田沼夕夏の瞳は血のように赤く、そのかつて柔らかだった面差しは、今や怨念を宿した恐ろしい表情へと変わり果てていた。彼女は出雲に幽閉され、光の差さぬ日々を送る一方で、街の中心では浅井が彼女のすべてを奪い、のうのうと生きていた。父も、名も、本来なら自分のものであったすべてのものも――その姿を前に、浅井は怯え、じりじりと後ずさった。生きているはずがないと思っていた田沼夕夏が、こうして目の前に立っている。そんな日が来るなど、夢にも思わなかった。顔面を蒼白にして、浅井は必死に吐き捨てる。「違う…違うのよ!私が奪おうとしたんじゃない!あんた自身が運の尽きだったのよ!生きていたって、お父さんはあんたなんか認めない!売女のくせに!田沼家が、そんな女を娘にするはずないでしょ!」浅井の言葉を聞き、田沼夕夏は拳を固く握り締めた。「そう――私は売女よ。でも、あなたに私の名前や身分を奪う権利なんてない!私のすべてを!」田沼夕夏は真奈へと視線を向け、懇願するように言った。「瀬川さん……浅井は、私のすべてを奪った女です。お願いです、この女を私に任せてください」真奈は言った。「……恨みには必ず元がある。借りにも必ず返す相手がいる。だから――彼女はあなたに任せるわ。好きにしなさい」その言葉を耳にした瞬間、浅井の心臓は重く沈み、足元から力が抜けた。慌てて声を荒らげる。「真奈!あなたに私を裁く権利なんてない!何様のつもり!私は司さんの婚約者よ!田沼家も私を守ってくれるわ!あんたたち、絶対に……」言葉の続きを吐き出すよりも早く、真奈の指が彼女の喉元をがっちりと掴んだ。冷ややかな声が真上から降ってくる。「これだけの悪事を重ねておいて……冬城はいない、出雲も失脚した今、田沼家と冬城家の大奥様が、あなたを守れるとでも思う?」真奈は、ただひたすらにその時を待っていた。出雲が完全に勢力を失い、冬城も浅井を庇えなくなる、その瞬間を。前世、己の死は冬城の仕業だと信じて疑わなかった。だが真実は――浅井が病院にあったA型の血液を、意図的にすべて移し替え、命の綱を断ち切ったのだ。その日が訪れるまで、長い歳月を歯を食いしばって耐え抜いてきた。そして今、もはや待つ必要はない。氷のように冷たい真奈の眼差しが浅井を射抜く。浅井の胸の奥に、ぞわりと冷たいものが走った。恐怖に駆られた
かつて真奈は冬城夫人であり、瀬川家の令嬢でもあった。立場が自分より上だったからこそ、浅井は悔しさを飲み込み、従うしかないと諦めていた。だが今はもう、真奈と冬城は離婚し、瀬川家も破産して、真奈はすべてを失った。冬城夫人の座も自分のものになったというのに――それなのに真奈は、なおも自分に手を上げてきた。「殴る?違うわ、殴るだけじゃ終わらせない」真奈は一歩踏み込み、浅井の髪をつかむと、氷のような声で告げた。「浅井、あんたは何度も私を陥れようとした。前は相手にするのも馬鹿らしくて、放っておいただけ。冬城と一緒になりたいならくれてやるつもりだった。でも――欲をかきすぎたわね。こうまで挑発するなら、新しい恨みも古い恨みもまとめて清算する」その言葉に、浅井の胸に鋭い寒気が突き抜けた。真奈の視線は、まるで氷塊のように冷たい。以前の彼女は淡々として穏やかだったが――こんな目を向けられたことは、一度もなかった。数日姿を消していただけなのに――どうしてこんなにも恐ろしく変わってしまったのか。真奈は横に控えるボディガードに視線を向け、冷然と言い放った。「大奥様が殺人依頼を認めた以上、すぐに警察署へ連れて行きなさい」「了解です!」ボディガードは即座に動き、冬城おばあさんの両腕をつかんだ。冬城おばあさんは、まさか真奈がこの冬城家で本当に手を出してくるとは思わず、慌てふためく。「何をするつもり!私はあの冬城司の祖母よ!私に手を出せば、司が戻った時に許さないからね!」どれだけ叫ぼうとも、真奈は一顧だにしない。そのまま浅井に目を向け、冷ややかに告げた。「あなたは友人を殺し、他人の名を騙り、悪事を重ね、挙げ句の果てには自分の子どもまで手にかけた。これまでは出雲と冬城が庇っていたけれど、今は――」「真奈……正気なの?私は司さんの婚約者よ!田沼家の令嬢なの!私に手を出せば、お父さんも司さんもあなたを許さないわ!」浅井の胸に、得体の知れない恐怖が込み上げた。たった数日姿を消していただけなのに――真奈はまるで別人のように変わってしまった。どうして、ここまで恐ろしくなれるのか。「田沼家の令嬢?」真奈は鼻で笑い、冷ややかに言い放つ。「そんな肩書きを笠に着るのはやめなさい。本物の田沼夕夏はまだ生きている。会ってみる?」「え?!」浅井は凍りついた。出
岡田夫人の告発を受け、冬城おばあさんの顔色は青から白へと変わっていった。まさか、何日も探させていた岡田夫人が、とっくに真奈の手中にあったとは夢にも思わなかったのだ。「珠紀、真奈はいくら払って、こんな告発をさせたの?私はあなたの叔母なのよ。もし真奈に脅されているなら私に言いなさい。私があなたを守ってあげる!冬城家は、誰でも好き勝手にできる場所じゃないのよ!」冬城おばあさんは真奈を鋭く睨みつけ、そのうえで冬城家の大奥様という肩書を強調してみせた。岡田夫人に、どちらにつくべきかをはっきりわからせるためだ。一方は、すでに破産した瀬川家の令嬢。もう一方は、海城で権勢を振るう冬城家。どちらを選ぶべきかなど、誰にでもわかることだった。しかし岡田夫人は、すでに夫に打たれ続けた恐怖で心が折れ、さらに佐藤家への畏れも募っていた。両手を振り、首を横に振りながら必死に叫ぶ。「お金なんて一銭ももらってない!脅されたこともない!おばさま、やったことを認めないわけにはいかないわ!これは私には何の関係もないの!振込記録もあるし、チャットの履歴もある!これらは全部証拠になるわ!瀬川さん……お願い、どうか私を捕まえて、罪は認める!全部認めるわ!」そう言いながら、岡田夫人は真奈に向かって何度も額を床に打ちつけた。外にいれば、いずれ夫に殴り殺されるに違いない。ならば、いっそ刑務所に入って刑に服したほうがましだとさえ思っていた。真奈は冬城おばあさんを見やり、静かに告げる。「大奥様、もう何も言うことはありませんね?」冬城おばあさんは、情けなさと怒りを込めて岡田夫人を睨みつけた。愚か者であるだけでなく、証拠まで残していたとは――もはや言い逃れができないと悟ると、冬城おばあさんは冷ややかに笑い、吐き捨てるように言った。「そうよ、私がやったわ。それがどうした?あんたみたいな女、司と一緒にいる時に黒澤へ取り入り、今度は佐藤茂にまで取り入って……水商売みたいに男を渡り歩く。そんな女、何万回死んだって惜しくもないわ!」「おばあさま!冬城家はそう簡単に侮られる家じゃありません!たとえ真奈が佐藤茂の力を借りていようと、この冬城家で好き勝手に騒げる資格なんてないんです!」浅井は二階の角に身を潜め、ずっとやり取りに耳を澄ませていた。真奈が乗り込んできたのは喧嘩を売るためだと悟る
「ありがとう」真奈はパジャマを整え、体の青あざを隠すと、「あとで何人か手配して。冬城家へ行くわ」と告げた。「瀬川さん、何人必要ですか?」真奈は少し考えてから、「多ければ多いほどいい」と答える。メイドはすぐに運転手と人員の手配に動いた。昼前には、真奈はすっかり支度を整えて冬城家へ向かった。同じ頃、冬城家の中では。浅井は、あの200億円をどう工面するか頭を悩ませていた。真奈の前で大きなことを言ってしまった以上、今さら出せませんでは済まされなかった。浅井が思案にふけっていると、冬城家の玄関が突然蹴破られ、大勢の人間がなだれ込んできた。二階にいた浅井はその物音に気づき、慌てて階下へ降りる。一階では、物音を聞きつけた大垣が、冬城おばあさんを支えながら寝室から出てきた。玄関の外から、黒いレザージャケットに黒いブーツを履いた真奈が冬城家に入ってくるのが見えた。冬城おばあさんは、そんなワイルドでパンクな装いの真奈を見たことがなく、一瞬誰だかわからなかった。真奈は微笑み、「大奥様、ご無沙汰しています」と挨拶する。「誰かと思えば、あなただったのか!もう司とは離婚したのに、今さら冬城家に来て何をするつもりだ?こんなに大勢連れてきて、冬城家を市場とでも思っているのか!」冬城が留守のため、冬城おばあさんの威勢もいくらか弱まっていた。さらに新聞で、真奈が今は佐藤茂の側にいると知っており、多少は遠慮を感じていた。真奈は唇の端をわずかに上げ、「大奥様、岡田夫人に私を殺すよう依頼した件、忘れてはいませんよね?」と言った。その言葉に、冬城おばあさんの顔に一瞬、後ろめたさがよぎった。あの件は結局うやむやになり、真奈が乗り込んでくることなどないと思っていた。まさか珠紀の詰めの甘さで、自分に辿り着かれるとは。もちろん冬城おばあさんは認めず、すぐに強い口調で言い返した。「何を馬鹿なことを!人を雇って殺すだなんて!冬城家は常に法を守ってきた。そんな真似、するはずがない」「そうですか……やはり大奥様は、ご存じないとおっしゃるのですね」「もちろん知らないわ」「では、この一件はすべて岡田夫人の仕業ということですか?」「当然でしょ?」冬城おばあさんは親戚の情など一切顧みず、全ての責任を岡田夫人へ押し付けた。だが次の瞬
立花が楠木静香と婚約していない――これは前世とはまるで違っていた。真奈は、立花家と海外の福本家との間にどんな取引があったのか、よく覚えていない。どうやら未来の流れはすでに乱され、前世の軌跡とは重ならないようだ。「瀬川さん?」佐藤茂が、考えに沈んでいる真奈に声をかけた。我に返った真奈は、「はい?」と問い返す。「今、黒澤もいますので。立花グループでの発見、教えていただけないでしょうか」「立花に連れられて立花家へ行った後、黒澤に捨てられたふりをして立花に寝返ったのです。それで、立花から名簿を手に入れました。それだけじゃなく、立花グループのカジノの三階が売春の拠点で、おそらく集団での薬物使用も行われている可能性が高いこともわかりました」真奈はそう言いながら、机の上の紙とペンを取り、二日前の夜に立花家で暗記したすべての名前を書き出した。さらに、立花グループのカジノ三階のおおまかな構造図も描き加えた。佐藤茂はその名簿に目を通し、そこに記されたのが洛城の大物ばかりであることに気づく。しかも、この数年は確かに立花家と取り引きがあり、その多くは表に出ない商売だ。偽りとは思えなかった。「立花が、こんなに重要な名簿を瀬川さんに渡したのですか。本当に信頼しているようですね」「ただの自信過剰ですよ。たとえこんなことを教えても、私にはどうにもできないと思ってるだけでしょう」洛城の勢力は複雑に絡み合い、立花は長年その頂点に君臨してきた。それだけの自信はあって当然だった。ましてや立花はもともと女性を軽んじていて、真奈が立花グループに影響を及ぼせるとはこれっぽっちも考えていない。「なんとか手を打ちます」佐藤茂の言葉が終わらないうちに、黒澤が口を開いた。「もう用はないのか?」佐藤茂は黒澤を見上げ、「急ぎじゃない。先に済ませたいことがあるならそうしろ」と答える。真奈の顔が一気に赤くなった。黒澤は自然にその手を取り、佐藤茂に言った。「最近の海城のニュースは抑えておけ。目障りだ」真奈は首をかしげたが、佐藤茂は黒澤が昨夜、真奈を佐藤邸へ連れ帰った件のニュースを指していると察していた。彼は薄く笑みを浮かべ、「わかった」とだけ答えた。黒澤は真奈の手を引いて寝室に戻ると、ほとんど間を置かずに扉を閉め、真奈を壁際に押し付けた。真奈は見
楠木静香が仕組んだあの事故で、真奈は少なからず傷を負っていた。黒澤は、その体に残る打撲や擦り傷を見つめ、目の奥に翳りを宿した。真奈は手を伸ばして黒澤の頬を包み込み、目を細めて笑った。「どうしたの?心配になったの?」その顔を見て、黒澤の目の翳りはわずかに薄らいだが、厳しい表情のまま真奈の額を軽くこついた。「これからは危険な目に遭わせない」「今回は特別な事情があったのよ」真奈は痛む額をさすりながら言った。「大丈夫、次は絶対にしないから」楠木静香は常軌を逸していて、真奈の予想を超えていた。だが、そのおかげで立花の信頼をさらに勝ち取ることができたのも事実だった。真奈は黒澤の厳しい顔を指でつまみ、笑みを含ませた声で言った。「遼介、きっと知らないでしょ。今回、命からがら立花のそばからどれだけのものを掘り出してきたか」「褒めてほしいのか?」「それはもちろんよ」真奈がまだ得意げにしているのを見て、黒澤は再び額をこついた。「怪我してるから許してやるが、そうでなければこっぴどく叱っていたところだ」「こんなにひどい傷なのに、まだ叩くの?」真奈は不満そうに言った。潤んだ大きな瞳を見つめているうちに、黒澤の怒りもすっかり消えていった。「どうして叩けるものか。叩くなら俺だ。もっと警戒していれば、お前を危険にさらすことはなかった」低くそうつぶやく。それを聞くと、真奈は眉をひそめて黒澤の口を覆った。「もうそれ以上言わないで」黒澤の目に笑みがにじみ、口を覆う真奈の手を握りしめた。「……わかった、言わない」その時、寝室の扉を青山がノックした。「黒澤様、瀬川さん、旦那様が書斎でお待ちです。いつお越しになりますか」真奈が答えるより先に、黒澤が即座に口を開いた。「用件は明日に回せ」その言葉を聞くと、真奈は黒澤を軽く叩き、扉の外に向かって言った。「すぐに行くから」「真奈……」黒澤の目には、わずかに不満の色が宿っていた。仕事の話はいつでもできる、今日である必要はない。真奈は黒澤の鼻をつまみ、「大事な話が先よ、そんなに時間はかからないわ」と言った。真奈の強い意志を感じ取り、黒澤は渋々うなずいた。しばらくして、きちんと身支度を整えた真奈は黒澤と手をつなぎ、佐藤茂の書斎へ向かった。佐藤茂はデスクに座っていたが、手をつないで