登入「新井グループの取締役会は、蓮司をトップから引きずり下ろす方向で動いているらしい。しかも内部では、それが新井のおじ様の意向だという話まで出ている」それを聞いた雅人は、すぐに眉を寄せた。あり得ないと思った。海外プロジェクトで一つトラブルが起きたからといって、それだけでトップの首をすげ替えるというのか。しかも、相手はただの役員ではない。グループ全体の意思決定を担う実質的なトップだ。今回の件だけを理由にするには、あまりにも無理がある。それとも、新井グループ内部ではもともと蓮司を引きずり下ろす動きがあり、今回のトラブルをただの口実にしているだけなのか。「新井のお爺様の意向ということは、本人が今回のトラブルを知ったうえで、新井を降ろせと命じているという意味か?」雅人は祥平を見た。「だが、新井のお爺様は重病で病室に寝たきりだろう。口もきけない状態のはずだ。どうやってそんな指示を出したんだ」祥平は説明した。「以前、新井のおじ様が倒れる前に出していた命令だそうだ。新井が重大な過失を犯した場合は、トップの座をすげ替えるという内容らしい」「なら、その命令は今この状況には適用できない。今回のトラブルは『重大な過失』には当たらない」雅人はそう言い、そこで一秒ほど言葉を切った。「新井グループの内部がこれを口実に新井を排除したいとして、代わりに誰をあの席に座らせるつもりなんだ。博明と、あの隠し子か」あの二人のうち、一方は平凡で無能、もう一方は目立った実績すらない。そんな二人が表舞台に出てくれば、今回の交代劇は自分たちが仕組んだクーデターだと世間に宣言しているようなものだ。世間の人間も、取締役たちも、そこまで鈍くはない。「取締役会はもう開かれたのか?全会一致で決めたとでもいうのか?」雅人は続けて尋ねた。「あの連中は、博明親子の無能さを本当に分かっていないのか。それとも裏で買収でもされたのか」あの二人がトップに立てば、新井グループは確実に傾く。最終的に割を食うのは、取締役たち自身の利益のはずだ。「新井グループ内部の詳しいことまでは、こちらも分からない。今言ったのは、あくまで耳に入ってきた話だ」祥平はそう言った。雅人は小さく頷いた。「心配する必要はない。結局のところ、新井のお爺様はまだ生きている。最終的な決定権は彼の手にある
蓮司は低い声で現状を告げた。「俺のほうでも、ハッカーに録音を解析させている。合成音声かどうかを調べているところだ。だが、これはかなり難易度が高い。決定的な証拠を掴むのは難しいし、仮に何か見つかったとしても、法廷で証拠として認められる可能性は低い。高橋はもう気にしなくていい。会社のことは俺が片づける。お前はお爺様のそばについて、しっかり様子を見ていてくれ」執事は無言で頷いた。蓮司には、義人という強力な味方もついている。決して独力で頑張っているわけではないのだ。蓮司は背を向け、自身の病室へ戻ろうとした。二歩ほど歩み出したところで、執事がその背中に声をかけた。「若旦那様。もし、どうしても行き詰まるようなことがございましたら、わたくしにお申し付けください。橘家のほうへ伺い、お力添えをお願いしてまいります」「必要ない。何も解決できないことはない」蓮司は振り返らずに一蹴した。よほどの事態に陥らない限り、蓮司は橘家に借りを作りたくなかった。それに、今回の件は自力で十分に片づけられる。取締役たちが聞いたというあの通話が、仮に本物だったとしても、彼らは今すぐ蓮司を失脚させるつもりはない。今回はあくまで警告を入れてきただけだ。もちろん、蓮司は今でもあの通話は偽造されたものだと疑っている。もし本当に新井のお爺さんが倒れる前にそんな指示を出していたのなら、なぜ会社の法務部へ直接連絡し、正式な手続きを踏ませなかったのか。まさか、蓮司がすでに社内を掌握しており、法務部が公証したところで握り潰されるとでも恐れたというのか。もしそうなら、新井のお爺さんは蓮司を警戒していたことになる。だが、そんなことはあり得ない。蓮司の瞳には、揺るぎない決意と、冷酷な光が宿っていた。この件は必ず最後まで洗い出す。もし博明と悠斗の仕業だと判明すれば、あいつらには残りの人生をそっくり塀の中で過ごさせてやる。……一方、橘家の邸宅では。新井グループで起きている騒動は、この二日ほどで瞬く間に界隈へ広まっていた。当然、祥平の耳にも入っている。雅人はこの日、ようやく仕事を終えて帰宅したところだった。祥平はすぐさま彼を書斎へ呼び出し、この話題を切り出した。「知っている。父さんがわざわざ僕に話すということは、あちらに手を貸せという意味か?」雅人が尋
「お爺様、今日の具合はどうだ?どこか苦しいところはないか?」蓮司は病床のそばの椅子に腰を下ろし、声を落として尋ねた。新井のお爺さんはまばたき一つせず、ただ蓮司をじっと見据えている。視線がぶつかったまま、濁りを帯びた老いた瞳が、蓮司を逃がさないように捉えて離さない。何もかも見透かされているような気がして、蓮司の胸に拭い去れない後ろめたさが広がる。だからこそ、蓮司は口元の笑みをさらに深くした。できるだけ明るく、何事もないように努めて続ける。「医師が、明日から本格的にリハビリを始められると言っていた。明日も晴れるそうだ。高橋に車椅子を押させて、外で少し気分転換でもしよう……」蓮司は一人で話し続けた。声は穏やかで、わざと軽い。だが、相手は新井のお爺さんである。老いて体が動かなくなったからといって、頭まで鈍ったわけではない。蓮司が明らかに話題を逸らしていることくらい、見抜けないはずがなかった。蓮司をここまで疲れさせる悩みが、透子に関わることだとは考えにくい。透子のことなら、蓮司は疲労を見せるより先に、傷つき悲しむはずだ。今日は会社にも行っている。ならば十中八九、会社で何か起きたのだ。新井のお爺さんは胸の内でそう結論づけ、目つきをさらに鋭くした。会社でいったい何が起きた。博明が裏で手を回し、蓮司の悪い噂でもまた掘り返したのか。そうでもなければ、あの愚かで凡庸な息子に、蓮司の足を引っ張れるような手があるとは思えない。商売に関して言えば、博明は体ばかり大きくて頭の回らない男だ。また世間を巻き込むような騒ぎでも起きたのか。だが、会社の広報部も飾りではない。これまで何度か起きた炎上騒ぎも、結局はすべて収めてきた。なぜ今回は、まだ片づいていないように見えるのか。新井のお爺さんはそう思考を巡らせながら、口が利けないぶん、厳しい目で蓮司を見据え続けた。その老練な視線には、探りを入れるような、無言で問い詰めるような強い圧がある。蓮司は話しているうちに、無意識に目線をわずかに逸らしてしまった。病に伏して衰えていても、会長は会長だ。かつて一族を統べた者の威厳は、いまだ消えていない。新井のお爺さんにそう見つめられると、蓮司の体は反射的に強張った。膝の上に置いた両手も、いつの間にか固く握りしめられている。平静を装い、何とか病室に十
執事としては筋の通った推測をしたつもりだった。だが返ってきたのは、新井のお爺さんの何とも言えない、呆れた視線だけだった。――寝返りを打ちたいわけでも、用を足したいわけでもない。新井のお爺さんは胸の内で呻いた。こんな日々は、いったいいつまで続くのだ。まさかこの先何年も、このまままともに戻らないなどということはないだろうな。晩年になって、これほど惨めな姿になるとは思わなかった。病床に横たわり、尊厳も、自分の意思で動く自由も、何もかも奪われている。考えれば考えるほど、やりきれなかった。新井のお爺さんは、いっそ目を閉じた。いずれ海外から、まばたきで意思を伝えられる機器を取り寄せさせよう。少なくとも、今のように何一つ伝わらない状況よりはずっとましなはずだ。その傍らで、執事は椅子に腰を下ろし、病床のそばに控えていた。新井のお爺さんが用を足したくないのなら、しばらく待てばいい。ただ、新井のお爺さんが本当は何を伝えようとしていたのか、執事には分からなかった。分からないものは仕方がない。しかも、執事の頭の中には別の懸念が残っている。執事はそのまま、意識をそちらへ向けた。新井のお爺さんが亀裂骨折で入院した時、自分は世話をするためにずっと付き添っていた。では、新井のお爺さんはいったいいつ、あの取締役たちへ電話をかけたのだろうか。そこまで考え、執事は大輔にメッセージを送って確認した。大輔から返信が届き、執事は示された時刻を見た。通話は夕方に集中していた。執事はスマホのメモを開き、以前つけていた自分の行動記録を確認した。ちょうどその日、その時間帯、執事は蓮司のいる病院へ向かっていた。さらに、大輔が送ってきた通話記録のスクリーンショットを見ると、すべての通話時刻が、執事がそばを離れていた時間帯にきれいに収まっていた。つまり新井のお爺さんは、自分を避けて電話をかけていたのだ。そこまで考えたところで、執事は顔を上げた。眉をひそめ、病床で目を閉じている新井のお爺さんを見やる。本来なら、あり得ない。新井のお爺さんが自分に何かを隠すはずがない。だが、もしも……蓮司を会社に残すかどうかに関わる重大な話だからこそ、新井のお爺さんは自分を信用しなかったのかもしれない。自分が知れば、事前に蓮司へ知らせると警戒したのだろうか。そう思うと、
「それに、有力取締役たちは、まだ社長に一度だけ猶予を与えるつもりでいます。今回の海外プロジェクトの件だけで、社長に完全な引導を渡したわけではありません。この騒ぎを無事に乗り切れれば、あの口頭指示の件も、取締役たちは蒸し返さないはずです」つまり、録音の真偽を証明するのは後回しでいい。今はまず、会社側の問題を片づけるべきなのだ。大輔が以前口にした、取締役たちは社長の味方ではないという話は、あくまであの録音に対してのものだった。蓮司が今回の危機をきちんと収めれば、録音などそもそも問題にならない。執事は大輔の説明を聞き、取締役会が今すぐ蓮司を降ろそうとしているわけではなく、警告を入れてきただけなのだと理解した。とはいえ、新井のお爺さんの通話記録と録音は、やはり片づけておかなければならない。放っておけば、いつ爆発するか分からない時限爆弾になる。通話を終えると、執事は大輔から録音データが送られてくるのを待った。十分ほどしてファイルが届き、執事はイヤホンを取り出して再生した。録音の中から聞こえてきたのは、たしかに新井のお爺さんの声だった。話し方も口ぶりも、普段の新井のお爺さんそのものだ。取締役たちが疑いもしなかったのも無理はない。新井のお爺さんに何十年も仕えてきた執事でさえ、どこにも綻びを見つけられないほどだった。執事は深く眉を寄せた。まずは録音ファイルを専門家に回し、鑑定させるしかない。それでも真偽が分からなければ、その時は新井のお爺さんご本人に直接確認するしかない。今の蓮司は、会社の状況を新井のお爺さんに知らせて心配をかけたくないのだろう。ならば執事も、ひとまずこの件は伏せておくべきだ。執事が病室へ戻ると、ちょうど医師が新井のお爺さんへの注射を終えたところだった。入口の足音に気づき、医師が顔を上げた。手にしていた注射器をワゴンに置こうとしたその瞬間、手元が狂い、注射器が床に落ちた。医師はすぐに腰をかがめて拾い上げた。一瞬瞳の奥によぎった後ろめたさと動揺を、その動作で誤魔化すように。そして何事もなかったかのように、ワゴンを押して出て行こうとした。「お待ちください」不意に執事の声がかかり、ワゴンの取っ手を握る医師の指がこわばった。執事は静かに尋ねた。「今回の薬も、これまでと同じ量ですか。それとも少し減らしましたか?」
「その口頭での指示は、要するに新井グループの未来を託すという意味合いでした。一族ではなく、あくまでグループの利益を最優先に考えた内容です。もっとも本物らしく聞こえるのは、『必要とあれば社長を解任し、取締役会が意思決定権を握ってもかまわない』と言っていた点です。悠斗様や博明様を後任に据えろとは、ひと言も口にしていません。発言のすべてが、会社を第一に考えた視点に立ったものでした。グループの長期的な発展を考えていて、新井家という一族の私益には一切触れていない。今申し上げた内容は、すべて録音が残っています。だからこそ、取締役たちも完全に信じ込んだんです」大輔の説明を聞き終え、執事はその場で言葉を失った。客観的に見れば、新井のお爺さんのその言葉はたしかに筋が通っている。会社の立場から考えれば合理的で、しかも悠斗や博明を後継者として指名していない。だからこそ、彼らが仕組んだという疑いを巧妙にそらす形にもなっていた。だが――「それでも、旦那様がそのようなことをおっしゃったとは信じられません。その録音データはあるのですか。こちらにも送ってください。専門家に鑑定させます」執事はきっぱりと言った。「まだ手元にはありません。社長に確認して、有力取締役側から入手できないか聞いてみます。もちろん、いちばん早くて確実なのは、会長様ご本人に直接確認することです。いまのご容体はどうですか?」「旦那様はまだお声を出せません。まぶたを動かすのがやっとです」それを聞いた大輔の声に、深い憂いがにじんだ。「それで社長は、すぐに会長様へ確認を取らなかったのですね。聞いたところで、詳しい事情を聞き出すことは不可能だと分かっていたから」「確認が取れない状態だからこそ、博明様たちが先に手を打ったという可能性はないのか?」「ですが、問題の電話があったのは、会長様が倒れられる前です。その時点で、あとから倒れて意思表示ができなくなることまで正確に予測するのは不可能です。『あとから倒れること』を前提にした罠だと考えるには、少し飛躍しすぎています」執事は黙り込んだ。しかし、すぐに別の疑問を口にした。「当時、旦那様が本当に取締役たちに電話をしていたというのなら、なぜ今になってそれを持ち出した?それまで一切話が出なかったのはおかしいだろう」「録音の最後に、こうい
警官は言った。「素直に話してください。君たちはただ尾行して報告していただけで、直接的な危害は加えていません。自白すれば情状酌量の余地もあります」手錠の音がカチャリと鳴り、動かぬ証拠を突きつけられた二人は、もはや言い逃れもできず、すべてを白状した。裏で糸を引いていた雇い主が誰か、報酬はいくらか、毎日何を要求されていたか、そしてやり取りしたファイルや資料に至るまで、洗いざらい話した。別の警官が聴取内容を記録し、一つの結論に至った――これは、異常な支配欲を持つ変質者が、監視対象の一挙手一投足を常に把握しようとした事件だと。警官は透子に尋ねた。「如月さん、あなたと、その新井
会場に入って十分ほどが経つ。ざっと見渡した翼の顔には、失望の色が浮かんでいる。美しく、純粋で、なおかつ知的な女性を口説き落とそうなどと、今夜は場違いだったかもしれない。こういうとき、ありふれた女の良さを思い出す。少なくとも単純で扱いやすく、金さえ積めばいいのだから。最上階で風にでも当たろうかと、三々五々集まっている人々のそばを通り過ぎたとき、彼女たちの会話が耳に入った。「ねえ、今夜来てる御曹司たち、いまいちじゃない?新井グループの新井社長も柚木グループの柚木社長も来てないし」「あの二人は大物だから、自由恋愛じゃなくて政略結婚が優先されるのよ、きっと」「でも新井社長は政略
「蔵にでも入れておけ」彼は確かに骨董品を好み、ここ二年ほどは特に翡翠を愛でているが、我を忘れるほどではない。そして、執事の言う通り、悠斗は彼の好みをしっかりと調べ上げてきた。だが、彼は長年海外にいたのだ。これはきっと綾子か博明が「入れ知恵」したのだろう。「お前はあいつをどう見た?」新井のお爺さんが口を開いて尋ねる。執事は当然「あいつ」が誰を指すか分かっており、こう答える。「恭しく謙虚で、年長者を敬い、礼儀正しく、言葉遣いも洗練されております。総じて、完璧で、非の打ち所がございません」新井のお爺さんは頷いた。執事の言葉は、彼が心に思ったことそのものだった。執事
新井のお爺さんが見込もうが、隠し子が権力争いをしようが、蓮司があの会社の跡継ぎの座を保てるかどうか……そんなことはもう、自分には関係ない。自分はただの部外者として、すべてを傍観するだけだ。電話が終わり、場面は柚木家へ。理恵が兄にこの件を話すと、聡は眉を上げる。普段、自分に対してお世辞を並べ、従順な態度しか見せない女が、これほど素早く、そして正面から蓮司に立ち向かうとは。透子には、聡がこれまで見たことのない芯の強さと気骨がある。一体いつになれば、彼女は自分にその一面を見せてくれるのだろうか。作り笑いを浮かべる透子と向き合うのはもうごめんだ。二人の間には、まるで永遠に破れな