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5.音の消えた病院

Author: 中岡 始
last update publish date: 2025-12-27 09:33:11

テレビの音量は、普段より少しだけ小さくしてあった。

長谷陸斗は、ローテーブルに教科書とノートを広げ、その向こう側で流れているニュース番組をぼんやりと目だけで追っていた。音はBGM。耳に入っているようで入っていない。

「本日の首都圏のニュースです」

アナウンサーの声が、画面とズレない口の動きで淡々と続いている。どこかの市長の会見、政治家の不祥事、株価の話。どれも自分の生活にはたいして関係のないことだ。

蛍光灯の白い光が、六畳間の天井からまっすぐ落ちてきて、教科書のページを白く照らしている。官舎のリビング兼ダイニング。壁際には古い冷蔵庫と、二口コンロの小さなキッチン。テーブルの脇には、朝食の時に使ったマグカップが伏せられて乾かされていた。

ノートの上には、さっきからほとんど進んでいない数学の問題が鎮座している。二次関数。グラフ。頂点。そんな単語を目で追いながら、頭の中は別の場所にあった。

時計を見ると、夜の九時を少し回っていた。

父の長谷慎一は、夕方からの当番だと言っていた。帰りがいつになるのかは、はっきりしていない。早ければ日付が変わる前。遅ければ、明け方近くに制服のまま帰ってきて、そのままソファで少し眠ってから出勤、なんてときもある。

今日はどっちだろうか、と陸斗は考える。

明日、弁当どうするかな、とも思う。父が帰ってくる時間によっては、自分で適当に詰めた方がいいかもしれない。冷蔵庫の中身を思い出そうとするが、昼間にしっかり確認したわけでもないので、曖昧だ。

「とりあえず、カレーは当分いいな」

ひとりごとのように呟き、シャーペンを回す。朝、父とそんな会話をしたことを思い出す。カレーならいくらでも食える、と言い張る顔。新聞越しの横顔。玄関での「行ってきます」と「いってらっしゃい」。

その光景を思い出すと、少し胸のあたりがじくりと熱くなる。嫌な予感、というほどはっきりしたものではない。ただ、何かが引っかかる。

テレビの内容は、いつの間にか事件のニュースに変わっていた。どこかの県で起きた通り魔事件。モザイクのかかった現場写真が映る。

「やめろって」

小さくリモコンを手に取り、チャンネルを変える。バラエティ番組に切り替わり、芸人の笑い声が部屋に流れ込んできた。さっきまでの空気とは違う軽さ。だが、それもどこか上滑りしているように感じる。

シャーペンの先で、ノートの端をとんとんと叩く。二次関数のグラフが、ノートの上で未完成のまま止まっている。頂点の座標を求める計算式が、途中で途切れている。

「…やるか」

自分に言い聞かせるようにして、陸斗は視線をノートに戻した。ペン先を数学の問題の途中に置き、計算を再開する。頭の中で数式を追いかける作業に没頭しようとする。

その時だった。

ピンポン、と唐突にインターホンが鳴った。

音が、やけに大きく感じられた。

こんな時間に、と瞬間的に思う。九時過ぎ。宅配便にしては遅すぎる。友達が来る予定もない。父なら鍵を持っているし、インターホンを押すことはまずない。

胸の奥で、さっきまでとは違う種類のざわつきが広がった。

テレビの音をリモコンで切り、陸斗は立ち上がった。足の裏がフローリングの冷たさを拾う。インターホンのモニターは、玄関のすぐ横の壁についている。歩きながら、その画面を覗き込んだ。

小さな四角い画面に映っていたのは、見覚えのある顔だった。

慎一の同僚の一人、高瀬だ。制服姿。隣には、見たことのないもう一人の警察官が立っていた。二人とも、真面目な顔をしている。笑っていない。冗談を言いに来た顔ではない。

喉がごくりと鳴った。

「…はい」

インターホンのボタンを押し、声を出す。自分でも少し上ずっているのが分かった。

『陸斗くんか』

モニター越しの高瀬の声は、いつもの調子より少し低かった。

『今、家にいるか』

「…います」

『ちょっといいか。開けてくれるか』

「…はい」

指が、インターホンの解錠ボタンに触れる。ボタンを押すと、玄関のオートロックが開くカチリという音が、いつもより重く響いた気がした。

玄関までの短い距離が、妙に長く感じられる。スリッパを履くか迷い、結局素足のまま廊下を歩いた。玄関のドアに手をかける前に、一度深呼吸をする。

何もないかもしれない。父がちょっと怪我をしたとか、その程度の話かもしれない。そう自分に言い聞かせる。

ドアノブをひねり、扉を開けた。

薄暗い共用廊下の明かりの下に、高瀬と、その隣の中年の刑事が立っていた。二人とも帽子はかぶっていない。制服の肩から、雨の雫が少し滴っている。外は、さっきまで雨が降っていたのだろう。

「こんばんは」

高瀬が、硬い表情のまま口を開いた。

「こんな時間に悪いな」

「…こんばんは」

陸斗は、なんとか返事をした。胸がひどくざわざわする。目の前の光景が、どこか現実感を欠いているように見えた。

「父さんは…」

口に出した瞬間、自分が一番聞きたかったことがこれだったのだと気づく。

「父さんが、どうしましたか」

高瀬は、一瞬だけ視線を伏せた。それから、慎重に言葉を選ぶようにして口を開く。

「お父さんが、さっきの勤務で…怪我をして、病院に運ばれた」

「…怪我」

その単語だけが、やけにクリアに耳に入る。続く言葉が、一拍遅れて追いかけてくる。

「刺されたんだ」

高瀬の隣の刑事が、短く補足する。

「意識は…まだ、ある」

まだ、という言い方が、胸のどこかに引っかかった。

「…病院に」

陸斗は、自分の声がやけに遠く聞こえるのを感じた。

「今、どこにいるんですか」

「○○病院だ。ここから車で二十分くらいだ」

高瀬が答える。

「今から一緒に行こう。荷物、何か持っていきたいものはあるか」

持っていきたいもの。何をだろう。財布、スマホ、ハンカチ。そんな普通のことが、頭に浮かぶ前に、足元がぐらりと揺れた。

膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。玄関の段差に、尻をつく形になった。冷たい床の感触がジーンズ越しに伝わる。

座り込んだ自分を見下ろしながら、高瀬が慌てて一歩踏み込んできた。

「大丈夫か」

「…すみません」

陸斗は、床に両手をつきながら、なんとか声を絞り出した。

「ちょっと…びっくりしただけで」

心臓が、耳のすぐ後ろで鳴っているみたいだった。ドクドクと、音だけが異様に大きく感じられる。

「ゆっくりでいい」

高瀬は、静かに言った。

「まだ時間はある。急がなくていいから、必要なものだけ持ってきなさい」

「はい…」

ゆっくりと立ち上がる。足が少し震えている。玄関の靴箱の上に置いてあった自分の鍵と、スマホを手に取った。部屋に戻り、財布を掴む。机の上の教科書が開きっぱなしになっているのが視界に入った。

さっきまで解こうとしていた二次関数。途中で止まった計算式。

それらが、もう別の世界の何かのように見えた。

「父さん、どれくらい…」

部屋を出ながら、廊下で尋ねる。

「怪我…ひどいんですか」

「…病院で、ちゃんと説明してもらおう」

高瀬は、それ以上の言葉を飲み込むように言った。

「今は、とにかく会いに行こう」

その言い方は、楽観も悲観も含まない、中途半端なものに聞こえた。それが余計に不安を煽る。

靴を履き、玄関を出る。ドアを閉めるとき、「鍵、ちゃんとかけて出ろよ」という朝の父の声がふと蘇った。

その声を振り払うように、鍵を回した。カチリという音が、やけに大きく響いた。

高瀬の車は、官舎の前の駐車スペースに停まっていた。白いセダン。後部座席のドアを開けると、冷たいシートの匂いがした。

陸斗は、シートベルトを締めながら、窓の外に目を向けた。官舎の玄関の灯りが小さく見える。その上の階の窓からは、他の家庭のテレビの光が漏れていた。

車がゆっくりと動き出す。アスファルトの上をタイヤが滑る音が、車内に反響する。高瀬が運転席でハンドルを握り、前を見据えている。その横の助手席には、先ほどの中年の刑事が座っていた。彼は一言も発さず、前を見ている。

車内のラジオは切られている。エアコンの風の音と、エンジンの低い唸りだけが聞こえる。

街の明かりが、窓の外を流れていく。コンビニの明かり、ファミレスの看板、信号の赤と青。どれも見慣れた夜の風景のはずなのに、今は全部が薄い膜の向こう側にあるみたいだ。

「怪我」

さっき聞いた言葉が、頭の中に残っている。刺された。意識はまだある。

まだある、という言い回しが、どうしても引っかかる。「今は」あるけれど、この先どうなるかは分からない、というニュアンスがそこに含まれている気がする。

「大丈夫」

自分で小さく呟いた。

「父さん、そう簡単に死なない」

運転席の高瀬が、バックミラー越しに陸斗をちらりと見た。

「…そうだな」

短く返事が返ってくる。その声に、強い肯定は含まれていなかった。ただ否定もしなかった。

朝の場面が、頭の中で再生される。

「行ってきます」

玄関で靴を履きながら言った父の声。わざと少しだけオーバーに言うような癖。

「…いってらっしゃい」

何気なく返した自分の声。そのときは、それが最後になるなんて一ミリも思わなかった。

「また夜勤かよ」「帰ってきたら飯作るから」と文句を言いながら笑っていた顔。味噌汁の湯気。新聞をめくる音。

全部が、今頭の中で、やけに鮮明に浮かび上がる。

車は国道に出た。車線を流れるテールランプの列が、赤い線のように続いている。その横を、救急車が一台サイレンを鳴らしながらすり抜けていった。

その音が、肺の奥を冷たく撫でる。

「…さっきの救急車」

思わず口から漏れた。

「父さんの…」

「違う」

即座に、高瀬が答えた。

「お父さんを乗せた救急は、もう先に病院に着いてる。さっきのは別の件だ」

「…そうですか」

胸の奥のざわめきは、収まらない。

信号待ちで車が止まると、歩道の上にいる人たちが目に入る。コンビニ袋をぶら下げたサラリーマン、友達と笑いながら歩く高校生らしき男子、カップル。

彼らの世界は、何も変わっていない。いつも通りの夜。笑って、喋って、スマホを見て、今日と明日の境目を何の不安もなく越えていく。

自分だけが、急に別の場所に連れて行かれるような感覚。車の窓ガラスが、その境界線になっている気がした。

病院に近づくにつれて、街の明かりが少し変わった。コンビニや飲み屋の派手なネオンではなく、白く無機質な看板の灯り。救急入口の赤い文字が、一際目立っている。

○○病院、と書かれた白い壁が見えてきた。大きな総合病院だ。夜でも入口は明るく照らされている。救急搬送口には、数台の救急車が止まっていた。

車が病院の駐車場に滑り込み、停まる。シートベルトを外す手が、少し震えた。

「降りよう」

高瀬が言い、先に車を降りる。冷たい外気が一気に流れ込んでくる。さっきよりも気温が下がっている気がした。夜の空気は、街灯に照らされて白っぽく浮かんでいる。

病院の自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い蛍光灯の光。受付のカウンターの向こうで、事務員が淡々とパソコンを打っている。

「すみません」

高瀬が受付に向かい、名前を告げる。

「さっき救急搬送された者の家族を」

受付の女性が、慣れた手つきでカルテを確認する。指が、キーボードの上を流れるように動いた。

「長谷慎一さんですね」

「はい」

「ご家族の方は…」

「息子さんです」

高瀬が、後ろの陸斗を顎で示す。

「高校生です」

受付の女性が、こちらに微笑みかけたような気がしたが、それもどこか事務的なものに見えた。

「担当の先生を呼んできますので、そちらの待合室でお待ちください」

指さされた先には、プラスチックの椅子が並んだスペースがある。壁には古いポスターや、健康診断の案内が貼られている。テレビもあるが、今は音が消されているようだった。

高瀬が、陸斗の肩に手を置いた。

「座ってていい。先生が来たら呼ぶから」

「…はい」

椅子に腰かけると、硬いプラスチックの背もたれが背中に当たる。足元には、グレーのリノリウムの床が広がっている。そこに、いくつもの靴の跡が薄くついていた。

待合室には、他にも人がいた。小さな子どもを膝に乗せた母親、腕にギプスを巻いた若い男性、年配の夫婦。誰もが、自分の心配事を胸に抱えてここにいる。

彼らの視線が、自分に向くことはない。自分も、彼らをちゃんとは見ていない。ただ「誰かがいる」という存在感だけが、ぼんやりとした塊になって空間を満たしている。

時計を見ると、針は九時半を指していた。秒針が、壁の上を一定のリズムで進んでいる。そのカチ、カチという音が、やけに大きく耳に残った。

ふと、自分の心臓の鼓動と同期しているような気がした。カチ。ドク。カチ。ドク。音と音が、重なったりずれたりしながら、胸の内側と外側で響く。

どれくらい時間が経ったのか分からない。感覚的には数十分のようで、実際には数分かもしれない。

白衣を着た男が、待合室の入口に現れた。四十代くらい。疲れた顔をしているが、その目はまだはっきりと動いている。

「長谷慎一さんの、ご家族の方」

まっすぐこちらに歩いてきた。

陸斗は、立ち上がるタイミングを半歩遅らせた。足がもつれそうになるのを、なんとか堪える。

「息子さん、かな」

医師が、確認するように尋ねる。

「はい」

声が、少し掠れた。

「長谷陸斗です」

「私は主治医の○○といいます」

医師は、形式的な挨拶をし、それから少し表情を引き締めた。

「お父さんの状態ですが…」

その「ですが」のところで、時間がまた一瞬だけ止まった気がした。

「残念ながら」

その続きの言葉が、遠くから響いてくるように感じられる。

「胸と腹部を刺されていて、到着時にはすでに心肺停止の状態でした。すぐに心臓マッサージと輸血を行いまして…できる限りの処置はしましたが…」

言葉が、途中から意味を失っていく。音だけが耳を通り過ぎる。残念ながら、できる限りの処置、間に合いませんでした、そういった断片的な単語だけが、後から遅れて脳に届く。

「…つまり」

自分の声が、どこから出ているのか分からない。

「父さんは…」

「お亡くなりになりました」

医師の口が、はっきりとそう動くのを見た。

その瞬間、世界の音がすべて遠のいた。

待合室の空気は、確かに震えているのに、耳には何も届かない。誰かが椅子を引く音、子どもの泣き声、遠くで鳴る電話。そのすべてが、分厚いガラスの向こうで再生されているように感じられた。

自分の心臓の鼓動だけが、内側からドクン、ドクンと響いている。それも、どこか他人事のようだ。

「…嘘だ」

口の中で小さく言った。自分でも、それが声になっていたのかどうか分からない。

「さっきまで、普通に…」

朝、一緒に飯を食べた。味噌汁を飲んで、新聞を読んで、「行ってきます」と言って出て行った。あの人が、そんな簡単に「いなくなる」なんて、現実として受け入れられない。

「体を…見ますか」

医師の言葉が、どこか遠くから飛んできた。

「霊安室に、お連れします」

「…はい」

自分がなぜ頷いたのか分からない。ただ、そうするのが「家族」としての役割のような気がした。

高瀬が横に並び、「一緒に行く」と短く言う。彼の表情をちゃんと見る余裕はない。ただ、肩の辺りから伝わる体温だけが、かろうじて現実と繋がる手がかりだった。

白い廊下を歩く。床は、さっきの待合室と同じリノリウムだが、こちらの方が少し冷たく感じる。壁には、何も貼られていない。窓ガラス越しに見える夜の街の灯りが、小さく瞬いていた。

霊安室と書かれたプレートのついた扉の前で、医師が立ち止まる。

「準備ができています」

扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ出てきた。中には、ベッドが一つ。白いシーツが、頭の方までかけられている。

その手前で、陸斗の足が一瞬止まった。

見たくない。シーツの下にいる人が誰なのか、頭では分かっている。でも、目で見た瞬間、それは完全な現実になってしまう。

「ゆっくりでいい」

高瀬の声がした。

「無理なら、途中で出てもいい」

「…大丈夫です」

言葉とは裏腹に、全然大丈夫ではない。

それでも足を動かし、ベッドの脇まで進んだ。

医師が、静かにシーツをめくる。

現れた顔は、見慣れた顔だった。朝、味噌汁をすすっていた人と、同じ顔。目は閉じている。口元は少しだけ開いている。肌の色が、ほんの少し青白い。それ以外は、まるで寝ているだけのようにも見えた。

「父さん」

名前を呼んだ。その声は、思っていたよりもずっと小さかった。

返事はない。まぶたは動かない。肩も、胸も、上下しない。呼吸の気配が全くない。

「起きて」

心の中で、何度も呼びかける。

起きてよ。行ってきますって言ったじゃん。帰ってくるって、普通に。次の夜勤の話もしてたじゃん。まだ、テストの結果も見せてないし、弁当の話だって途中だったし。

言いたいことが、喉の奥で渦を巻いているのに、声にならない。

手を伸ばした。父の頬に触れようとして、途中で躊躇する。冷たかったらどうしよう。触った瞬間に、「本当に死んでる」という事実を、皮膚から突きつけられる。

それでも、ゆっくりと指先を触れさせた。

冷たかった。生きている人間の肌の温度ではない。冷蔵庫から出したばかりの陶器のような冷たさ。感触は確かに「人間の顔」なのに、そこに宿っていたものがすべて抜け落ちている。

手を引っ込めたいのに、指先がシーツを握りしめてしまう。白い布地に皺が寄る。

鼻を近づけると、わずかに薬品と、血の匂いが混ざったような匂いがした。病院特有の、無機質な匂い。

「…お父さんは、人を庇って」

背後から、高瀬の声がした。

「犯人はもう捕まってる。お前の父さんは、誰かを庇って刺された」

その情報は、頭のどこかには届いた。でも、その「誰か」が誰なのか、その状況がどうだったのか、といった詳細について考える余裕はない。

ただ、「人を庇って」という言葉だけが、父の顔と重なる。

あの人なら、そうするだろうと思う。

誰かが危ない状況にあれば、自分の身体を盾にする。それが正しいかどうかとか、相手がそれに値する人間かどうかとか、そんな計算をする前に動いてしまう。そういう人だ。

だからこそ、今こうしてここに横たわっているのだとしたら。

怒りとも悲しみともつかない何かが、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていく。

「犯人は…」

かろうじて、声が出た。

「死んでないんですか」

「生きてる」

高瀬は短く答えた。

「取り押さえた。今は署で取り調べ中だ」

「…そうですか」

生きている。父は死んでいて、相手は生きている。その事実が、理不尽だと思うべきなのか、まだ分からない。ただ、頭のどこかにその情報だけが浮かぶ。

何分そこに立っていたのか、陸斗には分からなかった。時間の感覚が完全に失われていた。霊安室の空気は、最初に入ったときと同じ冷たさを保っている。

医師が、静かに口を開いた。

「ごめんなさい。あまり長居すると、お体に触りますから…」

「…はい」

視線を父の顔から離すことに、ひどい罪悪感を感じる。今目を離したら、二度とこの人には会えないような気がした。

でも、ずっとここにいるわけにもいかないのだろう。現実の時間は進んでいる。

最後にもう一度だけ、父の顔を見た。まぶたに手の甲で触れる。やはり冷たい。その冷たさを、手の甲がしっかりと覚える。

「行こう」

高瀬が、静かに促す。

足を動かすのが、ひどく重かった。膝から下に鉛が入っているみたいだ。霊安室の扉が閉まる音が、背中の方でして、その音がやけに長く耳に残った。

廊下に出ると、さっきと同じ白い光と冷たい床が続いている。だが、自分の視界は少し霞んでいた。涙は出ていない。出ていないのに、世界がぼやけて見える。

待合室に戻ると、さっきと同じように人々が座っていた。誰かがスマホをいじり、誰かがうとうとし、誰かが無言で床を見つめている。

彼らの時間は、それぞれの心配事の中で流れている。でも、その流れと自分のいる場所が、まったく違う川のように思えた。

壁の時計の秒針が、再び耳に届く。カチ。カチ。カチ。

音は確かにあるのに、どこか別の空間で鳴っているように感じられる。自分の心臓の鼓動も同じだ。ドクン。ドクン。ドクン。身体の内側から響いているはずなのに、その振動が自分のものではないみたいだ。

高瀬が、椅子に腰かけた。

「今夜は、とりあえず…官舎に戻るか。それとも…」

「…分かりません」

陸斗は正直に答えた。

「何を、どうしたらいいのか」

「そうだよな」

高瀬は、しばらく黙ってから言った。

「今日は、もう何も決めなくていい。やることは、こっちである程度進める。葬儀の段取りとか、細かいことは、明日以降でいい」

葬儀、という単語が出てきても、そこに現実感はなかった。ついさっきまで、まだ「怪我」とか「治療」とか、そういう言葉の世界にいたのに、いつの間にか「葬儀」という次の段階に進んでいる。

頭が追いつかない。

「…外の空気、吸うか」

高瀬が立ち上がる。

「少しだけ」

「はい」

病院の自動ドアをくぐると、外の空気はさっきより冷たくなっていた。夜もだいぶ更けている。駐車場には、数台の車がまばらに停まっているだけだ。

遠くの幹線道路から、車の走行音が聞こえる。信号の切り替わる音。自転車のベル。それらが、確かに耳に届いている。

でも、そのどれもが、自分にとっては透明なガラス越しの音だった。

目の前で人が立ち話をしていても、その口の動きと声が結びつかない。笑い声も、泣き声も、音としては届くのに、意味を伴っていない。

世界全体が、厚い透明な壁の向こう側に移動してしまったみたいだ。自分だけが、この病院の前の小さなスペースに取り残されている。

「寒かったら、中戻るか」

高瀬の声だけが、かろうじて少しだけ近くに聞こえた。

「…大丈夫です」

陸斗は、夜空を見上げた。

雲が、街の光を反射してぼんやりと光っている。その向こうに、本当は星があるはずだ。父が「星なんか見えやしない」と笑っていた空。朝、「行ってきます」と言いながら出ていった背中が向かった空。

その空の下で、世界はいつも通りに動き続けている。

その事実と、自分の中で何かが壊れてしまったこととの間に、埋められない溝がある。

その溝の縁に立ちながら、陸斗は、まだ何も感じられていなかった。

悲しみはきっと、このあと追いかけてくる。怒りも、寂しさも、喪失感も。でも今はただ、音の消えた世界の真ん中に立ち尽くすしかなかった。

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    ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   116.みっこ、ただいま

    夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   115.混ざる本棚

    リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   114.玄関の三点セット

    玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   62.窓ガラスとネオンと「もしも」の自分

    男に惹かれちゃダメだとは思わなくていい。片岡の声が、ファミレスの赤いボックス席の景色と一緒に蘇る。ドリンクバーの機械音、パスタの湯気、湿ったテーブルの感触。全部がセットになって、頭の中で再生される。ダメじゃなくていい。その言い回しが、じわじわと染み込んでくる。何かを「肯定する」というより、「禁止しない」と言っている感じ。強く背中を押されているわけでも、引っ張られているわけでもない。足元の地面を少しだけ広く示されただけ、みたいな。もし、自分が誰か男を好きになるとしたら。半ばゲームのように、その仮定を頭の中に浮か

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   76.夜に逃げ込む日々

    カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っ

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   73.夜明け前の湿布

    ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方な

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   66.みっこの登場と渋滞する感情

    グラスの縁についた水滴が、じわりと広がって輪郭を溶かしていく。その様子をぼんやり眺めていたとき、店内の空気が、ほんの少しだけ変わった。音量が上がったわけでもない。照明が劇的に切り替わったわけでもない。ただ、あちこちのテーブルから漏れていた笑い声が、一瞬だけ揃って同じ方向を向いたような、そんな感じがした。「今日、みっこいる?」隣のボックスから、女の客の弾んだ声が聞こえる。「まだじゃない? さっき上がってきたって言ってたけど」「今日もシャンパン入れさせよ」くすくす笑いとグラスの音が続く。その名前を

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