Masuk透子は、美佐子を抱きしめる腕にぐっと力を込めた。胸の奥に、じくりとした痛みが広がる。祥平は言葉を続けた。「もしあの日、君が連れ去られていなければ、私たちはもともと国内で事業をやるつもりだったんだ。海外へ行くことなんてなかった。だから今こうして国内に拠点を移すのは、元の場所に戻るようなものなんだよ。事業のことは雅人に任せてあるから、心配いらない。橘グループは規模が大きい分、各部門が自律して回るようになっている。雅人はトップとして大枠を統括していればいいし、わしももう歳だから、第一線の仕事からは退いているんだ。今の私たちの一番の願いは、こうして家族全員が揃って、失われた時間を取り戻しながら、これからの一日一日を大切に生きていくこと。本当に、それだけなんだよ」透子は祥平の顔を見つめ、胸が熱くなった。昼食の時間には雅人もわざわざ家に戻り、食卓を囲みながら、家族四人でこれからの暮らしについてしっかりと話し合った。透子はさきほどキッチンで焼き直したクッキーを丁寧に包み、二つの袋に分けた。一つは雅人に、もう一つは日頃から世話になっているスティーブへの差し入れだ。雅人がクッキーをひと口かじる。直接は褒めなかったが、言葉の選び方が最大級の賛辞だった。「いつか自分のスイーツ店を開きたくなったら、僕が全額出資しよう」透子がうれしそうに笑うと、美佐子がすかさず口を挟んだ。「ちょっと雅人、妹を変な方向に誘導しないでちょうだい。栞にはバリバリのキャリアウーマンになってもらうんだから。スイーツ店なんて、この子の才能の無駄遣いよ」雅人が軽く笑って流した。「はいはい、母さんの言う通りだ」美佐子が得意げに鼻を鳴らした。「今日たまたま私がお菓子作りなんて思い立たなかったら、あなたはこの子の手作りクッキーを食べられなかったのよ。お母さんに感謝しなさいよね」雅人はまた笑い、返した。「へえ。じゃあ、母さんのお菓子作りは失敗したってことだね」「失敗どころか大惨敗だよ。君は母さんの焼いた最初のクッキーを見てないから言えるんだ。カチカチで苦くて、ネズミにやったって見向きもしない代物だったぞ」祥平が横から首を振りながら追い打ちをかけた。子どもたちの前で容赦なく暴露する夫に、美佐子は笑顔のまま――テーブルの下で、その足をきっちり踏みつけた。「いてっ……事実を言った
美佐子の深い愛情と、我が子を守ろうとするまっすぐな想い。それを受け止めた透子の目頭が、じわりと熱くなった。もう一度美佐子を抱きしめ、その温もりに身を委ねる。巣に帰った鳥のように、港に辿り着いた船のように、胸の奥に強い安心と静けさが満ちていった。母娘が抱き合っていると、バルコニーで電話を終えた祥平が戻ってきた。二人が何か楽しい話でもしているのだろうと思い近づいたが、妻の頬に涙の跡があるのを見て表情が変わった。「どうした、何かあったのか」祥平が慌てて尋ねた。美佐子が口を開きかけたが、透子が先に答えた。「なんでもないわ、お父さん。ちょっと昔のことを話してただけよ」美佐子は娘を見つめた。父親をこれ以上悲しませまいとする気遣いが、痛いほど伝わってくる。なんて優しい子なのだろうと、美佐子は胸が詰まった。「すまなかった、栞。私たちのせいで、君の子ども時代を辛いものにしてしまった」祥平の顔に、深い自責と悔恨がにじんだ。「お父さん、自分を責めないで。もう終わったことよ。私をわざと置き去りにしたわけじゃないでしょう。悪いのは連れ去った人間だわ。施設で育ったからって、辛い思い出ばかりじゃないのよ。あたたかくて楽しかったこともちゃんとあったんだから」透子は穏やかに微笑んだ。祥平はその優しく静かな笑顔を見つめたが、心は楽にならなかった。むしろ、いっそう苦しくなる。この娘には返しきれない借りがある。そして娘が優しさと思いやりから自分を慰めてくれていることも、痛いほどわかっていた。先ほど雅人から電話で聞いた通りだ。娘は海外に行きたくないと言い出し、迷惑をかけまいと、自分たちだけ海外へ行くよう告げて、一人国内に残ると言った。いつも周りのことばかり考え、誰の負担にもなるまいとする。孤独を選ぶか迷惑をかけるかなら、一人で引き受ける方を選んでしまう子なのだ。「栞、雅人から聞いたよ。国内に残りたいんだってな」祥平が静かに切り出した。「お父さんもお母さんも、雅人も、君の気持ちを全面的に支持する。それに国内にも家を買ってある。ちょうどいい、家族みんなでここに住もう」透子が何か言いかけた時、美佐子が驚いた声を上げた。「栞、海外に行きたくなくなったの?」「うん。さっきお母さんにそれを話しに来たの」透子は母を見て答えた。お菓
あの二年間、蓮司に虐げられ、家に縛り付けられて家事と食事の支度を強いられていた――そう思い至った瞬間、美佐子の目がみるみる赤く潤んだ。透子が振り返ると、母がぽろぽろと涙をこぼしている。慌てて絞り袋を置き、駆け寄った。「お母さん、どうしたの?」「あなたのことが不憫で、胸が張り裂けそうなのよ」美佐子は涙を拭いながら答えた。透子が理由を聞くより先に、美佐子は大きく息を吸い込み、顔つきを一変させた。厳しさと、抑えきれない怒り。「あの新井蓮司って奴!一番輝いていた時期のあなたを、素晴らしい未来があったはずのあなたを家に閉じ込めて、家政婦みたいにこき使って!あなたの誇りを踏みにじり、羽ばたくはずだった翼をへし折ったのよ。栞、あなたはあんなに優秀で、名門のA大学を出たのに、あいつがあなたの人生をめちゃくちゃにしたのよ!」透子はその言葉を聞き、一瞬だけ唇を引き結んで黙った。それから静かに口を開いた。「お母さん、前にも言ったでしょう。どちらか片方だけの責任じゃないって。私が自分で納得してやっていたことだし、全部自分で選んだ結果なの。新井さんをかばってるわけじゃないわ。ただ、あの頃の自分の選択には自分で責任を持つべきだし、どんな結果だろうと受け入れるべきだと思ってる」美佐子はその言葉を聞いて、たまらず透子をきつく抱きしめた。「あなたのせいじゃない。私たちがもっと早く見つけてあげられなかったせいよ」彼女は涙声で続けた。「あと二年、いやもっと早く連れ戻せていたら、あんな目に遭わせずに済んだのに」透子は母の手の甲をそっと撫で、穏やかに言った。「大丈夫よ、お母さん。自分に与えられた試練だったんだと思うことにしてるの。それにね、こうして今、みんなと巡り会えたじゃない。二年後でも十年後でもなく、今この時に。それだけですごく幸せよ。運命の巡り合わせなんて、誰にもどうにもできないもの。私は今のこの状況に、心から満足してるわ」美佐子は透子の言葉に胸を打たれ、同時にいっそう切なくなった。家族の庇護を失い、どれほど過酷な日々を生き抜いてきたのか。こんなにも痛ましいほど大人びて、聞き分けのいい人間になってしまった裏には、途方もない孤独と苦難があったはずだ。生まれつき物わかりが良くて聞き分けのいい子どもなどいない。幼い頃に頼れる人がおら
その後もしばらく話を続けるうちに、雅人の心のわだかまりはすっかり解けた。すべては自分の考えすぎだったのだと、素直に認めた。電話を切る間際、それでも一つだけ確かめずにはいられなかった。「栞。本当に自分の意志で国内に残りたいんだな。誰かのせいで、あるいは何かがあって気が変わったわけじゃないんだな」「うん、自分で決めたことよ」透子がはっきり答えると、雅人は「そうか」とだけ返し、妹が先に切るのを静かに待った。通話を終え、透子は部屋でスマホの画面を切り替えた。表示されたのは、二十分ほど前に蓮司から届いたメッセージだった。ざっと数百文字はありそうな長文が、画面を埋め尽くしている。後半には、確かにこう書かれていた。――【俺のことが理由で海外へ行く必要はない。もうこれ以上、君を煩わせたりしない】だが実のところ、透子が海外行きをやめたのは、この言葉のせいではない。当初は確かに蓮司から逃げるためだった。けれど今は、すべて吹っ切れている。たとえ蓮司がまた何か極端なことをしてきたとしても、もう心が揺らぐことはない。逃げているうちは、まだ本当に乗り越えたとは言えない。正面から向き合い、心にさざ波ひとつ立たなくなって初めて、本当の意味で過去から自由になれるのだ。だから透子は、国内に残ることを選んだ。ここには友人がいる。幼い頃から過ごした環境が、何よりの安心感をくれる。両親と兄が全員海外へ行ったとしても、一人で暮らしていけると思っていた。ただ、家族がどれほど自分をそばに置きたがっているかを甘く見ていた。自分のために国内に留まると言われて、透子の胸にはかすかな負い目が芽生えていた。そんなことを考えながら、透子は立ち上がり階下のリビングへ向かった。両親にこの感謝の気持ちを伝えておきたかったのだ。祥平はバルコニーで電話中。美佐子はキッチンでお手伝いさんにお菓子作りを習っていた。娘に手作りのスイーツを食べさせたいらしい。透子がキッチンに入ると、ちょうどクッキーがオーブンから出たところだった。美佐子が期待に満ちた顔でひとつ差し出す。透子はひと口かじり、笑顔で言った。「すごくおいしい。お母さん、お菓子作りの才能あるわ」美佐子はぱっと顔を輝かせた。だが自分でもひと口食べてみると――食感は硬く、粉っぽさが残り、わずかに焦げた苦みまである。
その言葉に、透子の胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。家族はみんな、自分を深く愛し、気にかけ、無条件で受け止めて、甘やかしてくれる。「確かに、お兄さんの口調を怒っているのかと誤解してたみたい。でも、こうして話せたからもう大丈夫よ。気にしないで」雅人は真剣な声で返した。「君に誤解させた時点で、僕の口調が強すぎたか、知らず知らず声が大きくなっていたんだろう。すまなかった。次からは気をつける。今回はあまりに驚いたのと、どうして気が変わったのか早く知りたくて……焦るあまり、自分の口調や声の大きさが栞を不安にさせていることに、まるで気づけなかった」こんな些細な行き違いに、雅人がここまで真剣に、丁寧に謝ってくる。透子は少し面食らった。本当に、ただのちょっとした誤解にすぎないのに。「大丈夫よ、お兄さん。ほんの小さな行き違いだもの。謝らなくていいわ」「ああ。誤解が解けたならそれでいい。ただ、何か思うことがあったらすぐに伝えてくれ。言ってくれないと、僕は栞の気持ちの変化に気づけないから」「うん、わかった」透子が素直に頷くと、雅人はさらに言葉を継いだ。「それと、もうひとつ。君が二十年も行方不明になっていて、ようやく巡り会えた時に――僕たちはあの朝比奈美月に騙されて、君をひどく傷つけてしまった」唐突に過去の話を持ち出され、透子は少し戸惑った。どうして今、その話をするのだろう。「施設で育ったことで、君は人一倍自立心が強くなった。誰かに頼ることを無意識に避けて、何でも一人で抱え込もうとする」普段の雅人は寡黙で、言葉を惜しむ人間だ。だが透子の前では違った。ずっと胸の奥で燻っていた罪悪感、どう埋め合わせればいいのかわからない焦り、親密さがまだ足りていないのではないかという不安――それらが、雅人に言葉を尽くさせていた。「過去に僕たちがしてしまったこと、失われた二十年、君を傷つけてしまったこと。そのすべてを、これからの暮らしの中で僕と父さん母さんが全力で取り戻していく。だから、ひとつだけ頼みがある。僕たちとの間に壁を作らないでほしい。心から家族として受け入れて、栞が本来いるべきこの場所に戻ってきてくれないか」電話の向こうで、兄の切々とした言葉を聞いていた透子は、深く胸を揺さぶられた。「壁なんて作ってないわ。私も少しずつだ
「うん」短く肯定の返事を聞いた瞬間、雅人の胸でずっと暴れて回っていた不安が、ようやく凪いだ。――よかった。妹は自分たちを嫌っているわけでも、一緒に暮らしたくないわけでもない。ただ、海外に行きたくないだけだったのだ。緊張で強張っていた全身の力がすうっと抜け、声も自然と柔らかくなる。「わかった。それが栞の本心なら、僕も父さん母さんも全面的に尊重する。拠点は国内に移そう」透子は慌てて声を上げた。「そんなの駄目よ、お兄さん。私に合わせて国内に残るなんて。海外と国内で離れて暮らしたって、毎週電話できるし、飛行機で数時間でしょう。全然不便じゃないわ」雅人の眉間にまた皺が寄った。疑念がぶり返す。「……つまり、やっぱり僕たちとは一緒に暮らしたくないのか」透子は絶句した。「違うわ。一緒にいたくないんじゃなくて、お兄さんたちに余計な手間をかけさせたくないだけよ」透子はもどかしかった。いつもなら一言で通じる兄なのに、今日に限ってなぜ何度も同じことを聞き返してくるのだろう。「余計な手間など何ひとつない」雅人は即座に断じた。「でも、お兄さんもお父さんたちも、仕事はほとんど向こうでしょう。商談だって――」「今の時代、ビデオ会議も電子決裁もある。いくらでも対応できる」言葉を遮られ、透子は一拍黙ってから食い下がる。「でも時差があるじゃない。連絡がすぐ取れなかったら、仕事に――」「もういい、栞。それ以上言わなくていい」雅人の声に有無を言わさぬ響きが混じった。「そうやって理由を並べられると、結局は僕や父さん母さんと暮らすのが嫌で、必死に僕たちを海外へ追い出そうとしているようにしか聞こえなくなる」透子は黙り込んだ。――誓って、そんなつもりは微塵もない。海外が拠点なのに国内にいたら余計な負担が増えるだろうと、ただそれだけを心配したのだ。「お兄さん、私――」「この件はもう決まりだ。父さんたちには僕から話す。栞がいたい場所に、僕たちがいる。仕事のことは気にしなくていい」雅人は透子に反論の余地を与えず、一方的に結論を下した。ここまで言い切られては、もう何も返せない。透子は小さく「……わかった」とだけ答えた。「さっきから気になっていたんだが、なぜ二度も謝った?」雅人が再び切り出した。このことが、ずっと引っかかっていた。家族の間
しかし……「お二人の出会いや、七年間も同窓だった過去は存じ上げませんが、最近の僕の観察によれば、奥様はもう社長を愛していません」大輔は、きっぱりと言い切った。蓮司が怒鳴りつけようとしたが、大輔は構わず続けた。「社長が奥様のために購入された新しいスマホですが、僕が代理で届けたところ、奥様は受け取るのをひどく嫌がり、もう少しでゴミ箱に捨てるところでした。それから、社長が注文された療養食も、なぜ奥様が口にされたかご存知ですか?僕が社長からではなく、新井家からだと言ったからです。そうでなければ、トイレに流されていたかもしれません。社長も恋愛経験がおありでしょう。女性が愛想を尽く
新井の爺さんであるはずがない。今朝、すべてをきちんと話し合ったんだから。もし他の経路から情報が漏れたのなら、弁護士を入れる必要も出てくるな。向こうの蓮司は答えなかった。透子は彼がくだらないことを言っているのを聞き、我慢できずに言った。「言わないのね。じゃあ、切るわよ」蓮司はその言葉に歯ぎしりし、こう言うしかなかった。「警察に通報して、お前が失踪したと届け出た。これで満足か?」透子は思った。……本当に、イカれてる。もう離婚したのに。美月のために場所を空けてあげたのに、どうして蓮司はいつまでもしつこく付きまとうの?「あなたとはもう終わったの。これが最後の電話よ。いく
駿は携帯でメッセージを確認した。透子から警備室の電話番号を尋ねる連絡があったきり、理由を尋ねても返信はない。彼女が自分を避けるために、わざわざ一時間以上も早く出社したことを知り、駿は心の中でため息をついた。午前中、透子は仕事の傍ら、どうすれば蓮司が会社まで追ってくるのを避けられるか、そればかり考えていた。先輩に事情を話す心の準備はまだできていない。入社してまだ二日、私的なことで騒ぎを起こしたくはなかった。ただでさえ気が滅入っているのに、チームのメンバーが非協力的では仕事が進まない。透子はすぐさま少人数会議を開き、規律を正すことにした。「私がリーダーになったことに不満な人がい
路肩に停めた車内。蓮司はオフィスビルの入口を見つめ、左手でハンドルを握りしめ、歯ぎしりしながら尋ねた。「通報したのは誰だ?」「相手の方はお名前を明かされませんでしたので、分かりません」警備員が答えた。蓮司はその言葉を聞き、深呼吸をひとつして、また尋ねた。「男か、女か?」「女性です」警備員が答えた。「若いのか、年配か?」蓮司は再び尋ねた。警備員は答えた。「若い方です」蓮司は途端に目を見開き、心の中で思った。やはり透子だ!いつ彼に気づいた?いつの間に彼の目の前をすり抜けてビルに入ったんだ?通り過ぎる人間は一人も見逃さなかったはずなのに!「







