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第4話

作者: 桜夏
家に戻ったのは、夜の十一時を過ぎたころだった。

リビングの灯りは、最初からつけていなかった。

どうせ今夜も、蓮司は美月とどこかで甘い夜を過ごしているのだろう。

戻ってくるわけがない。

薬箱を手に取り、痛む身体を引きずるようにして、透子は自分の小さな寝室へと向かった。

――結婚して二年。

けれど実際は、まるで「形だけの婚姻」だった。

蓮司は、自分の「本命」を想い続けるため、透子には一度も触れなかった。

主寝室にすら、足を踏み入れさせてくれなかった。

でも、それでよかった。

今となっては、もし彼に触れられていたなら……想像するだけで、吐き気すら覚える。

手足の傷に簡単な消毒と薬を塗るだけで、もう限界だった。

薬箱を片付ける気力もなく、ベッドサイドにぽんと置いたまま横になる。

寝間着に着替え、そっと腰を下ろす。

その瞬間、尾てい骨に鋭い痛みが走り、思わず息を飲む。

できるだけゆっくりと体を横たえ、目を閉じた。

すべてをシャットアウトしようとするように――

間もなく、意識が眠りに沈んでいった。

一方その頃――

蓮司は、美月をホテルまで送り届けていた。

「蓮司、部屋まで……送ってくれる?」

助手席で、美月は潤んだ瞳を上目遣いに、甘く囁く。

けれど蓮司の視線は、運転しながらちらちらとカーナビに映る発信履歴を見ていた。

なぜだか、妙にイライラして、心がざわつく。

これは――二十件目の不在着信。

それでも透子は、一度も電話に出ていない。

その様子を見ていた美月は、車載画面に映る番号に目を留める。

名前は登録されていないが、どこかで見覚えのある番号だった。

スマホを取り出し、自分のメッセージ履歴を確認する。

――透子に送ったメッセージ。番号は……一致していた。

唇を噛みしめ、視線に嫉妬の色が滲む。

ホテルに到着し、車が止まる。

「ねえ蓮司……二年ぶりに会ったんだし、部屋まで一緒に……ね?」

そう言いながら、美月はそっと彼の手の上に手を重ねた。

指先が、シャツの袖口に滑り込む。

それは――明確な誘いだった。

蓮司にその意図が分からないはずがない。

けれど、彼はその手を静かに外し、無言で車を降りる。

助手席側のドアを開けて、彼女を迎えると、低い声で言った。

「……先に上がって。透子に連絡がつかないから、様子を見てくる」

美月は立ち上がり、正面から彼を見つめる。

唇を噛みしめ、悲しげな顔で言葉を投げた。

「……ねえ蓮司、私に隠してることある?

もしかして……透子のこと、好きになったの?

私が足を見せてたときだって、ずっと彼女に電話してたじゃない」

その問いに、蓮司は即座に首を振る。

「あり得ない。あいつは……お前を何度も傷つけた女だ。

愛するわけない」

その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。

そして続ける。

「ただ、あいつがじいさんにチクったら面倒だから、それを防ぎたいだけだ」

そう言えば、理屈は通ると思った。

それが「正しい説明」だと信じ込もうとするように。

美月は、その言葉に満足げに微笑んだ。

――やっぱり、彼の心はまだ自分のもの。

「じゃあ……信じさせてよ、蓮司」

そう囁きながら、彼の唇にそっと指を伸ばす。

「キスして?」

蓮司は、美月の顔をじっと見つめた。

美月はすでに彼の首に腕を回し、今にもフレンチキスを仕掛けようとしていた。

――けれど、蓮司が彼女の唇に落としたのは、ただの額への軽いキス。

まるで蜻蛉が水面をかすめるような、淡い接触。

美月はそのキスに不満げだった。

自ら顔を近づけ、唇を求めようとする。

けれど――蓮司はそれをすっと避けた。

「蓮司……なにそれ……?」

瞳には再び涙がにじむ。

「やっぱり、もう私のこと愛してないの?

あのとき私が蓮司を置いていったこと、まだ恨んでるの?

でも、あれは私のせいじゃなかった……おじいさまが――」

切なげに弁明しようとする美月の言葉を、蓮司は途中で遮った。

「違う。考えすぎだ……ここはホテルの前だ。

外でそんなことして、もしパパラッチにでも撮られたらお前のキャリアに響く」

そう言って、美月の腕をそっと外し、一歩距離を取った。

拒まれた美月の顔には、明らかな落胆の色が広がる。

――どうすれば、また彼の心を掴めるのか?

まさか、本当に透子のことを……?

蓮司はもう車に戻っていた。

泣き顔の美月を見ながら、静かに告げた。

「明日の昼、一緒に食事しよう。

今日はお疲れさま。部屋で休んで」

美月は頷いて笑みを見せた。

気丈に振る舞いながらも、優しく言った。

「うん、明日ね。運転気をつけて……愛してるよ」

けれど蓮司は、その言葉に返せなかった。

唇がわずかに動いたが、「俺も」とは言えなかった。

ただ頷いて、車を発進させる。

――「俺も愛してる」

かつては、何度でも、何百回でも言えたはずの言葉。

なのに今回は、喉の奥で詰まって出てこなかった。

……たった二年の空白。

それだけで、こんなにも変わるものなのか?

車が見えなくなったあと、美月は拳をきつく握りしめた。

その目には、冷たい執念の光が宿っていた。

その頃、蓮司はまた透子に電話をかけていた。

けれど通じないまま、イラ立ちだけが募っていく。

アクセルを踏み込みすぎて、速度計は危険域寸前。

一歩間違えば違反になりかねない勢い。

……病院周辺をぐるりと回ったが、透子の姿はなかった。

――なら、家に帰ったかもしれない。

そのまま自宅のガレージに車を滑り込ませ、

エレベーターを駆け上がるように上がっていく。

指紋でドアを解錠し、いつも通りの光が目に入るはずだった――

……だが、部屋の中は真っ暗だった。

透子はいつだって、自分のために灯りを残してくれていた。

どれだけ遅く帰っても、明かりが灯り、彼女はソファでうたた寝していた。

彼が帰る音がすれば、すぐに目を覚まし、

酒を抜くためのスープを用意してくれた。

けれど今日は違った。

――この二年で、初めての「真っ暗なリビング」

蓮司の胸に、妙なざわつきが走った。

「……帰ってない?」

とっさに電気をつけると、玄関の靴に視線が止まる。

透子の靴。しかもスリッパが一足、足りない。

帰ってはいる――でも、なぜ灯りを消したまま?

なぜ、電話に出ない?

怒りと混乱に駆られ、蓮司は靴も脱がずに客間へ向かう。

ドアノブをひねる――開かない。

拳でドアを叩き、大声で怒鳴る。

「透子!出てこいよ!

二年も「新井家の嫁」やってきて、自分が何者か忘れたのか?

どの面下げて、そんな態度取ってんだよ!」

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