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もう二度と、夜明けは訪れない

もう二度と、夜明けは訪れない

By:  優子Completed
Language: Japanese
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出張先で事故に遭った有木翔太郎(ありき しょうたろう)が、目を覚まして最初に口にしたのは「安芸は?」という一言だった。 宮前安芸(みやまえ あき)は彼の秘書で、事故のとき、助手席に座っていた。 丸3日、ほとんど眠らずに付き添い続けた私、有木真桜(ありき まお)の目は、とうに真っ赤になっていた。それなのに、その一言を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい針を突き立てられたような痛みが走った。 「彼女なら……隣の病室にいるから。怪我は軽いみたい」 私は、やっとの思いで声を絞り出した。 翔太郎は安堵の息を漏らし、それから私の方へ視線を向けると、こう続けた。 「今回は、彼女のおかげで助かった。安芸がいなかったら、俺はきっと今頃ここにはいなかっただろう」 その言葉に、胸の奥がじわりと疼いた。ドライブレコーダーの映像を、もう確認したからだ。 事故の数秒前、安芸の唇が、そっと翔太郎の頬に触れていた。

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第1話
翔太郎の言い訳は、羽根のように軽かった。それなのに、とっくにボロボロだった私の心へ、また新たな傷を深々と刻み込んでいった。私は、深夜になぜ秘書が彼に口づけていたのかと、取り乱して問い詰めたりはしなかった。丸3日、私が彼の安否に気を揉んでいた間も、ずっと別の女のことを気にかけていたのかと、泣きながら問いただすこともしなかった。実は半月前、私は末期の肺がんと記された診断書を受け取っていた。医師から告げられた余命は、半年もないということだった。死へのカウントダウンが始まった今となっては、愛だの憎しみだの、恨みつらみなど、どれも取るに足らないものに思えた。私はただ静かに頷き、こう答えた。「うん、ゆっくり休んでね」その落ち着き払った様子に、翔太郎は少し意外そうな顔をした。眉をひそめ、何か言いたげにしていたけれど、麻酔がまだ強く効いていたのか、すぐにまた深い眠りへと落ちていった。私は立ち上がり、長時間の看病でこわばった体をほぐしながら病室を後にした。廊下の突き当たりの窓が開いていて、冷たい風が吹き込んできた。ポケットからしわくちゃになった診断書を取り出し、しばらく見つめてから、元どおりに折りたたんで奥深くにしまった。彼のために身の回りの世話をしてくれる人を手配し、入院に必要な手続きもすべて済ませた。それから彼のアシスタントに電話をかけ、仕事の引き継ぎや残務処理を任せた。すべてを終えて病室へ戻り、ベッドに横たわる翔太郎を最後にもう一度だけ見つめた。彼は深く眠っていて、整った顔は穏やかだった。彼にとっての「いつも通りの1日」が、7年に及ぶ私たちの結婚生活に終止符を打つ日になったとは、露ほども知らずに。かつて私は、彼を一生愛し続けるのだと信じて疑わなかった。けれど今、その「一生」は、もうすぐ終わりを告げようとしている。私は振り返ることなく、未練など微塵も残さずその場を立ち去った。何年も見続けてきた陳腐なドラマが、ようやく最終回を迎えたときのように。決して納得のいく結末ではなかったけれど、それでもどこか、肩の荷が下りたような気がした。
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第2話
私は、私たちが暮らしていた家へ戻った。都心の一等地にある、この広々としたマンションの一室は、私が自分の手で設計したものだ。リビングの大きな窓からは、街で一番美しい夜景が見渡せた。かつて私は、幾度となくここに立ち、残業から帰る翔太郎を待っていた。玄関には、彼が出張前に脱ぎ捨てた革靴が、まだそのまま置かれていた。つま先には、うっすらと埃が積もっていた。以前の私なら、真っ先に手に取って磨き上げ、靴箱にしまっていただろう。けれど今日は、ただ静かに一瞥しただけで、その脇を通り過ぎた。家の中は、どこもかしこも翔太郎の生活の痕跡に満ちていた。ソファに無造作に放り出されたネクタイ、書斎に開いたまま置かれた読みかけの本、ベランダで彼が手塩にかけていた多肉植物の鉢……かつては私に温もりと安らぎを与えてくれていたはずのそのひとつひとつが、今は細い針へと姿を変え、肌をちくちくと刺してきた。いつものように片付けることはせず、私はまっすぐウォークインクローゼットへ向かうと、キャリーケースを取り出した。持ち物はそう多くない。荷造りはあっという間に終わった。家を出る前、リビングのソファに腰を下ろし、翔太郎に短いメッセージを送る。【少し疲れたから、しばらく別の場所で暮らすことにする。ゆっくり療養してね】送信を終えると、彼の番号をブロックし、共通のSNSグループもすべて退会した。スマホの通知をすべてオフにすると、世界までもが一瞬にして静まり返ったように感じられた。キャリーケースを引きながら、7年もの間、心血を注いできたこの家を、最後にぐるりと見渡した。壁に掛けられたウェディングフォト。写真の中の私は翔太郎に寄り添い、幸せいっぱいの顔で笑っていた。あの頃の私は、愛する人と結婚することこそが、一生の幸せなのだと信じていた。今となっては、笑えるほど滑稽な話だ。私は歩み寄り、その大きなウェディングフォトを壁から外すと、床に伏せて置いた。すべてを終えると、振り返ることなくドアを閉めた。カチャリという無機質な音とともにドアが閉まり、私のこれまでの人生もまた、静かにひと区切りついた。
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第3話
私は両親を含め、誰にも自分の病状を明かさなかった。病院からそう遠くない場所に、小さなアパートを一室借りた。部屋は手狭だったが日当たりは良く、窓辺には青々とした観葉植物を並べた。自分なりの「やり残しリスト」を作ってみた。一つ目は、何度も締め切りを延ばしてもらっていた絵本を完成させること。そうして私はスマホを手放し、ネットも切って、毎日絵を描き、食べて、眠るだけの暮らしを始めた。私の世界は、ひどくシンプルなものになった。あまりにシンプルすぎて、自分一人しかいないように思えるほどに。その間、翔太郎のアシスタントを務める岩田航平(いわだ こうへい)から何度か電話がかかってきた。声はどこか焦りを含んでおり、どこへ行ったのか、なぜ社長からの連絡に応じないのかと、しきりに尋ねてきた。私はただ、ひとりになりたいとだけ告げて、通話を切った。……1週間ほどが過ぎた頃、翔太郎は退院の日を迎えた。彼はまっすぐ家に戻り、そこで床に伏せられたウェディングフォトと、半分空っぽになったクローゼットを目の当たりにした。航平の話によれば、翔太郎はそのとき家でひどく取り乱し、テーブルの上のものをすべて床に払い落としたという。彼は狂ったように電話をかけ、メッセージを送り続けてきたけれど、そのどれも私の耳に届くことはなかった。彼はきっと、私がこうして姿を消すことで彼を焦らせ、安芸との関係を清算させて、頭を下げさせようとしているのだと思っているのだろう。それは、以前の私がよく使っていた手だった。泣いて、わめいて、最後には脅すように迫る。そうすればいつも、彼のその場しのぎの譲歩と機嫌取りを引き出すことができたから。けれど、彼は知らない。今回ばかりは、私は本当に、もう何も求めていないのだと。私が見つからないと悟ると、彼は今度は私の友人や家族に手当たり次第に連絡しはじめた。親友の加治輪花(かじ りんか)が、あまりのしつこさに耐えかねて電話をかけてくる。「真桜、あんた本当に翔太郎と何があったの?あの人、頭おかしくなったみたいにあんたを探してるわよ。自分が悪かったから、電話に出てくれって言ってたけど」輪花の声には、深い心配がにじんでいた。私はちょうど、ベランダで絵を描いているところだった。柔らかな日差しが、描きかけの原稿に穏やかに降り注
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第4話
結局、輪花は私の新しい住所を翔太郎へ教えてしまったらしい。その日の午後、私が新しい原稿に色を塗っていると、突然、玄関のチャイムがけたたましく鳴り響いた。考えるまでもなく、誰だかすぐにわかった。私は筆を置き、落ち着いた足取りでドアを開けに向かった。そこには翔太郎が立っていた。顔は青白く、目の下には濃い隈が浮かんでいた。上等なオーダースーツもすっかり皺だらけで、事故のときよりもずっと憔悴して見えた。私を見た瞬間、彼の目の縁がみるみる赤くなった。そして私の手首を強く掴んだ。骨が軋みそうなほどの力だった。「真桜、いい加減にしてくれッ!」しゃがれた声には、押し殺した怒りと、かすかな怯えがにじんでいた。「家に帰るぞ!」私は抵抗せず、ただ静かに彼を見つめ返した。まるで淀んだ水面のように、何の揺らぎもない瞳で彼を見据えた。「翔太郎、私たちはもう終わったの」その落ち着き払った態度が、彼の怒りに火をつけた。「何が終わったって?まさか、安芸のことでか?あいつとは本当に何もない!ただの事故だったんだ!どう説明すれば信じるんだ!土下座でもすればいいのか!」彼は激しく喚いた。整った顔が、怒りに歪んでいた。彼はきっと、私がまだあの口づけにこだわっていて、説明を待っているのだと思い込んでいるのだろう。けれど、私が本当に気にしていたのは、安芸でも、他のどんな女でもない。7年間、当たり前のように積み重なっていった彼の無関心。何度も期待しては、そのたびに失望させられてきた、その一瞬一瞬だった。私は静かに告げた。「翔太郎、もうどうでもいいの」「……どうでもいいって?」彼は、とんでもない冗談でも聞かされたかのように、自嘲気味に笑った。「はっ。真桜、俺を追い詰めるために離婚とまで言い出しておいて、今度はどうでもいいだと?」彼は私の顔をじっと見つめ、そこに少しでも動揺や、自分を気にかける様子が残っていないかと探ろうとしていた。けれど、見つかるはずもない。私の顔には、もう何も残っていないのだ。愛も、憎しみも。彼の目の光が、少しずつ翳っていった。代わりに浮かんだのは、すっかり魂を抜き取られたような茫然とした表情だった。彼は私の手を離し、一歩後ずさった。まるで全身の力を使い果たしたかのように。そのとき、前触れも
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第5話
翔太郎の表情は、まるで時が止まったかのようだった。驚愕、恐怖、そして底知れない茫然自失。それらが絡み合い、奇妙な仮面のように顔に貼りついていた。「お前……何を言ってるんだ!?くだらない冗談はやめろ!」彼は一歩踏み出し、私を掴もうとしたけれど、その手は宙で震えるだけだった。私は体をかわし、静かに繰り返した。「冗談なんかじゃないわ。末期の肺がんよ。医者は、もっても半年だって言ってる」私はポケットから診断書を取り出し、彼の前へ差し出した。その1枚の紙を、彼は全身の力を振り絞るようにして受け取った。まるで途方もない重みでもあるかのように。彼の視線が「末期」という文字に釘付けになった。魂を抜かれたように、その体がふらりと揺れた。「そんな……そんなはず……っ」彼はうわ言のように繰り返した。自分自身へ、これは悪夢なのだと言い聞かせるかのように。「どうせ嘘だろう?俺に離婚届へサインさせるために、わざと作り話をしてるんだろう!?」そんな彼の呆然とした様子を見ても、私の心は少しも動かなかった。人は極度の衝撃を受けると、まず否定から入るものなのか。そんなことを、どこか冷めた頭で考えている自分がいた。「信じても信じなくても、あなたの勝手よ」私は目を逸らし、ドアを閉めようと背を向けた。「もう帰って。疲れたから」「真桜!」彼は勢いよく手でドアを押さえた。声は古いふいごのように掠れていた。「病院に連れて行く、世界中のどこでも、最高の病院に!きっと何か方法があるはずだ!」彼はまた、いつもの何でも思い通りにできると信じていた翔太郎に戻っていた。金と権力さえあれば、すべて解決できると思い込んでいるのだ。そんな彼を見ていると、なんだか哀れに思えてきた。「翔太郎、まだわからないの?」私は静かに言った。「これは私自身の問題。あなたにはもう関係のないことよ」その言葉は鋭い刃のように、彼が必死に守っていた最後の一線を突き崩した。彼の大きな体が、力なくドア枠にもたれかかった。目の充血がみるみる広がり、私の前で初めて、これほど脆い表情を見せた。「関係ない……」彼は乾いた笑いを漏らした。「真桜、俺たちは夫婦だろう。お前のことが俺に関係ないなんて、そんなはずがあるか」「もうすぐ、そうじゃなくなるわ」私
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第6話
定期的な化学療法が始まり、私の生活は治療の予定を中心に回るようになった。化学療法の副作用は重く、吐き気、脱毛、そして体の芯まで重くなるような倦怠感が続いた。病院の腫瘍内科で、私は森田陸(もりた りく)と出会った。彼は患者ではなく、ここの研修医だった。24、25歳くらいだろうか。白衣姿は、朝の光のように清々しく、笑うと目尻が柔らかく下がった。初めて彼と会ったのは、化学療法のあと、ひどい吐き気に苦しんでいたときだった。ちょうど通りかかった彼が、何も言わずにぬるま湯とミント飴を差し出してくれたのだ。「少しは楽になりますよ」穏やかな声だった。その後、顔を合わせる機会が増えるにつれ、彼は自分から声をかけてくれるようになった。私がイラストレーターだと知ると、興味深そうにスケッチブックの絵を眺めることもあった。「お上手ですね。なんというか……とても静かな力を感じます」彼は、私が描いた海の絵を指差してそう言った。その日、翔太郎はまた、呼ばれもしないのに現れた。彼は高級そうな保温ポットを手に提げていた。中身は、誰かに頼んで何時間もかけて煮込ませたという、栄養たっぷりのスープだった。私の病気を知って以来、彼はこんな不器用なやり方で、私の生活にもう一度入り込もうとしていた。彼がドアを押し開けたとき、私はちょうど廊下の日差しの下で陸と話していた。陸は私の原稿を指差しながら楽しそうに笑っていて、私も久しぶりに肩の力が抜けたような笑みを浮かべていた。翔太郎の足がピタリと止まった。彼は陸をじっと睨みつけた。その目には、独占欲と嫉妬が隠しようもないほど露わになっていた。彼は大股で歩み寄ると、まるで縄張りを主張するかのように、私の隣の椅子へ保温ポットをどんと置き、私と陸の間に割り込んだ。「……こいつは誰だ?」翔太郎が声を低くして私に尋ねた。有無を言わせぬ詰問口調だった。私は彼を見る気にもならず、ただ陸に向かって微笑んだ。「森田先生よ。私の主治医」陸はその場の空気が張り詰めたのを感じ取ったようだったけれど、それでも礼儀正しく振る舞い、翔太郎へ手を差し出した。「はじめまして、森田です」翔太郎は差し出された手には目もくれず、釘のような視線を私に据えたまま、保温ポットをさらに前へ押し出した。硬い声で言った。「熱い
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第7話
翌日、輪花が見舞いに来たとき、いつになく険しい表情を浮かべていた。「翔太郎のやつ、頭おかしくなったんじゃないの?」彼女は差し入れをベッドサイドに置きながら言った。「昨夜、私に電話してきて、あの森田先生って何者なのかとか、あんたに彼から距離を置くように忠告しろとか」私はリンゴを剥いていた手を、一瞬だけ止めた。それから、何事もなかったかのように作業を続けた。「もっとひどいのはね!」輪花は怒りで声が一段高くなった。「病院に勤めてる友達に聞いたんだけど、今日の午前中、あんたが通ってる診療科の部長のところまで行って、森田先生を異動させようとしたらしいの!」剥きかけのリンゴが手から滑り落ち、壁の隅まで転がっていった。驚いたからではない。背筋が凍るような寒気が走ったからだ。彼が私の病気を知って、せめて残りわずかな私の時間くらいは尊重してくれるだろうと思っていた。彼の後悔が、少しは自分の行いを省みるきっかけになるだろうと、そう信じたかったのだ。けれど、私が間違っていた。翔太郎の根っこにある傲慢さと支配欲は、何ひとつ変わっていなかった。彼は反省しているのではない。ただ、物事が自分の手を離れていくのが我慢ならないだけなのだ。彼は私を愛しているわけではない。ただ、「自分のもの」が他人に笑顔を見せるのが許せないだけなのだ。それまで保っていた平静が、初めて怒りに呑み込まれた。私は予備のスマホを取り出し、着信拒否リストから翔太郎の番号を探し出して、通話ボタンを押した。電話はほとんど即座につながった。焦りながらも、どこか嬉しそうな彼の声が聞こえてきた。「真桜!?よかった、やっと……」「翔太郎」私は冷たく彼を遮った。「腕のいい医者を手配して、どんなに高価な薬でも使わせて、それから私の心を安らげてくれる人を全部追い払う。それが、私のためだとでも思ってるの?」電話の向こうで彼が黙り込んだ。「これは埋め合わせなんかじゃない。あなたが、自分の身勝手な支配欲を満たしているだけよ」私の声は大きくなかったけれど、一言一言が氷のように冷たかった。「私に残された時間は、もう長くない。お願いだから、これ以上私をうんざりさせないで。もう、放っておいてくれない?」「違う……俺はただ、お前が心配で……」彼の声には
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第8話
私は青港市へ行くことに決めた。大学時代、ふたりで訪れた、あの海辺の小さな街だ。今の私の体は、本来なら長旅に耐えられる状態ではなかった。陸も反対した。「真桜さん、検査結果もかなり不安定です。長距離の移動はリスクが大きすぎます」彼は眉をひそめ、真剣な口調で言った。「森田先生」私は彼を見つめ、真摯に答えた。「私にとっては、このまま病室のベッドで寝ていても、残された時間が延びるわけじゃないんです。でも海を見ながら過ごせたら、少しは気持ちが晴れると思いますから」陸はしばらく黙り込んでいたけれど、最後にはため息をついた。「現地で受診できる医療機関を確認して、緊急時に必要な薬も用意しておきます。でも、少しでも体調が悪くなったら、すぐに旅を切り上げると約束してください」「わかりました。ありがとうございます」私は感謝の気持ちを込めて笑いかけた。翔太郎は、どこからか私の計画を聞きつけたらしい。退院して駅へ向かおうとしたその日、黒い車が猛獣のように滑り込み、私の乗ったタクシーの進路を塞いだ。彼は車から降り、大股で私の前まで歩み寄った。充血した目が、彼を狂気じみて、そしてひどく憔悴して見せていた。「行かせないぞ!」彼は私の腕を掴んだ。骨が軋みそうなほどの力だった。「お前の体じゃ絶対に無理だ!何が欲しいんだ、何でもしてやる!海が見たいなら、海辺を丸ごと貸し切ってやる。日の出が見たいなら、俺は……」「翔太郎」私は落ち着いた声で言い、彼を見つめた。「私が欲しいものは、あなたからは得られないの」「バカな!得られないわけないだろ!」彼はほとんど叫んでいた。「真桜、もう俺を苦しめるのはやめてくれ!一緒に帰って、ちゃんと治療しよう!」「あなたを……苦しめてる?」私は彼を、まるで駄々をこねる子どもでも見るような目で見た。「最初から最後まで、私を苦しめてきたのは他でもなく、あなたよ。以前は冷たい仕打ちで、今度はその独りよがりな愛情で。あなたの顔を見るたびに、こんな短い私の人生そのものが、ひどく馬鹿らしく思えてくるって、考えたことある?」彼の体が激しく震え、顔からさっと血の気が引いていった。私は力任せに彼の手を振りほどき、一言一言、はっきりと告げた。「人生最後の旅くらい、もうあなたの顔を見ずに過ごしたい
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第9話
青港市の海は、記憶の中と変わらず青かった。海の見える小さな宿に泊まり、毎日何もせず、ただベランダの寝椅子に座って波の音を聞き、潮の満ち引きを眺めて過ごした。体の痛みは何度も襲ってきた。寄せては返す波のように。それでも私の心は、これまでにないほど穏やかだった。私は絵本の最後の1ページを完成させた。描いたのは、海辺にひとり座る少女。水平線から昇る太陽を見つめる彼女を、まばゆい光が全身ごと包み込んでいた。タイトルは、「新生」と名づけた。翔太郎は、やはり追いかけてきた。驚きはなかった。彼は、どうやっても振り払えない影のようなものだった。彼は私を邪魔することなく、ただ毎日車を走らせて、宿から少し離れた場所に停めていた。車の中に座ったまま、まるで執念深いストーカーのように、1日中こちらを見つめていた。たまに階下へ降りて砂浜を散歩すると、背中に張りつくような彼の視線を感じた。気にはしなかった。見たいなら、見せておけばいい。見せてあげよう。彼のもとを離れたあと、私がどれほど穏やかに死へ向かっているか。そして、その穏やかさの中で、いかにして最終的な安らぎを手に入れたかを。それが、彼への一番残酷な罰なのかもしれない。日の出を見るため、私は午前4時に目覚まし時計をセットした。その夜、体の痛みは異常なほど激しく、痛み止めを2錠飲んでようやく眠りに落ちた。目が覚めたとき、外はすでにうっすらと明るくなっていた。私は体を起こそうとしたけれど、立ち上がる力すら残っていなかった。目の前がぐるりと回り、そのまま床へ重く倒れ込んだ。朦朧とする意識の中、ドアがバンと激しく開け放たれる音が聞こえた。翔太郎が飛び込んできた。その顔は、今にも壊れそうなほどの恐怖に染まっていた。彼は私を抱き上げ、狂ったように外へ駆け出した。腕が震えていた。声も震えていた。「真桜、大丈夫だ、病院に連れて行くから……お前はきっと助かるから……!」私は彼の腕の中で、もう言葉を発する力すら残っていなかった。自分の命が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、急速に流れ去っていくのを感じていた。私はどうにか頭を持ち上げ、車窓越しに、遠くの水平線を見た。赤い太陽が、闇を押しのけるように、ゆっくりと昇り始めていた。金色の光が、一瞬にして世界を包み込んだ。
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第10話
私の意識は、引いていく潮のように、ゆっくりと、しかし抗いようもなく、確実に遠ざかっていった。翔太郎の心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえた。どくん、どくんと、まるで彼自身の胸を内側から打ち砕こうとするかのように激しく鳴っていた。彼は何度も何度も私の名前を呼んだ。かつては胸を高鳴らせ、そしていつしか胸を引き裂いた、あの響き。今はもう、どこか遠い世界から届く音のように聞こえた。応えたくなかった。ただ、疲れ果てていた。病と化学療法にすっかり傷めつけられたこの体が、ようやく終わりを迎えようとしていた。恐怖はなかった。ただ、不思議なほどの静けさだけがあった。まるで、長い旅を続けてきた旅人が、ようやく地平線の果てに帰る家を見つけたように。車窓から差し込む金色の光が、優しく私の顔を包んでいた。ずっと昔、同じこの青港市で、翔太郎と小さな旅館に泊まったことを思い出した。彼は自信たっぷりに言っていた。「真桜、これから毎年、一緒に日の出を見に来よう。歩けなくなるまで、ずっと」あの頃の彼は若さに満ち溢れていて、その瞳は、日の出よりもまばゆく輝いていた。けれど、私たちがあの約束を果たせたのは、たった一度きりだった。それから迎えた数え切れない朝、彼は眠っているか、あるいは別の誰かのそばにいた。報われなかった時間、ひとりで待ち続けた夜、流れ続けた涙。そのすべてがこの瞬間ふっと軽くなり、もうどうでもよくなっていった。彼を、許したのだろうか。違う。私が許したのは、かつて彼のために傷だらけになった、あの頃の自分自身だった。最後の力を振り絞り、私は少しだけ顔を向け、もう一度あの美しい日の出を見ようとした。視界がぼやけ始め、光がいくつもの眩しい欠片となって滲んでいった。その光の向こうに両親が立って、微笑みながら私へ手を振っているような気がした。死とは、こういうものだったのか。枯れ葉が土に還るように、疲れた鳥がねぐらへ帰るように。「翔太郎、ほら。夜が明けたわ……」私は、静かに目を閉じた。
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