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5.音の消えた病院

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-12-27 09:33:11

テレビの音量は、普段より少しだけ小さくしてあった。

長谷陸斗は、ローテーブルに教科書とノートを広げ、その向こう側で流れているニュース番組をぼんやりと目だけで追っていた。音はBGM。耳に入っているようで入っていない。

「本日の首都圏のニュースです」

アナウンサーの声が、画面とズレない口の動きで淡々と続いている。どこかの市長の会見、政治家の不祥事、株価の話。どれも自分の生活にはたいして関係のないことだ。

蛍光灯の白い光が、六畳間の天井からまっすぐ落ちてきて、教科書のページを白く照らしている。官舎のリビング兼ダイニング。壁際には古い冷蔵庫と、二口コンロの小さなキッチン。テーブルの脇には、朝食の時に使ったマグカップが伏せられて乾かされていた。

ノートの上には、さっきからほとんど進んでいない数学の問題が鎮座している。二次関数。グラフ。頂点。そんな単語を目で追いながら、頭の中は別の場所にあった。

時計を見ると、夜の九時を少し回っていた。

父の長谷慎一は、夕方からの当番だと言っていた。帰りがいつになるのかは、はっきりしていない。早ければ日付が変わる前。遅ければ、明け方近くに制服のまま帰ってきて、そのままソファで少し眠ってから出勤、なんてときもある。

今日はどっちだろうか、と陸斗は考える。

明日、弁当どうするかな、とも思う。父が帰ってくる時間によっては、自分で適当に詰めた方がいいかもしれない。冷蔵庫の中身を思い出そうとするが、昼間にしっかり確認したわけでもないので、曖昧だ。

「とりあえず、カレーは当分いいな」

ひとりごとのように呟き、シャーペンを回す。朝、父とそんな会話をしたことを思い出す。カレーならいくらでも食える、と言い張る顔。新聞越しの横顔。玄関での「行ってきます」と「いってらっしゃい」。

その光景を思い出すと、少し胸のあたりがじくりと熱くなる。嫌な予感、というほどはっきりしたものではない。ただ、何かが引っかかる。

テレビの内容は、いつの間にか事件のニュースに変わっていた。どこかの県で起きた通り魔事件。モザイクのかかった現場写真が映る。

「やめろって」

小さくリモコンを手に取り、チャンネルを変える。バラエティ番組に切り替わり、芸人の笑い声が部屋に流れ込んできた。さっきまでの空気とは違う軽さ。だが、それもどこか上滑りしているように感じる。

シャーペンの先で、ノートの端をとんとんと叩く。二次関数のグラフが、ノートの上で未完成のまま止まっている。頂点の座標を求める計算式が、途中で途切れている。

「…やるか」

自分に言い聞かせるようにして、陸斗は視線をノートに戻した。ペン先を数学の問題の途中に置き、計算を再開する。頭の中で数式を追いかける作業に没頭しようとする。

その時だった。

ピンポン、と唐突にインターホンが鳴った。

音が、やけに大きく感じられた。

こんな時間に、と瞬間的に思う。九時過ぎ。宅配便にしては遅すぎる。友達が来る予定もない。父なら鍵を持っているし、インターホンを押すことはまずない。

胸の奥で、さっきまでとは違う種類のざわつきが広がった。

テレビの音をリモコンで切り、陸斗は立ち上がった。足の裏がフローリングの冷たさを拾う。インターホンのモニターは、玄関のすぐ横の壁についている。歩きながら、その画面を覗き込んだ。

小さな四角い画面に映っていたのは、見覚えのある顔だった。

慎一の同僚の一人、高瀬だ。制服姿。隣には、見たことのないもう一人の警察官が立っていた。二人とも、真面目な顔をしている。笑っていない。冗談を言いに来た顔ではない。

喉がごくりと鳴った。

「…はい」

インターホンのボタンを押し、声を出す。自分でも少し上ずっているのが分かった。

『陸斗くんか』

モニター越しの高瀬の声は、いつもの調子より少し低かった。

『今、家にいるか』

「…います」

『ちょっといいか。開けてくれるか』

「…はい」

指が、インターホンの解錠ボタンに触れる。ボタンを押すと、玄関のオートロックが開くカチリという音が、いつもより重く響いた気がした。

玄関までの短い距離が、妙に長く感じられる。スリッパを履くか迷い、結局素足のまま廊下を歩いた。玄関のドアに手をかける前に、一度深呼吸をする。

何もないかもしれない。父がちょっと怪我をしたとか、その程度の話かもしれない。そう自分に言い聞かせる。

ドアノブをひねり、扉を開けた。

薄暗い共用廊下の明かりの下に、高瀬と、その隣の中年の刑事が立っていた。二人とも帽子はかぶっていない。制服の肩から、雨の雫が少し滴っている。外は、さっきまで雨が降っていたのだろう。

「こんばんは」

高瀬が、硬い表情のまま口を開いた。

「こんな時間に悪いな」

「…こんばんは」

陸斗は、なんとか返事をした。胸がひどくざわざわする。目の前の光景が、どこか現実感を欠いているように見えた。

「父さんは…」

口に出した瞬間、自分が一番聞きたかったことがこれだったのだと気づく。

「父さんが、どうしましたか」

高瀬は、一瞬だけ視線を伏せた。それから、慎重に言葉を選ぶようにして口を開く。

「お父さんが、さっきの勤務で…怪我をして、病院に運ばれた」

「…怪我」

その単語だけが、やけにクリアに耳に入る。続く言葉が、一拍遅れて追いかけてくる。

「刺されたんだ」

高瀬の隣の刑事が、短く補足する。

「意識は…まだ、ある」

まだ、という言い方が、胸のどこかに引っかかった。

「…病院に」

陸斗は、自分の声がやけに遠く聞こえるのを感じた。

「今、どこにいるんですか」

「○○病院だ。ここから車で二十分くらいだ」

高瀬が答える。

「今から一緒に行こう。荷物、何か持っていきたいものはあるか」

持っていきたいもの。何をだろう。財布、スマホ、ハンカチ。そんな普通のことが、頭に浮かぶ前に、足元がぐらりと揺れた。

膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。玄関の段差に、尻をつく形になった。冷たい床の感触がジーンズ越しに伝わる。

座り込んだ自分を見下ろしながら、高瀬が慌てて一歩踏み込んできた。

「大丈夫か」

「…すみません」

陸斗は、床に両手をつきながら、なんとか声を絞り出した。

「ちょっと…びっくりしただけで」

心臓が、耳のすぐ後ろで鳴っているみたいだった。ドクドクと、音だけが異様に大きく感じられる。

「ゆっくりでいい」

高瀬は、静かに言った。

「まだ時間はある。急がなくていいから、必要なものだけ持ってきなさい」

「はい…」

ゆっくりと立ち上がる。足が少し震えている。玄関の靴箱の上に置いてあった自分の鍵と、スマホを手に取った。部屋に戻り、財布を掴む。机の上の教科書が開きっぱなしになっているのが視界に入った。

さっきまで解こうとしていた二次関数。途中で止まった計算式。

それらが、もう別の世界の何かのように見えた。

「父さん、どれくらい…」

部屋を出ながら、廊下で尋ねる。

「怪我…ひどいんですか」

「…病院で、ちゃんと説明してもらおう」

高瀬は、それ以上の言葉を飲み込むように言った。

「今は、とにかく会いに行こう」

その言い方は、楽観も悲観も含まない、中途半端なものに聞こえた。それが余計に不安を煽る。

靴を履き、玄関を出る。ドアを閉めるとき、「鍵、ちゃんとかけて出ろよ」という朝の父の声がふと蘇った。

その声を振り払うように、鍵を回した。カチリという音が、やけに大きく響いた。

高瀬の車は、官舎の前の駐車スペースに停まっていた。白いセダン。後部座席のドアを開けると、冷たいシートの匂いがした。

陸斗は、シートベルトを締めながら、窓の外に目を向けた。官舎の玄関の灯りが小さく見える。その上の階の窓からは、他の家庭のテレビの光が漏れていた。

車がゆっくりと動き出す。アスファルトの上をタイヤが滑る音が、車内に反響する。高瀬が運転席でハンドルを握り、前を見据えている。その横の助手席には、先ほどの中年の刑事が座っていた。彼は一言も発さず、前を見ている。

車内のラジオは切られている。エアコンの風の音と、エンジンの低い唸りだけが聞こえる。

街の明かりが、窓の外を流れていく。コンビニの明かり、ファミレスの看板、信号の赤と青。どれも見慣れた夜の風景のはずなのに、今は全部が薄い膜の向こう側にあるみたいだ。

「怪我」

さっき聞いた言葉が、頭の中に残っている。刺された。意識はまだある。

まだある、という言い回しが、どうしても引っかかる。「今は」あるけれど、この先どうなるかは分からない、というニュアンスがそこに含まれている気がする。

「大丈夫」

自分で小さく呟いた。

「父さん、そう簡単に死なない」

運転席の高瀬が、バックミラー越しに陸斗をちらりと見た。

「…そうだな」

短く返事が返ってくる。その声に、強い肯定は含まれていなかった。ただ否定もしなかった。

朝の場面が、頭の中で再生される。

「行ってきます」

玄関で靴を履きながら言った父の声。わざと少しだけオーバーに言うような癖。

「…いってらっしゃい」

何気なく返した自分の声。そのときは、それが最後になるなんて一ミリも思わなかった。

「また夜勤かよ」「帰ってきたら飯作るから」と文句を言いながら笑っていた顔。味噌汁の湯気。新聞をめくる音。

全部が、今頭の中で、やけに鮮明に浮かび上がる。

車は国道に出た。車線を流れるテールランプの列が、赤い線のように続いている。その横を、救急車が一台サイレンを鳴らしながらすり抜けていった。

その音が、肺の奥を冷たく撫でる。

「…さっきの救急車」

思わず口から漏れた。

「父さんの…」

「違う」

即座に、高瀬が答えた。

「お父さんを乗せた救急は、もう先に病院に着いてる。さっきのは別の件だ」

「…そうですか」

胸の奥のざわめきは、収まらない。

信号待ちで車が止まると、歩道の上にいる人たちが目に入る。コンビニ袋をぶら下げたサラリーマン、友達と笑いながら歩く高校生らしき男子、カップル。

彼らの世界は、何も変わっていない。いつも通りの夜。笑って、喋って、スマホを見て、今日と明日の境目を何の不安もなく越えていく。

自分だけが、急に別の場所に連れて行かれるような感覚。車の窓ガラスが、その境界線になっている気がした。

病院に近づくにつれて、街の明かりが少し変わった。コンビニや飲み屋の派手なネオンではなく、白く無機質な看板の灯り。救急入口の赤い文字が、一際目立っている。

○○病院、と書かれた白い壁が見えてきた。大きな総合病院だ。夜でも入口は明るく照らされている。救急搬送口には、数台の救急車が止まっていた。

車が病院の駐車場に滑り込み、停まる。シートベルトを外す手が、少し震えた。

「降りよう」

高瀬が言い、先に車を降りる。冷たい外気が一気に流れ込んでくる。さっきよりも気温が下がっている気がした。夜の空気は、街灯に照らされて白っぽく浮かんでいる。

病院の自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い蛍光灯の光。受付のカウンターの向こうで、事務員が淡々とパソコンを打っている。

「すみません」

高瀬が受付に向かい、名前を告げる。

「さっき救急搬送された者の家族を」

受付の女性が、慣れた手つきでカルテを確認する。指が、キーボードの上を流れるように動いた。

「長谷慎一さんですね」

「はい」

「ご家族の方は…」

「息子さんです」

高瀬が、後ろの陸斗を顎で示す。

「高校生です」

受付の女性が、こちらに微笑みかけたような気がしたが、それもどこか事務的なものに見えた。

「担当の先生を呼んできますので、そちらの待合室でお待ちください」

指さされた先には、プラスチックの椅子が並んだスペースがある。壁には古いポスターや、健康診断の案内が貼られている。テレビもあるが、今は音が消されているようだった。

高瀬が、陸斗の肩に手を置いた。

「座ってていい。先生が来たら呼ぶから」

「…はい」

椅子に腰かけると、硬いプラスチックの背もたれが背中に当たる。足元には、グレーのリノリウムの床が広がっている。そこに、いくつもの靴の跡が薄くついていた。

待合室には、他にも人がいた。小さな子どもを膝に乗せた母親、腕にギプスを巻いた若い男性、年配の夫婦。誰もが、自分の心配事を胸に抱えてここにいる。

彼らの視線が、自分に向くことはない。自分も、彼らをちゃんとは見ていない。ただ「誰かがいる」という存在感だけが、ぼんやりとした塊になって空間を満たしている。

時計を見ると、針は九時半を指していた。秒針が、壁の上を一定のリズムで進んでいる。そのカチ、カチという音が、やけに大きく耳に残った。

ふと、自分の心臓の鼓動と同期しているような気がした。カチ。ドク。カチ。ドク。音と音が、重なったりずれたりしながら、胸の内側と外側で響く。

どれくらい時間が経ったのか分からない。感覚的には数十分のようで、実際には数分かもしれない。

白衣を着た男が、待合室の入口に現れた。四十代くらい。疲れた顔をしているが、その目はまだはっきりと動いている。

「長谷慎一さんの、ご家族の方」

まっすぐこちらに歩いてきた。

陸斗は、立ち上がるタイミングを半歩遅らせた。足がもつれそうになるのを、なんとか堪える。

「息子さん、かな」

医師が、確認するように尋ねる。

「はい」

声が、少し掠れた。

「長谷陸斗です」

「私は主治医の○○といいます」

医師は、形式的な挨拶をし、それから少し表情を引き締めた。

「お父さんの状態ですが…」

その「ですが」のところで、時間がまた一瞬だけ止まった気がした。

「残念ながら」

その続きの言葉が、遠くから響いてくるように感じられる。

「胸と腹部を刺されていて、到着時にはすでに心肺停止の状態でした。すぐに心臓マッサージと輸血を行いまして…できる限りの処置はしましたが…」

言葉が、途中から意味を失っていく。音だけが耳を通り過ぎる。残念ながら、できる限りの処置、間に合いませんでした、そういった断片的な単語だけが、後から遅れて脳に届く。

「…つまり」

自分の声が、どこから出ているのか分からない。

「父さんは…」

「お亡くなりになりました」

医師の口が、はっきりとそう動くのを見た。

その瞬間、世界の音がすべて遠のいた。

待合室の空気は、確かに震えているのに、耳には何も届かない。誰かが椅子を引く音、子どもの泣き声、遠くで鳴る電話。そのすべてが、分厚いガラスの向こうで再生されているように感じられた。

自分の心臓の鼓動だけが、内側からドクン、ドクンと響いている。それも、どこか他人事のようだ。

「…嘘だ」

口の中で小さく言った。自分でも、それが声になっていたのかどうか分からない。

「さっきまで、普通に…」

朝、一緒に飯を食べた。味噌汁を飲んで、新聞を読んで、「行ってきます」と言って出て行った。あの人が、そんな簡単に「いなくなる」なんて、現実として受け入れられない。

「体を…見ますか」

医師の言葉が、どこか遠くから飛んできた。

「霊安室に、お連れします」

「…はい」

自分がなぜ頷いたのか分からない。ただ、そうするのが「家族」としての役割のような気がした。

高瀬が横に並び、「一緒に行く」と短く言う。彼の表情をちゃんと見る余裕はない。ただ、肩の辺りから伝わる体温だけが、かろうじて現実と繋がる手がかりだった。

白い廊下を歩く。床は、さっきの待合室と同じリノリウムだが、こちらの方が少し冷たく感じる。壁には、何も貼られていない。窓ガラス越しに見える夜の街の灯りが、小さく瞬いていた。

霊安室と書かれたプレートのついた扉の前で、医師が立ち止まる。

「準備ができています」

扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ出てきた。中には、ベッドが一つ。白いシーツが、頭の方までかけられている。

その手前で、陸斗の足が一瞬止まった。

見たくない。シーツの下にいる人が誰なのか、頭では分かっている。でも、目で見た瞬間、それは完全な現実になってしまう。

「ゆっくりでいい」

高瀬の声がした。

「無理なら、途中で出てもいい」

「…大丈夫です」

言葉とは裏腹に、全然大丈夫ではない。

それでも足を動かし、ベッドの脇まで進んだ。

医師が、静かにシーツをめくる。

現れた顔は、見慣れた顔だった。朝、味噌汁をすすっていた人と、同じ顔。目は閉じている。口元は少しだけ開いている。肌の色が、ほんの少し青白い。それ以外は、まるで寝ているだけのようにも見えた。

「父さん」

名前を呼んだ。その声は、思っていたよりもずっと小さかった。

返事はない。まぶたは動かない。肩も、胸も、上下しない。呼吸の気配が全くない。

「起きて」

心の中で、何度も呼びかける。

起きてよ。行ってきますって言ったじゃん。帰ってくるって、普通に。次の夜勤の話もしてたじゃん。まだ、テストの結果も見せてないし、弁当の話だって途中だったし。

言いたいことが、喉の奥で渦を巻いているのに、声にならない。

手を伸ばした。父の頬に触れようとして、途中で躊躇する。冷たかったらどうしよう。触った瞬間に、「本当に死んでる」という事実を、皮膚から突きつけられる。

それでも、ゆっくりと指先を触れさせた。

冷たかった。生きている人間の肌の温度ではない。冷蔵庫から出したばかりの陶器のような冷たさ。感触は確かに「人間の顔」なのに、そこに宿っていたものがすべて抜け落ちている。

手を引っ込めたいのに、指先がシーツを握りしめてしまう。白い布地に皺が寄る。

鼻を近づけると、わずかに薬品と、血の匂いが混ざったような匂いがした。病院特有の、無機質な匂い。

「…お父さんは、人を庇って」

背後から、高瀬の声がした。

「犯人はもう捕まってる。お前の父さんは、誰かを庇って刺された」

その情報は、頭のどこかには届いた。でも、その「誰か」が誰なのか、その状況がどうだったのか、といった詳細について考える余裕はない。

ただ、「人を庇って」という言葉だけが、父の顔と重なる。

あの人なら、そうするだろうと思う。

誰かが危ない状況にあれば、自分の身体を盾にする。それが正しいかどうかとか、相手がそれに値する人間かどうかとか、そんな計算をする前に動いてしまう。そういう人だ。

だからこそ、今こうしてここに横たわっているのだとしたら。

怒りとも悲しみともつかない何かが、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていく。

「犯人は…」

かろうじて、声が出た。

「死んでないんですか」

「生きてる」

高瀬は短く答えた。

「取り押さえた。今は署で取り調べ中だ」

「…そうですか」

生きている。父は死んでいて、相手は生きている。その事実が、理不尽だと思うべきなのか、まだ分からない。ただ、頭のどこかにその情報だけが浮かぶ。

何分そこに立っていたのか、陸斗には分からなかった。時間の感覚が完全に失われていた。霊安室の空気は、最初に入ったときと同じ冷たさを保っている。

医師が、静かに口を開いた。

「ごめんなさい。あまり長居すると、お体に触りますから…」

「…はい」

視線を父の顔から離すことに、ひどい罪悪感を感じる。今目を離したら、二度とこの人には会えないような気がした。

でも、ずっとここにいるわけにもいかないのだろう。現実の時間は進んでいる。

最後にもう一度だけ、父の顔を見た。まぶたに手の甲で触れる。やはり冷たい。その冷たさを、手の甲がしっかりと覚える。

「行こう」

高瀬が、静かに促す。

足を動かすのが、ひどく重かった。膝から下に鉛が入っているみたいだ。霊安室の扉が閉まる音が、背中の方でして、その音がやけに長く耳に残った。

廊下に出ると、さっきと同じ白い光と冷たい床が続いている。だが、自分の視界は少し霞んでいた。涙は出ていない。出ていないのに、世界がぼやけて見える。

待合室に戻ると、さっきと同じように人々が座っていた。誰かがスマホをいじり、誰かがうとうとし、誰かが無言で床を見つめている。

彼らの時間は、それぞれの心配事の中で流れている。でも、その流れと自分のいる場所が、まったく違う川のように思えた。

壁の時計の秒針が、再び耳に届く。カチ。カチ。カチ。

音は確かにあるのに、どこか別の空間で鳴っているように感じられる。自分の心臓の鼓動も同じだ。ドクン。ドクン。ドクン。身体の内側から響いているはずなのに、その振動が自分のものではないみたいだ。

高瀬が、椅子に腰かけた。

「今夜は、とりあえず…官舎に戻るか。それとも…」

「…分かりません」

陸斗は正直に答えた。

「何を、どうしたらいいのか」

「そうだよな」

高瀬は、しばらく黙ってから言った。

「今日は、もう何も決めなくていい。やることは、こっちである程度進める。葬儀の段取りとか、細かいことは、明日以降でいい」

葬儀、という単語が出てきても、そこに現実感はなかった。ついさっきまで、まだ「怪我」とか「治療」とか、そういう言葉の世界にいたのに、いつの間にか「葬儀」という次の段階に進んでいる。

頭が追いつかない。

「…外の空気、吸うか」

高瀬が立ち上がる。

「少しだけ」

「はい」

病院の自動ドアをくぐると、外の空気はさっきより冷たくなっていた。夜もだいぶ更けている。駐車場には、数台の車がまばらに停まっているだけだ。

遠くの幹線道路から、車の走行音が聞こえる。信号の切り替わる音。自転車のベル。それらが、確かに耳に届いている。

でも、そのどれもが、自分にとっては透明なガラス越しの音だった。

目の前で人が立ち話をしていても、その口の動きと声が結びつかない。笑い声も、泣き声も、音としては届くのに、意味を伴っていない。

世界全体が、厚い透明な壁の向こう側に移動してしまったみたいだ。自分だけが、この病院の前の小さなスペースに取り残されている。

「寒かったら、中戻るか」

高瀬の声だけが、かろうじて少しだけ近くに聞こえた。

「…大丈夫です」

陸斗は、夜空を見上げた。

雲が、街の光を反射してぼんやりと光っている。その向こうに、本当は星があるはずだ。父が「星なんか見えやしない」と笑っていた空。朝、「行ってきます」と言いながら出ていった背中が向かった空。

その空の下で、世界はいつも通りに動き続けている。

その事実と、自分の中で何かが壊れてしまったこととの間に、埋められない溝がある。

その溝の縁に立ちながら、陸斗は、まだ何も感じられていなかった。

悲しみはきっと、このあと追いかけてくる。怒りも、寂しさも、喪失感も。でも今はただ、音の消えた世界の真ん中に立ち尽くすしかなかった。

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    夜になって、蛍光灯の白い光が段ボールの山を均一に照らしていた。窓の外は完全に暗く、官舎の中庭に立つ街灯だけが、ぼんやりと黄色い輪を地面に落としている。さっきまで西日が伸ばしていた影は、すっかり消えていた。代わりに、部屋の中に生まれた新しい影がある。積み上げられた段ボールとゴミ袋が作る、不格好なシルエット。「今日のところは、このくらいで勘弁してやるか」充が、ガムテープを机代わりの段ボールの上に放り出しながら言った。指先には、何度もテープを切ったせいで、うっすらと粘着の感触が残っているように見える。「充分やりましたよ」陸斗は、床に置いたクッションにもたれかかりながら答えた。腕がだるい。肩も重い。身体の色んなところが、じんわりと自分の存在を主張している。荷物を持ったり、しゃがんだり立ち上がったりを繰り返したせいだ。疲労は確かにあるのに、妙に頭だけ冴えている感じが嫌だった。「飯、どうする」充が、腕時計をちらりと見る。「口に入れられるもんなら何でもいいなら、コンビニで一気に済ませるけど」「……外は、やめません?」窓の外を一瞥する。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくるような気がした。「さすがに、今からどっか行く元気ないです」「だろうな」充は、ため息まじりに笑う。「最後くらい、ちゃんとした飯食えよって言いたいとこだけど。ちゃんとした飯って、作るか外行くかの二択だしな。どっちもダルい」「ちゃんとしてなくていいです」陸斗は、少しだけ口の端を上げた。「疲れてるから、逆にコンビニが合ってるっていうか」「お前、意外と適当だな」「適当じゃないと、やってられないじゃないですか」それは半分冗談で、半分本音だった。父が死んでからの数週間、何もかもをきちんとしようとしたら、それだけで潰れてしまいそうだった。食事も睡眠も学校も、完璧なんて目指していられない。最低限生きていけるラインだけ守って、あとは「まあ、いっか」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   13.引き出しの底のアルバム

    西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   12.捨てるもの、連れていくもの

    土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」

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