INICIAR SESIÓN不正調査は、長引かせるほど腐る。
高瀬悠真は、それを知っていた。
だから特別調査委員会の二回目の全体会合で、最初に期限を切った。
「最終報告書は、一か月以内に出してください」
第二会議室の空気が、少しだけ張った。
委員長の三枝義人が、老眼鏡の奥から悠真を見た。
「一か月ですか」
「はい」
悠真は頷いた。
「もちろん、刑事告訴や民事訴訟に向けた追加調査は続くでしょう。ですが、会社として役員解任、懲戒処分、損害賠償請求、株式買い取り、監査法人・金融機関への説明を止めたままにはできません」
水城莉央が資料を閉じた。
「妥当です。上場準備企業として、調査中という状態を何か月も続けるのは危険です」
外部弁護士の桐生麻衣も頷く。
「一か月以内に事実認定の骨格を作る。その後、刑事告訴用の資料を精緻化する。流れとしては自然です」
外部公認会計士の榊原徹が、腕を組んだ。
「では、十営業日以内に中間報告。二十営業日以内に最終報告案。二十五日目までに役員向け説明資料。三十日以内に正式報告書。これでどうでしょう」
「それでお願いします」
三枝義人が静かに言った。
「承知しました。本件は、調査を長引かせて関係者に逃げ道を与える案件ではありません。金の流れを追います」
金の流れ。
それが、今日の核心だった。
不倫写真は入口にすぎなかった。
経費水増しは煙だった。
架空成果物は焦げ跡だった。
火元は、金がどこへ行ったかにある。
ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ。
K-BridgeからRaven Worksへ。
さらに別口座へ。
そして誰の手元へ戻ったのか。
そこを押さえなければ、不正はただの疑惑で終わる。
疑惑は人を騒がせる。
証拠は人を裁く。
特別調査委員会は、三班体制から五班体制へ拡張された。
第一班は経費精査。
村瀬絢、坂井誠、水城莉央。
第二班は外注・契約・稟議調査。
榊原徹、黒須怜司、大槻沙織。
第三班はログ・メール・チャット解析。
成瀬葵、桐生麻衣、矢島明彦。
第四班は関係者ヒアリング。
三枝義人、佐伯真琴、宮園千晴。
第五班は資金移動調査。
榊原徹が兼任し、外部会計士の村瀬絢、経理部の坂井誠、財務担当役員代行の水城莉央が加わった。
調査対象は、過去三年。
ただし、重点期間は直近十八か月。
対象会社は、K-Bridge Consulting、Raven Works、その他関連が疑われる三法人。
対象者は、高瀬美咲、桐谷健吾、西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一。
そこへ、周辺協力者の有無も加える。
会社は、ようやく不正の地図を描き始めていた。
同じ頃、営業本部では真壁蓮が朝礼を開いていた。
桐谷健吾の椅子は撤去されていた。
ただ空席のままにしない。
それだけで、空気は変わる。
「今日から接待費は事前申請です。相手先名、人数、目的、見込案件、予算を必ず書いてください。出張も同じです。日程、訪問先、面談者、成果報告を残す」
営業社員たちは神妙な顔で聞いていた。
面倒だと思っている者もいる。
当然だ。
だが、不思議なことに、反発は少なかった。
むしろ若手からは安堵の声が出始めていた。
久原美緒が資料を配る。
「外注を使う場合は、発注前に成果物定義を作ります。納品後は検収記録を残します。口頭で『やってもらった』は通りません」
相馬大地が続けた。
「値引きも勝手にやらない。桐谷さん時代の案件で、利益率が異常に低いものが見つかっています。取ればいい契約じゃない。残る契約を取りましょう」
真壁蓮は、社員たちを見た。
「前より窮屈に感じるかもしれません。でも、ちゃんとやっている人は困らない仕組みです」
若手営業の一人が小さく言った。
「正直、前よりやりやすいです」
会議室に視線が集まる。
その若手は、少し慌てながらも続けた。
「桐谷本部長の時は、急に会食入れろとか、資料を後で作れとか、数字だけ合わせろとか多かったので。ちゃんとルールがある方が、こっちは説明しやすいです」
真壁蓮は頷いた。
「それでいい。営業は嘘で売る仕事じゃない」
その言葉は、営業本部に静かに刺さった。
桐谷健吾のやり方は、派手だった。
数字は作った。
飲ませ、奢り、誇張し、急がせ、押し切った。
だが、それは営業ではなく、会社の体力を削る興奮剤だった。
興奮剤は一時的に走らせる。
そして、あとで心臓を壊す。
ネクストリンクは、その薬を抜こうとしていた。
午後。
宮園千晴の執務室には、雨宮彩乃がいた。
経理管理課主任だった彼女は、現在、人事・コンプライアンス特命チームに一時移管されている。
降格ではない。
保護措置であり、内部通報制度改善のための実務参加だった。
宮園千晴は、雨宮彩乃に尋ねた。
「新しい通報が三件来ています。確認できますか」
「はい」
雨宮彩乃は端末を開いた。
一件目。
営業部社員から。
桐谷健吾の指示で、実施していない顧客会議の議事メモを作らされたという内容。
二件目。
営業管理部から。
西岡大輔が、接待人数を実態より多く記載するよう求めていたという内容。
三件目。
経理部から。
小田切修が「専務案件は深掘りするな」と複数回発言していたという内容。
雨宮彩乃は、画面を見つめた。
「私だけじゃなかったんですね」
宮園千晴は静かに言った。
「そうです。でも、最初に声を上げた人がいなければ、次の人は出てこなかった」
雨宮彩乃は、少しだけ目を伏せた。
「怖いです。名前が出たら、戻れない気がして」
「戻す必要はありません」
「え?」
「あなたが黙らされる前の会社に戻る必要はない、という意味です」
宮園千晴の声は柔らかかった。
だが、芯があった。
「会社を変えます。あなたが戻るのではなく、会社の方を正常に戻す」
雨宮彩乃は、小さく頷いた。
その頃、第二会議室では、資金移動調査が進んでいた。
榊原徹が大型モニターに図を映す。
ネクストリンク。
K-Bridge Consulting。
Raven Works。
Blue Mark Partners。
個人事業主名義の口座。
法人名義の口座。
矢印が伸びている。
金額が書き込まれている。
日付が並んでいる。
それは会社の血管図だった。
ただし、健康診断ではない。
出血箇所を探す解剖図だ。
「まず、ネクストリンクからK-Bridgeへの支払いは、直近十八か月で四千八百万円。名目は営業戦略コンサルティング、顧客開拓支援、研修設計、提案資料作成支援」
村瀬絢が続ける。
「しかし成果物は薄く、メタデータ上、社内アカウントで作成された可能性がある資料が複数あります」
黒須怜司が言った。
「発注実態がない、または著しく乏しい可能性が高い」
榊原徹は次の図を示した。
「K-BridgeからRaven Worksへ、業務委託費として約二千二百万円。そのうち約千七百万円が、さらに複数の個人または小規模法人へ流れています」
水城莉央が眉を寄せた。
「Raven Worksの代表は?」
村瀬絢が答えた。
「黒川亮介。桐谷健吾の前職時代の同僚です。現在は実態の薄い営業支援会社を名乗っています」
「桐谷との関係は」
「会社メール上では直接のやり取りはまだ少ないです。ただし、桐谷氏の会社貸与端末に、黒川亮介の個人メールアドレスが複数回出ています」
成瀬葵が割り込む。
「削除済みメールの復元で、一部やり取りが出ています。完全復元ではありませんが、断片があります」
モニターにメールが表示された。
⸻
差出人:桐谷健吾
宛先:黒川亮介 件名:今月分黒川、今月もK経由で処理する。
請求書は前回と同じ感じで。 戻し分はいつもの比率で。⸻
会議室の空気が止まった。
戻し分。
その一語が、刃物のように光った。
桐生麻衣が言った。
「キックバックを示唆する表現ですね」
矢島明彦は慎重だった。
「示唆です。断定には、実際の金の戻り、比率、合意、利益の帰属を確認する必要があります」
「もちろんです」
成瀬葵は次の復元メールを表示した。
⸻
差出人:黒川亮介
宛先:桐谷健吾 件名:Re: 今月分了解。
R経由で分ける。 Kには残しすぎないようにする。⸻
榊原徹が、低い声で言った。
「Kに残しすぎない。資金を迂回させる意図が見えますね」
黒須怜司が頷く。
「会計調査としては、かなり危ない領域です」
水城莉央は、机の上で指を組んだ。
「この段階で、金融機関にはどこまで説明しますか」
大槻沙織が答えた。
「現時点では、社内調査中の不適切支出疑義があること、事業継続体制は整っていること、最終報告書を一か月以内に作成予定であること。詳細金額や個人名は必要最小限に留めます」
佐伯真琴が言った。
「外に出す言葉を間違えると、会社全体が疑われます。あくまで一部役職者の不正疑義であり、会社は自浄作用を働かせている。その線を守るべきです」
三枝義人は頷いた。
「その通りです」
同じ日の夕方。
高瀬美咲への三回目のヒアリングが行われた。
出席者は、大槻沙織、桐生麻衣、三枝義人。
記録担当は神谷玲奈。
美咲は、明らかに疲れていた。
化粧で隠してはいるが、目の下に影がある。
それでも、姿勢は崩さない。
専務取締役としての最後の鎧を、必死に着ているようだった。
大槻沙織が資料を置く。
「K-Bridge Consultingへの発注について確認します」
「前にも話したはずです。営業戦略上、必要な外注でした」
「では、この八百万円の案件について。成果物はA4三枚です。内容は一般論で、具体的な顧客分析や施策設計はありません。これを八百万円相当と判断した理由は何ですか」
「営業本部から、必要だと説明を受けました」
「営業本部とは、桐谷健吾氏ですか」
「……はい」
「あなた自身は成果物を確認しましたか」
「確認しました」
「確認して、十分だと?」
美咲は一瞬黙った。
「当時は、そう判断しました」
桐生麻衣が静かに言った。
「当時は?」
「今見れば、不十分だったかもしれません。でも、その時は桐谷さんを信頼していました」
大槻沙織は、次の資料を出した。
「この成果物ファイルの作成者情報は、桐谷健吾氏の社内アカウントです。外注先が作成した形跡は確認できていません」
美咲の指先が動いた。
「それは、桐谷さんが編集したのでは」
「外注先から受領したメールも、納品記録も、ファイル転送履歴も確認できていません」
「私はそこまでは」
「専務取締役として八百万円の支払いを承認しています」
美咲は唇を噛んだ。
「全部私の責任にするつもりですか」
三枝義人が初めて口を開いた。
「責任の所在を確認する場です。誰か一人に押し付ける場ではありません」
「だったら桐谷さんに聞いてください」
「聞きます」
その言葉に、美咲は黙った。
大槻沙織は、さらに資料を差し出した。
「こちらは、桐谷氏と黒川亮介氏の復元メールです。K-Bridge、Raven Works、戻し分という表現が出ています。あなたは、この資金の流れを知っていましたか」
「知りません」
即答だった。
「K-BridgeからRaven Worksへ資金が移っていたことも?」
「知りません」
「K-Bridgeの代表者と桐谷氏の関係は?」
「知りません」
「Raven Worksの代表者と桐谷氏の関係は?」
「知りません」
大槻沙織は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、何を知っていたのですか」
美咲は答えられなかった。
その沈黙は、知らなかったことの証明にはならない。
知ろうとしなかったことの証拠にはなる。
夜。
桐谷健吾のヒアリングが行われた。
彼は弁護士を連れてきた。
会社側も、矢島明彦と桐生麻衣が同席した。
桐谷は、以前のような余裕を失っていた。
それでも、態度だけは大きかった。
「営業の現場では、この程度の外注は普通です」
榊原徹が、資料から顔を上げた。
「普通ではありません」
桐谷の眉が動いた。
「あなたは営業を知らないでしょう」
「私は会計を知っています」
榊原徹は淡々と言った。
「八百万円の外注費に対して、A4三枚の一般論。納品記録なし。外部送受信履歴なし。作成者はあなたの社内アカウント。これを普通とは言いません」
桐谷は鼻で笑った。
「成果は数字に出ています。売上は伸びていた」
黒須怜司が切り込む。
「利益率は落ちています」
「成長フェーズでは当然です」
水城莉央が冷たく言った。
「営業本部の一部案件では、利益率が社内基準を大きく下回っています。さらに、K-Bridge関連費用を差し引くと赤字の案件もあります」
「投資です」
「誰への投資ですか」
桐谷は黙った。
矢島明彦が、復元メールを出した。
「戻し分、という表現について説明してください」
桐谷の顔色が、わずかに変わった。
「記憶にありません」
「あなたの会社アカウントから送信されています」
「文脈がわからない」
「では、K経由で処理する、という表現は?」
「業務上の略称でしょう」
「R経由で分ける、は?」
「相手の言葉なので知りません」
桐生麻衣が静かに言った。
「桐谷さん。現時点では社内調査です。しかし、資金還流の疑いが強まれば、会社として刑事告訴を検討することになります」
桐谷の弁護士がすぐに口を挟む。
「そのような威圧的な発言は控えていただきたい」
桐生麻衣は表情を変えなかった。
「威圧ではありません。手続き上の説明です」
桐谷は、初めて目を逸らした。
その夜遅く。
第二会議室に、成瀬葵が駆け込んできた。
普段は冷静な彼女の顔に、珍しく緊張が浮かんでいた。
「削除済みメールの復元で、重要なものが出ました」
三枝義人、水城莉央、大槻沙織、矢島明彦、桐生麻衣、榊原徹、村瀬絢が集まる。
成瀬葵はモニターにメールを表示した。
⸻
差出人:桐谷健吾
宛先:高瀬美咲 件名:Kの件今月もK通しておく。
金額は少し大きいが、Rへ流せば目立たない。 利益は後で分ける。 西岡と山城にはいつも通りやらせる。⸻
誰もすぐには喋らなかった。
利益は後で分ける。
その一文は、部屋の温度を奪った。
成瀬葵は、さらに返信を表示した。
⸻
差出人:高瀬美咲
宛先:桐谷健吾 件名:Re: Kの件金額が大きいから注意して。
小田切にはこちらから言っておく。 雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。⸻
神谷玲奈が、息を止めた。
雨宮さんが細かく見ている。
経理側は黙らせて。
それは、単なる承認ミスではなかった。
知らなかった、では通らない。
少なくとも、このメールが真正なら、高瀬美咲は異常を認識していた。
そして、内部で疑問を持った社員を黙らせようとしていた。
大槻沙織が成瀬葵を見る。
「真正性は」
「保全済みメールボックスから復元しました。メッセージID、送受信時刻、サーバーログ、バックアップログが一致しています。改ざんの痕跡は現時点ではありません」
矢島明彦が言った。
「原本性の確認をさらに進めてください。これは決定打になり得ます」
桐生麻衣の声は低かった。
「内部通報妨害、資金還流の認識、利益分配の示唆。民事だけで終わる内容ではありません」
榊原徹が頷く。
「特別背任の可能性も視野に入ります。高瀬美咲氏は取締役です。会社に損害を与え、自己または第三者の利益を図った疑いがあるなら、かなり重い」
三枝義人は目を閉じた。
しばらくして、静かに言った。
「高瀬社長を呼んでください」
午後十一時四十分。
高瀬悠真は、第二会議室に入った。
そこには、調査委員会の主要メンバーが揃っていた。
疲労の色はある。
だが、誰も席を立とうとはしない。
三枝義人が、復元メールを差し出した。
「社長。重要な証拠が見つかりました」
悠真は紙を受け取った。
一枚目。
桐谷から美咲。
今月もK通しておく。
Rへ流せば目立たない。
利益は後で分ける。
二枚目。
美咲から桐谷。
金額が大きいから注意して。
小田切にはこちらから言っておく。
雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。
悠真は、長い間その紙を見ていた。
不思議と、手は震えなかった。
心も揺れなかった。
ただ、何かが完全に閉じた。
夫婦だった時間。
信じていた記憶。
軽井沢の別荘で笑っていた写真。
深夜の事務所で食べたコンビニ弁当。
全部が、遠い国の話になった。
美咲は、ただ裏切ったのではない。
会社を食った。
社員を黙らせようとした。
雨宮彩乃を潰そうとした。
そこに、もう情けを差し込む隙間はなかった。
「真正性は」
悠真が聞いた。
成瀬葵が答えた。
「サーバーログとバックアップで確認中です。現時点では一致しています」
「資金の流れは」
榊原徹が答える。
「ネクストリンクからK-Bridgeへ四千八百万円。K-BridgeからRaven Worksへ約二千二百万円。そこから約千七百万円分について、不自然な再移転があります。最終着金先の完全特定には、弁護士照会や捜査機関の協力が必要になる可能性があります」
「つまり、刑事告訴を視野に入れる段階ですね」
矢島明彦が頷いた。
「はい。ただし、告訴状を出す前に、報告書として事実関係を整理すべきです」
桐生麻衣も言った。
「一か月以内の報告書作成方針は正しいです。遅すぎると証拠隠滅や関係者間の口裏合わせが進みます。早すぎても事実認定が甘くなる。今の進行なら、二十五日程度で十分な骨格が作れます」
三枝義人が静かに言った。
「社長。臨時株主総会の準備を始めるべきです」
会議室の誰も驚かなかった。
その言葉は、もう避けられない場所まで来ていた。
高瀬美咲は取締役だ。
取締役の地位を解くには、株主総会が必要になる。
悠真は議決権の七十八%を持っている。
可決は可能だ。
だが、だからこそ雑にはできない。
調査報告書。
取締役会決議。
株主総会招集通知。
解任議案。
損害賠償請求方針。
株主間契約に基づく株式買い取り請求。
その全てを、順に積む。
「始めます」
悠真は言った。
声は静かだった。
その静けさが、決定だった。
「最終報告書は一か月以内。中間報告は十営業日以内。報告書案が出た段階で、臨時取締役会を開く。その後、臨時株主総会の招集手続きに入ります」
水城莉央が頷く。
「銀行、監査法人、主幹事証券への説明も並行して進めます」
七瀬蒼真が、部屋の隅から言った。
「事業側は止めません。営業も開発もサポートも回します」
真壁蓮も続けた。
「営業本部は大丈夫です。桐谷さんの案件は全部見直します」
宮園千晴が言った。
「雨宮主任と通報者の保護も進めます。社内に、通報者を守る姿勢を明確に出します」
悠真は全員を見た。
この一週間で、会社の奥から腐臭が上がった。
だが同時に、会社を守る人間も見えた。
七瀬蒼真。
水城莉央。
真壁蓮。
宮園千晴。
大槻沙織。
神谷玲奈。
三枝義人。
雨宮彩乃。
腐っているのは、会社そのものではない。
一部の人間が、会社の血管に泥を流していただけだ。
ならば、泥を抜けばいい。
血管を洗えばいい。
必要なら、壊死した部分を切り落とせばいい。
悠真は、机の上のメールをもう一度見た。
利益は後で分ける。
その文字が、すべてを終わらせた。
「不倫なら、離婚で済んだ」
彼は静かに言った。
「だが、会社の金を流し、社員を黙らせようとしたなら、もう家庭の話ではない」
会議室に、紙の擦れる音すらなかった。
「報告書を作ってください」
悠真は続けた。
「会社として、正式に動きます」
深夜零時。
ネクストリンク本社の灯りは、まだ消えなかった。
調査委員会は、報告書の章立てを始めた。
一、調査の目的。
二、調査体制。
三、調査対象期間。
四、認定された事実。
五、経費不正。
六、外注費不正。
七、資金移動。
八、内部通報妨害。
九、関係者の責任。
十、再発防止策。
十一、法的措置の提言。
それは、会社が自分の傷口を記録する作業だった。
痛みを忘れないため。
二度と同じ腐敗を許さないため。
そして、裁くため。
高瀬悠真は社長室へ戻った。
机の上には、軽井沢の別荘で撮った一枚の写真が伏せて置かれていた。
美咲と二人で笑っていた写真。
昨日までは、見ることができなかった。
今日、悠真はそれを引き出しにしまった。
捨てはしない。
だが、机の上には置かない。
過去は過去だ。
会社の未来の邪魔はさせない。
悠真は、臨時株主総会の準備資料を開いた。
議案名。
高瀬美咲取締役解任の件。
文字は冷たい。
だが、そこに迷いはなかった。
金の行き先は、まだ最後まで見えていない。
だが、進むべき先は見えた。
報告書。
株主総会。
解任。
損害賠償。
刑事告訴。
家庭の修羅場は、とっくに終わっている。
ここから先は、会社が法で殴り返す番だった。
あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。
六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐
結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ
沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、
朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。
年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ







