LOGIN沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。
夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。
悪意からではない。
単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。
それは沙月もわかっているのだが……
「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」
「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」
「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」
「ああ、言ったこと、あったかも……」
沙月はそっと薔薇に触れる。
たった一本残された、あの棘を指先で探す。
ちくりと小さな痛みが走った。
だが、血が流れるほどじゃない。
思えば結婚生活は“お互い様”。
時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。
だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。
円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――
沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。
「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」
そう言ってくれる夫は優しいと思う。
ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。
身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。
だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。
少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。
だから、多少の痛みは……
「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」
「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」
陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。
沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。
浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。
「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」
「ん、あー、忘れた」
「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」
「わかったー」
この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。
「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」
レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場から悲鳴が聞こえた。
「何? どうしたの!」
慌てて飛んでいけば、ドアの向こうからのんびりした声。
「ごめんけど、着替え持ってきてくんない? 転んじゃってさ」
沙月は、自分の眉間に微かに皺がよるのを感じた。
それでも、せっかく手伝ってくれている夫を傷つけるのは忍びなくて、声だけは優しく。
「裸でいいじゃない、体だけ拭いて上がってくれば?」
「いやいや、それはだらしないでしょ」
「だらしなくてもいいじゃない、家の中なんだし」
「それでも気分的にさ。あ、ちゃんとしたのじゃなくていいよ、箪笥の中に古いスエットがあっただろ、あれ、持ってきてよ」
「えー」
不満そうな声を上げながらも、2階に行って箪笥からスエットを引っ張り出して、脱衣所の洗濯機の上に置いて。
「ここにあるから、タオルも一緒においたからね」
「あー、ありがと」
「じゃあ、私、ご飯を作ってくるから」
「あー、ちょっと待って」
「なに?」
「お風呂用の洗剤、残り少ないから気をつけて」
「ふ……」
沙月は静かに目を閉じる。
頭の中に薄桃色の薔薇が思い浮かんだが、それを無視して噛み締めるようにつぶやく。
「大丈夫、私は不幸じゃない」
無理に口角を上げてにこやかな表情を。
声もそれに釣られて半トーン上がる。
「わかったー、明日の帰りに買ってくるねー」
それからしばらくして。出来上がった夕食を食卓に並べているタイミングで、風呂掃除を終えた陽介が戻ってきた。
彼はタオルで頭を拭きながら、チラリと食卓に視線を走らせた。
「あー、また麻婆豆腐? まあ、仕事してると、どうしても簡単なものになるよね、いいよいいよ、気にしないで」
陽介は椅子を引いて座るけれど、その何気ない仕草が沙月の癇に触った。
「いやー、お腹ぺこぺこ。あ、米は大盛りでよそって。あとついでに醤油も持ってきてくれると助かるなあ」
出窓に置かれたピンクのバラが気になって仕方ない。
沙月は大きく深呼吸をする。
(大丈夫、私は不幸じゃない)
ご飯をよそい、醤油を食卓に置いて、椅子に腰を下ろして――箸を手に取ったタイミングで、陽介がさらに一言。
「あ、冷蔵庫にビール入ってただろ、あれ、持ってきてよ」
「……」
「沙月?」
「あ、ごめん」
立って、ビールを冷蔵庫から取り出す。
だが、それを陽介の前に置いたあと、沙月は再び椅子には座らなかった。
「私、洗剤買いに行ってくるね」
「今から? 飯は?」
「いいよ、先に食べてて」
沙月は車のキーとバッグを掴んだ。
ふと、思いついたかのように踵を返し、出窓に置いたバラを手に取る。
彼女はそのまま、振り返りもせずに家を飛び出す。
向かったのはあの、カウントダウンクラブのビル。
二階のオフィスに駆け込むと、一人居残って書類を眺めていたマダムが、ふと顔を上げた。
「あら?」
彼女は沙月が握りしめた薄桃色のバラを見て、にっこりと微笑む。
「お帰りなさい」
沙月は手の中のバラをギュッと握りしめ、顔を上げた。
棘が手のひらに深く刺さり、小さな傷からはわずかに血が滲んでいた。
「最初の一本を、預かってもらってもいいですか?」
「もちろん」
カシュー塗りのセンターテーブルの上には白い生クリームのケーキ。添えられた紅茶はコクの強いアッサム。向かいに座るのは黙って紅茶を飲みながら話を聞いてくれるマダムと、ケーキに夢中ではあるが優秀そうな弁護士先生。沙月の口も軽くなる。「それで、私のいないところで私の体の話を、勝手に話されていたのが嫌だなって、そう思ったんだと思います」親戚の集まりでのできごとを話し終えた沙月は、冷めた紅茶を一息に飲み干した。クセの強い香りが鼻腔から抜けて、思考が冷やされる。途端に恥ずかしさと後悔が込み上げてきた。「あの、でも、私が気にしすぎてるってのもあるんです、“結婚したら赤ちゃん”って、親戚なら普通にする話題だと思うし……」ケーキを食べ終えた美沙が、ふっと口をひらく。「いや、それ、セクハラですね」沙月はますます萎縮する。「そんな大袈裟な話じゃないんです」「や、別にセクハラだから訴えろとか言ってないですよ、定義としてはセクハラにあたりますってだけで」遥子がふんわりと嗜める。「先生、言い方」「イヤ、だって、そのおじさんの言葉は性的な発言にあたるでしょ」「今は法律の話をしているんじゃないわ、そうね……あなたはどう思ったの?」急に話を向けられて、沙月は少し戸惑った。「え、わ、私……多分、嫌だった?」「おじさんの言葉が?」「違う……ような気もします」「じゃあ、旦那さん?」「それも、違うような……」沙月はしばらく考え込んだ後、静かにつぶやいた。「嫌な気持ちになったことは確かですが、だからって、“原因はこれ”って言葉にできるようなものは何もなくて……」「でも、嫌な気持ちになったのでしょう?」「こんなの、ただのわがままですよね」「そんなことはないわ、場の空気を壊さないために、その気持ちを飲み込んで穏便に済ませたのでしょう?」「そんなの、大人として当たり前のことですよ」「ええ、その通りよ、でも……」遥子が片手をあげると、美沙は部屋の隅から花瓶を引っ張り出してきた。そこには色とりどりのバラが。「飲み込んでしまった言葉の代わりに薔薇を。それがここのルール」美沙が花瓶から何本かの薔薇を引き抜いた。「何色にします〜? 私のおすすめは怒りの赤! キモいおっさんなんかぶっ飛ばせですよ!」「先生、それを決めるのは彼女自身、それもここのルールでしょ
それからしばらく、沙月は穏やかに暮らしていた。「沙月〜、ちょっときてー」陽介に呼ばれて洗い物の手を止める。リビングに行くと、陽介はソファーのクッションをどけて何かを探している様子だった。「あれさあ、テレビのリモコン、どこに置いた?」沙月は濡れた手を拭いて、テレビ台の端に置いたリモコンをとってやる。「使ったらここに戻そうって、こないだ決めたでしょ」「あー、そうだった、ごめんごめん」リモコンを受け取った陽介はソファにごろりと寝そべる。「あ、洗い物の途中だった? 手を止めさせてごめんな」そう言いながら野球中継をつける陽介を見て、沙月の中に小さな棘が生まれる。だけど、薔薇一本に値するほどの痛みはない――ある日、沙月は陽介の親族の集まりに連れてこられた。名目は“陽介の曽祖母の13回忌”。沙月にとっては一度も会ったことのない人物だし、集まるのも親戚のごく一部だけという、こじんまりとした食事会だったのだが。食事会の間中、沙月は“子供の頃から陽介を可愛がっているおじちゃん”にずっと絡まれていた。「何、陽介ちゃん、こんな美人さんのお嫁さんもらったの!」酒も入って上機嫌な“おじちゃん”は、大喜びで小さい頃の陽介がいかに可愛かったかを、沙月に延々と語って聞かせた。それ自体は不快ではない。むしろ沙月は、陽介がおねしょがなかなか治らなかったことや、初めてカエル取りに行って田んぼに落ちた話などを、微笑ましい気持ちで聞いていた。さらに酒が進んだおじちゃんは、馴れ馴れしく沙月の肩を叩いて、上機嫌で言った。「俺から見ても陽介はいいやつでさ、優しいでしょ」「まあ、そうですね」「浮気はしない、変な遊びもしない、嫁さんを大事にする男だと思うよ、俺が保証する!」親戚が集まる宴席で、しかも酔っ払い相手に小さな不満を告げ口しない程度の分別が、沙月にはある。「そうですね、大事にしてもらっています」「そうでしょうそうでしょう、どう、ちゃんと仲良くやってるの?」「ええ、まあ」「そっか、じゃあ、赤ちゃんも、もうすぐかな」ちくり。言語化する必要すらないほどの、小さな小さな棘が沙月の中に生まれる。「陽介はねー、あれはいいお父さんになるタイプだと思うよー、ほら、今時の親って子供を虐待して死なせちゃったりするじゃない、ああいうことは、うちの陽介は絶対にしないね!」
“相談室”の奥にある扉を開けると、そこは相変わらず、バラで埋め尽くされていた。誰かの激しい怒りを吸い上げたような真紅の薔薇。恋を弔う祭壇に似た白い薔薇。深い悲しみを抱え込んだみたいに俯く黄色の薔薇。この深い感情の中に、曖昧で不確かなピンクのバラを、果たして置いてもいいものなのか——手の中のバラをくるりと捻りながら佇む沙月に、遥子は静かな声で聞いた。「どうしたの?」「私なんかが、バラを置く資格があるのかなって……」「どうして?」「冷静に考えてみると、夫は別に悪いことなんか一つもしていないんです、私が勝手に苛立っただけで……」「そう、あなたはそう思ったのね」沙月は、ふと目についた花瓶をじっと見つめた。そこには赤いバラがこぼれ落ちそうなほどにいけられている。「……私の結婚は……恵まれている方だと思うんです、だから……」遥子は少しだけ首を傾げる。「それ、誰に言われたの?」「何を……ですか?」「恵まれた結婚生活だって、誰かに言われたんでしょ」「……母に、私の母の方です」「なるほどね、それに、あなた、旦那さんの愚痴を誰かに聞いてもらうと『惚気ですか』って嫌味言われることが多いんじゃなくて?」「なんでわかるんですか」「ふふふ、経験則よ」遥子は、茶目っ気たっぷりにパチンとウインクする。「ねえ、気づいてる? あなた、“不幸じゃない”っていうけれど、“幸せだ”って一回も言っていないのよ」沙月は答えを返すことができなかった。ただ喉の奥で「あっ」と驚きの声をあげるのが精一杯。「それに、不幸じゃないからって痛みがないわけじゃないでしょ?」バラを握る手がわずかに震える。「そうですね……」「じゃあ、バラを置く資格はあるわ、さあ」遥子は空の花瓶の前に、沙月を押しやった。沙月は手の中のバラをキュッと握りしめる。小さな——だが確かな痛みが手のひらの中にあった。「なあに? その痛み、まだ無視するつもり?」言われて沙月は、バラを握りしめていた手をそっと開いた。中指の付け根近く、手のひらの端に小さな傷がついている。「無視しちゃ、ダメですか、やっぱり」「いいえ、そんなことはないわ、それを選ぶのはあなた。自分がしんどくないのならば、無視し続けるのも一つの選択よ」沙月は、ぽろりと涙を一つこぼした。「しんどい……しんどいです。喧嘩をせず
沙月は、持ち帰った薔薇を100円均一で買ったそっけない一輪挿しにいけて、出窓に飾った。夫である陽介は、「へえ、珍しいことをするね」と笑った。悪意からではない。単なる夫婦のコミュニケーションとしての、さりげない会話のつもりだろう。それは沙月もわかっているのだが……「君もようやく女性らしい情緒というものを理解したんだね」「大袈裟ね、花を一輪飾っただけじゃない?」「いやいや、君さあ、花なんて食べられるわけでもないし、資産価値があるわけでもないし、買うだけ無駄だって言ってたじゃない」「ああ、言ったこと、あったかも……」沙月はそっと薔薇に触れる。たった一本残された、あの棘を指先で探す。ちくりと小さな痛みが走った。だが、血が流れるほどじゃない。思えば結婚生活は“お互い様”。時には沙月が彼の棘になることだってあるはずだ。だけど彼も、そうした小さな棘を飲み込んでくれている。円満な家庭とは、そうした思いやりで出来上がってゆくもの――沙月がふと顔を上げると、夫は邪気のない笑みを浮かべていた。「なんか疲れた顔してるなあ、いいよ、今日は手伝うよ、何をすればいい?」そう言ってくれる夫は優しいと思う。ルックスも整っているし、仕事だって大手企業のエリート社員という将来を約束された立場であり、収入も安定している。身持ちが固くて真面目だから、浮気をするようなこともないだろう。だから沙月は、自分は幸せな結婚をしたのだと、常日頃から思っている。少なくとも、世間で見るような“離婚するほど不幸な結婚”をした女性よりもよほど幸せなのだと。だから、多少の痛みは……「そうね、とりあえずお風呂を洗ってきてくれると、助かるかなあ」「よし、任せてくれ、ピカピカにしてやるよ!」陽介は張り切って腕を捲り上げると、風呂場に向かった。沙月はその間に洗濯を取り込み、天日でカラッと乾いた足拭きマットを持って脱衣所に向かう。浴室の扉越しに、少し調子のはずれた鼻歌とシャワーの音が聞こえた。「ねえ、足拭き、持ってきてないでしょ」「ん、あー、忘れた」「ここに置いておくから、ちゃんと足拭いて上がってきてね」「わかったー」この間に食事の支度を済ませてしまおうと、沙月はキッチンに立つ。「豆腐があったわね、麻婆豆腐にしようかしら」レトルト調味料を取り出したところで、お風呂場か
沙月が案内されたのはビルの二階、『相談室』と呼ばれる応接室だった。壁は落ち着きのあるアイボリー、窓は広くて部屋の中は明るい。座り心地を重視した座面の広い応接ソファと、それに揃いの小さなテーブル。観葉植物もいくつか置かれて癒しを意識した空間だ。だがソファに座った沙月は、少しも癒されることなどなかった。手にした薄桃色のバラを所在なく撫で回しながら、ポツリと呟く。「これ、生花ではないんですね」手触りでわかる。その薔薇は防腐処理をされたプリザーブドフラワーだ。沙月の対面に座る遥子は、相変わらず落ち着きのある笑みを浮かべて答える。「そうね、誰にも言えずに飲み込んだ言葉は枯れるわけじゃない、ただ日常という花束に紛れて誤魔化されてしまうだけ、だから」「飲み込んだ言葉、ですか」「あるでしょ、一つくらい。例えば『お皿くらい洗って』とか、『靴下を裏返しで出さないで』とか」「いえ、うちの夫は家事は手伝ってくれますし、きちんとした性格なので靴下は表に返して脱ぎますから」「んもう、そうじゃなくって、例え話よ、これ。そういう、小さい不満を飲み込んで我慢したことがあるでしょって話よ」「小さな不満……」沙月は手の中にあるバラに視線を落とす。思い浮かぶのは、今朝の出来事――沙月の夫、早坂陽介はトーストを齧りながらなにげなく言った。「仕事、いつ辞めるんだ」まるで辞めることが決定事項であるような言い様に、わずかな苛立ちが心中に湧く。それでも沙月は、(彼に悪気はないんだから)と苛立ちを飲み込んで、にっこりと微笑んだ。「それは、この間も話したでしょう、辞めるつもりは、今のところないって」陽介と結婚して二年目、義母からも「赤ちゃんはまだなの」と何度も聞かれている。生活も落ち着いたし、そろそろ子供を持つことを考え始めてはいるが、だからといって仕事を辞めようとまでは考えていない。「うちの事務所は小さいけれど、産休制度もしっかりしているし、もし辞めるにしても実際に妊娠してから様子を見て、って話だったでしょ?」「そうだっけ? あー、そうだったかも」夫に悪気があるわけではないことはわかっている。わかってはいるが、真剣味のかけらもなくヘラヘラと笑っている様子に、沙月の苛立ちはさらに募ってゆく。「でも、どうせ辞めるなら遅いか早いかだけの問題だろ、ウチの母がいうにはさ
………………………………離婚するほど不幸なわけじゃない——そう思って飲み込んだ言葉に、薔薇を一本。九十九本目までは、あなたの物語。百本目からは、私たちの出番。ようこそ、離婚互助会カウントダウンクラブへ。………………………………沙月に“カウントダウンクラブ”のことを教えてくれたのは、離婚経験のある女友達だった。「これ、知ってる? 離婚互助会って呼ばれてるんだけど」そんな言葉と共に手の中に押し込まれたのは、一枚の小さなカード。沙月はそれを押し返そうとした。「でもね、別に私、離婚したいわけじゃないのよ」それでも友人は、小さなカードを引っ込めようとはしない。「わかってる、離婚しろっていってるんじゃないの。でも、ここ、結婚生活の愚痴を聞くだけとかもやってるから、ね」沙月は結局、カードを押し返すことができず、それを受け取ってハンドバッグの底に押し込んだ。それが三ヶ月前――捨てたつもりだった。だけど三ヶ月たったいまも、カードはハンドバッグの底に残っていた。書かれている住所を頼りに訪ねてみれば、そこにあったのは、小さくて古いビルだった。元は雑居ビルだったのか、壁には破れた看板がいくつか張り付いている。沙月は握りしめたカードに目を落とす。「ちょっと、詐欺っぽい……」だが友人は「ここで世話になった」と言っていた。彼女を信じて、せめて中に入るくらいは……そう思って、恐る恐る中に足を踏み入れた沙月は、驚きの声を上げる。「内装には力を入れているのね」一階のエントランスは真新しい真っ白なタイルが貼られて、明るく清潔感に溢れる空間にリフォームされていた。特徴的なのは、エントランスの真ん中に置かれた大きな花瓶のオブジェ。そこには色とりどりのバラが生けられて、無機質なほど真っ白な空間に彩りを添えている。奥にあるエレベーターも、眩しいほど磨き上げられた銀色の扉に傷ひとつない、新しいもの。つまりボロボロなのは仮の姿、中身はすっかり最新式の建物なのがこのビル。「なぜこんな手間を? 一度取り壊して建て替えた方が安く済むでしょうに」壁をまじまじと眺めながらつぶやく沙月の背後で、突如、声がした。「それはね、ここが秘密基地だからよ」「だれっ?」振り向くとそこには、細身のレディススーツに軽いカーディガンを羽織った初老の女性が立っていた。丁寧に手入