Masuk黒い海の真ん中に、白い四角が浮かんでいるように見えた。
葬儀場のホールに足を踏み入れた瞬間、長谷陸斗は、真っ先に正面の祭壇に目を奪われた。白い布で囲まれた段々の祭壇。その中央、一番高いところに、制服姿の父の写真が掲げられている。
制帽をかぶり、きちんとネクタイを締め、胸には見慣れない勲章のようなもの。カメラ目線で、ほんの少し口元を緩めている。仕事用の証明写真の一枚なのだろう。ここ数年、家で笑ったときの顔とは、どこか違う気がする。
遺影の周りを、菊と百合とカスミソウの白い花が埋め尽くしていた。左右には盛られた花の塔。足元には、黒い喪服と警察の制服が、波のように広がっている。
黒い背中、黒い肩章、黒い礼服。ひとつひとつの輪郭がよく見えないほど、同じ色が重なっていた。
鼻の奥に、線香の煙と花の匂いが入り込んできた。甘くて、少しむせ返るような匂い。病院の消毒液の匂いよりは柔らかいのに、今はどちらも同じくらい現実感がない。
「長谷くん、こっち」
横から袖をつかまれ、陸斗は我に返った。父の同僚らしい若い警官が、小声で言う。
「受付、座ってもらうから。弔問に来た人に挨拶だけしてくれればいいからな」
「…はい」
返事をするとき、自分の声が少し風邪を引いたときみたいに枯れているのに気づいた。
受付のテーブルは、ホールの入口横に設けられていた。白いテーブルクロスの上に、記帳台と香典を入れる袋、筆ペンが並んでいる。その横に椅子が二つ置かれていて、すでに一人、中年の女性が座っていた。遠い親戚だと、さっき紹介された人だ。
「あんたが陸斗くんね」
彼女は陸斗の顔を見るなり、目じりにしわを寄せて頷いた。
「大変だったねえ。今日は座ってるだけでいいから。『ご愁傷様です』って言われたら、『ありがとうございます』って返せばいいからね」
「…はい」
言われた通りに、陸斗は椅子に腰を下ろした。背もたれの硬さが背中に伝わる。膝の上で両手を握りしめると、指先が冷えているのが分かった。
まもなく、最初の弔問客がやってきた。
黒いスーツ姿の男性。胸に白いリボンをつけている。受付で名前を書き、香典袋を渡しながら、陸斗に頭を下げた。
「ご愁傷様です」
「…ありがとうございます」
口が、機械のように動いた。顔を上げたり下げたりするたびに、喉の奥で何かが擦れるような感覚がする。
次の人、その次の人。制服姿の警察官、父より少し若い感じの男性、制服ではないが、職場関係らしい女性。見たことのない顔の方が多い。名前を名乗られても、すぐに忘れてしまう。
「お父さんには、本当にお世話になりまして」
「立派な方でした」
「尊敬していましたよ」
彼らは、一様にそう言う。言葉そのものは違っても、意味は似たようなものだ。
立派。尊敬。いい人。
誰かが何度も同じスタンプを押していくみたいに、同じ種類の褒め言葉が繰り返される。そのたびに、「そうなんですね」と答えた方がいいのかもしれないと思うのに、口から出てくるのは「ありがとうございます」だけだ。
自分の知っている父は、朝は新聞を読みながら味噌汁をすすって、洗濯物のたたみ方が下手で、「カレーなら何日続いても平気」と言い張る、ちょっとズボラな人だ。それが、突然「立派な方」「尊敬される人」になっている。
知らない誰かの話を聞かされているみたいだった。
制服姿の列が増えてくると、受付の空気も少し変わった。彼らは香典を渡すと同時に、ぴしっと背筋を伸ばし、深く一礼する。中には、敬礼をする者もいた。
父と同じ制服。胸の名札には、それぞれ違う名前が刻まれている。誰かがそこに「長谷」と書いてあってもおかしくない。そんなことをぼんやり考えてしまう。
「君が、陸斗くんだね」
五十代くらいの、角ばった顔の男性が、受付の少し手前で立ち止まった。肩章が他の人よりも立派で、周囲の警官たちが自然と道を空ける。
「警視庁の○○だ。君のお父さんには、本当に尽力していただいた」
「…ありがとうございます」
何に対しての「ありがとうございます」なのか、自分でも分からない。言わなきゃいけない言葉だから、言っている。
「君も、つらいと思うが…お父さんは立派に任務を全うされた。どうか胸を張ってほしい」
「…はい」
胸を張る。どうやって。
胸の中が、空洞みたいになっているのに。
彼が去っていくと、周囲の空気が少しざわついた。部長だ、とか、偉い人だ、とかいう小さな声が後ろの方から聞こえる。
受付の中年女性が、陸斗の方をちらりと見た。
「偉い人だねえ。おじさん、出世したんだねえ」
おじさん。誰かの「おじさん」でもある父の同僚たち。彼らにとって父は「上司」か「部下」か「同僚」かで、誰にとっても、今は「殉職した警察官」だ。
カタカナで書かれたその言葉が、頭の中でうまく漢字に変換されない。
殉職。じゅんしょく。
受付がある程度落ち着いたころ、別の親戚が交代してくれることになり、陸斗は席を外すように言われた。
「少し休みなさい」と肩を叩かれる。休む、という感覚が自分の中から抜け落ちていることに気づく。
ホールの中に一歩足を踏み入れると、さっきよりも人が増えていた。黒い背中がびっしりと並び、祭壇に向かって頭を垂れている。司会者の低い声がマイクから流れてくる。
「それでは、これより通夜式を執り行います…」
父の遺影の前で、僧侶が立ち上がる。読経が始まった。抑揚のあまりない、しかし一定のリズムを持った声。意味は分からないが、音だけは耳に入ってくる。
陸斗は、一番前の席の端に案内された。家族席。父の遺影に一番近い位置だ。
隣には、父の妹だという女性が座っている。北海道に住んでいて、久しぶりに会った親戚だと紹介された。彼女はハンカチを握りしめ、何度も目元を押さえている。反対側には、遠縁の叔父がいた。彼も目を赤くしている。
読経が続く間、陸斗は正面を向いたまま、父の写真を見つめていた。
この人と、病院のベッドの上で冷たくなっていた人が、同一人物だという実感がない。似ている。でも、違う。写真の中の父は、「まだこれからもどこかで生きていく人」の顔をしていて、安置室の父は、「もうどこにも行かない人」の顔をしていた。
記憶の中で、二つの父が、なかなか重ならない。
読経の合間に、司会者が淡々と略歴を読み上げる。
「昭和○○年、○○県にて出生。○○高校卒業後、警視庁に採用…」
父が生まれた年、入庁した年、配属された部署。淡々とした数字の羅列。そこには、子どもが宿題を見せたときの笑い方や、カレーを二日続けても文句を言わない頑固さや、休みの日にソファで寝落ちする姿は、どこにも含まれていない。
「勤務中、住民を庇い、犯人と揉み合いになった際、胸部を刺され…そのまま殉職されました」
その一文が、少しだけ重く発音された気がした。
殉職。今度は、はっきりと聞こえた。
漢字の形が頭に浮かぶ。「殉」の字。「殉」の意味を学校で習ったときのことを思い出す。誰かに従って死ぬ、という意味だったような気がする。
何に、従って。
「警察官の職務に殉じて」とか、そういう言い回しだった気がする。父がそうやって死んだと言われて、どういう顔をしたらいいのか分からなかった。
殉職、という言葉には、どこか英雄的なニュアンスがある。誰かを守って死んだ。誉れ。誇り。そういう言葉がセットでついてくる。
でも、自分にとっては、父が死んだという事実だけが重くて、その前に付け足される形容詞は、どれも軽く感じられる。
「…あんた、しっかりしなきゃね」
読経が一段落し、焼香の列が始まる前、父の妹が小声で囁いた。
「お父さん、立派だったんだもの。あんた、誇っていいんだから」
「…はい」
誇る。どうやって。胸を張る。どこで。
言われた「正しい反応」が、自分の中に用意されていない。まるで、急に全然別の国のルールを押し付けられているみたいだ。
焼香の順番が来ると、陸斗は祭壇の前に立った。線香を手に取り、火にかざす。煙が立ち上り、目にしみる。香炉に香をくべ、二度頭を下げてから、父の遺影を見上げる。
写真の中の父は、相変わらず微笑んでいる。
「行ってきます」
朝、玄関で聞いた声が、頭の中に蘇る。
「…いってらっしゃい」
自分の声も。
そこからここまでの道のりが、あまりにも急すぎて、脳が追いついていない。
焼香を終え、席に戻る。次々と人が前に出ていく。頭を下げる音、足音、衣擦れの音。どれも遠くに聞こえる。
「長谷くん」
別の席から、見覚えのある顔が手招きした。父の同僚の一人、高瀬だ。制服姿ではなく、黒いスーツ姿だが、どこか雰囲気は仕事モードのままだ。
「無理すんなよ」
声は低く、周囲に聞こえないように配慮されている。
「何かあったら、すぐ言え」
「…はい」
そう答えるのが精一杯だった。
通夜式が終わると、会場は少しざわつき始めた。親戚と警察関係者が、それぞれの場所で会話を始める。線香の煙が少し薄くなり、代わりにコーヒーと弁当の匂いが漂ってきた。
陸斗は、親戚の女性に連れられて、別室の控室に移動した。茶菓子が並べられた和室で、一息つくようにすすめられる。
「何か食べなさい」と弁当を差し出されるが、箸を持つ指が動かない。胃の中に何かが入る想像ができなかった。
「まだ高校生でしょ」と、誰かが言う。
「あんたがしっかりしないとね。お父さんも、安心して眠れないわよ」
「そうそう。お母さんも早くに亡くなって…陸斗くん、大変だったねえ」
「高校は何年生だっけ。二年?三年?」
頭の上から、次々に言葉が降ってくる。一つ一つに返事をするべきなのだろうが、何にどう答えたか、自分でもすぐに分からなくなる。
「…二年です」
そう言った記憶がある。いつ入試を控えているのか聞かれた気もする。「大学、行きたいの?」と聞かれて、「分かりません」と答えた気もする。
将来の話なんて、まだ考えたくなかった。父がさっき死んだばかりなのに、その先の何年もの話をされても、頭が拒否する。
控室からホールに戻ると、今度は警察関係者が中心になって、何やら打ち合わせをしているのが見えた。部長だという男と、高瀬、そのほか数人が真剣な顔で話している。時折「警察葬」「表彰」「記者会見」といった単語が聞こえてくる。
父の死は、ニュースになったらしい。さっき受付の近くで、誰かがスマホを見ながら「あ、これ」と画面を見せ合っていたのを思い出す。
「若い刑事殉職」「市民を庇い…」という見出し。写真付きの記事。コメント欄には、「ご冥福を」「英雄だ」といった文字が並んでいるのだろう。
陸斗は、わざとスマホの画面から目を逸らした。
ホールの片隅、受付のテーブルの上に、A4サイズの紙が数枚置かれているのが目に入った。何気なく近づいてみると、それは簡単な「故人略歴」のプリントだった。
来場者に配るために印刷したのだろう。父の写真と、名前と、経歴と、「殉職」の二文字。
「警部補 長谷慎一 享年四十二歳」
「令和○年○月○日 職務中、市民を庇い刃物を持った犯人と揉み合い、胸部を刺され殉職」
その一文が、黒々と印刷されている。
漢字の形は、教科書で見るそれと同じなのに、今はまるで別の言葉のように見えた。自分の父の名前と隣り合っていることで、知らない単語になっている。
指先で、その「殉職」の文字をなぞる。紙越しにインクの盛り上がりは感じない。ただ、目だけがその黒さを追い続ける。
殉職。じゅんしょく。
そこには、病院の安置室で見た父の冷たい頬の感触も、車の中で聞いた救急車のサイレンの音も、何も書かれていない。
書かれているのは、「立派な死に方」のイメージだけだ。
「…殉職、ね」
誰にともなく、小さく呟いた。
英雄のような言葉を、ありがとうと言えばいいのか、やめてくれと言えばいいのか、自分はどっちもできない。
ただ、その二文字を目で追いながら、自分の胸の中がどんどん疲れていくのを感じていた。
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が
告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの