Masuk天音汐(あまね しお)と諏訪部京弥(すわべ きょうや)は、誰もが羨む若き日の恋人同士だった。一人は大学のマドンナ、一人は大学のプリンス。キャンパス内では知らぬ者のいない、理想のカップルだった。 二人は誓い合った。結婚できる年齢になればすぐに結婚しようと。しかし、愛が最も燃え上がっていたその時、汐は突如として別れを告げ、ある御曹司とともに海外へ去った。 別れの日、京弥は瞳を真っ赤に染め、汐を追って走り続けた。 あれほど誇り高い男が、何度も何度も「別れないでくれ」と縋り付いた。いつか必ず出世してみせるからと。 行かないでくれ、待っていてくれ、他の誰かを愛さないでくれ――そう泣きながら乞うた。 けれど汐は、どこまでも冷酷だった。一言も言葉を残さず、あろうことか、京弥が追走中に車に撥ねられるのを目の当たりにしても、一度も振り返ることはなかった。 その事故は凄惨なもので、京弥は腎臓破裂という重傷を負い、移植手術なしには生きられない体となった。 血まみれで手術台に横たわりながらも、京弥は力を振り絞って汐に電話をかけようとした。 だが、命を削る思いでかけた電話は、すべて無慈悲に拒絶された。 愛が深ければ深いほど、その裏返しの憎しみもまた、深く刻まれる。 あの日を境に、京弥は汐を、骨の髄まで憎むようになった。
Lihat lebih banyak「汐……」「どうか、気を確かに」「あまり自分を責めないでくれ」墓標の前で、汐は焦点を失った瞳のまま、ただじっとその石碑を見つめていた。共に死線を潜り抜けてきた同僚たちが、代わる代わる彼女を慰める。麻薬捜査官という職務がいかに危険と隣り合わせか、一歩踏み外せば一家ごと根絶やしにされる修羅の世界であることを、彼らは皆、痛いほど知っていたからだ。かつて、汐の家族は麻薬組織の手によって惨殺された。報せを受けて駆けつけた時にはすでに遅く、最期を看取ることすら叶わなかった。そして今、最愛の恋人までもが組織の毒牙にかかり、汐を守るための盾となって、その目の前で命を散らした。検死を担当した医師は言った。京弥の全身の骨は砕け、内臓も破裂していたと。それがどれほどの激痛であったか、想像を絶すると。それでも京弥は最期の瞬間、汐の「愛している」という言葉を聞き、安らかな微笑みを浮かべて逝ったのだという。その事実は、耐え難い自己嫌悪となって汐の心を苛んだ。かつて自分が偽装死をした際、京弥が味わったであろう身を引き裂かれるような絶望を、ようやく我が身をもって理解したのだ。汐の体が小刻みに震え始め、虚ろな瞳から大粒の涙が溢れ出した。嗚咽はやがて、魂を絞り出すような号哭へと変わる。「京弥ァ……!」汐は彼の墓前に崩れ落ちた。その悲痛な叫びは、見る者の心をえぐり、涙を誘わずにはいられなかった。誰も、汐の悲しみを妨げることはできなかった。同僚たちは一人、また一人と静かに立ち去り、冷たい墓標を抱いて無力に泣き続ける汐だけが、そこに残された。翌日、諏訪部家の執事が墓参りに訪れた時、そこにはもう誰の姿もなかった。それから月日が流れ、汐は憑かれたように次々と任務を遂行した。数えきれないほどの偽名と身分を使い分け、感情を殺して生きた。汐に想いを寄せる者も現れたが、彼女はただ、寂しげに微笑んで通り過ぎるだけだった。ある任務の最中、汐は銃弾を受け、致命的な傷を負った。懸命な救命措置が行われたが、指の隙間から砂が零れ落ちるように、彼女の命の灯火が消えゆくのを止めることはできなかった。ああ……ようやく、逝けるのね。そう思った瞬間、鉛のように重かった心が驚くほど軽くなった。汐は夜の闇に紛れ、看護師の隙を突いて病院を抜け出した。向
ほどなくして、外でサイレンが鳴り響き、倉庫内は一気にパニックへと陥った。「警察だ!」「どうしてここがバレたんだ!」「誰も知らないはずの場所に、なぜ警察が来られる!」警備に当たっていた月森家の一味は狼狽した。だが、長年裏稼業に身を沈めてきた彼らは、すぐさま汐へと疑いの目を向けた。「あの女だ!あの女が連れ込まれてすぐに警察が来やがった!」「クソッ、あのアマ、警察とグルだったのか!」「俺たちが逃げられないなら、こいつもタダじゃ済まさねえぞ!」追い詰められた人間が何をしでかすかは分からない。ましてや、常に死と隣り合わせで生きてきた犯罪者たちだ。彼らは鉄パイプを手に、殺気立って汐のもとへ詰め寄った。警察が踏み込んでくる前に、彼女をなぶり殺しにするつもりなのだ。男たちは汐を包囲し、計画を台無しにされた怒りを叩きつけるように、容赦なく鉄パイプを振り下ろした。「この裏切り者が!」「警察に売りやがって、タダで死ねると思うなよ!」「地獄へ落ちろ!」罵声とともに雨あられのように浴びせられる打撃。汐の全身に激痛が走る。汐は潜入捜査官として、いつか自分を犠牲にする覚悟はできていた。だが、いざその瞬間が訪れると、やはり恐怖が胸の奥から込み上げてくる。――いいわ。これで京弥に借りが返せる。あんなにも彼を騙し続けてきたんだもの。今度こそ、天音汐は本当に死ぬのね。汐は目を閉じ、微かな呼吸の中でただ耐え続けた。命乞いなど口が裂けても言わない。それが警察官としての矜持だった。この巨大な麻薬組織を根絶やしにするためなら、彼女はすべてを捨ててきたのだ。でも……やっぱり、痛いな……京弥、私が唯一申し訳ないと思っているのは、あなただけよ……薄れゆく意識の中で、汐は過去を振り返った。麻薬捜査のために、彼女は二度も京弥を捨てた。憎まれて当然だ。それでいい。それで十分。どんな痛みにも屈辱にも涙を見せなかった汐だったが、深く愛する男が何度も心を砕かれたあの表情を思い出すと、血の混じった嗚咽がこぼれた。――どうか、あなたがいつまでも健やかで、穏やかでありますように。私のことなんて、もう二度と思い出さないで。さようなら、京弥……汐は絶望の底で、ただ静かに体を丸めた。「汐ーー!!!」魂を絞り出すような悲痛を込めた叫
京弥による騒動こそあったものの、婚約披露宴は無事に幕を閉じ、汐もすでに冷静を取り戻していた。「家に帰ろう。今日は本宅へ連れて行って、年長者たちに紹介するよ」陸は意気揚々とそう語りかけた。陸は以前から汐を本宅へ連れて行くつもりではいたが、当時はまだ婚約に至っていなかった。汐は一応、天音家の養女という立場にある。ようやく今、その機会が巡ってきたのだ。陸の瞳に、強欲な光が宿る。「ええ。でも陸、婚約も済んだし、結婚はいつになるのかしら?知っての通り、私は天音家では肩身が狭い立場だから……」汐は陸の腕にそっと手を添え、不安げに問いかけた。「何を急ぐんだい。婚約したんだ、結婚なんて瞬きする間のことさ。親父がお前に会って満足すれば、もう決まったも同然だ。安心しなさい、初実」陸は軽薄な笑みを浮かべた。彼が汐に目をつけたのは、まさにその点だった。両親はおらず、天音家もただの養い親にすぎない。汐に多額の株が譲られるはずもなく、むしろ天音家の兄弟たちは、遺産争いの邪魔者が消えることを願っているほどだ。後ろ盾のない彼女を支配するなど、この上なく容易い。二人は車に乗り込み、月森家の本宅へと向かった。そこにいたのは月森家の直系家族が数名のみで、人影はまばらだった。広大な邸宅はどこか陰鬱な空気を漂わせていたが、汐はそれに気づかぬふりをして、期待に満ちた笑顔を浮かべていた。「贈り物の準備もしていないけれど、おじい様に嫌われないかしら?」「まさか。お前に会うのをずっと楽しみにしていたんだから」「よかった。私、ようやく本当の家族ができるのね。陸、あなたに出会えて本当によかったわ」汐が明るい表情でそう語るのを、陸は心の中で「なんと愚かな女だ」と嘲笑していた。比べものにならない。天音家など月森家の足元にも及ばない。ましてや養女だ。本気で結婚するつもりだとでも思っているのか。だが、彼女がこれほど愚かだからこそ、これほど簡単に手に入ったのだ。陸は適当に相槌を打ちながら汐を広間へ案内した。上座には月森家の当主が座っており、汐を見るなり目を輝かせた。「この子が、例の婚約者か?」老人の声には、満足げな響きがあった。「ええ、極上品でしょう?」陸が笑いながら答える。「……極上品?何のこと?」汐だけがその会話の不穏な意味を
期待した結末が訪れることはなかった。汐は、彼を拒絶した。京弥の顔から血の気が失せ、彼は猛然と彼女の手を握りしめた。「ダメだ、俺と一緒に来るんだ。月森陸はまともな人間じゃない!お前を破滅させる。俺の言っていることは本当だ、あいつの海外での事業はすべて……」「いい加減にして!京弥!」汐は彼の手を振り払った。その瞳にあるのは失望、怒り、そして非難。かつてあったはずの愛情は微塵も残っておらず、それが剥き出しのまま京弥の心を突き刺した。「あなたと一緒にいることこそ、私を破滅させるのよ!私に強引に深雪への輸血をさせ、何度も札束で私の顔を叩いた。最低なのはあなたの方よ!やっとの思いであなたの元を離れたのに、どうして追いかけてくるの!私は陸が好きなの、陸を愛しているの!彼はあなたと違う、私を傷つけたりしない。京弥、誰もがあなたと同じだと思わないで!」汐は断固とした口調で、呼吸を乱しながら、持てる力すべてを振り絞るように叫んだ。彼女の目は赤く染まっていたが、男の瞳はそれ以上に赤く、涙が頬を伝い落ちた。「……本当に、少しも俺を愛していないのか?」京弥の声は震えていた。「これっぽっちも愛していないわ。昔は愛していたかもしれない。でも今は、新しい恋人がいるの」「なら、どうして腎臓を俺にくれた!雪崩のとき、どうして命を懸けて俺を救ったんだ!」「そんなの全部、過去のことよ!京弥、分からないの?すべては終わったことなのよ!」汐は崩れ落ちるように咆哮した。これ以上、彼の顔を見たくないのだ。「消えて。私の前に二度と現れないで!あなたの顔なんて見たくもない。諏訪部京弥、あなたなんて大嫌いよ!」汐のヒステリックな叫び声が、京弥の心に辛うじて残っていた最後の希望を打ち砕いた。彼は呆然と汐を見つめた。胸の内には、底知れぬ痛みが渦巻いていた。――結局、俺は汐を失ってしまったんだ。京弥はそれ以上言葉を発せず、ただ汐を見つめ続けた。しかし、京弥の妨害があっても宴会は止まらない。月森家は規模こそ小さいとはいえ、ここまで公の場で侮辱されれば怒りが湧く。「諏訪部さん。あなたほどの御方が、私の婚約披露宴を台無しにするのはいかがなものでしょうか。初実も言った通り、彼女はもうあなたを愛していない。無理強いは止めていただきたい」陸は顔をこわばら