LOGIN畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。
葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。
テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。
壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。
畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。
斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。
全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。
遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。
その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。
紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。
「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。
「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」
「はい…」
父の妹が、小さく頷く。目の周りは赤いが、さっきよりは少し落ち着いているように見える。叔父たちも、黙って同意を示した。
陸斗は、自分も頷いた方がいいのか迷い、結局首をわずかに動かした。
「まず、お住まいの件です」
男は、ファイルから数枚の紙を取り出した。文字のびっしり印刷された書類や、図表のようなものがちらりと見える。
「現在お住まいの官舎ですが、こちらはあくまで警察職員用の住宅になります。基本的には、職員本人とその家族の方が対象でして…このような形でご本人が亡くなられた場合にも、一定期間の猶予をもって、退去していただく決まりになっております」
官舎の写真が頭に浮かんだ。
狭い廊下、共用の階段、薄い壁。けれど、自分にとってはそれが「家」だった。朝、父が出ていき、夜帰ってくる場所。洗濯物を干し、テストを投げ出し、インスタントラーメンの匂いが染みついた二DK。
「退去…」
紀子が、言葉を繰り返した。
「それは…すぐに、ということですか?」
「いえ、いきなりということではありません」
男は、すぐに首を振った。
「長谷さんは殉職ですし、こちらとしてもできる限り配慮はさせていただきます。通常は一ヶ月ほどの猶予ですが、今回のケースですと二ヶ月、場合によっては三ヶ月までは…」
「三ヶ月」
その数字が、鮮明に耳に届いた。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。三十日が一つの塊になって、その塊が三つ並んでいるイメージが浮かぶ。
三つ分のカレンダーを破り終わったら、自分はあの部屋にいられなくなる。
「…退去の時期については、ご親族や関係機関とご相談しながら決めていく形になりますので」
男は、フォローを重ねる。
「『追い出す』という言い方はしたくありません。ただ、お住まいについては、いずれにせよ検討が必要になる、ということだけは、ご理解いただければ」
追い出す、という言葉を敢えて口にしたのは、もしかしたら陸斗に伝わりやすくするための配慮なのかもしれない。けれど、実際に「追い出す」という音が空気に乗った瞬間、胸の奥で何かがぎゅっと縮んだ。
「官舎には…その、遺族は住めない、ってことなんですね」
紀子が、慎重に言う。
「ええ…原則としては」
男は、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「非常に心苦しいのですが、他にも、入居をお待ちになっている職員の方がたくさんいらっしゃいますので…」
心苦しい。その言葉が、「けれども決まりですから」という意味をやわらかく包んでいるのが分かる。
心苦しさでルールが変わるわけじゃない。
「…まあ、しょうがないよね」
叔父が、小さく呟いた。
「うちのマンションだって、契約者が死んだら、更新のときにいろいろ手続き必要だしさ」
彼の妻も、頷いた。
「そうね…官舎って、公のものだから余計にきびしいのかも」
「そういうもんだ」と大人たちは納得しているようだった。反論する人はいない。
「住む場所については、いくつか選択肢があります」
生活安全課の男は、話を先に進めた。
「ご親戚のどなたかのお宅で、一時的あるいは長期的にお世話になるか。あるいは、児童相談所と連携して、里親の家庭や、児童養護施設といった場を検討するか…」
児童相談所、里親、児童養護施設。
音だけは知っている言葉だ。ニュースで、社会科の授業で、遠くの誰かの話として聞いたことがある。でも、自分の現実の選択肢として並べられることを、想像したことはなかった。
「また、学校の先生とも相談になりますが…寮のある学校に転校していただく、という方法もあります。いわゆる全寮制の高校ですね」
全寮制の高校。漫画やドラマの中では聞いたことがある。寮生活、おしゃれな制服、きれいなグラウンド。そういうイメージの断片が浮かぶ。でも、それが自分の未来の現実になる絵は、まるで見えない。
「…あの」
紀子が、おずおずと口を開いた。
「私のところは、北海道で…夫もまだ働いていますし、子どもも二人いて。上の子が高校生で、下の子が中学生なんです。部屋もそんなに余裕がなくて…」
「ええ」
男は、頷いた。
「紀子さんのところは、距離もありますしね」
「もし、私がこっちに引っ越してこれればいいんだけど…」
紀子は、膝の上でハンカチを握りしめたまま言う。
「そんな簡単に仕事を辞めたり、家を手放したりもできなくて。勝手なこと言ってるのは分かってるんだけど…」
「分かりますよ」
男の声は、柔らかい。
「そのお気持ちだけでも、十分ありがたいです」
叔父が、口を挟んだ。
「俺のところも…店があってなあ。地方で小さい居酒屋やってんだけど、人を置いてこられないんだよ。奥さんに全部任せるわけにもいかねえし」
奥さんと呼ばれた女性が、苦笑いを浮かべる。
「うちも部屋が三つしかなくて、子どもと私たちでいっぱいで…」
誰も、「面倒を見たくない」とは言わない。「無理」「嫌だ」とはっきり拒否する人もいない。みんな、「本当は何とかしてあげたいんだけど」と前置きをしながら、「でも」という現実を次々に並べる。
仕事、家族、自分たちの生活。
そのどれもが、嘘ではないのだろうと陸斗は思う。彼らだって生活をしている。自分の家があって、守るものがある。
だから、彼らを責めることはできない。頭ではそう分かっている。分かっているけれど、「ごめんね」「ごめんね」と繰り返されるたび、自分がどこかの真ん中に座らされて、「申し訳なさそうな視線」を一身に浴びているような気分になった。
「ごめんね、本当に」
紀子が、陸斗の方を見て言う。
「しばらくこっちにいられたら、少しは違うんだろうけど…」
「…大丈夫です」
反射的にそう答えた。
大丈夫、という言葉ほど、意味が空っぽなことばはない。大丈夫ではないから、こんな場が設けられているのに。
「長谷くん」
高瀬が、横からそっと声をかけた。
「高校のことはな。学校と話をして、なるべく今のまま通えるようにする。少なくとも、すぐにやめろとか、何か変われとか言うやつはいないから」
「…はい」
高校。教室。黒板。クラスメイトの顔。
今朝までの葬儀の景色と、その先にあるはずの日常の風景が、頭の中で全く繋がらない。翌週には、教卓の前で担任が「長谷は、服喪中だから」とか言うのだろうか。クラスメイトは「大変だったな」と声をかけてくれるのだろうか。
想像しようとしても、映像がすぐに霧散してしまう。
「学費についても、いくつか方法があります」
生活安全課の男が、別の書類を開いた。
「まず、長谷さんの生命保険と、殉職に伴う給付金が出る見込みです。それと、遺族年金ですね。これらを組み合わせて、当面の生活には困らないように…」
保険、給付金、年金。
数字の話が続くが、頭の上を風が通り抜けていくような感覚だった。万円、十何万円、月額、支給。金額が具体的に口にされても、それが実際の生活にどう変換されるのか、うまくイメージできない。
「それでも、不足分については、奨学金や、各種支援制度があります」
男は、ファイルからカラフルなパンフレットを一枚取り出した。
青と緑のグラデーションが印刷された紙。笑顔の学生の写真。「夢をあきらめないで」「あなたの進学を応援します」といったキャッチフレーズ。
「高校は、授業料無償化の制度もありますし…大学に進学する場合でも、こういった制度を使えば…」
言い方は丁寧だが、その声の調子はどこか「何度も同じ説明をしてきた人」のそれだった。必要な情報を漏らさず伝えようとする、業務的なリズム。
「今すぐに決める必要はありません。高校卒業まで、まだ時間はありますし…」
それも分かっている。今はとりあえず、高校をどうするか、住む場所をどうするかだけで精一杯だ。
けれど、「選択肢はたくさんある」という言葉が続くたびに、「だから安心していいですよ」という含みが透けて見える気がして、どこか居心地が悪かった。
安心、という言葉を口にされるほど、安心が遠のいていく。
「…児童相談所というのはですね」
生活安全課の男が、パンフレットをめくりながら説明を始める。
「お子さんの福祉全般を扱う機関でして。家庭環境が変わった場合に、どういう支援が必要かを一緒に考えてくれるところです。決して、無理やりどこかに連れて行く場所ではありませんから…」
お子さん。
その呼び方に、陸斗は少しだけ引っかかった。
自分のことを指しているのは分かっている。でも、「お子さん」と呼ばれると、自分が急に三つか四つくらい歳を戻されたような気分になる。十七歳の自分とは、少しズレた場所から話をされているような感覚。
「里親制度というのもありまして…」
里親。家庭。親。
「血のつながりはなくとも、子どもを育ててくださるご家庭に…」
説明は続く。パンフレットの写真には、笑顔の大人と子どもが一緒に写っている。明るいリビング、整った家具、レンガ造りの家。
その写真が、陸斗にはまるで別の星の風景に見えた。
「…すみません」
紀子が、また申し訳なさそうに言う。
「本当に、私のところで見てあげられれば良かったんだけど…」
「そんな、紀子さんのせいじゃ」
叔父が慌てて言う。
「誰だって、いきなり高校生一人引き取れって言われても、すぐには動けないって」
「そうですよ」
生活安全課の男も、頷いた。
「ご親族の皆様も、それぞれ生活がある中で、こうして集まってくださっているだけで、十分ありがたいことです」
ありがたい、という言葉が空中を漂う。
その一方で、「誰も引き取れない」という事実だけが、座卓の上にじわじわと積もっていく。
「…あの」
しばらく黙っていた高瀬が、意を決したように口を開いた。
「仮の話だがな」
彼は、生活安全課の男と、親戚たちを順に見やった。
「もし、俺が一時的に預かるっていうのは…」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
紀子が顔を上げる。叔父と叔母が驚いたように目を見開く。生活安全課の男は、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。
「高瀬さん」
彼は、慎重に言葉を選ぶようにして声を出した。
「お気持ちは、本当にありがたいんですが…」
「俺、独身寮出て、どっか部屋借りるってのは…」
高瀬は構わず続ける。
「勤務は不規則だけど、署に頼めばシフトの融通も多少は利くし。高校だって、今のまま通える距離で探せば…」
「高瀬」
もう一人、さっきまで黙っていたスーツの男が口を挟んだ。父の職場の上司らしい。告別式のとき、弔辞を読んだ幹部とは別の、課長クラスの顔だ。
「お前の気持ちは分かる。でもな」
彼は、眉間に皺を寄せた。
「独身寮を出るってことは、家賃も生活費も全部、自分で持つってことだ。今の給料で、高校生一人分の生活費まで背負ったら、お前の生活が回らなくなる」
「……」
高瀬は口をつぐんだ。
「それに、お前の勤務形態を考えろ。泊まりもあれば、夜中に呼び出しもある。そんな状況で、十七の子を一人部屋に置いとくのか」
上司の声には、決して高圧的ではないが、冷静な現実が詰まっているように聞こえた。
「法律的にも、第三者が未成年者を預かる場合、いろいろ手続きがある。養子縁組だの、里親登録だの、簡単にはいかない」
生活安全課の男も、そこで口を添える。
「高瀬さんのような立場の方が関わる場合、逆にややこしくなってしまうこともありますので…」
ややこしい。法律。手続き。
言いながら、大人たちの視線はどこか互いに視線を交わしている。誰も、「やめろ」と露骨には言わない。でも、「やめておいた方がいい」という空気が、にじむように広がっていた。
「…分かってるよ」
高瀬は、かろうじてそう言った。
「勝手なこと言ってるのは分かってる」
その言葉には、少しだけ自嘲が混じっているように聞こえた。
陸斗は、そのやりとりを、どこか別の部屋の会話みたいな感覚で聞いていた。
大人たちも、何でもできるわけじゃない。
父がいつもやっていたように、無茶を通して世界を変えてくれるわけじゃない。彼らにも、会社だの、規則だの、給料だの、そういった枠がある。その枠を一気に飛び越えられる人間は、そう多くない。
父だけが、いつもその枠から半歩外に足を出していたのかもしれない。
でも、その父はいない。
「…長谷くん」
生活安全課の男が、陸斗の方に身体を少し向けた。
「いろいろ話が出ていて、混乱していると思うけど…今の段階で、何か希望とか、不安なこととか、聞いておきたいことはある?」
いきなり自分に水を向けられ、陸斗は一瞬言葉が出なかった。
希望。不安。聞きたいこと。
頭の中を探っても、すぐには何も出てこない。「全部」と答えてしまいそうになる。それでは答えにならないから、口を噤む。
「…特に…」
ようやく絞り出した言葉は、あまりにも頼りなかった。
「特に、ないです」
ないわけじゃない。ありすぎて、何から言えばいいか分からない。言葉にした瞬間、それが現実になってしまうのが怖い。だから、「ない」と言ってしまう。
自分の意見を求められたのは、この話し合いの中で初めてだった。けれど、その問いかけは、「一応聞きました」という形だけのようにも感じられた。
男は、「そうか」と頷き、「今は無理に決めなくていいからね」と続けた。
「高校は続けられるから。そこは安心していい」
「進学だって、諦める必要はない。奨学金もあるし、支援してくれる人間もいる」
叔父が言う。
「若いんだから、これからいくらでもやり直しがきくよ」
やり直し。若い。いくらでも。
それらは、パンフレットの中の励まし文句と同じくらい、よく聞くフレーズだった。誰かの人生相談のテレビでも、同じような言葉を何度も聞いた。
「…ありがとうございます」
そう答えるのが、唯一の正しい返し方に思えた。
本当は、「何をやり直せばいいのか分からない」と言いたかった。何が間違いで、どこからがやり直しなのか、その線引きすら、自分には分からない。
ただ、「ありがとうございます」と言っておけば、その場は丸く収まる。大人たちは「そうか」と安心して、次の話題に進む。分かっているのに、そうするしかない。
「とりあえず、今後の段取りを整理しましょう」
生活安全課の男が、座卓の端に置かれていたメモ用紙とボールペンを取った。
「今日が、告別式と火葬。明日以降、葬儀の後片づけと、役所関係の手続き。戸籍の変更や、年金、保険の請求などですね」
紙の上に、日付と項目が書かれていく。
○月○日 市役所 戸籍・年金
○月○日 保険会社 手続き ○月○日 学校 担任と面談黒いインクが、白い紙の上にすらすらと線を引かれていく。その文字は、整っていて読みやすい。必要な情報だけが、無駄なく並んでいる。
「官舎の件は…そうですね」
男は、ペン先を少し宙に止めた後、書き加えた。
○月末〜○月中 官舎退去時期の相談・調整
さらに、その横に小さく「目安 三ヶ月以内」と書き添える。
「これはあくまで目安ですから。状況を見ながら前後します。ただ、逆に言えば、これくらいの期間の間に、住む場所を決めておく必要がある、ということになります」
ペン先が紙をなぞる音が、やけに大きく聞こえた。
カリ、カリ、と文字が刻まれるたび、何かが決まっていく。自分の意志とは関係なく、予定が枠にはめられていく。
○月○日 学校始業
○月末 退去目安その二つの文字列の間に、自分の生活が収まってしまうのだ。
紙が座卓の真ん中に滑らされ、全員の目に見えるように置かれる。
「これが、今のところの流れになります」
男は、そう言ってペンを置いた。
陸斗は、その紙をじっと見つめた。
日付の一つ一つが、小さな爆弾のように見えた。爆音はしないが、そこに到達した瞬間、何かが消える。
役所に行けば、「父親が死んだ」という事実が戸籍に刻まれる。保険の手続きをすれば、「保険金の受取人」というラベルが自分に貼られる。学校で面談をすれば、「殉職警官の息子」という目で見られる。
そして、官舎の退去。
その日を境に、「家」が「元・家」になる。
壁や床や天井は、そのまま残るかもしれない。けれど、そこに自分の靴も、教科書も、洗いかけのマグカップも、父の新聞もなくなる。鍵を返した瞬間、その空間は「誰かの家」になるか、ただの「部屋」になる。
「…この家からも、この世界からも、ちょっとずつ外されていくんだな」
そんな言葉が頭の中に浮かび、驚く。
世界から外される、という感覚。少しずつ、線を引かれていく。長谷慎一の息子として生きてきた場所から、少しずつ名前が消されていく。
「何か分からないことがあったら、いつでも連絡してください」
生活安全課の男が、名刺を座卓の上に滑らせた。
「学校のことでも、住まいのことでも、福祉のことでも。全部、一人で抱え込む必要はないからね」
名刺の上には、役所のロゴと、「生活安全課 家庭支援係」という文字と、電話番号。
支援。家庭。安全。
それらの言葉は、たしかに自分のために用意されているはずなのに、どこかガラスケースの向こうに展示されている標本みたいに感じられた。
「…ありがとうございます」
また、その言葉を口にした。
部屋の隅で、壁掛け時計の秒針が動く音がする。カチ、カチ、と淡々と時間を刻んでいる。
その音が、今まで暮らしてきた官舎の掛け時計の秒針の音と重なった。
あのリビングで、宿題をしながら聞いていた音。ソファの上で父がうたた寝している間にも、テレビのニュースの裏で鳴っていた音。
その音と同じリズムで、今、目の前の紙の上の文字が自分を未来へ押し出していく。
家に帰りたい、とふと強く思った。
でも、その「家」は、もう行き先として安定していない。三ヶ月先には、そこにいてはいけない場所になる。
居場所、という言葉が、頭の中でぐらりと揺れる。
今まで当たり前だと思っていた床の感触、ソファの沈み具合、布団の重さ。それらすべてが、「期限付き」のものになってしまった。
座布団の下の畳が、妙に硬く感じた。背中を預ける壁も、落ち着かない。ここも一時的な場所で、数時間もすれば出て行かなければならない控室だ。
この部屋にも、官舎にも、学校にも。自分が安心して呼べる「自分の席」は、どこにもない。
そんな感覚がじわじわと広がっていくのを感じながら、陸斗は、目の前の紙の上の黒い文字を、ただ黙って見つめていた。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
雑居ビルのエントランスは、思ったよりも暗かった。一階には、聞いたことのない名前の保険代理店と、小さな居酒屋と、うらぶれたマッサージ店が並んでいる。ガラス戸の向こうには、郵便受けと古いエレベーター。壁の案内板には、手書きの紙で「△△法律事務所」と貼られていた。「…ここ、ですよね」陸斗は、印刷の掠れたビル案内を見上げながら、小さく言った。「三階、か」隣で充がぼそっと呟く。寝不足特有の低い声だ。目の下のクマは、朝見たときより一段濃くなっている気がする。仕事明けにシャワーだけ浴びて、そのままここに来たの
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く







