LOGIN葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。
ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。
押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。
喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。
高瀬がいた。
黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。
充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。
「…よ」
短く声をかける。
高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。
「来てたのか」
高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。
「ああ」
充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。
葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。
高瀬が、木
そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が、今日は少しもたついた。
「貸せ」
高瀬が、自分のライターを差し出してくる。銀色の小さな火が灯る。充は煙草の先を近づけ、火をもらった。吸い込むと、肺の奥に煙が流れ込む。いつもと同じはずの味が、やけに苦く感じる。
「中、すごいな」
吐き出した煙の向こうで、会館の裏壁が曇って見える。
「スーツと制服だらけ」
「まあな」
高瀬は、短く笑い、とすぐにその笑いを飲み込んだ。
「警察葬って言っても、本格的なのじゃなくて簡易なやつだけど…人は集まるよ。殉職、なんて言葉がつくと、みんな来る」
殉職。
その言葉に、充はわずかに眉をひそめた。
あの夜から、何度も耳にした単語だ。ニュースで、上司の口から、葬儀の司会の口から、弔辞の中で。
「殉職警官」
「尊い命を捧げた」
そう言われるたび、どこかで誰かが勝手に慎一の死に意味をつけている気がした。
「…派手に言われてんな」
ぼそりと、充は呟いた。
「長谷さんが聞いたら、どう言うかな」
「さあな」
高瀬は、煙草の灰を灰皿の縁で落とす。
「『かっこつけんな』って言うかもしれないし、『まあいいだろ』って肩すくめるかもしれない」
その想像に、充の口元が少しだけ歪んだ。
「『かっこつけんな』だろ」
「だな」
一瞬だけ、二人の間に共犯めいた空気が生まれる。それもすぐに、煙と一緒に冷たい空気に溶けていった。
喫煙所の先には小さな駐車スペースがあり、その向こうに背の低いフェンスがある。フェンスの向こうには、コンビニの看板が見えた。赤と白のロゴが、曇り空の下でぼんやりと光っている。遠くから、車の走る音と、かすかな人の話し声が聞こえてきた。
葬儀会館の中からは、何かを片づける物音や、控室で話す声がうっすらと漏れてくる。それらは、ここまで来ると少し遠い。
「…あのさ」
高瀬が、煙草をくわえたまま、横目で充を見る。
「今日は、来てくれてありがとうな」
「礼、言われる筋合いはねえよ」
充は、肩をすくめた。
「俺のせいだろ、あれ」
「あれ、って言うなよ」
高瀬の声が、少し低くなる。
「事件だ」
「事件ね」
充は、煙を吐き出しながら、自分の手のひらを一瞬だけ見た。
何もついていない。指の節に、細かな傷が一つあるくらいだ。路地裏でアスファルトに手をついたときに擦った傷。今はもう、かさぶたになりかけている。
でも、ここにはまだ、感触が残っていた。
ぬるいもの。熱いもの。指の間をすり抜けていった、赤いもの。
「俺が、行かなきゃよかった」
呟きに近い声で、充は言う。
「長谷さん、『堂島には近づくな』『お前は手を引け』って、何回も言ってた。なのに、俺は勝手に行って、勝手に巻き込まれて…」
あの夜の光景が、白黒のフィルムみたいに頭の中で再生される。
雨上がりの路地。コインパーキング。ネオンの反射。堂島の笑っていない笑顔。そして、その手から伸びた銀色の刃。
「警察だ!堂島、刃物を捨てろ!」
あの声。あの瞬間。慎一の姿が視界に飛び込んできたときの、奇妙な安心と恐怖の混ざり具合。
それから、身体を滑り込ませる動き。ナイフの軌道。嫌な音。重み。手のひらに感じた血の温度。
「…」
煙草を持つ指先が、わずかに震えていた。
自分で気づかない振りをしようとしたが、震えは止まらない。指と紙巻の間で、灰が少し崩れ落ちる。灰皿へと落ちていくそれを、充は視線だけで追った。
「俺がいなきゃ、長谷さん、あそこで刺されてねえよ」
唇が乾く。舌先で舐めると、タバコの苦さと鉄の味の記憶が混ざったような味がした。
「お前、あのとき、あの場にいたからそう思うんだろうけどな」
高瀬が、少しだけ顔をしかめながら言う。
「俺から見りゃ、逆だ」
「逆?」
「お前がいなかったら、あのガキが刺されてたかもしれない」
ガキ。借金のトラブルに巻き込まれていた、夜の街の若いの。充にとっては、顔と名前は知っているが、家も家族も知らないやつ。
「あいつが刺されてたら、多分長谷さんは、同じように飛び込んだ」
高瀬は、淡々と続ける。
「そしたら、やっぱり刺されてた。相手がナイフ持って暴れてる時点で、誰かしら血を流す。お前がいなくても、現場に俺たちが入った時点で、長谷さんは止めに入っただろうよ」
「それでも」
充は、口を尖らせる。
「俺、あの人に『行くな』って言われてた。堂島に近づくなって…警察に任せろって、ちゃんと釘刺されてた。聞かなかったのは俺だ。ガキ庇って、自分がかっこつけたいだけで、勝手に出張って…」
言葉が、自分の中でどんどん角を尖らせていく。
そもそも、後輩やら何やらを「庇う」資格が、自分にあったのか。堂島との距離感を一番分かっていたのは、慎一だった。なのに、自分は自分の判断を優先した。
「そうだな」
高瀬は、否定しなかった。
充は、一瞬、胸の奥に小さな怒りが灯るのを感じた。慰めてほしいわけじゃないが、「そうだな」とあっさり言われると、腹が立つ。
「でも」
高瀬は、灰皿に灰を落としながら続けた。
「それ、分かってて飛び込んだのは長谷さんだ」
「…」
「お前が止めろって言われてたのに来たみたいに、あいつも、止めたって出ていくタイプだろ」
「似た者同士って言いてえの」
「言いたくねえけど、そうなんだろうな、たぶん」
高瀬の声には、苦笑が混じった。
「人の忠告聞かないところも、目の前で誰か殴られてるとすぐ手出すところも、自分の身体より先に他人の方に手ぇ伸ばすところも」
「褒めてねえだろ」
「褒めてない」
即答だった。
一瞬だけ、喫煙所に笑いの気配が漂ったが、それもまたすぐに薄くなった。
充は、煙草の先端をじっと見つめる。赤く光る火が、灰の中で小さく揺れている。風はほとんどないのに、煙だけが上へと立ち上っていく。
「…お前さ」
高瀬が、不意に言った。
「長谷さんに、何回補導されたっけ」
「数えろって?」
充は、鼻で笑った。
「中学の終わりから、高校出て二十歳なるまでだろ。最初の一年で五回くらい。そっから、間あけながら、ちょこちょこ」
「そんなもんだよな」
高瀬も、過去の記録をなぞるように頷く。
「夜中のコンビニ前でたむろってんの、原付二ケツでぶっ飛ばしてんの、カラオケで騒ぎすぎて出禁食らってんの…」
「よく覚えてんね」
「長谷さんが、よく愚痴ってたからな」
高瀬の口元が、少しだけ緩む。
「『あいつ、名前だけはすぐ覚えるんだけどなあ』って」
「名前だけかよ」
「顔も覚えてたよ」
高瀬は、真顔に戻る。
「お前がそのへんうろついてるって情報が入るたび、妙に落ち着きなかった。『あいつ、また余計なことしてねえだろうな』って」
「余計なことって」
「喧嘩売るとか、借金背負うとか…もしくは、誰かの喧嘩に首突っ込むとか」
図星を刺されたような感覚に、充は肩をすくめた。
「…まあ、あんまり否定できねえな」
「だろ」
高瀬は、煙草を吸い込みながら、少し遠くを見る。
「あいつな、ああ見えて結構、面倒見いいんだよ。署の若いやつでも、お前みたいなガキでも、自分の家のガキでも」
「自分の家のガキ、ね」
充は、耳に引っかかった単語を繰り返した。
長谷慎一の、家のガキ。息子。名前を一度聞いた気がするが、はっきり覚えていない。病院の廊下で、あの白いベンチの近くで、「息子が…」と口にしていた。
「…あの子、さっき見た?」
高瀬が、ふと思い出したように言う。
「あの子?」
「長谷のとこの」
ああ、と充は遅れて理解する。
「見た、っつーか…」
棺の方を見たとき、視界の端にブレザー姿が見えた。あれはたぶん、制服だったはずだ。顔は正面から見ていない。家族席の端で、背中越しに一度だけ。
「前の方に座ってたろ。細くて、背の高い、学生服の」
「ああ」
充は、曖昧に頷く。
「…高校生?」
「二年だ。まだ十七」
十七。自分が初めて補導された年と同じだ。
「母親はいない。かなり前に亡くなってる」
高瀬の声は淡々としているが、その内容は重かった。
「親父が仕事でいないとき、家で一人で飯食って、学校行って、宿題やって…そういう日が多かったみたいだ」
「それ、長谷さんが言ってた?」
「ああ」
高瀬は、視線を足元に落とした。
「夜勤の合間とかによく、『あいつ、また寝坊したんだよ』とか、『テスト結果、見せやしねえ』とか、文句言ってた。結局嬉しそうなんだけどな」
言葉の端々に、慎一の顔が浮かぶ。署での姿は想像でしかないが、朝の味噌汁の席で見せていた表情と、それほど変わらないのだろう。
「…官舎、追い出されんだっけ」
充が、唐突に話題を変えた。さっき、会館の中で耳にした会話が頭をよぎる。
「長谷さんとこの、家」
「ああ」
高瀬は、小さく息を吐いた。
「いきなりじゃない。しばらくは猶予期間がある。でも、職員用住宅だからな。いつまでもってわけにはいかない」
「親戚とか、いねえの?」
「いないわけじゃないけど…」
高瀬は、煙を吐きながら言葉を探すようにした。
「みんな遠い。北海道だの九州だの。こっちに生活基盤があるわけじゃないし、子ども抱えてたり、介護抱えてたり」
「つまり」
充は、結論だけを引っ張り出そうとする。
「あの子、ほぼ一人?」
「…まあ」
曖昧な肯定だった。
「学校の先生やら、福祉やら、行政やらが入って、なんとかしようとはする。児童相談所とか、里親制度とか、いろいろ選択肢はある」
高瀬の口から出てくる単語は、どれも教科書の中の言葉のように聞こえた。制度。仕組み。仕方。
「でも、本人からしたら…」
そこで言葉を切り、唇を噛んだように見えた。
充は、足元のコンクリートを見た。薄い水たまりの上に、灰色の空が揺れている。そこに、自分と高瀬の影がかすかに映っていた。
十七で、親父を失って。官舎から出なきゃいけなくなって。母親はいなくて。親戚は遠くにいて。
「ガキ一人、ぽんって、街中に放り出す感じだな」
呟いた言葉は、予想よりも重く空気を沈めた。
高瀬は、すぐには何も言わなかった。その沈黙の長さが、充には答えの代わりのように感じられた。
「…そういうの、見てきたからな」
高瀬が、逆に問い返す。
「お前みたいなやつ、何人も」
「誰が『お前みたいな』だよ」
充は、苦笑気味に返した。
「でも、まあ。確かに。知り合いに何人かいたな」
親父が飛んで、母親が夜逃げして、家がなくなって。最初は友達んち泊まり歩いて、やがてネットカフェやラブホに流れ、最後は路上か誰かの部屋か。
十七や十八で、一人になったやつらの末路を、充は夜の街で何度も見てきた。どこかで線を引かないと、自分も同じ穴に落ちるという感覚だけはあった。
「俺は、まだマシだったよ」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
「一応家はあったし、親父も生きてたし。まあ、ろくなもんじゃなかったけど」
酒の匂い。怒鳴り声。殴られたことよりも、無視された日の方がよく覚えている。
「家にいたくねえから外出て、外で悪さしてたら、長谷さんに捕まって」
「で、説教されて」
高瀬が、続きを勝手に言う。
「『お前、このまま前科ついたら終わりだぞ』って」
「…マジで、あの人、その台詞好きだよな」
充は、苦笑した。
「何回も言われた。『終わりだぞ』って。終わり終わりって、こっちはとっくに終わってると思ってたのに」
本当に終わってたら、ここにもいないだろ、と今なら思う。
「それでも、お前は終わらなかった」
高瀬は、灰を落としてから言った。
「少なくとも、今ここでタバコ吸ってられるくらいには、何とかして生きてる」
「生き残ってる、だろ」
充は、視線を上に向ける。煙が、曖昧な灰色の空に混ざっていく。
「何とかさ。長谷さんが、あんだけしつこく説教してきたおかげで」
「そうだな」
高瀬は、素直に頷いた。
「お前も、長谷さんに拾われた一人だ」
その言葉に、喉の奥が一瞬つまった。
拾われた。
中学の終わり、夜中にコンビニの前でたむろっていたときに声をかけられたのが最初だ。制服でもないのに、やたら目ざとくて、逃げようとするとすぐ足を掴まれる。
「こっち来い」
「話聞かせろ」
うるさいし、しつこいし、しばらく顔も見たくないと思った。そのくせ、時間が経つとまた会いに行ってしまう。説教されに行っているようなものだった。
「…拾われた、って言うと、なんか猫みたいだな」
充は、わざと軽く言った。
「拾い猫にしては、可愛げなかったけど」
「うるせえよ」
口ではそう返しながらも、その言葉を完全には否定できない。
拾われた。捨てられないように、どこかに繋がれていた。鎖の代わりに説教と心配と、時々缶コーヒー。
あの夜、血まみれになりながら「陸斗を頼む」と言われたとき、自分は頷いた。それは、ただの勢いではなかったのかもしれない。拾われた側が、何かを引き継ぐ番が来た、みたいな。
「…あの子、なんて名前だっけ」
ふと、口から出た。
「長谷さんのとこの」
「陸斗」
高瀬は、即答する。
「長谷陸斗」
その名前が、充の中で何かに結びつく。
陸。斗。地面と空の間みたいな名前。十七。高校二年。母親はいない。警察官だった父親が殉職した。官舎をそのうち追い出される。遠くにしか親戚はいない。
「…ガキ、だな」
呟きながら、充は自分より四つ下のその「ガキ」の姿を想像しようとする。
顔ははっきり浮かばない。ただ、葬儀場の家族席で、黒い学生服を着て、まっすぐ前を見ていた背中。泣いているようには見えなかった。泣けないのか、泣きたくないのか。それは分からない。
十七で、世界がひっくり返る感覚を味わうのは、どんななのか。
自分はその歳のとき、世界がひっくり返る前に、全部投げて逃げようとしていた。長谷慎一という、大人に捕まらなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「…あの子も、誰かに拾われねえと、どっかで落ちるな」
ぽつりと出た言葉に、高瀬がちらりと横目を向ける。
「拾うって、誰が」
「知らねえよ」
即座に答えながらも、充の胸の奥には、ぼんやりとしたものが広がり始めていた。
自分じゃない。自分なんかが出しゃばる話じゃない。
そう思う一方で、「誰か」が現れなければ、その「誰か」は永遠にいない。制度や仕組みはある。でも、それだけじゃこぼれ落ちるものがあることを、夜の街で散々見てきた。
殉職警官の息子。英雄の子ども。みんなが「可哀想だね」「立派なお父さんだった」と言ってくれる。けれど、そのあと布団をかぶって眠るとき、一人きりになるのは、そのガキだ。
「…お前も含めてだよ」
高瀬が、少しだけ乾いた笑いを含ませて言った。
「拾うって話」
「は?」
充は、わざと知らないふりをする。
「何の話」
「まだ何も決まってねえし、俺が勝手に言ってるだけだ」
高瀬は、煙草の火を灰皿に押しつけた。
「でも、お前、あいつの名前、ちゃんと覚えた方がいい」
「何で」
「長谷さんに頼まれただろ」
その一言で、喫煙所の空気が少し変わった。
あの夜の言葉が、耳の奥に蘇る。
「…陸斗を…頼む」
血の味と、救急車のサイレンと一緒に、その声が今もこびりついている。
「頼まれた、って」
充は、視線を逸らした。
「あれは…あの場のノリみたいなもんだろ」
「死ぬかもしれない場面で、あんな頼み方するやつ、見たことねえよ」
高瀬は、静かに言う。
「ノリで息子の名前出せるか」
返す言葉が見つからなかった。
煙草は、いつの間にか短くなっていた。指先に熱さを感じて、慌てて灰皿に押しつける。指の腹に残る熱が、さっきの記憶と混ざっていく。
「…拾われたやつが、今度は誰か拾う番かよ」
自分でも驚くほど、小さな声で充は呟いた。
高瀬には聞こえたのか、聞こえなかったのか。彼はそれには何も答えず、空を見上げていた。
灰色の雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が覗いている。その光が、濡れたコンクリートの上に映り、微かに揺れた。
喫煙所の狭い空間の中で、煙と冷たい空気と、一つの約束の記憶が絡まり合う。
まだ言葉にはならない。でも、充の胸の奥には、小さな何かが芽吹き始めていた。
西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が







