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第8話

Author: 黒崎 燕
琴音の心には、突然どうしようもない無力感が広がった。

彼女は苦く唇を歪め、静かに言った。「もういい、どう思われても構わない。どうせ何を言っても無駄だから」

「パパ、この悪い女が認めたよ、ちゃんと罰を与えないと!」

陽向は光希の袖をしっかりと握りしめながら、こっそりと紗英の方をうかがった。

目が合うと、紗英はわずかにうなずき、陽向の強張った顔がほんの少しだけ緩んだ。

光希はしゃがんで陽向の頭を優しく撫で、「いい子だね、陽向。俺が必ず守ってあげるから」と慈しむように言った。

そして、声色を一変させて冷たく命じた。「誰か、琴音を家の仏壇の前で反省させろ。俺が許すまで絶対に出させるな」

光希の決断は絶対的で、誰にも変えられなかった。

そう言い終わると、光希が自ら紗英を立ち上がらせ、三人家族で何も言わず玄関へ向かった。彼は、最後まで琴音の方を一度も振り返らなかった。

紗英だけが挑発的な視線で琴音を見つめ、その勝ち誇った目が琴音の心を鋭く刺すようだった。

外で車のエンジンがかかるのを見て、結衣はようやく満足そうにうなずき、年長者らしい態度で手を振り、そばの使用人に琴音を無理やり連れていくよう命じた。

この家で何年も仕えてきた使用人たちは、みな心苦しげな顔をして、そっと琴音の耳元でささやいた。「琴音様、心配しないでください。私たちは琴音様がそんな人じゃないって信じてます。光希社長もきっと何か事情があるんだと思います。本当に琴音様のことを愛しているから、絶対に苦しめたりしませんよ」

琴音は力なく微笑み、もういいやと心の中で呟いた。どうせもうこの家を出ていくのだから、すべてがどうでもよかった。

彼女は仏壇の前で三日三晩ひざまずき、想像以上に苦しい日々を過ごした。

本邸の使用人たちは明らかに誰かに命じられ、罰を与えていた。数えきれないほどの嘲りや罵り、数時間ごとに連れ出されては何度も殴打された。

棒で打たれる痛みが全身に降り注ぐ中、琴音は必死で声を出さずに耐えた。

唇を強く噛みしめ、口の中に広がる鉄の味にも、心の奥に沈む絶望にも、ただじっと耐えた。

ふと、七年前のことがよみがえった。光希が自分を嫁入りさせるために黒澤家の仏壇で三日三晩ひざまずき、骨折した肋骨がつながったばかりで、一生残るかもしれない後遺症と闘ったあの時のこと。

結衣が光希を追い詰めただけでなく、莉子や琴音の両親も皆で琴音に説得した。黒澤家が代々、跡継ぎを何よりも重んじてきたことは誰もが知っていた。

その時、琴音は光希を思いやり、ふたりの愛が何よりも強いと信じて、大きな重圧の中で彼と結婚した。

今思えば――これは自分が愛を見誤った報いなのかもしれない。

ただ、光希――どうか一生、後悔などしないでほしい。

四日目の朝、ようやく仏壇の部屋の扉がゆっくりと開いた。光希が中へ入ってきた。

「琴音、迎えに来たよ」光希はそう言い、かすれた声でやつれた表情を浮かべていた。

琴音はその声をまるで耳に入れず、ただ呆然と無数の位牌を見つめていた。

そう、黒澤家の仏壇は歴代の当主たちがずらりと祀られ、香の煙が絶えることはなかった。

自分が愚かだった。光希が子供を手放すと信じてしまって。

――この結末はすべて自業自得だった。

琴音は光希のことを無視し、ゆっくりと立ち上がった。長く膝をついていたため脚は痺れ、少し動いただけで背中の傷もずきずきと痛んだ。

なんとか立ち上がったが、そのまま崩れるように前に倒れかけた。

光希がとっさに抱きとめて、転倒を防いだ。

「琴音、悪いことをしたら罰を受けるべきだ。そうでないと子供に示しがつかない。しかも今回の罰はただの正座だけだろう?」

「ただの正座?」もしそうなら、この服の下の傷は一体どうするというのだ。

琴音は苦笑し、光希を振り払った。「光希は前、私に何て言ったのかを覚えてる?私が嫌がるならその子を追い出すって」

光希は眉をひそめ、ため息混じりに答えた。「琴音、黒澤家には跡継ぎが必要なんだ。陽向は最良の選択だ。夫婦は一つなんだから、ちょっとは俺のことを考えてくれよ」

この言葉を、琴音は何度聞かされただろう。自然と冷笑がこぼれる。「そう、てっきり本当の息子なのかと思ってた」

光希は一瞬息を詰まらせ、視線を逸らした。「そんなわけない、俺が愛してるのは琴音だけだ。でも、陽向は本当にいい子なんだ」

もはや愛しているかどうかなど、琴音にはどうでもよかった。

何年も積み重ねてきたものが崩れ去り、心の奥に閉じ込めていた感情が今にも溢れ出しそうだった。

「光希、いつまで――」騙すつもりなの?

そう言いかけた時、紗英が突然部屋に入ってきた。

「光希、陽向が遊園地に行きたいって駄々こねてるの。一緒に行こうよ」そう言いながら琴音を見て、「でも琴音様、その顔色じゃ無理そうだね……」

「彼女は行かない」光希は冷たく決めつけ、琴音の意思を無視した。

無表情で琴音を見下ろし、「明日は陽向の誕生日だから、黒澤家は本邸でパーティーを開くんだ。その場で陽向の身元を発表する、母親としてしっかり準備しておいてくれ」と命じた。

「陽向の母親」…その響きに琴音は心底嫌悪を覚え、心の中で冷笑した。

彼女は足を引きずりながら仏壇の部屋を出て、遠くに莉子の姿を見つけた。彼女は心配そうに琴音を待っていた。

琴音は迷わず莉子のもとへ向かった。背後から光希の声が聞こえた。「琴音、俺は陽向を遊園地に連れて行くから、今夜は帰らない。ゆっくり休んで。明日迎えに来るから」

琴音は振り返らず、小さく「うん」とだけ答えた。

なぜだろう、その背中が遠ざかっていくのを見ていると、光希の胸に不安が広がっていった。

でも自分に言い聞かせた、もう甘やかすことは許されない。琴音のプライドを知っている。陽向が黒澤家に戻るためには、この対立を避けては通れない。

光希は琴音がきっと自分を愛していると信じていた。最初の反発が過ぎれば、きっと受け入れてくれると――

一方、琴音は莉子に支えられながら車に乗り込んだ。

「琴音、荷物は全部持ってきた。それと、この封筒は紗英から預かったものよ」

琴音は封筒を開き、中の離婚届を見た。最後には光希のサインがしっかりと記されていた。

車窓越しに、三人家族が笑いながら別の車に乗り込むのを見つめ、琴音の瞳は冷ややかに光った。「莉子、空港へ行って。今すぐここを出る」

光希、今回の選択で、私はあなたを捨てることにした。

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