LOGIN葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。
ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。
押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。
喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。
高瀬がいた。
黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。
充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。
「…よ」
短く声をかける。
高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。
「来てたのか」
高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。
「ああ」
充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。
葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。
高瀬が、木
そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が、今日は少しもたついた。
「貸せ」
高瀬が、自分のライターを差し出してくる。銀色の小さな火が灯る。充は煙草の先を近づけ、火をもらった。吸い込むと、肺の奥に煙が流れ込む。いつもと同じはずの味が、やけに苦く感じる。
「中、すごいな」
吐き出した煙の向こうで、会館の裏壁が曇って見える。
「スーツと制服だらけ」
「まあな」
高瀬は、短く笑い、とすぐにその笑いを飲み込んだ。
「警察葬って言っても、本格的なのじゃなくて簡易なやつだけど…人は集まるよ。殉職、なんて言葉がつくと、みんな来る」
殉職。
その言葉に、充はわずかに眉をひそめた。
あの夜から、何度も耳にした単語だ。ニュースで、上司の口から、葬儀の司会の口から、弔辞の中で。
「殉職警官」
「尊い命を捧げた」
そう言われるたび、どこかで誰かが勝手に慎一の死に意味をつけている気がした。
「…派手に言われてんな」
ぼそりと、充は呟いた。
「長谷さんが聞いたら、どう言うかな」
「さあな」
高瀬は、煙草の灰を灰皿の縁で落とす。
「『かっこつけんな』って言うかもしれないし、『まあいいだろ』って肩すくめるかもしれない」
その想像に、充の口元が少しだけ歪んだ。
「『かっこつけんな』だろ」
「だな」
一瞬だけ、二人の間に共犯めいた空気が生まれる。それもすぐに、煙と一緒に冷たい空気に溶けていった。
喫煙所の先には小さな駐車スペースがあり、その向こうに背の低いフェンスがある。フェンスの向こうには、コンビニの看板が見えた。赤と白のロゴが、曇り空の下でぼんやりと光っている。遠くから、車の走る音と、かすかな人の話し声が聞こえてきた。
葬儀会館の中からは、何かを片づける物音や、控室で話す声がうっすらと漏れてくる。それらは、ここまで来ると少し遠い。
「…あのさ」
高瀬が、煙草をくわえたまま、横目で充を見る。
「今日は、来てくれてありがとうな」
「礼、言われる筋合いはねえよ」
充は、肩をすくめた。
「俺のせいだろ、あれ」
「あれ、って言うなよ」
高瀬の声が、少し低くなる。
「事件だ」
「事件ね」
充は、煙を吐き出しながら、自分の手のひらを一瞬だけ見た。
何もついていない。指の節に、細かな傷が一つあるくらいだ。路地裏でアスファルトに手をついたときに擦った傷。今はもう、かさぶたになりかけている。
でも、ここにはまだ、感触が残っていた。
ぬるいもの。熱いもの。指の間をすり抜けていった、赤いもの。
「俺が、行かなきゃよかった」
呟きに近い声で、充は言う。
「長谷さん、『堂島には近づくな』『お前は手を引け』って、何回も言ってた。なのに、俺は勝手に行って、勝手に巻き込まれて…」
あの夜の光景が、白黒のフィルムみたいに頭の中で再生される。
雨上がりの路地。コインパーキング。ネオンの反射。堂島の笑っていない笑顔。そして、その手から伸びた銀色の刃。
「警察だ!堂島、刃物を捨てろ!」
あの声。あの瞬間。慎一の姿が視界に飛び込んできたときの、奇妙な安心と恐怖の混ざり具合。
それから、身体を滑り込ませる動き。ナイフの軌道。嫌な音。重み。手のひらに感じた血の温度。
「…」
煙草を持つ指先が、わずかに震えていた。
自分で気づかない振りをしようとしたが、震えは止まらない。指と紙巻の間で、灰が少し崩れ落ちる。灰皿へと落ちていくそれを、充は視線だけで追った。
「俺がいなきゃ、長谷さん、あそこで刺されてねえよ」
唇が乾く。舌先で舐めると、タバコの苦さと鉄の味の記憶が混ざったような味がした。
「お前、あのとき、あの場にいたからそう思うんだろうけどな」
高瀬が、少しだけ顔をしかめながら言う。
「俺から見りゃ、逆だ」
「逆?」
「お前がいなかったら、あのガキが刺されてたかもしれない」
ガキ。借金のトラブルに巻き込まれていた、夜の街の若いの。充にとっては、顔と名前は知っているが、家も家族も知らないやつ。
「あいつが刺されてたら、多分長谷さんは、同じように飛び込んだ」
高瀬は、淡々と続ける。
「そしたら、やっぱり刺されてた。相手がナイフ持って暴れてる時点で、誰かしら血を流す。お前がいなくても、現場に俺たちが入った時点で、長谷さんは止めに入っただろうよ」
「それでも」
充は、口を尖らせる。
「俺、あの人に『行くな』って言われてた。堂島に近づくなって…警察に任せろって、ちゃんと釘刺されてた。聞かなかったのは俺だ。ガキ庇って、自分がかっこつけたいだけで、勝手に出張って…」
言葉が、自分の中でどんどん角を尖らせていく。
そもそも、後輩やら何やらを「庇う」資格が、自分にあったのか。堂島との距離感を一番分かっていたのは、慎一だった。なのに、自分は自分の判断を優先した。
「そうだな」
高瀬は、否定しなかった。
充は、一瞬、胸の奥に小さな怒りが灯るのを感じた。慰めてほしいわけじゃないが、「そうだな」とあっさり言われると、腹が立つ。
「でも」
高瀬は、灰皿に灰を落としながら続けた。
「それ、分かってて飛び込んだのは長谷さんだ」
「…」
「お前が止めろって言われてたのに来たみたいに、あいつも、止めたって出ていくタイプだろ」
「似た者同士って言いてえの」
「言いたくねえけど、そうなんだろうな、たぶん」
高瀬の声には、苦笑が混じった。
「人の忠告聞かないところも、目の前で誰か殴られてるとすぐ手出すところも、自分の身体より先に他人の方に手ぇ伸ばすところも」
「褒めてねえだろ」
「褒めてない」
即答だった。
一瞬だけ、喫煙所に笑いの気配が漂ったが、それもまたすぐに薄くなった。
充は、煙草の先端をじっと見つめる。赤く光る火が、灰の中で小さく揺れている。風はほとんどないのに、煙だけが上へと立ち上っていく。
「…お前さ」
高瀬が、不意に言った。
「長谷さんに、何回補導されたっけ」
「数えろって?」
充は、鼻で笑った。
「中学の終わりから、高校出て二十歳なるまでだろ。最初の一年で五回くらい。そっから、間あけながら、ちょこちょこ」
「そんなもんだよな」
高瀬も、過去の記録をなぞるように頷く。
「夜中のコンビニ前でたむろってんの、原付二ケツでぶっ飛ばしてんの、カラオケで騒ぎすぎて出禁食らってんの…」
「よく覚えてんね」
「長谷さんが、よく愚痴ってたからな」
高瀬の口元が、少しだけ緩む。
「『あいつ、名前だけはすぐ覚えるんだけどなあ』って」
「名前だけかよ」
「顔も覚えてたよ」
高瀬は、真顔に戻る。
「お前がそのへんうろついてるって情報が入るたび、妙に落ち着きなかった。『あいつ、また余計なことしてねえだろうな』って」
「余計なことって」
「喧嘩売るとか、借金背負うとか…もしくは、誰かの喧嘩に首突っ込むとか」
図星を刺されたような感覚に、充は肩をすくめた。
「…まあ、あんまり否定できねえな」
「だろ」
高瀬は、煙草を吸い込みながら、少し遠くを見る。
「あいつな、ああ見えて結構、面倒見いいんだよ。署の若いやつでも、お前みたいなガキでも、自分の家のガキでも」
「自分の家のガキ、ね」
充は、耳に引っかかった単語を繰り返した。
長谷慎一の、家のガキ。息子。名前を一度聞いた気がするが、はっきり覚えていない。病院の廊下で、あの白いベンチの近くで、「息子が…」と口にしていた。
「…あの子、さっき見た?」
高瀬が、ふと思い出したように言う。
「あの子?」
「長谷のとこの」
ああ、と充は遅れて理解する。
「見た、っつーか…」
棺の方を見たとき、視界の端にブレザー姿が見えた。あれはたぶん、制服だったはずだ。顔は正面から見ていない。家族席の端で、背中越しに一度だけ。
「前の方に座ってたろ。細くて、背の高い、学生服の」
「ああ」
充は、曖昧に頷く。
「…高校生?」
「二年だ。まだ十七」
十七。自分が初めて補導された年と同じだ。
「母親はいない。かなり前に亡くなってる」
高瀬の声は淡々としているが、その内容は重かった。
「親父が仕事でいないとき、家で一人で飯食って、学校行って、宿題やって…そういう日が多かったみたいだ」
「それ、長谷さんが言ってた?」
「ああ」
高瀬は、視線を足元に落とした。
「夜勤の合間とかによく、『あいつ、また寝坊したんだよ』とか、『テスト結果、見せやしねえ』とか、文句言ってた。結局嬉しそうなんだけどな」
言葉の端々に、慎一の顔が浮かぶ。署での姿は想像でしかないが、朝の味噌汁の席で見せていた表情と、それほど変わらないのだろう。
「…官舎、追い出されんだっけ」
充が、唐突に話題を変えた。さっき、会館の中で耳にした会話が頭をよぎる。
「長谷さんとこの、家」
「ああ」
高瀬は、小さく息を吐いた。
「いきなりじゃない。しばらくは猶予期間がある。でも、職員用住宅だからな。いつまでもってわけにはいかない」
「親戚とか、いねえの?」
「いないわけじゃないけど…」
高瀬は、煙を吐きながら言葉を探すようにした。
「みんな遠い。北海道だの九州だの。こっちに生活基盤があるわけじゃないし、子ども抱えてたり、介護抱えてたり」
「つまり」
充は、結論だけを引っ張り出そうとする。
「あの子、ほぼ一人?」
「…まあ」
曖昧な肯定だった。
「学校の先生やら、福祉やら、行政やらが入って、なんとかしようとはする。児童相談所とか、里親制度とか、いろいろ選択肢はある」
高瀬の口から出てくる単語は、どれも教科書の中の言葉のように聞こえた。制度。仕組み。仕方。
「でも、本人からしたら…」
そこで言葉を切り、唇を噛んだように見えた。
充は、足元のコンクリートを見た。薄い水たまりの上に、灰色の空が揺れている。そこに、自分と高瀬の影がかすかに映っていた。
十七で、親父を失って。官舎から出なきゃいけなくなって。母親はいなくて。親戚は遠くにいて。
「ガキ一人、ぽんって、街中に放り出す感じだな」
呟いた言葉は、予想よりも重く空気を沈めた。
高瀬は、すぐには何も言わなかった。その沈黙の長さが、充には答えの代わりのように感じられた。
「…そういうの、見てきたからな」
高瀬が、逆に問い返す。
「お前みたいなやつ、何人も」
「誰が『お前みたいな』だよ」
充は、苦笑気味に返した。
「でも、まあ。確かに。知り合いに何人かいたな」
親父が飛んで、母親が夜逃げして、家がなくなって。最初は友達んち泊まり歩いて、やがてネットカフェやラブホに流れ、最後は路上か誰かの部屋か。
十七や十八で、一人になったやつらの末路を、充は夜の街で何度も見てきた。どこかで線を引かないと、自分も同じ穴に落ちるという感覚だけはあった。
「俺は、まだマシだったよ」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
「一応家はあったし、親父も生きてたし。まあ、ろくなもんじゃなかったけど」
酒の匂い。怒鳴り声。殴られたことよりも、無視された日の方がよく覚えている。
「家にいたくねえから外出て、外で悪さしてたら、長谷さんに捕まって」
「で、説教されて」
高瀬が、続きを勝手に言う。
「『お前、このまま前科ついたら終わりだぞ』って」
「…マジで、あの人、その台詞好きだよな」
充は、苦笑した。
「何回も言われた。『終わりだぞ』って。終わり終わりって、こっちはとっくに終わってると思ってたのに」
本当に終わってたら、ここにもいないだろ、と今なら思う。
「それでも、お前は終わらなかった」
高瀬は、灰を落としてから言った。
「少なくとも、今ここでタバコ吸ってられるくらいには、何とかして生きてる」
「生き残ってる、だろ」
充は、視線を上に向ける。煙が、曖昧な灰色の空に混ざっていく。
「何とかさ。長谷さんが、あんだけしつこく説教してきたおかげで」
「そうだな」
高瀬は、素直に頷いた。
「お前も、長谷さんに拾われた一人だ」
その言葉に、喉の奥が一瞬つまった。
拾われた。
中学の終わり、夜中にコンビニの前でたむろっていたときに声をかけられたのが最初だ。制服でもないのに、やたら目ざとくて、逃げようとするとすぐ足を掴まれる。
「こっち来い」
「話聞かせろ」
うるさいし、しつこいし、しばらく顔も見たくないと思った。そのくせ、時間が経つとまた会いに行ってしまう。説教されに行っているようなものだった。
「…拾われた、って言うと、なんか猫みたいだな」
充は、わざと軽く言った。
「拾い猫にしては、可愛げなかったけど」
「うるせえよ」
口ではそう返しながらも、その言葉を完全には否定できない。
拾われた。捨てられないように、どこかに繋がれていた。鎖の代わりに説教と心配と、時々缶コーヒー。
あの夜、血まみれになりながら「陸斗を頼む」と言われたとき、自分は頷いた。それは、ただの勢いではなかったのかもしれない。拾われた側が、何かを引き継ぐ番が来た、みたいな。
「…あの子、なんて名前だっけ」
ふと、口から出た。
「長谷さんのとこの」
「陸斗」
高瀬は、即答する。
「長谷陸斗」
その名前が、充の中で何かに結びつく。
陸。斗。地面と空の間みたいな名前。十七。高校二年。母親はいない。警察官だった父親が殉職した。官舎をそのうち追い出される。遠くにしか親戚はいない。
「…ガキ、だな」
呟きながら、充は自分より四つ下のその「ガキ」の姿を想像しようとする。
顔ははっきり浮かばない。ただ、葬儀場の家族席で、黒い学生服を着て、まっすぐ前を見ていた背中。泣いているようには見えなかった。泣けないのか、泣きたくないのか。それは分からない。
十七で、世界がひっくり返る感覚を味わうのは、どんななのか。
自分はその歳のとき、世界がひっくり返る前に、全部投げて逃げようとしていた。長谷慎一という、大人に捕まらなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「…あの子も、誰かに拾われねえと、どっかで落ちるな」
ぽつりと出た言葉に、高瀬がちらりと横目を向ける。
「拾うって、誰が」
「知らねえよ」
即座に答えながらも、充の胸の奥には、ぼんやりとしたものが広がり始めていた。
自分じゃない。自分なんかが出しゃばる話じゃない。
そう思う一方で、「誰か」が現れなければ、その「誰か」は永遠にいない。制度や仕組みはある。でも、それだけじゃこぼれ落ちるものがあることを、夜の街で散々見てきた。
殉職警官の息子。英雄の子ども。みんなが「可哀想だね」「立派なお父さんだった」と言ってくれる。けれど、そのあと布団をかぶって眠るとき、一人きりになるのは、そのガキだ。
「…お前も含めてだよ」
高瀬が、少しだけ乾いた笑いを含ませて言った。
「拾うって話」
「は?」
充は、わざと知らないふりをする。
「何の話」
「まだ何も決まってねえし、俺が勝手に言ってるだけだ」
高瀬は、煙草の火を灰皿に押しつけた。
「でも、お前、あいつの名前、ちゃんと覚えた方がいい」
「何で」
「長谷さんに頼まれただろ」
その一言で、喫煙所の空気が少し変わった。
あの夜の言葉が、耳の奥に蘇る。
「…陸斗を…頼む」
血の味と、救急車のサイレンと一緒に、その声が今もこびりついている。
「頼まれた、って」
充は、視線を逸らした。
「あれは…あの場のノリみたいなもんだろ」
「死ぬかもしれない場面で、あんな頼み方するやつ、見たことねえよ」
高瀬は、静かに言う。
「ノリで息子の名前出せるか」
返す言葉が見つからなかった。
煙草は、いつの間にか短くなっていた。指先に熱さを感じて、慌てて灰皿に押しつける。指の腹に残る熱が、さっきの記憶と混ざっていく。
「…拾われたやつが、今度は誰か拾う番かよ」
自分でも驚くほど、小さな声で充は呟いた。
高瀬には聞こえたのか、聞こえなかったのか。彼はそれには何も答えず、空を見上げていた。
灰色の雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が覗いている。その光が、濡れたコンクリートの上に映り、微かに揺れた。
喫煙所の狭い空間の中で、煙と冷たい空気と、一つの約束の記憶が絡まり合う。
まだ言葉にはならない。でも、充の胸の奥には、小さな何かが芽吹き始めていた。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない
平日の夜、いつもより一本遅い電車が新宿駅に滑り込んだ。ホームに吐き出された人の波に押し流されるように、陸斗は階段を上る。足の裏に、一日分の疲れがじんわりとたまっていた。補習で少し授業が延びただけなのに、いつもより駅の照明が白く眩しく感じる。改札を抜けると、夜の匂いが一気に濃くなる。揚げ物と排気ガスと、香水とアルコールが混ざり合って、鼻の奥につんと残る。スーツ姿の人たちと、遊びに来た若者たちが入り混じって、笑いながらぶつかり合っていく。いつものように、歌舞伎町のアーチが見える方向を避けて、裏道に入る。路地に入ると、急に人が減る。その代わり、ビ
蛍光灯の白い光が、安物のテーブルの木目を平たく潰していた。雑居ビルの一室。窓のないバックヤードは、外が夜なのか昼なのか分からない。けれど、部屋の隅に積まれた出勤表と、壁掛け時計の短針が十を指していることで、今が「夜の始まり」だと知れる。湿ったタバコの煙が天井近くに溜まり、その下で男女がだらだらと笑い、スマホをいじり、缶コーヒーやエナジードリンクをすすっている。そのざわつきの中央に、レジ袋に入った茶封筒の束が、レジ担当の女の前にどさっと置かれていた。「はーい、給料日タイム入りまーす」店長に近い立場の女が、ボールペンを指の間でく
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」







