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第2話

Auteur: 知念夕顔
朝。

承平が階下に降りてきたとき、郁梨はすでに朝食を作り終えていた。

彼はいつも、彼女の作るごはんが好きだった。だが今日は、いつものように食卓に座ることなく、立ったまま言葉を発した。

「郁梨。周防が、午後に離婚協議書を持ってくる」

箸を持っていた郁梨の手が、じわりと力を込めて握られる。彼女はゆっくりと顔を上げ、澄んだ目で彼を見つめながら、静かに口を開いた。「離婚するの?清香が戻ってきたから?」

承平は二秒ほど黙ってから、低く言い放った。「郁梨、忘れたのか?結婚契約にはっきり書いてある。俺はいつでも、この関係を終わらせられる」

そう。確かにそれは、紛れもない事実だった。

最初から、二人の間には取り決めがあった。

ただこの三年という歳月が、彼が自分を愛していないという現実を、郁梨に忘れさせていただけなのだ。

郁梨の鼻の奥がツンと痛んだ。けれど、彼女の顔には一切の動揺が現れなかった。

「承平、本当に離婚するつもりなの?後悔しない?」

「ああ」

彼の返事はあまりにもあっさりしていて、そこに迷いの色は一切なかった。

郁梨は静かに頷いた。「わかった。あなたの望み、叶えてあげる」

彼女は承平を、本気で愛していた。けれど、彼の心には最初から清香しかいなかった。どれだけ尽くしても、どれだけ想っても、辿り着くのは変わらぬ結末――離婚。ならば、しがみついたところで鬱陶しがられるだけだ。

承平の視線が郁梨に注がれた。しばらくそのまま、そして、ゆっくりと逸らされた。

彼は思っていたのだ。彼女が、もっと取り乱して騒ぐものだと。

だが、彼女が、ここまで冷静でいられるとは、思ってもみなかった。

そのことが妙に胸に引っかかって、承平の中に、理由のわからない苛立ちがじわりと湧き上がった。

彼はネクタイを無造作に引き、くるりと背を向けて部屋を出ていった。

——

ダイニングには、郁梨ひとりが残された。

彼女は食卓の前にじっと座ったまま、微動だにしなかった。やがて、承平のアシスタントが予定通り姿を現した。

「奥様。こちらが、社長との離婚協議書です。ご確認ください」

周防隆浩(すおう たかひろ)は、テーブルの上に残された手つかずの朝食と、郁梨のやや青ざめた表情を目にし、心の中で小さくため息をついた。だが、それでも彼にできることは何もなかった。

郁梨は小さく「ええ」とだけ返事をし、協議書を手に取ると、そのまま最後のページを開いた。

ペンを握る手がわずかに震える。それでも彼女は、自分の名前をサインした。

隆浩は書類を丁寧に回収すると、もう一つの封筒を郁梨の前に差し出した。その書類のいちばん上には、一枚のキャッシュカードが静かに置かれていた。

「奥様、このカードには6億円が入っています。社長からの伝言で、この別荘も奥様にお譲りするとのことです」

6億円――それは、結婚前に承平が郁梨に約束した報酬だった。だが、この家に関しては……

郁梨はゆっくりと視線を巡らせた。この場所には、彼と過ごした日々の記憶が、細部にまで染み込んでいた。そんな空間に、離婚したあとも住み続けるなんて、とても耐えられそうになかった。

「家はいらない。彼にあげるわ」

「……奥様。社長がお渡しになると決めた以上、私にはお引き取りいただく権限がありません」隆浩はひと息置き、一言をこぼした。「奥様、これは奥様が受け取るべきものです。もしお気に召さなければ、売却されても構いません」

郁梨は結局、家を受け入れた。たしかに、隆浩の言うとおりだった。彼はあくまでも承平のアシスタントにすぎず、決定権はない。たった一軒の家で、折原グループの当主にわざわざ連絡を入れるようなことではない。

——

郁梨は思っていた。これで、承平との関係はすべて終わったのだと。次に顔を合わせるのは、離婚届にサインをしに行くその日くらいだろう、と。だが、その日の夕方、彼女は承平からの電話を受けたのだった。

ちょうどそのとき、郁梨はスーツケースを詰めていた。しばらく旅に出て、家で塞ぎ込む時間を減らそうとしていたのだ。

スマートフォンの画面に「承平」の名前が表示された瞬間、郁梨の心臓がぎゅっと縮こまる。

「郁梨……お前のことを、甘く見ていたらしい」

電話越しに届いたのは、皮肉混じりの声。郁梨には、何のことかわからなかった。自分が何かしたというのか?わざわざ電話をかけてくるほどのことを?

「承平……何の話?」

「おばあさんが、お前を連れて本家で食事しろって言ってるんだ。知らないふりをするな!」

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