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極北の静寂に包まれた研究塔の最上階。 分厚い石壁の寝室には、規則正しく穏やかな、シルヴィアの寝息だけが満ちていた。 カーテンの隙間から差し込む蒼白い月光が、ベッドに横たわる白銀の魔女の横顔を照らしている。 軍服風のドレスを着崩すこともなく、ただ静かに目を閉じているその姿は、まるで氷の彫像のように冷たく、侵しがたい神聖さを漂わせていた。 カサリ……。 床にエプロンを落としたルミナは、気配を完全に消したまま、音もなくベッドの傍らへと歩み寄った。「…………」 言葉を発することのない唇が、わずかに微熱を帯びて開かれる。 ルミナの細く白い指先から、甘く芳醇な香りを孕んだ薄紅色の霧が、ふわりと立ち上った。 それは、ルミナが自らの体内生成器官で調合した特殊分泌液――【深層催眠・弛緩霧】。 シルヴィアが鼻腔からその香りを吸い込むたび、強固な精神防壁は自覚のないまま解きほぐされ、意識の深度は夢のさらに奥底、快楽の刺激だけに反応する無防備な領域へと沈められていく。「ん……ぅ……」 シルヴィアの眉間のシワが、ふっと消えた。 寝息が一段と深くなり、唇が小さく緩む。 ルミナの翡翠色の瞳が、暗闇の中で艶やかに細められた。 彼女は愛おしそうに手を伸ばすと、その指先をドロリと柔らかな半透明の触手へと変形させた。 スルスルと滑り込む、数本の細い触手。 触手の先端は、シルヴィアの軍服ドレスの銀ボタンを一つずつ、音も立てずに外していく。 硬質な襟元が割れ、白いシャツの隙間から、月光を反射する滑らかなデコルテが空気に晒された。 さらに、手袋を脱がせ、ブーツを脱がせ、カッチリとしたスラックスを滑り落とす。 普段は厳格な規律の鎧で全身を覆い隠している白銀の魔女の素肌が、今、無防備にベッドの上に投げ出されていた。 無駄な脂肪のない、鍛え上げら
吹き荒れる極夜の吹雪を眼下に見下ろす、北方の最果て。 永久凍土の上にそびえ立つ白亜の研究塔――『氷嶺の牙』の最上階で、私は羊皮紙に走らせていた羽ペンを止めた。「……ふむ。第十四術式の魔力変換効率、予定値より〇・三%の向上か。 理論の補正はこれで完了だな」 私――『白銀の魔女』シルヴィアは、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷たい青の瞳で実験結果を眺めた。 カッチリとした軍服風のドレスに、一切の乱れなく結い上げられた白銀の長髪。 無駄を極限まで削ぎ落とし、規律と論理のみで世界を構築する。 それが私の生き方であり、魔女としての誇りだった。「マスター。計算補助の検証ログ、並びに温かいハーブティーを用意いたしました」 背後から、一切の足音もなく現れた人影が、完璧な角度で一礼する。 私自身が錬金術と生体魔術の粋を集めて作り上げた、最高傑作の人造生命(ホムンクルス)――ルミナだ。 仕立ての良い黒白のメイド服に身を包み、透き通るような白い肌と、感情の起伏を感じさせない翡翠色の瞳。 無口で、無駄口を叩かず、私の思考を寸分の狂いもなく先回りして作業を完遂する。 まさに、私にとって理想の助手であり、完璧な被造物だった。「ご苦労、ルミナ。いつも通りの的確な仕事だ」 差し出されたティーカップを受け取り、口をつける。 温度は常に私の好む六十二度に保たれ、精神を鎮める北方の高山植物の香りが心地よく鼻腔を抜けた。「……そういえば、南方のノクス領から妙な噂が届いているな。 ヴェラやエヴリン、ステラたちが、揃いも揃って男や得体の知れない存在に骨抜きにされ、夜会で痴態を晒したとかいうくだらない風聞だ」 私はティーカップをソーサーに戻し、小さく鼻を鳴らした。「愚かしい。何百年も生きた魔女ともあろう者が、恋愛などという非効率極まりない情動のバグに惑わされるとは。
「おいおい、小僧。どきな。 俺はこの極上の魔女殿に、男というものを教えてやろうと――」 隣国の特使カルロスが、ギラギラとした下卑た笑みを浮かべ、私の肩へ分厚い手を伸ばそうとした。 その瞬間。 大広間の時が、完全に凍りついた。 王族も騎士団長も、誰もが泡を吹いて卒倒しかけ、自国の滅亡を確信して目を覆う。 だが、事態を最も迅速に、そして最も狂気じみた精度で認識したのは――三魔女を取り巻く『三者の捕食者たち』だった。(((……俺の(私どもの)聖域に、ゴミが触れようとしたな?))) アシュだけではない。 エヴリンの腰に張り付いていたイグニスが、少年の愛らしい仮面を完全に剥ぎ取り、縦に裂けた竜の瞳を冷徹に細めた。 ステラを抱きかかえていたベータとアルファの電子眼が、無音で超高度な演算光を明滅させる。 三つ巴の、無音の殺意競争。 誰が一番、愛する主(妻)の視界を汚さずに、この害虫をこの世から削り取れるか。「……おやおや。帝国の方でしたか」 先手を打ったのは、やはりアシュだった。 アシュは、菩薩のように美しい笑みを浮かべたまま、すっと滑らかな足取りでカルロスの正面に立った。 そして、カルロスが伸ばそうとした右肩に、ぽんと優しく、労うように手を置く。「長旅で、少々お酒が過ぎたようですね」「あ……? なんだ貴様、この俺の手を――」 カルロスが苛立たしげにアシュを睨みつけ、言い返そうとした、その刹那。 ドクンッ……。 カルロスの全身の血が、逆流した。 アシュの手のひらから注ぎ込まれたのは、空間魔法の極致――【全感覚遮断・並列精神崩壊結界】。 カルロスの脳内だけに、彼がこれから経験しうる『数億通りの残酷な死の幻影』が一秒の間に何億回もループ再
王都、王城の大広間。 普段ならば、着飾った貴族たちの華やかな笑い声と、楽団の奏でる優雅なワルツが響き渡るはずの社交界の最高峰――建国祭特別夜会。 しかし、今夜の会場を支配していたのは、まるで葬儀の場のような重苦しい沈黙と、張り詰めた極限の緊張感だった。「……ま、まだ来られないのか……?」 会場の最奥、玉座の手前で、第一王子がハンカチを握りしめながら小刻みに震えていた。 隣に控える王国騎士団長も、教会の最高位司祭も、一様に青ざめた顔で脂汗を滝のように流している。 貴族たちに至っては、グラスを持つ手がカタカタと音を立て、全員が胃痛で今にも倒れそうな形相で扉を見つめていた。 彼らは知っている。 今夜現れるのは、ただの辺境貴族ではない。 すでに王都の中枢を裏から完全に掌握し、機嫌を損ねれば国ごと塵に変えてしまう本物の魔王――アシュ。 そして、彼が異常なまでに狂信し、崇拝する大魔女ヴェラ。 さらには、ルシアン山脈を揺るがす神話級火竜と、古代兵器を引き連れた伝説の魔女たち。 これは夜会などではない。 国家の存亡を賭けた、地獄の接待サバイバルなのだ。 ――ギギィィ……。 大広間の重厚な両開きの大扉が、ゆっくりと開かれた。 近衛兵の震える声が、会場の静寂を切り裂く。「ノクス辺境伯爵夫妻……並びに、特別来賓の皆様の、ご入場です……っ!」 その瞬間、会場中の貴族たちが一斉に息を呑み、反射的に左右へと分かれて道を開けた。 まるで、海が割れるかのように。「まあ! アシュ、見て! みんな道を譲ってくれて、とっても礼儀正しいわね!」 先頭を歩くのは、純白のドレスを纏った私――ヴェラだ。 月の光を紡いだような清楚なドレスは、アシュの並々ならぬ気遣い(呪い)のおかげで、冷え性の私でもぽかぽかと温かい。
「まあ! エヴリンもステラも一緒に行けるなんて、最高じゃない!」 ノクス邸のリビングで、私は届けられた三通の豪奢な招待状をテーブルに並べ、嬉しそうに手を叩いた。 王家から届いた、建国祭特別夜会への招待状。 それは私とアシュだけでなく、ノクス領に滞在しているエヴリンとステラの分まで、丁寧な金文字で記されていたのだ。「あの王家も、なかなか粋な計らいをしてくれるじゃない。 伝説の魔女が三人同時に社交界へ降臨するだなんて、間違いなく王国史上初の歴史的イベントよ! ふふっ、みんなでおめかしして、パーッと華やかに楽しみましょう!」 私が無邪気に胸を躍らせている一方。 背後に立つアシュは、極上の微笑みを崩さぬまま、その赤い瞳の奥に絶対零度の冷気を宿していた。(……王家の羽虫どもめ。 ヴェラ様お一人を呼び出すだけでも万死に値するというのに、他の魔女とその厄介な同居人どもまで巻き込んで、俺たちの聖域を乱す気か……?) アシュにとっては、王家の「少しでもノクス領の化け物たちのご機嫌を取りたい」という必死の平伏など知ったことではない。 ただただ、愛しい妻との甘美な時間を邪魔されたことへの、ドス黒い苛立ちだけが渦巻いていた。 しかし、ヴェラ様がこれほど嬉しそうにしているのだ。 主の笑顔を曇らせるわけにはいかない。「ええ、ヴェラ様。素晴らしい機会ですね。 ……ですから、夜会に向けて最高のドレスをご用意いたしました」 アシュが優雅に指を鳴らすと、空間の歪みから一体のトルソーが現れた。 そこに飾られていたのは、息を呑むほどに美しい、清楚な純白のドレスだった。 月の光をそのまま紡いだような極上の絹地は、露出を極限まで抑えた長袖のハイネック仕立て。 肌を見せる面積は最小限であるにもかかわらず、ヴェラ様のたおやかな身体のラインを極限まで美しく際立たせる、神業のようなカッティングが施さ
「……アシュ。ここは、一体どこかしら?」 私は、目の前に広がる信じられない光景に、ぽかんと口を開けていた。 今、私はノクス邸の廊下にいたはずだ。 アシュに「ヴェラ様に、ささやかなプレゼントがあります」と微笑まれ、屋敷の奥にある、普段は使っていない来客用の扉を開けさせられた。 その扉をくぐった先は。 屋敷の別の部屋などではなく――どこまでも広がる、常夏の楽園だった。「気に入っていただけましたか、ヴェラ様? あなた専用の、プライベート・スパです」 私の隣で、完璧な美貌を持つ私の愛しき夫が、極上の微笑みを浮かべている。 足元には、太陽の光を反射してキラキラと輝く、真っ白な大理石のタイル。 その先には、透き通るようなエメラルドブルーの巨大な温水プール。 プールの周りには、色鮮やかな南国の花々が咲き乱れ、心地よい微風が甘い香りを運んでくる。 少し離れた場所には、ボコボコと心地よい音を立てるジャグジーバスや、岩風呂風の広大な天然温泉まで完備されていた。 さらに驚くべきは、その後ろに建っている建物だ。 私たちが普段暮らしているノクス邸と、寸分違わぬ外観の豪邸が、この謎の空間の中にすっぽりと収まっているではないか。「あ、アシュ……。 これ、どういうこと? 私たちは今、どこかの南国に転移したの?」「いいえ。ここはノクス邸の扉の先ですよ。 正確に言えば、俺が新しく構築した『完全独立型の亜空間』の中です」「……亜空間?」 アシュは、私の手を取って優しくエスコートしながら、事もなげに言った。「はい。先日、エララ様のお茶会の空間にお邪魔したでしょう? あの時、彼女の空間魔法の術式構造を少し見学させてもらったんです。 それに加えて、ステラ様が隔離施設から持ち帰った『空間を繋ぐ鍵(オーパーツ)』。
アシュを拾ってから三年。 十五歳の彼は、私の想像を遥かに超える速度で成長を続けていた。 「――そこまで」 私が声をかけると、中庭に響いていた激しい金属音がピタリと止んだ。 「はっ……はぁっ……」 荒い息を吐きながら木剣を下ろすアシュ。 彼の足元には、私が魔法で創り出した『泥人形(ゴーレム)』が、文字通り木端微塵になって散らばっていた。 ただの泥人形ではない。 大理石ほどの硬度を持たせ、一流の騎士三人分の動きをインプットした、実践用の高度な魔法生物だ。 それを彼は、たった一人で。 しかも魔法を一切使わず、剣術だけで圧倒してみせたのだ。 「素晴らし
朝の陽ざしが、大きな窓から寝室に差し込んでくる。 「……ん」 私が微かに身じろぎすると、待っていたかのように優しい声が降ってきた。 「おはようございます、ヴェラ様。よく眠れましたか?」 目を開けると、ベッドの脇に一人の青年が立っていた。 銀色に輝く髪。 透き通るような白い肌。 そして、私のすべてを映し込むような、深く美しい赤い瞳。 「おはよう、アシュ。……ええ、とても良い目覚めよ」 私が体を起こすと、彼は流れるような動作で温かいタオルを差し出し、私の顔を優しく拭ってくれる。 アシュをあの路地裏で拾ってから、三年が経過していた。 十二歳だった彼は
アシュを拾ってから、半年が過ぎた。泥と血にまみれていた路地裏の野良猫は、見違えるように美しい少年へと成長しつつあった。毎日の十分な食事と、温かいベッド。そして私という、絶対的な庇護者の存在。それらが、アシュの本来持っていたポテンシャルを急速に引き出していたのだ。くすんでいた灰色の髪は、今や月光を吸い込んだような美しい銀色に輝いている。痩せこけていた体にも適度な筋肉がつきはじめ、背もぐんと伸びた。まだ十二歳の少年だが、すでに末恐ろし
朝。 さんさんと降り注ぐ陽光が、ダイニングルームを明るく照らしていた。 私は淹れたてのミルクティーを片手に、王都から取り寄せた新聞に目を通していた。 「……あら」 一面の大きな見出しを見て、私は思わず声を漏らした。 そこには、先日この屋敷にやってきて、私に不躾な態度をとった男の名前が踊っていた。 『バルバトス伯爵、深夜の屋敷で突如発狂! 当主の座を退き幽閉へ』 『不正蓄財と密輸の証拠も多数発見! バルバトス家、取り潰しの危機か』 記事には、伯爵が何かに酷く怯えた様子で「化け物が来る」「俺の目を潰しに来る」とうわ言を繰り返し、精神を病んでしまったと書かれてい







