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第5話 金の行き先

last update Veröffentlichungsdatum: 18.07.2026 18:00:00

 不正調査は、長引かせるほど腐る。

 高瀬悠真は、それを知っていた。

 だから特別調査委員会の二回目の全体会合で、最初に期限を切った。

「最終報告書は、一か月以内に出してください」

 第二会議室の空気が、少しだけ張った。

 委員長の三枝義人が、老眼鏡の奥から悠真を見た。

「一か月ですか」

「はい」

 悠真は頷いた。

「もちろん、刑事告訴や民事訴訟に向けた追加調査は続くでしょう。ですが、会社として役員解任、懲戒処分、損害賠償請求、株式買い取り、監査法人・金融機関への説明を止めたままにはできません」

 水城莉央が資料を閉じた。

「妥当です。上場準備企業として、調査中という状態を何か月も続けるのは危険です」

 外部弁護士の桐生麻衣も頷く。

「一か月以内に事実認定の骨格を作る。その後、刑事告訴用の資料を精緻化する。流れとしては自然です」

 外部公認会計士の榊原徹が、腕を組んだ。

「では、十営業日以内に中間報告。二十営業日以内に最終報告案。二十五日目までに役員向け説明資料。三十日以内に正式報告書。これでどうでしょう」

「それでお願いします」

 三枝義人が静かに言った。

「承知しました。本件は、調査を長引かせて関係者に逃げ道を与える案件ではありません。金の流れを追います」

 金の流れ。

 それが、今日の核心だった。

 不倫写真は入口にすぎなかった。

 経費水増しは煙だった。

 架空成果物は焦げ跡だった。

 火元は、金がどこへ行ったかにある。

 ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ。

 K-BridgeからRaven Worksへ。

 さらに別口座へ。

 そして誰の手元へ戻ったのか。

 そこを押さえなければ、不正はただの疑惑で終わる。

 疑惑は人を騒がせる。

 証拠は人を裁く。

 特別調査委員会は、三班体制から五班体制へ拡張された。

 第一班は経費精査。

 村瀬絢、坂井誠、水城莉央。

 第二班は外注・契約・稟議調査。

 榊原徹、黒須怜司、大槻沙織。

 第三班はログ・メール・チャット解析。

 成瀬葵、桐生麻衣、矢島明彦。

 第四班は関係者ヒアリング。

 三枝義人、佐伯真琴、宮園千晴。

 第五班は資金移動調査。

 榊原徹が兼任し、外部会計士の村瀬絢、経理部の坂井誠、財務担当役員代行の水城莉央が加わった。

 調査対象は、過去三年。

 ただし、重点期間は直近十八か月。

 対象会社は、K-Bridge Consulting、Raven Works、その他関連が疑われる三法人。

 対象者は、高瀬美咲、桐谷健吾、西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一。

 そこへ、周辺協力者の有無も加える。

 会社は、ようやく不正の地図を描き始めていた。

 同じ頃、営業本部では真壁蓮が朝礼を開いていた。

 桐谷健吾の椅子は撤去されていた。

 ただ空席のままにしない。

 それだけで、空気は変わる。

「今日から接待費は事前申請です。相手先名、人数、目的、見込案件、予算を必ず書いてください。出張も同じです。日程、訪問先、面談者、成果報告を残す」

 営業社員たちは神妙な顔で聞いていた。

 面倒だと思っている者もいる。

 当然だ。

 だが、不思議なことに、反発は少なかった。

 むしろ若手からは安堵の声が出始めていた。

 久原美緒が資料を配る。

「外注を使う場合は、発注前に成果物定義を作ります。納品後は検収記録を残します。口頭で『やってもらった』は通りません」

 相馬大地が続けた。

「値引きも勝手にやらない。桐谷さん時代の案件で、利益率が異常に低いものが見つかっています。取ればいい契約じゃない。残る契約を取りましょう」

 真壁蓮は、社員たちを見た。

「前より窮屈に感じるかもしれません。でも、ちゃんとやっている人は困らない仕組みです」

 若手営業の一人が小さく言った。

「正直、前よりやりやすいです」

 会議室に視線が集まる。

 その若手は、少し慌てながらも続けた。

「桐谷本部長の時は、急に会食入れろとか、資料を後で作れとか、数字だけ合わせろとか多かったので。ちゃんとルールがある方が、こっちは説明しやすいです」

 真壁蓮は頷いた。

「それでいい。営業は嘘で売る仕事じゃない」

 その言葉は、営業本部に静かに刺さった。

 桐谷健吾のやり方は、派手だった。

 数字は作った。

 飲ませ、奢り、誇張し、急がせ、押し切った。

 だが、それは営業ではなく、会社の体力を削る興奮剤だった。

 興奮剤は一時的に走らせる。

 そして、あとで心臓を壊す。

 ネクストリンクは、その薬を抜こうとしていた。

 午後。

 宮園千晴の執務室には、雨宮彩乃がいた。

 経理管理課主任だった彼女は、現在、人事・コンプライアンス特命チームに一時移管されている。

 降格ではない。

 保護措置であり、内部通報制度改善のための実務参加だった。

 宮園千晴は、雨宮彩乃に尋ねた。

「新しい通報が三件来ています。確認できますか」

「はい」

 雨宮彩乃は端末を開いた。

 一件目。

 営業部社員から。

 桐谷健吾の指示で、実施していない顧客会議の議事メモを作らされたという内容。

 二件目。

 営業管理部から。

 西岡大輔が、接待人数を実態より多く記載するよう求めていたという内容。

 三件目。

 経理部から。

 小田切修が「専務案件は深掘りするな」と複数回発言していたという内容。

 雨宮彩乃は、画面を見つめた。

「私だけじゃなかったんですね」

 宮園千晴は静かに言った。

「そうです。でも、最初に声を上げた人がいなければ、次の人は出てこなかった」

 雨宮彩乃は、少しだけ目を伏せた。

「怖いです。名前が出たら、戻れない気がして」

「戻す必要はありません」

「え?」

「あなたが黙らされる前の会社に戻る必要はない、という意味です」

 宮園千晴の声は柔らかかった。

 だが、芯があった。

「会社を変えます。あなたが戻るのではなく、会社の方を正常に戻す」

 雨宮彩乃は、小さく頷いた。

 その頃、第二会議室では、資金移動調査が進んでいた。

 榊原徹が大型モニターに図を映す。

 ネクストリンク。

 K-Bridge Consulting。

 Raven Works。

 Blue Mark Partners。

 個人事業主名義の口座。

 法人名義の口座。

 矢印が伸びている。

 金額が書き込まれている。

 日付が並んでいる。

 それは会社の血管図だった。

 ただし、健康診断ではない。

 出血箇所を探す解剖図だ。

「まず、ネクストリンクからK-Bridgeへの支払いは、直近十八か月で四千八百万円。名目は営業戦略コンサルティング、顧客開拓支援、研修設計、提案資料作成支援」

 村瀬絢が続ける。

「しかし成果物は薄く、メタデータ上、社内アカウントで作成された可能性がある資料が複数あります」

 黒須怜司が言った。

「発注実態がない、または著しく乏しい可能性が高い」

 榊原徹は次の図を示した。

「K-BridgeからRaven Worksへ、業務委託費として約二千二百万円。そのうち約千七百万円が、さらに複数の個人または小規模法人へ流れています」

 水城莉央が眉を寄せた。

「Raven Worksの代表は?」

 村瀬絢が答えた。

「黒川亮介。桐谷健吾の前職時代の同僚です。現在は実態の薄い営業支援会社を名乗っています」

「桐谷との関係は」

「会社メール上では直接のやり取りはまだ少ないです。ただし、桐谷氏の会社貸与端末に、黒川亮介の個人メールアドレスが複数回出ています」

 成瀬葵が割り込む。

「削除済みメールの復元で、一部やり取りが出ています。完全復元ではありませんが、断片があります」

 モニターにメールが表示された。

差出人:桐谷健吾

宛先:黒川亮介

件名:今月分

黒川、今月もK経由で処理する。

請求書は前回と同じ感じで。

戻し分はいつもの比率で。

 会議室の空気が止まった。

 戻し分。

 その一語が、刃物のように光った。

 桐生麻衣が言った。

「キックバックを示唆する表現ですね」

 矢島明彦は慎重だった。

「示唆です。断定には、実際の金の戻り、比率、合意、利益の帰属を確認する必要があります」

「もちろんです」

 成瀬葵は次の復元メールを表示した。

差出人:黒川亮介

宛先:桐谷健吾

件名:Re: 今月分

了解。

R経由で分ける。

Kには残しすぎないようにする。

 榊原徹が、低い声で言った。

「Kに残しすぎない。資金を迂回させる意図が見えますね」

 黒須怜司が頷く。

「会計調査としては、かなり危ない領域です」

 水城莉央は、机の上で指を組んだ。

「この段階で、金融機関にはどこまで説明しますか」

 大槻沙織が答えた。

「現時点では、社内調査中の不適切支出疑義があること、事業継続体制は整っていること、最終報告書を一か月以内に作成予定であること。詳細金額や個人名は必要最小限に留めます」

 佐伯真琴が言った。

「外に出す言葉を間違えると、会社全体が疑われます。あくまで一部役職者の不正疑義であり、会社は自浄作用を働かせている。その線を守るべきです」

 三枝義人は頷いた。

「その通りです」

 同じ日の夕方。

 高瀬美咲への三回目のヒアリングが行われた。

 出席者は、大槻沙織、桐生麻衣、三枝義人。

 記録担当は神谷玲奈。

 美咲は、明らかに疲れていた。

 化粧で隠してはいるが、目の下に影がある。

 それでも、姿勢は崩さない。

 専務取締役としての最後の鎧を、必死に着ているようだった。

 大槻沙織が資料を置く。

「K-Bridge Consultingへの発注について確認します」

「前にも話したはずです。営業戦略上、必要な外注でした」

「では、この八百万円の案件について。成果物はA4三枚です。内容は一般論で、具体的な顧客分析や施策設計はありません。これを八百万円相当と判断した理由は何ですか」

「営業本部から、必要だと説明を受けました」

「営業本部とは、桐谷健吾氏ですか」

「……はい」

「あなた自身は成果物を確認しましたか」

「確認しました」

「確認して、十分だと?」

 美咲は一瞬黙った。

「当時は、そう判断しました」

 桐生麻衣が静かに言った。

「当時は?」

「今見れば、不十分だったかもしれません。でも、その時は桐谷さんを信頼していました」

 大槻沙織は、次の資料を出した。

「この成果物ファイルの作成者情報は、桐谷健吾氏の社内アカウントです。外注先が作成した形跡は確認できていません」

 美咲の指先が動いた。

「それは、桐谷さんが編集したのでは」

「外注先から受領したメールも、納品記録も、ファイル転送履歴も確認できていません」

「私はそこまでは」

「専務取締役として八百万円の支払いを承認しています」

 美咲は唇を噛んだ。

「全部私の責任にするつもりですか」

 三枝義人が初めて口を開いた。

「責任の所在を確認する場です。誰か一人に押し付ける場ではありません」

「だったら桐谷さんに聞いてください」

「聞きます」

 その言葉に、美咲は黙った。

 大槻沙織は、さらに資料を差し出した。

「こちらは、桐谷氏と黒川亮介氏の復元メールです。K-Bridge、Raven Works、戻し分という表現が出ています。あなたは、この資金の流れを知っていましたか」

「知りません」

 即答だった。

「K-BridgeからRaven Worksへ資金が移っていたことも?」

「知りません」

「K-Bridgeの代表者と桐谷氏の関係は?」

「知りません」

「Raven Worksの代表者と桐谷氏の関係は?」

「知りません」

 大槻沙織は、少しだけ目を細めた。

「あなたは、何を知っていたのですか」

 美咲は答えられなかった。

 その沈黙は、知らなかったことの証明にはならない。

 知ろうとしなかったことの証拠にはなる。

 夜。

 桐谷健吾のヒアリングが行われた。

 彼は弁護士を連れてきた。

 会社側も、矢島明彦と桐生麻衣が同席した。

 桐谷は、以前のような余裕を失っていた。

 それでも、態度だけは大きかった。

「営業の現場では、この程度の外注は普通です」

 榊原徹が、資料から顔を上げた。

「普通ではありません」

 桐谷の眉が動いた。

「あなたは営業を知らないでしょう」

「私は会計を知っています」

 榊原徹は淡々と言った。

「八百万円の外注費に対して、A4三枚の一般論。納品記録なし。外部送受信履歴なし。作成者はあなたの社内アカウント。これを普通とは言いません」

 桐谷は鼻で笑った。

「成果は数字に出ています。売上は伸びていた」

 黒須怜司が切り込む。

「利益率は落ちています」

「成長フェーズでは当然です」

 水城莉央が冷たく言った。

「営業本部の一部案件では、利益率が社内基準を大きく下回っています。さらに、K-Bridge関連費用を差し引くと赤字の案件もあります」

「投資です」

「誰への投資ですか」

 桐谷は黙った。

 矢島明彦が、復元メールを出した。

「戻し分、という表現について説明してください」

 桐谷の顔色が、わずかに変わった。

「記憶にありません」

「あなたの会社アカウントから送信されています」

「文脈がわからない」

「では、K経由で処理する、という表現は?」

「業務上の略称でしょう」

「R経由で分ける、は?」

「相手の言葉なので知りません」

 桐生麻衣が静かに言った。

「桐谷さん。現時点では社内調査です。しかし、資金還流の疑いが強まれば、会社として刑事告訴を検討することになります」

 桐谷の弁護士がすぐに口を挟む。

「そのような威圧的な発言は控えていただきたい」

 桐生麻衣は表情を変えなかった。

「威圧ではありません。手続き上の説明です」

 桐谷は、初めて目を逸らした。

 その夜遅く。

 第二会議室に、成瀬葵が駆け込んできた。

 普段は冷静な彼女の顔に、珍しく緊張が浮かんでいた。

「削除済みメールの復元で、重要なものが出ました」

 三枝義人、水城莉央、大槻沙織、矢島明彦、桐生麻衣、榊原徹、村瀬絢が集まる。

 成瀬葵はモニターにメールを表示した。

差出人:桐谷健吾

宛先:高瀬美咲

件名:Kの件

今月もK通しておく。

金額は少し大きいが、Rへ流せば目立たない。

利益は後で分ける。

西岡と山城にはいつも通りやらせる。

 誰もすぐには喋らなかった。

 利益は後で分ける。

 その一文は、部屋の温度を奪った。

 成瀬葵は、さらに返信を表示した。

差出人:高瀬美咲

宛先:桐谷健吾

件名:Re: Kの件

金額が大きいから注意して。

小田切にはこちらから言っておく。

雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

 神谷玲奈が、息を止めた。

 雨宮さんが細かく見ている。

 経理側は黙らせて。

 それは、単なる承認ミスではなかった。

 知らなかった、では通らない。

 少なくとも、このメールが真正なら、高瀬美咲は異常を認識していた。

 そして、内部で疑問を持った社員を黙らせようとしていた。

 大槻沙織が成瀬葵を見る。

「真正性は」

「保全済みメールボックスから復元しました。メッセージID、送受信時刻、サーバーログ、バックアップログが一致しています。改ざんの痕跡は現時点ではありません」

 矢島明彦が言った。

「原本性の確認をさらに進めてください。これは決定打になり得ます」

 桐生麻衣の声は低かった。

「内部通報妨害、資金還流の認識、利益分配の示唆。民事だけで終わる内容ではありません」

 榊原徹が頷く。

「特別背任の可能性も視野に入ります。高瀬美咲氏は取締役です。会社に損害を与え、自己または第三者の利益を図った疑いがあるなら、かなり重い」

 三枝義人は目を閉じた。

 しばらくして、静かに言った。

「高瀬社長を呼んでください」

 午後十一時四十分。

 高瀬悠真は、第二会議室に入った。

 そこには、調査委員会の主要メンバーが揃っていた。

 疲労の色はある。

 だが、誰も席を立とうとはしない。

 三枝義人が、復元メールを差し出した。

「社長。重要な証拠が見つかりました」

 悠真は紙を受け取った。

 一枚目。

 桐谷から美咲。

 今月もK通しておく。

 Rへ流せば目立たない。

 利益は後で分ける。

 二枚目。

 美咲から桐谷。

 金額が大きいから注意して。

 小田切にはこちらから言っておく。

 雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

 悠真は、長い間その紙を見ていた。

 不思議と、手は震えなかった。

 心も揺れなかった。

 ただ、何かが完全に閉じた。

 夫婦だった時間。

 信じていた記憶。

 軽井沢の別荘で笑っていた写真。

 深夜の事務所で食べたコンビニ弁当。

 全部が、遠い国の話になった。

 美咲は、ただ裏切ったのではない。

 会社を食った。

 社員を黙らせようとした。

 雨宮彩乃を潰そうとした。

 そこに、もう情けを差し込む隙間はなかった。

「真正性は」

 悠真が聞いた。

 成瀬葵が答えた。

「サーバーログとバックアップで確認中です。現時点では一致しています」

「資金の流れは」

 榊原徹が答える。

「ネクストリンクからK-Bridgeへ四千八百万円。K-BridgeからRaven Worksへ約二千二百万円。そこから約千七百万円分について、不自然な再移転があります。最終着金先の完全特定には、弁護士照会や捜査機関の協力が必要になる可能性があります」

「つまり、刑事告訴を視野に入れる段階ですね」

 矢島明彦が頷いた。

「はい。ただし、告訴状を出す前に、報告書として事実関係を整理すべきです」

 桐生麻衣も言った。

「一か月以内の報告書作成方針は正しいです。遅すぎると証拠隠滅や関係者間の口裏合わせが進みます。早すぎても事実認定が甘くなる。今の進行なら、二十五日程度で十分な骨格が作れます」

 三枝義人が静かに言った。

「社長。臨時株主総会の準備を始めるべきです」

 会議室の誰も驚かなかった。

 その言葉は、もう避けられない場所まで来ていた。

 高瀬美咲は取締役だ。

 取締役の地位を解くには、株主総会が必要になる。

 悠真は議決権の七十八%を持っている。

 可決は可能だ。

 だが、だからこそ雑にはできない。

 調査報告書。

 取締役会決議。

 株主総会招集通知。

 解任議案。

 損害賠償請求方針。

 株主間契約に基づく株式買い取り請求。

 その全てを、順に積む。

「始めます」

 悠真は言った。

 声は静かだった。

 その静けさが、決定だった。

「最終報告書は一か月以内。中間報告は十営業日以内。報告書案が出た段階で、臨時取締役会を開く。その後、臨時株主総会の招集手続きに入ります」

 水城莉央が頷く。

「銀行、監査法人、主幹事証券への説明も並行して進めます」

 七瀬蒼真が、部屋の隅から言った。

「事業側は止めません。営業も開発もサポートも回します」

 真壁蓮も続けた。

「営業本部は大丈夫です。桐谷さんの案件は全部見直します」

 宮園千晴が言った。

「雨宮主任と通報者の保護も進めます。社内に、通報者を守る姿勢を明確に出します」

 悠真は全員を見た。

 この一週間で、会社の奥から腐臭が上がった。

 だが同時に、会社を守る人間も見えた。

 七瀬蒼真。

 水城莉央。

 真壁蓮。

 宮園千晴。

 大槻沙織。

 神谷玲奈。

 三枝義人。

 雨宮彩乃。

 腐っているのは、会社そのものではない。

 一部の人間が、会社の血管に泥を流していただけだ。

 ならば、泥を抜けばいい。

 血管を洗えばいい。

 必要なら、壊死した部分を切り落とせばいい。

 悠真は、机の上のメールをもう一度見た。

 利益は後で分ける。

 その文字が、すべてを終わらせた。

「不倫なら、離婚で済んだ」

 彼は静かに言った。

「だが、会社の金を流し、社員を黙らせようとしたなら、もう家庭の話ではない」

 会議室に、紙の擦れる音すらなかった。

「報告書を作ってください」

 悠真は続けた。

「会社として、正式に動きます」

 深夜零時。

 ネクストリンク本社の灯りは、まだ消えなかった。

 調査委員会は、報告書の章立てを始めた。

 一、調査の目的。

 二、調査体制。

 三、調査対象期間。

 四、認定された事実。

 五、経費不正。

 六、外注費不正。

 七、資金移動。

 八、内部通報妨害。

 九、関係者の責任。

 十、再発防止策。

 十一、法的措置の提言。

 それは、会社が自分の傷口を記録する作業だった。

 痛みを忘れないため。

 二度と同じ腐敗を許さないため。

 そして、裁くため。

 高瀬悠真は社長室へ戻った。

 机の上には、軽井沢の別荘で撮った一枚の写真が伏せて置かれていた。

 美咲と二人で笑っていた写真。

 昨日までは、見ることができなかった。

 今日、悠真はそれを引き出しにしまった。

 捨てはしない。

 だが、机の上には置かない。

 過去は過去だ。

 会社の未来の邪魔はさせない。

 悠真は、臨時株主総会の準備資料を開いた。

 議案名。

 高瀬美咲取締役解任の件。

 文字は冷たい。

 だが、そこに迷いはなかった。

 金の行き先は、まだ最後まで見えていない。

 だが、進むべき先は見えた。

 報告書。

 株主総会。

 解任。

 損害賠償。

 刑事告訴。

 家庭の修羅場は、とっくに終わっている。

 ここから先は、会社が法で殴り返す番だった。

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     ネクストリンクは、止まらなかった。 翌朝八時。 高瀬悠真は、いつも通り本社二十七階の社長室にいた。 昨日、臨時取締役会で専務取締役・高瀬美咲の一部職務権限停止が可決された。 営業本部長・桐谷健吾には自宅待機命令が出された。 社用端末は回収。 会社アカウントは停止。 経費精算、契約、外注先選定、出張申請、チャットログ、メールボックス、ファイル共有履歴は保全された。 普通なら、会社中が凍る。 だが、会社は生き物だ。 誰かが倒れた瞬間、血流を別の道へ逃がさなければ、全身が腐る。 悠真は、社長室のモニターに表示された全社向けメッセージを確認していた。 文面は短い。 余計な感情はない。 だが、社員が一番知りたいことだけは入れてある。⸻社員各位昨日開催された臨時取締役会において、一部役員および幹部社員に関する調査体制の設置を決議しました。調査の公平性と事業継続を確保するため、当面の間、一部業務分掌と権限を変更します。顧客対応、開発、導入支援、サポート、採用、給与支払い、取引先支払いに影響はありません。社員の皆さんには、不確かな情報に基づく憶測や個人攻撃を避け、通常業務を継続してください。内部通報者、関係社員、調査協力者への不利益取り扱いは一切認めません。会社は、事実に基づき、適正な手続きで対応します。代表取締役社長高瀬悠真⸻ 悠真は最後まで読み、神谷玲奈へ視線を向けた。「これで出してくれ」「承知しました」 秘書室長の神谷玲奈は、すぐに配信予約を入れた。 八時十五分。 全社員にメール。 社内ポータルに掲示。 管理職向けには、別途説明資料。 顧客対応部署には想定問答。 人事部には相談窓口の増設。 情報システム部に

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第2話 取締役会

    「それでは、臨時取締役会を開始します」 高瀬悠真の声が、役員会議室に落ちた。 午前十時。 株式会社ネクストリンク本社、二十七階。 普段なら新規事業や上場準備、採用計画、資金調達、主要顧客との契約更新などを話し合う場所だった。 だが、今日だけは違う。 会議室の空気が、妙に重い。 ガラス張りの壁の向こうには、いつも通り東京の街が広がっている。 車は流れ、人は歩き、ビルの窓は光を返していた。 世界は何も知らない顔で動いている。 その一方で、ネクストリンクの中枢では、会社の内臓に刃を入れる会議が始まろうとしていた。 長い楕円形のテーブル。 議長席には、高瀬悠真。 その右隣に、副社長の七瀬蒼真。 二十九歳。 悠真より六歳若い。 創業五年目に入社した天才肌のプロダクト責任者で、現在は開発・事業戦略を管掌している。 黒いジャケットに白いシャツ。 表情は柔らかいが、目は鋭い。 悠真が外部交渉と経営全体を見るなら、七瀬蒼真は会社の製品を未来へ引っ張るエンジンだった。 その隣には、取締役CFOの水城莉央。 三十一歳。 元外資系投資銀行。 上場準備、資金繰り、銀行交渉、資本政策を担う女性取締役だ。 数字に強く、余計な情緒を嫌う。 美咲が財務・人事管掌の専務として社内管理を見ていた一方、水城莉央は資本市場と金融機関に向き合う役割を担っていた。 左側には、専務取締役の高瀬美咲。 今日も美しかった。 白いブラウスに淡いベージュのジャケット。 落ち着いた髪。 役員としての笑顔。 十年近く、会社の顔の一人として振る舞ってきた女の顔だった。 悠真はその横顔を見ても、何も言わなかった。 そのさらに隣に、取締役CHROの宮園千晴。 三十三歳。 人事

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第1話 証拠はそろった

     高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。 それは優しいからではない。 怒鳴る前に、数字を見るからだ。 東京都千代田区。 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。 上場準備にも入っている。 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。 三十五歳。 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。 派手な経営者ではない。 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。 役員フロアの社長室。 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。 机の上には、三つの資料が並んでいる。 一つは、月次売上報告書。 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。 差出人は、青葉総合調査事務所。 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。 先に売上報告書を開いた。 第一事業部、前年比一二八%。 第二事業部、前年比一一六%。 営業本部、新規案件獲得数は多い。 だが、利益率が落ちていた。 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。 偶然ならいい。 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。「社長、よろしいでしょうか」 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。 三十二歳。 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見

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