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第5話 金の行き先

last update Fecha de publicación: 2026-07-18 18:00:00

 不正調査は、長引かせるほど腐る。

 高瀬悠真は、それを知っていた。

 だから特別調査委員会の二回目の全体会合で、最初に期限を切った。

「最終報告書は、一か月以内に出してください」

 第二会議室の空気が、少しだけ張った。

 委員長の三枝義人が、老眼鏡の奥から悠真を見た。

「一か月ですか」

「はい」

 悠真は頷いた。

「もちろん、刑事告訴や民事訴訟に向けた追加調査は続くでしょう。ですが、会社として役員解任、懲戒処分、損害賠償請求、株式買い取り、監査法人・金融機関への説明を止めたままにはできません」

 水城莉央が資料を閉じた。

「妥当です。上場準備企業として、調査中という状態を何か月も続けるのは危険です」

 外部弁護士の桐生麻衣も頷く。

「一か月以内に事実認定の骨格を作る。その後、刑事告訴用の資料を精緻化する。流れとしては自然です」

 外部公認会計士の榊原徹が、腕を組んだ。

「では、十営業日以内に中間報告。二十営業日以内に最終報告案。二十五日目までに役員向け説明資料。三十日以内に正式報告書。これでどうでしょう」

「それでお願いします」

 三枝義人が静かに言った。

「承知しました。本件は、調査を長引かせて関係者に逃げ道を与える案件ではありません。金の流れを追います」

 金の流れ。

 それが、今日の核心だった。

 不倫写真は入口にすぎなかった。

 経費水増しは煙だった。

 架空成果物は焦げ跡だった。

 火元は、金がどこへ行ったかにある。

 ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ。

 K-BridgeからRaven Worksへ。

 さらに別口座へ。

 そして誰の手元へ戻ったのか。

 そこを押さえなければ、不正はただの疑惑で終わる。

 疑惑は人を騒がせる。

 証拠は人を裁く。

 特別調査委員会は、三班体制から五班体制へ拡張された。

 第一班は経費精査。

 村瀬絢、坂井誠、水城莉央。

 第二班は外注・契約・稟議調査。

 榊原徹、黒須怜司、大槻沙織。

 第三班はログ・メール・チャット解析。

 成瀬葵、桐生麻衣、矢島明彦。

 第四班は関係者ヒアリング。

 三枝義人、佐伯真琴、宮園千晴。

 第五班は資金移動調査。

 榊原徹が兼任し、外部会計士の村瀬絢、経理部の坂井誠、財務担当役員代行の水城莉央が加わった。

 調査対象は、過去三年。

 ただし、重点期間は直近十八か月。

 対象会社は、K-Bridge Consulting、Raven Works、その他関連が疑われる三法人。

 対象者は、高瀬美咲、桐谷健吾、西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一。

 そこへ、周辺協力者の有無も加える。

 会社は、ようやく不正の地図を描き始めていた。

 同じ頃、営業本部では真壁蓮が朝礼を開いていた。

 桐谷健吾の椅子は撤去されていた。

 ただ空席のままにしない。

 それだけで、空気は変わる。

「今日から接待費は事前申請です。相手先名、人数、目的、見込案件、予算を必ず書いてください。出張も同じです。日程、訪問先、面談者、成果報告を残す」

 営業社員たちは神妙な顔で聞いていた。

 面倒だと思っている者もいる。

 当然だ。

 だが、不思議なことに、反発は少なかった。

 むしろ若手からは安堵の声が出始めていた。

 久原美緒が資料を配る。

「外注を使う場合は、発注前に成果物定義を作ります。納品後は検収記録を残します。口頭で『やってもらった』は通りません」

 相馬大地が続けた。

「値引きも勝手にやらない。桐谷さん時代の案件で、利益率が異常に低いものが見つかっています。取ればいい契約じゃない。残る契約を取りましょう」

 真壁蓮は、社員たちを見た。

「前より窮屈に感じるかもしれません。でも、ちゃんとやっている人は困らない仕組みです」

 若手営業の一人が小さく言った。

「正直、前よりやりやすいです」

 会議室に視線が集まる。

 その若手は、少し慌てながらも続けた。

「桐谷本部長の時は、急に会食入れろとか、資料を後で作れとか、数字だけ合わせろとか多かったので。ちゃんとルールがある方が、こっちは説明しやすいです」

 真壁蓮は頷いた。

「それでいい。営業は嘘で売る仕事じゃない」

 その言葉は、営業本部に静かに刺さった。

 桐谷健吾のやり方は、派手だった。

 数字は作った。

 飲ませ、奢り、誇張し、急がせ、押し切った。

 だが、それは営業ではなく、会社の体力を削る興奮剤だった。

 興奮剤は一時的に走らせる。

 そして、あとで心臓を壊す。

 ネクストリンクは、その薬を抜こうとしていた。

 午後。

 宮園千晴の執務室には、雨宮彩乃がいた。

 経理管理課主任だった彼女は、現在、人事・コンプライアンス特命チームに一時移管されている。

 降格ではない。

 保護措置であり、内部通報制度改善のための実務参加だった。

 宮園千晴は、雨宮彩乃に尋ねた。

「新しい通報が三件来ています。確認できますか」

「はい」

 雨宮彩乃は端末を開いた。

 一件目。

 営業部社員から。

 桐谷健吾の指示で、実施していない顧客会議の議事メモを作らされたという内容。

 二件目。

 営業管理部から。

 西岡大輔が、接待人数を実態より多く記載するよう求めていたという内容。

 三件目。

 経理部から。

 小田切修が「専務案件は深掘りするな」と複数回発言していたという内容。

 雨宮彩乃は、画面を見つめた。

「私だけじゃなかったんですね」

 宮園千晴は静かに言った。

「そうです。でも、最初に声を上げた人がいなければ、次の人は出てこなかった」

 雨宮彩乃は、少しだけ目を伏せた。

「怖いです。名前が出たら、戻れない気がして」

「戻す必要はありません」

「え?」

「あなたが黙らされる前の会社に戻る必要はない、という意味です」

 宮園千晴の声は柔らかかった。

 だが、芯があった。

「会社を変えます。あなたが戻るのではなく、会社の方を正常に戻す」

 雨宮彩乃は、小さく頷いた。

 その頃、第二会議室では、資金移動調査が進んでいた。

 榊原徹が大型モニターに図を映す。

 ネクストリンク。

 K-Bridge Consulting。

 Raven Works。

 Blue Mark Partners。

 個人事業主名義の口座。

 法人名義の口座。

 矢印が伸びている。

 金額が書き込まれている。

 日付が並んでいる。

 それは会社の血管図だった。

 ただし、健康診断ではない。

 出血箇所を探す解剖図だ。

「まず、ネクストリンクからK-Bridgeへの支払いは、直近十八か月で四千八百万円。名目は営業戦略コンサルティング、顧客開拓支援、研修設計、提案資料作成支援」

 村瀬絢が続ける。

「しかし成果物は薄く、メタデータ上、社内アカウントで作成された可能性がある資料が複数あります」

 黒須怜司が言った。

「発注実態がない、または著しく乏しい可能性が高い」

 榊原徹は次の図を示した。

「K-BridgeからRaven Worksへ、業務委託費として約二千二百万円。そのうち約千七百万円が、さらに複数の個人または小規模法人へ流れています」

 水城莉央が眉を寄せた。

「Raven Worksの代表は?」

 村瀬絢が答えた。

「黒川亮介。桐谷健吾の前職時代の同僚です。現在は実態の薄い営業支援会社を名乗っています」

「桐谷との関係は」

「会社メール上では直接のやり取りはまだ少ないです。ただし、桐谷氏の会社貸与端末に、黒川亮介の個人メールアドレスが複数回出ています」

 成瀬葵が割り込む。

「削除済みメールの復元で、一部やり取りが出ています。完全復元ではありませんが、断片があります」

 モニターにメールが表示された。

⸻

差出人:桐谷健吾

宛先:黒川亮介

件名:今月分

黒川、今月もK経由で処理する。

請求書は前回と同じ感じで。

戻し分はいつもの比率で。

⸻

 会議室の空気が止まった。

 戻し分。

 その一語が、刃物のように光った。

 桐生麻衣が言った。

「キックバックを示唆する表現ですね」

 矢島明彦は慎重だった。

「示唆です。断定には、実際の金の戻り、比率、合意、利益の帰属を確認する必要があります」

「もちろんです」

 成瀬葵は次の復元メールを表示した。

⸻

差出人:黒川亮介

宛先:桐谷健吾

件名:Re: 今月分

了解。

R経由で分ける。

Kには残しすぎないようにする。

⸻

 榊原徹が、低い声で言った。

「Kに残しすぎない。資金を迂回させる意図が見えますね」

 黒須怜司が頷く。

「会計調査としては、かなり危ない領域です」

 水城莉央は、机の上で指を組んだ。

「この段階で、金融機関にはどこまで説明しますか」

 大槻沙織が答えた。

「現時点では、社内調査中の不適切支出疑義があること、事業継続体制は整っていること、最終報告書を一か月以内に作成予定であること。詳細金額や個人名は必要最小限に留めます」

 佐伯真琴が言った。

「外に出す言葉を間違えると、会社全体が疑われます。あくまで一部役職者の不正疑義であり、会社は自浄作用を働かせている。その線を守るべきです」

 三枝義人は頷いた。

「その通りです」

 同じ日の夕方。

 高瀬美咲への三回目のヒアリングが行われた。

 出席者は、大槻沙織、桐生麻衣、三枝義人。

 記録担当は神谷玲奈。

 美咲は、明らかに疲れていた。

 化粧で隠してはいるが、目の下に影がある。

 それでも、姿勢は崩さない。

 専務取締役としての最後の鎧を、必死に着ているようだった。

 大槻沙織が資料を置く。

「K-Bridge Consultingへの発注について確認します」

「前にも話したはずです。営業戦略上、必要な外注でした」

「では、この八百万円の案件について。成果物はA4三枚です。内容は一般論で、具体的な顧客分析や施策設計はありません。これを八百万円相当と判断した理由は何ですか」

「営業本部から、必要だと説明を受けました」

「営業本部とは、桐谷健吾氏ですか」

「……はい」

「あなた自身は成果物を確認しましたか」

「確認しました」

「確認して、十分だと?」

 美咲は一瞬黙った。

「当時は、そう判断しました」

 桐生麻衣が静かに言った。

「当時は?」

「今見れば、不十分だったかもしれません。でも、その時は桐谷さんを信頼していました」

 大槻沙織は、次の資料を出した。

「この成果物ファイルの作成者情報は、桐谷健吾氏の社内アカウントです。外注先が作成した形跡は確認できていません」

 美咲の指先が動いた。

「それは、桐谷さんが編集したのでは」

「外注先から受領したメールも、納品記録も、ファイル転送履歴も確認できていません」

「私はそこまでは」

「専務取締役として八百万円の支払いを承認しています」

 美咲は唇を噛んだ。

「全部私の責任にするつもりですか」

 三枝義人が初めて口を開いた。

「責任の所在を確認する場です。誰か一人に押し付ける場ではありません」

「だったら桐谷さんに聞いてください」

「聞きます」

 その言葉に、美咲は黙った。

 大槻沙織は、さらに資料を差し出した。

「こちらは、桐谷氏と黒川亮介氏の復元メールです。K-Bridge、Raven Works、戻し分という表現が出ています。あなたは、この資金の流れを知っていましたか」

「知りません」

 即答だった。

「K-BridgeからRaven Worksへ資金が移っていたことも?」

「知りません」

「K-Bridgeの代表者と桐谷氏の関係は?」

「知りません」

「Raven Worksの代表者と桐谷氏の関係は?」

「知りません」

 大槻沙織は、少しだけ目を細めた。

「あなたは、何を知っていたのですか」

 美咲は答えられなかった。

 その沈黙は、知らなかったことの証明にはならない。

 知ろうとしなかったことの証拠にはなる。

 夜。

 桐谷健吾のヒアリングが行われた。

 彼は弁護士を連れてきた。

 会社側も、矢島明彦と桐生麻衣が同席した。

 桐谷は、以前のような余裕を失っていた。

 それでも、態度だけは大きかった。

「営業の現場では、この程度の外注は普通です」

 榊原徹が、資料から顔を上げた。

「普通ではありません」

 桐谷の眉が動いた。

「あなたは営業を知らないでしょう」

「私は会計を知っています」

 榊原徹は淡々と言った。

「八百万円の外注費に対して、A4三枚の一般論。納品記録なし。外部送受信履歴なし。作成者はあなたの社内アカウント。これを普通とは言いません」

 桐谷は鼻で笑った。

「成果は数字に出ています。売上は伸びていた」

 黒須怜司が切り込む。

「利益率は落ちています」

「成長フェーズでは当然です」

 水城莉央が冷たく言った。

「営業本部の一部案件では、利益率が社内基準を大きく下回っています。さらに、K-Bridge関連費用を差し引くと赤字の案件もあります」

「投資です」

「誰への投資ですか」

 桐谷は黙った。

 矢島明彦が、復元メールを出した。

「戻し分、という表現について説明してください」

 桐谷の顔色が、わずかに変わった。

「記憶にありません」

「あなたの会社アカウントから送信されています」

「文脈がわからない」

「では、K経由で処理する、という表現は?」

「業務上の略称でしょう」

「R経由で分ける、は?」

「相手の言葉なので知りません」

 桐生麻衣が静かに言った。

「桐谷さん。現時点では社内調査です。しかし、資金還流の疑いが強まれば、会社として刑事告訴を検討することになります」

 桐谷の弁護士がすぐに口を挟む。

「そのような威圧的な発言は控えていただきたい」

 桐生麻衣は表情を変えなかった。

「威圧ではありません。手続き上の説明です」

 桐谷は、初めて目を逸らした。

 その夜遅く。

 第二会議室に、成瀬葵が駆け込んできた。

 普段は冷静な彼女の顔に、珍しく緊張が浮かんでいた。

「削除済みメールの復元で、重要なものが出ました」

 三枝義人、水城莉央、大槻沙織、矢島明彦、桐生麻衣、榊原徹、村瀬絢が集まる。

 成瀬葵はモニターにメールを表示した。

⸻

差出人:桐谷健吾

宛先:高瀬美咲

件名:Kの件

今月もK通しておく。

金額は少し大きいが、Rへ流せば目立たない。

利益は後で分ける。

西岡と山城にはいつも通りやらせる。

⸻

 誰もすぐには喋らなかった。

 利益は後で分ける。

 その一文は、部屋の温度を奪った。

 成瀬葵は、さらに返信を表示した。

⸻

差出人:高瀬美咲

宛先:桐谷健吾

件名:Re: Kの件

金額が大きいから注意して。

小田切にはこちらから言っておく。

雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

⸻

 神谷玲奈が、息を止めた。

 雨宮さんが細かく見ている。

 経理側は黙らせて。

 それは、単なる承認ミスではなかった。

 知らなかった、では通らない。

 少なくとも、このメールが真正なら、高瀬美咲は異常を認識していた。

 そして、内部で疑問を持った社員を黙らせようとしていた。

 大槻沙織が成瀬葵を見る。

「真正性は」

「保全済みメールボックスから復元しました。メッセージID、送受信時刻、サーバーログ、バックアップログが一致しています。改ざんの痕跡は現時点ではありません」

 矢島明彦が言った。

「原本性の確認をさらに進めてください。これは決定打になり得ます」

 桐生麻衣の声は低かった。

「内部通報妨害、資金還流の認識、利益分配の示唆。民事だけで終わる内容ではありません」

 榊原徹が頷く。

「特別背任の可能性も視野に入ります。高瀬美咲氏は取締役です。会社に損害を与え、自己または第三者の利益を図った疑いがあるなら、かなり重い」

 三枝義人は目を閉じた。

 しばらくして、静かに言った。

「高瀬社長を呼んでください」

 午後十一時四十分。

 高瀬悠真は、第二会議室に入った。

 そこには、調査委員会の主要メンバーが揃っていた。

 疲労の色はある。

 だが、誰も席を立とうとはしない。

 三枝義人が、復元メールを差し出した。

「社長。重要な証拠が見つかりました」

 悠真は紙を受け取った。

 一枚目。

 桐谷から美咲。

 今月もK通しておく。

 Rへ流せば目立たない。

 利益は後で分ける。

 二枚目。

 美咲から桐谷。

 金額が大きいから注意して。

 小田切にはこちらから言っておく。

 雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

 悠真は、長い間その紙を見ていた。

 不思議と、手は震えなかった。

 心も揺れなかった。

 ただ、何かが完全に閉じた。

 夫婦だった時間。

 信じていた記憶。

 軽井沢の別荘で笑っていた写真。

 深夜の事務所で食べたコンビニ弁当。

 全部が、遠い国の話になった。

 美咲は、ただ裏切ったのではない。

 会社を食った。

 社員を黙らせようとした。

 雨宮彩乃を潰そうとした。

 そこに、もう情けを差し込む隙間はなかった。

「真正性は」

 悠真が聞いた。

 成瀬葵が答えた。

「サーバーログとバックアップで確認中です。現時点では一致しています」

「資金の流れは」

 榊原徹が答える。

「ネクストリンクからK-Bridgeへ四千八百万円。K-BridgeからRaven Worksへ約二千二百万円。そこから約千七百万円分について、不自然な再移転があります。最終着金先の完全特定には、弁護士照会や捜査機関の協力が必要になる可能性があります」

「つまり、刑事告訴を視野に入れる段階ですね」

 矢島明彦が頷いた。

「はい。ただし、告訴状を出す前に、報告書として事実関係を整理すべきです」

 桐生麻衣も言った。

「一か月以内の報告書作成方針は正しいです。遅すぎると証拠隠滅や関係者間の口裏合わせが進みます。早すぎても事実認定が甘くなる。今の進行なら、二十五日程度で十分な骨格が作れます」

 三枝義人が静かに言った。

「社長。臨時株主総会の準備を始めるべきです」

 会議室の誰も驚かなかった。

 その言葉は、もう避けられない場所まで来ていた。

 高瀬美咲は取締役だ。

 取締役の地位を解くには、株主総会が必要になる。

 悠真は議決権の七十八%を持っている。

 可決は可能だ。

 だが、だからこそ雑にはできない。

 調査報告書。

 取締役会決議。

 株主総会招集通知。

 解任議案。

 損害賠償請求方針。

 株主間契約に基づく株式買い取り請求。

 その全てを、順に積む。

「始めます」

 悠真は言った。

 声は静かだった。

 その静けさが、決定だった。

「最終報告書は一か月以内。中間報告は十営業日以内。報告書案が出た段階で、臨時取締役会を開く。その後、臨時株主総会の招集手続きに入ります」

 水城莉央が頷く。

「銀行、監査法人、主幹事証券への説明も並行して進めます」

 七瀬蒼真が、部屋の隅から言った。

「事業側は止めません。営業も開発もサポートも回します」

 真壁蓮も続けた。

「営業本部は大丈夫です。桐谷さんの案件は全部見直します」

 宮園千晴が言った。

「雨宮主任と通報者の保護も進めます。社内に、通報者を守る姿勢を明確に出します」

 悠真は全員を見た。

 この一週間で、会社の奥から腐臭が上がった。

 だが同時に、会社を守る人間も見えた。

 七瀬蒼真。

 水城莉央。

 真壁蓮。

 宮園千晴。

 大槻沙織。

 神谷玲奈。

 三枝義人。

 雨宮彩乃。

 腐っているのは、会社そのものではない。

 一部の人間が、会社の血管に泥を流していただけだ。

 ならば、泥を抜けばいい。

 血管を洗えばいい。

 必要なら、壊死した部分を切り落とせばいい。

 悠真は、机の上のメールをもう一度見た。

 利益は後で分ける。

 その文字が、すべてを終わらせた。

「不倫なら、離婚で済んだ」

 彼は静かに言った。

「だが、会社の金を流し、社員を黙らせようとしたなら、もう家庭の話ではない」

 会議室に、紙の擦れる音すらなかった。

「報告書を作ってください」

 悠真は続けた。

「会社として、正式に動きます」

 深夜零時。

 ネクストリンク本社の灯りは、まだ消えなかった。

 調査委員会は、報告書の章立てを始めた。

 一、調査の目的。

 二、調査体制。

 三、調査対象期間。

 四、認定された事実。

 五、経費不正。

 六、外注費不正。

 七、資金移動。

 八、内部通報妨害。

 九、関係者の責任。

 十、再発防止策。

 十一、法的措置の提言。

 それは、会社が自分の傷口を記録する作業だった。

 痛みを忘れないため。

 二度と同じ腐敗を許さないため。

 そして、裁くため。

 高瀬悠真は社長室へ戻った。

 机の上には、軽井沢の別荘で撮った一枚の写真が伏せて置かれていた。

 美咲と二人で笑っていた写真。

 昨日までは、見ることができなかった。

 今日、悠真はそれを引き出しにしまった。

 捨てはしない。

 だが、机の上には置かない。

 過去は過去だ。

 会社の未来の邪魔はさせない。

 悠真は、臨時株主総会の準備資料を開いた。

 議案名。

 高瀬美咲取締役解任の件。

 文字は冷たい。

 だが、そこに迷いはなかった。

 金の行き先は、まだ最後まで見えていない。

 だが、進むべき先は見えた。

 報告書。

 株主総会。

 解任。

 損害賠償。

 刑事告訴。

 家庭の修羅場は、とっくに終わっている。

 ここから先は、会社が法で殴り返す番だった。

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Último capítulo

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第38話 明日へ

    あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。

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     六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐

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     沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第35話 鐘が鳴る日

     朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第34話 上場へ

     年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ

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