって、今のまま通える距離で探せば…」

「高瀬」

もう一人、さっきまで黙っていたスーツの男が口を挟んだ。父の職場の上司らしい。告別式のとき、弔辞を読んだ幹部とは別の、課長クラスの顔だ。

「お前の気持ちは分かる。でもな」

彼は、眉間に皺を寄せた。

「独身寮を出るってことは、家賃も生活費も全部、自分で持つってことだ。今の給料で、高校生一人分の生活費まで背負ったら、お前の生活が回らなくなる」

「……」

高瀬は口をつぐんだ。

「それに、お前の勤務形態を考えろ。泊まりもあれば、夜中に呼び出しもある。そんな状況で、十七の子を一人部屋に置いとくのか」

上司の声には、決して高圧的ではないが、冷静な現実が詰まっているように聞こえた。

「法律的にも、第三者が未成年者を預かる場合、いろいろ手続きがある。養子縁組だの、里親登録だの、簡単にはいかない」

生活安全課の男も、そこで口を添える。

「高瀬さんのような立場の方が関わる場合、逆にややこしくなってしまうこともありますので…」

ややこしい。法律。手続き。

言いながら、大人たちの視線はどこか互いに視線を交わしている。誰も、「やめろ」と露骨には言わない。でも、「やめておいた方がいい」という空気が、にじむように広がっていた。

「…分かってるよ」

高瀬は、かろうじてそう言った。

「勝手なこと言ってるのは分かってる」

その言葉には、少しだけ自嘲が混じっているように聞こえた。

陸斗は、そのやりとりを、どこか別の部屋の会話みたいな感覚で聞いていた。

大人たちも、何でもできるわけじゃない。

父がいつもやっていたように、無茶を通して世界を変えてくれるわけじゃない。彼らにも、会社だの、規則だの、給料だの、そういった枠がある。その枠を一気に飛び越えられる人間は、そう多くない。

父だけが、いつもその枠から半歩外に足を出していたのかもしれない。

でも、その父はいない。

「…長谷くん」

生活安全課の男が、陸斗の方に身体を少し向けた。

「いろいろ話が出ていて、混乱していると思うけど…今の段階で、何か希望とか、不安なこととか、聞いておきたいことはある?」

いきなり自分に水を向けられ、陸斗は一瞬言葉が出なかった。

希望。不安。聞きたいこと。

頭の中を探っても、すぐには何も出てこない。「全部」と答えてしまいそうになる。それでは答えにならないから、口を噤む。

「…特に…」

ようやく絞り出した言葉は、あまりにも頼りなかった。

「特に、ないです」

ないわけじゃない。ありすぎて、何から言えばいいか分からない。言葉にした瞬間、それが現実になってしまうのが怖い。だから、「ない」と言ってしまう。

自分の意見を求められたのは、この話し合いの中で初めてだった。けれど、その問いかけは、「一応聞きました」という形だけのようにも感じられた。

男は、「そうか」と頷き、「今は無理に決めなくていいからね」と続けた。

「高校は続けられるから。そこは安心していい」

「進学だって、諦める必要はない。奨学金もあるし、支援してくれる人間もいる」

叔父が言う。

「若いんだから、これからいくらでもやり直しがきくよ」

やり直し。若い。いくらでも。

それらは、パンフレットの中の励まし文句と同じくらい、よく聞くフレーズだった。誰かの人生相談のテレビでも、同じような言葉を何度も聞いた。

「…ありがとうございます」

そう答えるのが、唯一の正しい返し方に思えた。

本当は、「何をやり直せばいいのか分からない」と言いたかった。何が間違いで、どこからがやり直しなのか、その線引きすら、自分には分からない。

ただ、「ありがとうございます」と言っておけば、その場は丸く収まる。大人たちは「そうか」と安心して、次の話題に進む。分かっているのに、そうするしかない。

「とりあえず、今後の段取りを整理しましょう」

生活安全課の男が、座卓の端に置かれていたメモ用紙とボールペンを取った。

「今日が、告別式と火葬。明日以降、葬儀の後片づけと、役所関係の手続き。戸籍の変更や、年金、保険の請求などですね」

紙の上に、日付と項目が書かれていく。

○月○日 市役所 戸籍・年金

○月○日 保険会社 手続き

○月○日 学校 担任と面談

黒いインクが、白い紙の上にすらすらと線を引かれていく。その文字は、整っていて読みやすい。必要な情報だけが、無駄なく並んでいる。

「官舎の件は…そうですね」

男は、ペン先を少し宙に止めた後、書き加えた。

○月末〜○月中 官舎退去時期の相談・調整

さらに、その横に小さく「目安 三ヶ月以内」と書き添える。

「これはあくまで目安ですから。状況を見ながら前後します。ただ、逆に言えば、これくらいの期間の間に、住む場所を決めておく必要がある、ということになります」

ペン先が紙をなぞる音が、やけに大きく聞こえた。

カリ、カリ、と文字が刻まれるたび、何かが決まっていく。自分の意志とは関係なく、予定が枠にはめられていく。

○月○日 学校始業

○月末 退去目安

その二つの文字列の間に、自分の生活が収まってしまうのだ。

紙が座卓の真ん中に滑らされ、全員の目に見えるように置かれる。

「これが、今のところの流れになります」

男は、そう言ってペンを置いた。

陸斗は、その紙をじっと見つめた。

日付の一つ一つが、小さな爆弾のように見えた。爆音はしないが、そこに到達した瞬間、何かが消える。

役所に行けば、「父親が死んだ」という事実が戸籍に刻まれる。保険の手続きをすれば、「保険金の受取人」というラベルが自分に貼られる。学校で面談をすれば、「殉職警官の息子」という目で見られる。

そして、官舎の退去。

その日を境に、「家」が「元・家」になる。

壁や床や天井は、そのまま残るかもしれない。けれど、そこに自分の靴も、教科書も、洗いかけのマグカップも、父の新聞もなくなる。鍵を返した瞬間、その空間は「誰かの家」になるか、ただの「部屋」になる。

「…この家からも、この世界からも、ちょっとずつ外されていくんだな」

そんな言葉が頭の中に浮かび、驚く。

世界から外される、という感覚。少しずつ、線を引かれていく。長谷慎一の息子として生きてきた場所から、少しずつ名前が消されていく。

「何か分からないことがあったら、いつでも連絡してください」

生活安全課の男が、名刺を座卓の上に滑らせた。

「学校のことでも、住まいのことでも、福祉のことでも。全部、一人で抱え込む必要はないからね」

名刺の上には、役所のロゴと、「生活安全課 家庭支援係」という文字と、電話番号。

支援。家庭。安全。

それらの言葉は、たしかに自分のために用意されているはずなのに、どこかガラスケースの向こうに展示されている標本みたいに感じられた。

「…ありがとうございます」

また、その言葉を口にした。

部屋の隅で、壁掛け時計の秒針が動く音がする。カチ、カチ、と淡々と時間を刻んでいる。

その音が、今まで暮らしてきた官舎の掛け時計の秒針の音と重なった。

あのリビングで、宿題をしながら聞いていた音。ソファの上で父がうたた寝している間にも、テレビのニュースの裏で鳴っていた音。

その音と同じリズムで、今、目の前の紙の上の文字が自分を未来へ押し出していく。

家に帰りたい、とふと強く思った。

でも、その「家」は、もう行き先として安定していない。三ヶ月先には、そこにいてはいけない場所になる。

居場所、という言葉が、頭の中でぐらりと揺れる。

今まで当たり前だと思っていた床の感触、ソファの沈み具合、布団の重さ。それらすべてが、「期限付き」のものになってしまった。

座布団の下の畳が、妙に硬く感じた。背中を預ける壁も、落ち着かない。ここも一時的な場所で、数時間もすれば出て行かなければならない控室だ。

この部屋にも、官舎にも、学校にも。自分が安心して呼べる「自分の席」は、どこにもない。

そんな感覚がじわじわと広がっていくのを感じながら、陸斗は、目の前の紙の上の黒い文字を、ただ黙って見つめていた。

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  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   8.煙草の煙と罪悪感

    葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   7.殉職という言葉の重さ

    告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの

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