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6.黒い海と白い遺影

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-12-28 09:36:15

黒い海の真ん中に、白い四角が浮かんでいるように見えた。

葬儀場のホールに足を踏み入れた瞬間、長谷陸斗は、真っ先に正面の祭壇に目を奪われた。白い布で囲まれた段々の祭壇。その中央、一番高いところに、制服姿の父の写真が掲げられている。

制帽をかぶり、きちんとネクタイを締め、胸には見慣れない勲章のようなもの。カメラ目線で、ほんの少し口元を緩めている。仕事用の証明写真の一枚なのだろう。ここ数年、家で笑ったときの顔とは、どこか違う気がする。

遺影の周りを、菊と百合とカスミソウの白い花が埋め尽くしていた。左右には盛られた花の塔。足元には、黒い喪服と警察の制服が、波のように広がっている。

黒い背中、黒い肩章、黒い礼服。ひとつひとつの輪郭がよく見えないほど、同じ色が重なっていた。

鼻の奥に、線香の煙と花の匂いが入り込んできた。甘くて、少しむせ返るような匂い。病院の消毒液の匂いよりは柔らかいのに、今はどちらも同じくらい現実感がない。

「長谷くん、こっち」

横から袖をつかまれ、陸斗は我に返った。父の同僚らしい若い警官が、小声で言う。

「受付、座ってもらうから。弔問に来た人に挨拶だけしてくれればいいからな」

「…はい」

返事をするとき、自分の声が少し風邪を引いたときみたいに枯れているのに気づいた。

受付のテーブルは、ホールの入口横に設けられていた。白いテーブルクロスの上に、記帳台と香典を入れる袋、筆ペンが並んでいる。その横に椅子が二つ置かれていて、すでに一人、中年の女性が座っていた。遠い親戚だと、さっき紹介された人だ。

「あんたが陸斗くんね」

彼女は陸斗の顔を見るなり、目じりにしわを寄せて頷いた。

「大変だったねえ。今日は座ってるだけでいいから。『ご愁傷様です』って言われたら、『ありがとうございます』って返せばいいからね」

「…はい」

言われた通りに、陸斗は椅子に腰を下ろした。背もたれの硬さが背中に伝わる。膝の上で両手を握りしめると、指先が冷えているのが分かった。

まもなく、最初の弔問客がやってきた。

黒いスーツ姿の男性。胸に白いリボンをつけている。受付で名前を書き、香典袋を渡しながら、陸斗に頭を下げた。

「ご愁傷様です」

「…ありがとうございます」

口が、機械のように動いた。顔を上げたり下げたりするたびに、喉の奥で何かが擦れるような感覚がする。

次の人、その次の人。制服姿の警察官、父より少し若い感じの男性、制服ではないが、職場関係らしい女性。見たことのない顔の方が多い。名前を名乗られても、すぐに忘れてしまう。

「お父さんには、本当にお世話になりまして」

「立派な方でした」

「尊敬していましたよ」

彼らは、一様にそう言う。言葉そのものは違っても、意味は似たようなものだ。

立派。尊敬。いい人。

誰かが何度も同じスタンプを押していくみたいに、同じ種類の褒め言葉が繰り返される。そのたびに、「そうなんですね」と答えた方がいいのかもしれないと思うのに、口から出てくるのは「ありがとうございます」だけだ。

自分の知っている父は、朝は新聞を読みながら味噌汁をすすって、洗濯物のたたみ方が下手で、「カレーなら何日続いても平気」と言い張る、ちょっとズボラな人だ。それが、突然「立派な方」「尊敬される人」になっている。

知らない誰かの話を聞かされているみたいだった。

制服姿の列が増えてくると、受付の空気も少し変わった。彼らは香典を渡すと同時に、ぴしっと背筋を伸ばし、深く一礼する。中には、敬礼をする者もいた。

父と同じ制服。胸の名札には、それぞれ違う名前が刻まれている。誰かがそこに「長谷」と書いてあってもおかしくない。そんなことをぼんやり考えてしまう。

「君が、陸斗くんだね」

五十代くらいの、角ばった顔の男性が、受付の少し手前で立ち止まった。肩章が他の人よりも立派で、周囲の警官たちが自然と道を空ける。

「警視庁の○○だ。君のお父さんには、本当に尽力していただいた」

「…ありがとうございます」

何に対しての「ありがとうございます」なのか、自分でも分からない。言わなきゃいけない言葉だから、言っている。

「君も、つらいと思うが…お父さんは立派に任務を全うされた。どうか胸を張ってほしい」

「…はい」

胸を張る。どうやって。

胸の中が、空洞みたいになっているのに。

彼が去っていくと、周囲の空気が少しざわついた。部長だ、とか、偉い人だ、とかいう小さな声が後ろの方から聞こえる。

受付の中年女性が、陸斗の方をちらりと見た。

「偉い人だねえ。おじさん、出世したんだねえ」

おじさん。誰かの「おじさん」でもある父の同僚たち。彼らにとって父は「上司」か「部下」か「同僚」かで、誰にとっても、今は「殉職した警察官」だ。

カタカナで書かれたその言葉が、頭の中でうまく漢字に変換されない。

殉職。じゅんしょく。

受付がある程度落ち着いたころ、別の親戚が交代してくれることになり、陸斗は席を外すように言われた。

「少し休みなさい」と肩を叩かれる。休む、という感覚が自分の中から抜け落ちていることに気づく。

ホールの中に一歩足を踏み入れると、さっきよりも人が増えていた。黒い背中がびっしりと並び、祭壇に向かって頭を垂れている。司会者の低い声がマイクから流れてくる。

「それでは、これより通夜式を執り行います…」

父の遺影の前で、僧侶が立ち上がる。読経が始まった。抑揚のあまりない、しかし一定のリズムを持った声。意味は分からないが、音だけは耳に入ってくる。

陸斗は、一番前の席の端に案内された。家族席。父の遺影に一番近い位置だ。

隣には、父の妹だという女性が座っている。北海道に住んでいて、久しぶりに会った親戚だと紹介された。彼女はハンカチを握りしめ、何度も目元を押さえている。反対側には、遠縁の叔父がいた。彼も目を赤くしている。

読経が続く間、陸斗は正面を向いたまま、父の写真を見つめていた。

この人と、病院のベッドの上で冷たくなっていた人が、同一人物だという実感がない。似ている。でも、違う。写真の中の父は、「まだこれからもどこかで生きていく人」の顔をしていて、安置室の父は、「もうどこにも行かない人」の顔をしていた。

記憶の中で、二つの父が、なかなか重ならない。

読経の合間に、司会者が淡々と略歴を読み上げる。

「昭和○○年、○○県にて出生。○○高校卒業後、警視庁に採用…」

父が生まれた年、入庁した年、配属された部署。淡々とした数字の羅列。そこには、子どもが宿題を見せたときの笑い方や、カレーを二日続けても文句を言わない頑固さや、休みの日にソファで寝落ちする姿は、どこにも含まれていない。

「勤務中、住民を庇い、犯人と揉み合いになった際、胸部を刺され…そのまま殉職されました」

その一文が、少しだけ重く発音された気がした。

殉職。今度は、はっきりと聞こえた。

漢字の形が頭に浮かぶ。「殉」の字。「殉」の意味を学校で習ったときのことを思い出す。誰かに従って死ぬ、という意味だったような気がする。

何に、従って。

「警察官の職務に殉じて」とか、そういう言い回しだった気がする。父がそうやって死んだと言われて、どういう顔をしたらいいのか分からなかった。

殉職、という言葉には、どこか英雄的なニュアンスがある。誰かを守って死んだ。誉れ。誇り。そういう言葉がセットでついてくる。

でも、自分にとっては、父が死んだという事実だけが重くて、その前に付け足される形容詞は、どれも軽く感じられる。

「…あんた、しっかりしなきゃね」

読経が一段落し、焼香の列が始まる前、父の妹が小声で囁いた。

「お父さん、立派だったんだもの。あんた、誇っていいんだから」

「…はい」

誇る。どうやって。胸を張る。どこで。

言われた「正しい反応」が、自分の中に用意されていない。まるで、急に全然別の国のルールを押し付けられているみたいだ。

焼香の順番が来ると、陸斗は祭壇の前に立った。線香を手に取り、火にかざす。煙が立ち上り、目にしみる。香炉に香をくべ、二度頭を下げてから、父の遺影を見上げる。

写真の中の父は、相変わらず微笑んでいる。

「行ってきます」

朝、玄関で聞いた声が、頭の中に蘇る。

「…いってらっしゃい」

自分の声も。

そこからここまでの道のりが、あまりにも急すぎて、脳が追いついていない。

焼香を終え、席に戻る。次々と人が前に出ていく。頭を下げる音、足音、衣擦れの音。どれも遠くに聞こえる。

「長谷くん」

別の席から、見覚えのある顔が手招きした。父の同僚の一人、高瀬だ。制服姿ではなく、黒いスーツ姿だが、どこか雰囲気は仕事モードのままだ。

「無理すんなよ」

声は低く、周囲に聞こえないように配慮されている。

「何かあったら、すぐ言え」

「…はい」

そう答えるのが精一杯だった。

通夜式が終わると、会場は少しざわつき始めた。親戚と警察関係者が、それぞれの場所で会話を始める。線香の煙が少し薄くなり、代わりにコーヒーと弁当の匂いが漂ってきた。

陸斗は、親戚の女性に連れられて、別室の控室に移動した。茶菓子が並べられた和室で、一息つくようにすすめられる。

「何か食べなさい」と弁当を差し出されるが、箸を持つ指が動かない。胃の中に何かが入る想像ができなかった。

「まだ高校生でしょ」と、誰かが言う。

「あんたがしっかりしないとね。お父さんも、安心して眠れないわよ」

「そうそう。お母さんも早くに亡くなって…陸斗くん、大変だったねえ」

「高校は何年生だっけ。二年?三年?」

頭の上から、次々に言葉が降ってくる。一つ一つに返事をするべきなのだろうが、何にどう答えたか、自分でもすぐに分からなくなる。

「…二年です」

そう言った記憶がある。いつ入試を控えているのか聞かれた気もする。「大学、行きたいの?」と聞かれて、「分かりません」と答えた気もする。

将来の話なんて、まだ考えたくなかった。父がさっき死んだばかりなのに、その先の何年もの話をされても、頭が拒否する。

控室からホールに戻ると、今度は警察関係者が中心になって、何やら打ち合わせをしているのが見えた。部長だという男と、高瀬、そのほか数人が真剣な顔で話している。時折「警察葬」「表彰」「記者会見」といった単語が聞こえてくる。

父の死は、ニュースになったらしい。さっき受付の近くで、誰かがスマホを見ながら「あ、これ」と画面を見せ合っていたのを思い出す。

「若い刑事殉職」「市民を庇い…」という見出し。写真付きの記事。コメント欄には、「ご冥福を」「英雄だ」といった文字が並んでいるのだろう。

陸斗は、わざとスマホの画面から目を逸らした。

ホールの片隅、受付のテーブルの上に、A4サイズの紙が数枚置かれているのが目に入った。何気なく近づいてみると、それは簡単な「故人略歴」のプリントだった。

来場者に配るために印刷したのだろう。父の写真と、名前と、経歴と、「殉職」の二文字。

「警部補 長谷慎一 享年四十二歳」

「令和○年○月○日 職務中、市民を庇い刃物を持った犯人と揉み合い、胸部を刺され殉職」

その一文が、黒々と印刷されている。

漢字の形は、教科書で見るそれと同じなのに、今はまるで別の言葉のように見えた。自分の父の名前と隣り合っていることで、知らない単語になっている。

指先で、その「殉職」の文字をなぞる。紙越しにインクの盛り上がりは感じない。ただ、目だけがその黒さを追い続ける。

殉職。じゅんしょく。

そこには、病院の安置室で見た父の冷たい頬の感触も、車の中で聞いた救急車のサイレンの音も、何も書かれていない。

書かれているのは、「立派な死に方」のイメージだけだ。

「…殉職、ね」

誰にともなく、小さく呟いた。

英雄のような言葉を、ありがとうと言えばいいのか、やめてくれと言えばいいのか、自分はどっちもできない。

ただ、その二文字を目で追いながら、自分の胸の中がどんどん疲れていくのを感じていた。

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  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   114.玄関の三点セット

    玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指

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  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   5.音の消えた病院

    テレビの音量は、普段より少しだけ小さくしてあった。長谷陸斗は、ローテーブルに教科書とノートを広げ、その向こう側で流れているニュース番組をぼんやりと目だけで追っていた。音はBGM。耳に入っているようで入っていない。「本日の首都圏のニュースです」アナウンサーの声が、画面とズレない口の動きで淡々と続いている。どこかの市長の会見、政治家の不祥事、株価の話。どれも自分の生活にはたいして関係のないことだ。蛍光灯の白い光が、六畳間の天井からまっすぐ落ちてきて、教科書のページを白く照らしている。官舎のリビング兼ダイニング。壁際には古い冷蔵庫

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   4.路地の一突き

    コインパーキングの入口に差し掛かったとき、雨はちょうど上がったばかりだった。アスファルトの表面には、黄色いラインを歪ませるように水たまりが点々と残っている。白い駐車番号の数字が、水に滲んでぼやけて見えた。タイヤの跡が黒く筋を引き、街灯の光がそこに反射している。生温い湿気が、頬と首筋にまとわりついた。さっきまで降っていた雨が、空気に溶け残っている感じだ。遠くの大通りからは、車の走行音と、誰かの笑い声がかすかに届く。ここはその喧噪から少しだけ離れた、切り取られたような一角だった。充は、カーキのジャケットのポケットに突っ込んでいた手を出し、スマホ

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