LOGINテレビの音量は、普段より少しだけ小さくしてあった。
長谷陸斗は、ローテーブルに教科書とノートを広げ、その向こう側で流れているニュース番組をぼんやりと目だけで追っていた。音はBGM。耳に入っているようで入っていない。
「本日の首都圏のニュースです」
アナウンサーの声が、画面とズレない口の動きで淡々と続いている。どこかの市長の会見、政治家の不祥事、株価の話。どれも自分の生活にはたいして関係のないことだ。
蛍光灯の白い光が、六畳間の天井からまっすぐ落ちてきて、教科書のページを白く照らしている。官舎のリビング兼ダイニング。壁際には古い冷蔵庫と、二口コンロの小さなキッチン。テーブルの脇には、朝食の時に使ったマグカップが伏せられて乾かされていた。
ノートの上には、さっきからほとんど進んでいない数学の問題が鎮座している。二次関数。グラフ。頂点。そんな単語を目で追いながら、頭の中は別の場所にあった。
時計を見ると、夜の九時を少し回っていた。
父の長谷慎一は、夕方からの当番だと言っていた。帰りがいつになるのかは、はっきりしていない。早ければ日付が変わる前。遅ければ、明け方近くに制服のまま帰ってきて、そのままソファで少し眠ってから出勤、なんてときもある。
今日はどっちだろうか、と陸斗は考える。
明日、弁当どうするかな、とも思う。父が帰ってくる時間によっては、自分で適当に詰めた方がいいかもしれない。冷蔵庫の中身を思い出そうとするが、昼間にしっかり確認したわけでもないので、曖昧だ。
「とりあえず、カレーは当分いいな」
ひとりごとのように呟き、シャーペンを回す。朝、父とそんな会話をしたことを思い出す。カレーならいくらでも食える、と言い張る顔。新聞越しの横顔。玄関での「行ってきます」と「いってらっしゃい」。
その光景を思い出すと、少し胸のあたりがじくりと熱くなる。嫌な予感、というほどはっきりしたものではない。ただ、何かが引っかかる。
テレビの内容は、いつの間にか事件のニュースに変わっていた。どこかの県で起きた通り魔事件。モザイクのかかった現場写真が映る。
「やめろって」
小さくリモコンを手に取り、チャンネルを変える。バラエティ番組に切り替わり、芸人の笑い声が部屋に流れ込んできた。さっきまでの空気とは違う軽さ。だが、それもどこか上滑りしているように感じる。
シャーペンの先で、ノートの端をとんとんと叩く。二次関数のグラフが、ノートの上で未完成のまま止まっている。頂点の座標を求める計算式が、途中で途切れている。
「…やるか」
自分に言い聞かせるようにして、陸斗は視線をノートに戻した。ペン先を数学の問題の途中に置き、計算を再開する。頭の中で数式を追いかける作業に没頭しようとする。
その時だった。
ピンポン、と唐突にインターホンが鳴った。
音が、やけに大きく感じられた。
こんな時間に、と瞬間的に思う。九時過ぎ。宅配便にしては遅すぎる。友達が来る予定もない。父なら鍵を持っているし、インターホンを押すことはまずない。
胸の奥で、さっきまでとは違う種類のざわつきが広がった。
テレビの音をリモコンで切り、陸斗は立ち上がった。足の裏がフローリングの冷たさを拾う。インターホンのモニターは、玄関のすぐ横の壁についている。歩きながら、その画面を覗き込んだ。
小さな四角い画面に映っていたのは、見覚えのある顔だった。
慎一の同僚の一人、高瀬だ。制服姿。隣には、見たことのないもう一人の警察官が立っていた。二人とも、真面目な顔をしている。笑っていない。冗談を言いに来た顔ではない。
喉がごくりと鳴った。
「…はい」
インターホンのボタンを押し、声を出す。自分でも少し上ずっているのが分かった。
『陸斗くんか』
モニター越しの高瀬の声は、いつもの調子より少し低かった。
『今、家にいるか』
「…います」
『ちょっといいか。開けてくれるか』
「…はい」
指が、インターホンの解錠ボタンに触れる。ボタンを押すと、玄関のオートロックが開くカチリという音が、いつもより重く響いた気がした。
玄関までの短い距離が、妙に長く感じられる。スリッパを履くか迷い、結局素足のまま廊下を歩いた。玄関のドアに手をかける前に、一度深呼吸をする。
何もないかもしれない。父がちょっと怪我をしたとか、その程度の話かもしれない。そう自分に言い聞かせる。
ドアノブをひねり、扉を開けた。
薄暗い共用廊下の明かりの下に、高瀬と、その隣の中年の刑事が立っていた。二人とも帽子はかぶっていない。制服の肩から、雨の雫が少し滴っている。外は、さっきまで雨が降っていたのだろう。
「こんばんは」
高瀬が、硬い表情のまま口を開いた。
「こんな時間に悪いな」
「…こんばんは」
陸斗は、なんとか返事をした。胸がひどくざわざわする。目の前の光景が、どこか現実感を欠いているように見えた。
「父さんは…」
口に出した瞬間、自分が一番聞きたかったことがこれだったのだと気づく。
「父さんが、どうしましたか」
高瀬は、一瞬だけ視線を伏せた。それから、慎重に言葉を選ぶようにして口を開く。
「お父さんが、さっきの勤務で…怪我をして、病院に運ばれた」
「…怪我」
その単語だけが、やけにクリアに耳に入る。続く言葉が、一拍遅れて追いかけてくる。
「刺されたんだ」
高瀬の隣の刑事が、短く補足する。
「意識は…まだ、ある」
まだ、という言い方が、胸のどこかに引っかかった。
「…病院に」
陸斗は、自分の声がやけに遠く聞こえるのを感じた。
「今、どこにいるんですか」
「○○病院だ。ここから車で二十分くらいだ」
高瀬が答える。
「今から一緒に行こう。荷物、何か持っていきたいものはあるか」
持っていきたいもの。何をだろう。財布、スマホ、ハンカチ。そんな普通のことが、頭に浮かぶ前に、足元がぐらりと揺れた。
膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。玄関の段差に、尻をつく形になった。冷たい床の感触がジーンズ越しに伝わる。
座り込んだ自分を見下ろしながら、高瀬が慌てて一歩踏み込んできた。
「大丈夫か」
「…すみません」
陸斗は、床に両手をつきながら、なんとか声を絞り出した。
「ちょっと…びっくりしただけで」
心臓が、耳のすぐ後ろで鳴っているみたいだった。ドクドクと、音だけが異様に大きく感じられる。
「ゆっくりでいい」
高瀬は、静かに言った。
「まだ時間はある。急がなくていいから、必要なものだけ持ってきなさい」
「はい…」
ゆっくりと立ち上がる。足が少し震えている。玄関の靴箱の上に置いてあった自分の鍵と、スマホを手に取った。部屋に戻り、財布を掴む。机の上の教科書が開きっぱなしになっているのが視界に入った。
さっきまで解こうとしていた二次関数。途中で止まった計算式。
それらが、もう別の世界の何かのように見えた。
「父さん、どれくらい…」
部屋を出ながら、廊下で尋ねる。
「怪我…ひどいんですか」
「…病院で、ちゃんと説明してもらおう」
高瀬は、それ以上の言葉を飲み込むように言った。
「今は、とにかく会いに行こう」
その言い方は、楽観も悲観も含まない、中途半端なものに聞こえた。それが余計に不安を煽る。
靴を履き、玄関を出る。ドアを閉めるとき、「鍵、ちゃんとかけて出ろよ」という朝の父の声がふと蘇った。
その声を振り払うように、鍵を回した。カチリという音が、やけに大きく響いた。
高瀬の車は、官舎の前の駐車スペースに停まっていた。白いセダン。後部座席のドアを開けると、冷たいシートの匂いがした。
陸斗は、シートベルトを締めながら、窓の外に目を向けた。官舎の玄関の灯りが小さく見える。その上の階の窓からは、他の家庭のテレビの光が漏れていた。
車がゆっくりと動き出す。アスファルトの上をタイヤが滑る音が、車内に反響する。高瀬が運転席でハンドルを握り、前を見据えている。その横の助手席には、先ほどの中年の刑事が座っていた。彼は一言も発さず、前を見ている。
車内のラジオは切られている。エアコンの風の音と、エンジンの低い唸りだけが聞こえる。
街の明かりが、窓の外を流れていく。コンビニの明かり、ファミレスの看板、信号の赤と青。どれも見慣れた夜の風景のはずなのに、今は全部が薄い膜の向こう側にあるみたいだ。
「怪我」
さっき聞いた言葉が、頭の中に残っている。刺された。意識はまだある。
まだある、という言い回しが、どうしても引っかかる。「今は」あるけれど、この先どうなるかは分からない、というニュアンスがそこに含まれている気がする。
「大丈夫」
自分で小さく呟いた。
「父さん、そう簡単に死なない」
運転席の高瀬が、バックミラー越しに陸斗をちらりと見た。
「…そうだな」
短く返事が返ってくる。その声に、強い肯定は含まれていなかった。ただ否定もしなかった。
朝の場面が、頭の中で再生される。
「行ってきます」
玄関で靴を履きながら言った父の声。わざと少しだけオーバーに言うような癖。
「…いってらっしゃい」
何気なく返した自分の声。そのときは、それが最後になるなんて一ミリも思わなかった。
「また夜勤かよ」「帰ってきたら飯作るから」と文句を言いながら笑っていた顔。味噌汁の湯気。新聞をめくる音。
全部が、今頭の中で、やけに鮮明に浮かび上がる。
車は国道に出た。車線を流れるテールランプの列が、赤い線のように続いている。その横を、救急車が一台サイレンを鳴らしながらすり抜けていった。
その音が、肺の奥を冷たく撫でる。
「…さっきの救急車」
思わず口から漏れた。
「父さんの…」
「違う」
即座に、高瀬が答えた。
「お父さんを乗せた救急は、もう先に病院に着いてる。さっきのは別の件だ」
「…そうですか」
胸の奥のざわめきは、収まらない。
信号待ちで車が止まると、歩道の上にいる人たちが目に入る。コンビニ袋をぶら下げたサラリーマン、友達と笑いながら歩く高校生らしき男子、カップル。
彼らの世界は、何も変わっていない。いつも通りの夜。笑って、喋って、スマホを見て、今日と明日の境目を何の不安もなく越えていく。
自分だけが、急に別の場所に連れて行かれるような感覚。車の窓ガラスが、その境界線になっている気がした。
病院に近づくにつれて、街の明かりが少し変わった。コンビニや飲み屋の派手なネオンではなく、白く無機質な看板の灯り。救急入口の赤い文字が、一際目立っている。
○○病院、と書かれた白い壁が見えてきた。大きな総合病院だ。夜でも入口は明るく照らされている。救急搬送口には、数台の救急車が止まっていた。
車が病院の駐車場に滑り込み、停まる。シートベルトを外す手が、少し震えた。
「降りよう」
高瀬が言い、先に車を降りる。冷たい外気が一気に流れ込んでくる。さっきよりも気温が下がっている気がした。夜の空気は、街灯に照らされて白っぽく浮かんでいる。
病院の自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い蛍光灯の光。受付のカウンターの向こうで、事務員が淡々とパソコンを打っている。
「すみません」
高瀬が受付に向かい、名前を告げる。
「さっき救急搬送された者の家族を」
受付の女性が、慣れた手つきでカルテを確認する。指が、キーボードの上を流れるように動いた。
「長谷慎一さんですね」
「はい」
「ご家族の方は…」
「息子さんです」
高瀬が、後ろの陸斗を顎で示す。
「高校生です」
受付の女性が、こちらに微笑みかけたような気がしたが、それもどこか事務的なものに見えた。
「担当の先生を呼んできますので、そちらの待合室でお待ちください」
指さされた先には、プラスチックの椅子が並んだスペースがある。壁には古いポスターや、健康診断の案内が貼られている。テレビもあるが、今は音が消されているようだった。
高瀬が、陸斗の肩に手を置いた。
「座ってていい。先生が来たら呼ぶから」
「…はい」
椅子に腰かけると、硬いプラスチックの背もたれが背中に当たる。足元には、グレーのリノリウムの床が広がっている。そこに、いくつもの靴の跡が薄くついていた。
待合室には、他にも人がいた。小さな子どもを膝に乗せた母親、腕にギプスを巻いた若い男性、年配の夫婦。誰もが、自分の心配事を胸に抱えてここにいる。
彼らの視線が、自分に向くことはない。自分も、彼らをちゃんとは見ていない。ただ「誰かがいる」という存在感だけが、ぼんやりとした塊になって空間を満たしている。
時計を見ると、針は九時半を指していた。秒針が、壁の上を一定のリズムで進んでいる。そのカチ、カチという音が、やけに大きく耳に残った。
ふと、自分の心臓の鼓動と同期しているような気がした。カチ。ドク。カチ。ドク。音と音が、重なったりずれたりしながら、胸の内側と外側で響く。
どれくらい時間が経ったのか分からない。感覚的には数十分のようで、実際には数分かもしれない。
白衣を着た男が、待合室の入口に現れた。四十代くらい。疲れた顔をしているが、その目はまだはっきりと動いている。
「長谷慎一さんの、ご家族の方」
まっすぐこちらに歩いてきた。
陸斗は、立ち上がるタイミングを半歩遅らせた。足がもつれそうになるのを、なんとか堪える。
「息子さん、かな」
医師が、確認するように尋ねる。
「はい」
声が、少し掠れた。
「長谷陸斗です」
「私は主治医の○○といいます」
医師は、形式的な挨拶をし、それから少し表情を引き締めた。
「お父さんの状態ですが…」
その「ですが」のところで、時間がまた一瞬だけ止まった気がした。
「残念ながら」
その続きの言葉が、遠くから響いてくるように感じられる。
「胸と腹部を刺されていて、到着時にはすでに心肺停止の状態でした。すぐに心臓マッサージと輸血を行いまして…できる限りの処置はしましたが…」
言葉が、途中から意味を失っていく。音だけが耳を通り過ぎる。残念ながら、できる限りの処置、間に合いませんでした、そういった断片的な単語だけが、後から遅れて脳に届く。
「…つまり」
自分の声が、どこから出ているのか分からない。
「父さんは…」
「お亡くなりになりました」
医師の口が、はっきりとそう動くのを見た。
その瞬間、世界の音がすべて遠のいた。
待合室の空気は、確かに震えているのに、耳には何も届かない。誰かが椅子を引く音、子どもの泣き声、遠くで鳴る電話。そのすべてが、分厚いガラスの向こうで再生されているように感じられた。
自分の心臓の鼓動だけが、内側からドクン、ドクンと響いている。それも、どこか他人事のようだ。
「…嘘だ」
口の中で小さく言った。自分でも、それが声になっていたのかどうか分からない。
「さっきまで、普通に…」
朝、一緒に飯を食べた。味噌汁を飲んで、新聞を読んで、「行ってきます」と言って出て行った。あの人が、そんな簡単に「いなくなる」なんて、現実として受け入れられない。
「体を…見ますか」
医師の言葉が、どこか遠くから飛んできた。
「霊安室に、お連れします」
「…はい」
自分がなぜ頷いたのか分からない。ただ、そうするのが「家族」としての役割のような気がした。
高瀬が横に並び、「一緒に行く」と短く言う。彼の表情をちゃんと見る余裕はない。ただ、肩の辺りから伝わる体温だけが、かろうじて現実と繋がる手がかりだった。
白い廊下を歩く。床は、さっきの待合室と同じリノリウムだが、こちらの方が少し冷たく感じる。壁には、何も貼られていない。窓ガラス越しに見える夜の街の灯りが、小さく瞬いていた。
霊安室と書かれたプレートのついた扉の前で、医師が立ち止まる。
「準備ができています」
扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ出てきた。中には、ベッドが一つ。白いシーツが、頭の方までかけられている。
その手前で、陸斗の足が一瞬止まった。
見たくない。シーツの下にいる人が誰なのか、頭では分かっている。でも、目で見た瞬間、それは完全な現実になってしまう。
「ゆっくりでいい」
高瀬の声がした。
「無理なら、途中で出てもいい」
「…大丈夫です」
言葉とは裏腹に、全然大丈夫ではない。
それでも足を動かし、ベッドの脇まで進んだ。
医師が、静かにシーツをめくる。
現れた顔は、見慣れた顔だった。朝、味噌汁をすすっていた人と、同じ顔。目は閉じている。口元は少しだけ開いている。肌の色が、ほんの少し青白い。それ以外は、まるで寝ているだけのようにも見えた。
「父さん」
名前を呼んだ。その声は、思っていたよりもずっと小さかった。
返事はない。まぶたは動かない。肩も、胸も、上下しない。呼吸の気配が全くない。
「起きて」
心の中で、何度も呼びかける。
起きてよ。行ってきますって言ったじゃん。帰ってくるって、普通に。次の夜勤の話もしてたじゃん。まだ、テストの結果も見せてないし、弁当の話だって途中だったし。
言いたいことが、喉の奥で渦を巻いているのに、声にならない。
手を伸ばした。父の頬に触れようとして、途中で躊躇する。冷たかったらどうしよう。触った瞬間に、「本当に死んでる」という事実を、皮膚から突きつけられる。
それでも、ゆっくりと指先を触れさせた。
冷たかった。生きている人間の肌の温度ではない。冷蔵庫から出したばかりの陶器のような冷たさ。感触は確かに「人間の顔」なのに、そこに宿っていたものがすべて抜け落ちている。
手を引っ込めたいのに、指先がシーツを握りしめてしまう。白い布地に皺が寄る。
鼻を近づけると、わずかに薬品と、血の匂いが混ざったような匂いがした。病院特有の、無機質な匂い。
「…お父さんは、人を庇って」
背後から、高瀬の声がした。
「犯人はもう捕まってる。お前の父さんは、誰かを庇って刺された」
その情報は、頭のどこかには届いた。でも、その「誰か」が誰なのか、その状況がどうだったのか、といった詳細について考える余裕はない。
ただ、「人を庇って」という言葉だけが、父の顔と重なる。
あの人なら、そうするだろうと思う。
誰かが危ない状況にあれば、自分の身体を盾にする。それが正しいかどうかとか、相手がそれに値する人間かどうかとか、そんな計算をする前に動いてしまう。そういう人だ。
だからこそ、今こうしてここに横たわっているのだとしたら。
怒りとも悲しみともつかない何かが、胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「犯人は…」
かろうじて、声が出た。
「死んでないんですか」
「生きてる」
高瀬は短く答えた。
「取り押さえた。今は署で取り調べ中だ」
「…そうですか」
生きている。父は死んでいて、相手は生きている。その事実が、理不尽だと思うべきなのか、まだ分からない。ただ、頭のどこかにその情報だけが浮かぶ。
何分そこに立っていたのか、陸斗には分からなかった。時間の感覚が完全に失われていた。霊安室の空気は、最初に入ったときと同じ冷たさを保っている。
医師が、静かに口を開いた。
「ごめんなさい。あまり長居すると、お体に触りますから…」
「…はい」
視線を父の顔から離すことに、ひどい罪悪感を感じる。今目を離したら、二度とこの人には会えないような気がした。
でも、ずっとここにいるわけにもいかないのだろう。現実の時間は進んでいる。
最後にもう一度だけ、父の顔を見た。まぶたに手の甲で触れる。やはり冷たい。その冷たさを、手の甲がしっかりと覚える。
「行こう」
高瀬が、静かに促す。
足を動かすのが、ひどく重かった。膝から下に鉛が入っているみたいだ。霊安室の扉が閉まる音が、背中の方でして、その音がやけに長く耳に残った。
廊下に出ると、さっきと同じ白い光と冷たい床が続いている。だが、自分の視界は少し霞んでいた。涙は出ていない。出ていないのに、世界がぼやけて見える。
待合室に戻ると、さっきと同じように人々が座っていた。誰かがスマホをいじり、誰かがうとうとし、誰かが無言で床を見つめている。
彼らの時間は、それぞれの心配事の中で流れている。でも、その流れと自分のいる場所が、まったく違う川のように思えた。
壁の時計の秒針が、再び耳に届く。カチ。カチ。カチ。
音は確かにあるのに、どこか別の空間で鳴っているように感じられる。自分の心臓の鼓動も同じだ。ドクン。ドクン。ドクン。身体の内側から響いているはずなのに、その振動が自分のものではないみたいだ。
高瀬が、椅子に腰かけた。
「今夜は、とりあえず…官舎に戻るか。それとも…」
「…分かりません」
陸斗は正直に答えた。
「何を、どうしたらいいのか」
「そうだよな」
高瀬は、しばらく黙ってから言った。
「今日は、もう何も決めなくていい。やることは、こっちである程度進める。葬儀の段取りとか、細かいことは、明日以降でいい」
葬儀、という単語が出てきても、そこに現実感はなかった。ついさっきまで、まだ「怪我」とか「治療」とか、そういう言葉の世界にいたのに、いつの間にか「葬儀」という次の段階に進んでいる。
頭が追いつかない。
「…外の空気、吸うか」
高瀬が立ち上がる。
「少しだけ」
「はい」
病院の自動ドアをくぐると、外の空気はさっきより冷たくなっていた。夜もだいぶ更けている。駐車場には、数台の車がまばらに停まっているだけだ。
遠くの幹線道路から、車の走行音が聞こえる。信号の切り替わる音。自転車のベル。それらが、確かに耳に届いている。
でも、そのどれもが、自分にとっては透明なガラス越しの音だった。
目の前で人が立ち話をしていても、その口の動きと声が結びつかない。笑い声も、泣き声も、音としては届くのに、意味を伴っていない。
世界全体が、厚い透明な壁の向こう側に移動してしまったみたいだ。自分だけが、この病院の前の小さなスペースに取り残されている。
「寒かったら、中戻るか」
高瀬の声だけが、かろうじて少しだけ近くに聞こえた。
「…大丈夫です」
陸斗は、夜空を見上げた。
雲が、街の光を反射してぼんやりと光っている。その向こうに、本当は星があるはずだ。父が「星なんか見えやしない」と笑っていた空。朝、「行ってきます」と言いながら出ていった背中が向かった空。
その空の下で、世界はいつも通りに動き続けている。
その事実と、自分の中で何かが壊れてしまったこととの間に、埋められない溝がある。
その溝の縁に立ちながら、陸斗は、まだ何も感じられていなかった。
悲しみはきっと、このあと追いかけてくる。怒りも、寂しさも、喪失感も。でも今はただ、音の消えた世界の真ん中に立ち尽くすしかなかった。
西日の角度が変わると、部屋の中の埃の舞い方も変わる。リビングの窓から差し込む光が、さっきまで床の真ん中に落ちていたのに、いつの間にか棚の引き出しの取っ手のあたりを照らしていた。金属の丸い取っ手が、薄いオレンジ色に光る。細かいものの整理に移ろう、と言い出したのは充だった。「大物はだいたい目星ついたし。次は、こういう『後回しゾーン』な」そう言って、彼はリビングの棚を指さした。テレビ台の横にある、小さなチェスト。今まで、そこを意識的に開けたことはほとんどない。リモコンや郵便物、細かいものを適当に突っ込んできた場所だ。「後回しゾーン…」「だいたいこういうとこに、ヤバいもん眠ってんだよ」充は、わざとらしく肩をすくめる。「昔の写真とか、捨て損ねたラブレターとか、元カノのプレゼントとか」「そんなものはないです」反射的に否定したが、自信はない。少なくともラブレターも元カノのプレゼントもないが、「昔のもの」は、確実に詰まっている。引き出しの取っ手に手をかける。金属が指の腹にひんやりと触れる感触。少し力を入れて引くと、ごり、ごり、と木が擦れる音がした。一段目は、予想通りのカオスだった。文房具、使いかけの乾電池、メジャー、古い領収書。コンビニでもらった出前のチラシ。去年の年賀状。ガチャガチャのカプセル。父が「いつか使うかも」ととっておいたものたちが、雑然と詰め込まれている。「おお、カオス」充が覗き込みながら言う。「こういうのは、一回全部出す」彼に言われるまでもなく、陸斗は引き出しの中身をテーブルの上にぶちまけた。紙の擦れる音と、小さなプラスチックのぶつかる音が次々に重なる。「要る」「いらない」で、分けていく。ボールペンのインクを試し書きし、出ないものは捨てる。乾電池は、指で押してみてちからが残っているか確認する。古いチラシや期限の切れたクーポンは、迷う余地もなくゴミ袋行きだった。二段目は、少しましだった。取扱説明書と保証書の束。家電の名前が書かれたファイ
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が