食堂には焼きたてのパンの香りと薄いスープの湯気が満ちていた。
窓から射し込む朝の光が木の机にまだら模様を描き、食器の音と小さなざわめきが混じり合う。 そのざわめきは、トマスとレナータが肩を並べて座るだけでいつもより濃くなっていた。 「女王様が……」「まさか、庶民食堂に……」 ざわめきが広がり、食器の音がやけに大きく響いた。 無数の視線が一斉に注がれるのを、トマスは肌で感じた。 トマスはスープをすくいながら、落ち着かない視線を泳がせる。 「……やっぱり目立つな」 隣のレナータは、周囲のざわめきを気にも留めず、パンを小さくちぎって口に運んだ。 「気にしなくていいわ。ここで食べたいと思ったから来ただけ。誰に遠慮する必要があるの?」 その堂々とした笑みに、トマスは思わず苦笑した。 「……ほんと、強いな」 「あなたが隣にいるから、怖くなんてないわ」 レナータは肩をすくめて、少しだけ声を落とす。 「そういえば、マリナはどこかしら?」 「さぁ……今日は見てないな。寝坊なんかしないと思うんだけど」 トマスはスープの匙を止め、首を傾げる。 レナータは答えを聞いても微笑まず、カップを見つめた。 (マリナ……) その姿を、食堂の外の扉の隙間からマリナ自身がそっと覗いていた。 胸が締め付けられる。あの人の隣にいるのは、自分じゃなくてもいいのだと突きつけられるようで。 けれど、それでも二人を嫌いになれない――その複雑さが、彼女の瞳に揺れていた。 中庭のベンチに並んで腰かけると、春の風が花壇を揺らした。 花弁に宿る淡い魔力がふわりと舞い、光の粒が二人を包んだ。 トマスは周囲の視線に肩をすくめた。 「……ほら、また見られてる」 「見られてるのは知ってるわ」 レナータはパンジーの花を指でなぞりながら、隣の手を離さない。 「でもいいの。あなたの隣にいることを、隠したくないから」 「……強いな」 トマスは苦笑し、けれど胸の奥が跳ねる。 彼女の指先が自分を選んで絡まっている、その事実だけで息が詰まりそうだった。 レナータは彼の反応を楽しむように小さく笑った。 「強いんじゃないわ。あなたと一緒だから平気なだけ」 そう言って、そっと肩に身を寄せる。 衣擦れの気配と甘い髪の香りが鼻先をかすめ、トマスは息を詰めた。 「……人前だぞ」 「知ってる。でも、隠したくない」 冗談ではないと、一目でわかる眼差しだった。 トマスは視線を外し、耳まで赤くなる。 「……そういうこと言うの、ずるいな」 「ずるい?」 「俺まで、離れられなくなる」 「なら、ずっと離れなければいいのよ」 レナータは小さく囁き、彼の手をさらに強く握った。 トマスは喉を鳴らし、それでも言葉を返す。 「……俺だって、そのつもりだ」 ふたりが並んでいるだけで、花壇の花々が淡い光を放ち始めた。 魔力が共鳴するように、色とりどりの花弁が風に舞い、光の粒が中庭を染めていく。 通りすがる生徒たちが足を止め、ひそやかな声が波のように広がった。 「ほんとに……一緒にいる」 「女王様が、庶民と……」 「でも、なんだか綺麗だ」 「すご……本当に手つないでる」 羨望と戸惑いが入り混じる視線が注がれる。 けれど二人の世界は揺るがない。 繋いだ手と寄り添う肩、その温もりが、二人の世界を確かにしていた。 図書館の奥は、昼下がりの光に沈んでいた。 窓から差す光が埃を金色に染め、その奥で魔力の粒子が呼吸するように淡く揺れていた 机に突っ伏して眠るトマスの肩が、ゆるやかに上下している。 レナータは本を閉じ、彼を見つめる。 「……ほんと、頑張りすぎるんだから」 そっと毛布を掛け、髪に触れる。ためらいながら指先で撫でると、魔力が淡く揺れて光を帯びた。 その光に照らされた寝顔はあまりに幼くて、胸が震えるほど愛おしかった。 トマスが薄く瞼を開ける。 「……俺、寝てた?」 掠れた声。レナータは微笑んで首を振った。 「少しだけ。でも……可愛かった」 「そういうの……やめろよ」 頬を赤らめて逸らす横顔に、抑えきれない衝動が募る。 レナータは身を寄せ、頬に手を添えて囁いた。 「もう隠せないの。あなたに触れていたい」 迷いなく唇を重ねた。 一度目は触れるだけ。けれど魔力の粒子が弾けるように輝き、二人を包み込む。 離れると、トマスは肩で息を整えながら、掠れる声で囁いた。 「……誰か、見てるかもしれない」 「誰に見られてもいいわ」 レナータの紅の瞳は真っ直ぐだった。 「私は、あなたの隣にいたい」 再び唇を重ねる。今度は深く、熱く。 衣擦れの音が静寂に滲み、吐息が混じり合う。 レナータの指先が首筋に触れると、トマスの全身がびくりと震えた。 首筋を撫でる指の軌跡に熱が走り、耳の奥まで痺れるようだった。 「……レナータ……」 名を呼ぶ声は、抑えきれない熱を帯びていた。 彼女はその声に応えるように、唇をさらに深く押し当てる。 トマスの腕が無意識に彼女の背を抱き寄せ、距離はもうどこにもなかった。 吐息が首筋を這い、時間の感覚すら奪われていく。二度目の口づけは長く、甘く、官能的に続いた。 やがて唇が離れても、互いの額は触れ合ったまま。 紅い瞳が潤み、レナータは震える声で囁いた。 「……これが夢でも、醒めなくていい」 トマスも荒い息のまま微笑む。 「夢じゃない。俺がここにいる」 再び唇が近づき、図書館の世界は完全にふたりだけのものになった。 図書館を出ると、夜の空気はひんやりと澄んでいた。 並んで歩く二人の手は自然に絡み合い、離れる気配はない。 その前に、細い影が立ちふさがった。 エリシアだった。冷たい瞳が二人を射抜く。 「女王ともあろう人が、庶民と戯れて……学院全体に悪影響ね」 刺すような声音。廊下に置かれた灯りが彼女の横顔を照らし、冷ややかな輪郭を浮かび上がらせる。 レナータは怯むことなく見返した。 「誰と並んで歩くかを決めるのは、私自身よ」 静かな一言。 トマスは胸の奥をざらつかせながらも、繋いだ手を強く握り直す。 二人はそのまま数歩を進んだ。緊張の余韻がまだ胸を締めつける。 ──その頃、少し離れた場所で。 マリナは二人の背を見つめていた。 胸の奥に痛みが走り、それでも二人を失いたくなくて、足は止まらなかった。 (あの人の隣に立つ資格があるのは、やっぱり……) 自分でも答えの出せない思いを抱えたまま、息を吸い込む。 軽やかな足音が響いた。 「二人とも、お疲れさま!」 マリナは駆け寄り、息を弾ませながらも笑顔を見せる。 レナータの顔がぱっと明るくなった。 「マリナ!」 その声は心から嬉しそうだった。 空気がふっと和らぐ。 三人で歩きながら、何気ない会話がこぼれた。 「今日の食堂のパン、いつもより硬かったよね」 「確かに。スープがなかったら噛み切れなかったわ」 「俺、勉強全然進んでない……寝ちゃって」 くだらないやりとりに、小さな笑いが広がる。 マリナも自然に笑っていて、その笑顔はほんの一瞬だけ痛みを隠していた。 レナータは安心したように微笑み、トマスも肩の力を抜いた。 ほんの一瞬だけ、日常が戻ってきたように思えた。 ──けれど。 マリナがふと立ち止まり、呟くように言った。 「そういえば」 一拍の沈黙が夜気に溶けた。 「今日は鏡に何も映らなかったね」朝の石畳の道を、三人の影が並んで伸びていた。トマスとレナータが自然に肩を寄せ合い、その横にマリナが歩いている。「昨日の宿題、難しかったな」トマスが小声でつぶやくと、レナータは少し笑った。「あなたがそう言うなんて意外。私も、少し悩んだわ」「だろ? ……でも一緒にやったら、もっと早く終わったかもな」「そうね。次はそうしましょう」二人の会話に、マリナは微笑んだ。けれど胸の奥に小さな痛みが走り、その笑顔はほんの少しだけ固い。少し離れた場所から、その光景をじっと見つめる瞳があった。エリシアだ。栗色の髪を風になびかせながら、足を止める。(あの庶民が……レナータの隣に並ぶなんて)屈辱が喉を焼く。自分が立つはずだった場所を奪われた――その思いに、エリシアの爪が掌に食い込んだ。エリシアはひとり、噛み殺すように唇を噛んでいた。(どうして……どうして私じゃなく、あの庶民なのよ)悔しさが喉につかえて声にならない。自分が女王の隣にいるべきだと信じてきたのに、気づけばレナータの視線はあの男に向いている。そんな思考を断ち切るように、影が差した。振り向いた瞬間、息が詰まる。リヴァリス・ドミニウス。光を受けて揺れる濃い茶の髪に、一筋の乱れもない。襟も姿勢も、こちらの呼吸を忘れさせるほど整っている。絵画から抜け出た王子のような横顔──けれど、その藍色の瞳に映るのは優しさではなかった。笑っているのに、目だけが冬だった。そこにあるのは支配の静けさ。「顔に出ているな、エリシア」彼の声はやわらかく、それでいて耳の奥を圧する。エリシアは拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。「……レナータはもう、庶民に心を寄せている。私じゃ止められない」リヴァリスは小さく笑った。その笑みは唇だけのもので、目は少しも揺らがない。「そんなこと、わかっていた。お前とレナータじゃ役者が違う」胸の奥がざらつく。だが、続いた言葉はさらに鋭かった。「俺の許嫁を庶民が奪う? 面白い冗談だ」藍の瞳がわずかに光を宿す。そこには怒りではなく、冷たい軽蔑しかなかった。「学院の秩序を乱すなら……相応の罰を受けてもらう」吐き捨てるような声。背筋に冷たいものが走り、エリシアはその一言が現実になる予感を拭えなかった。──不穏な圧力が、確かに始まろうとしていた。学院に不自然なざわめきが広がり始
食堂には焼きたてのパンの香りと薄いスープの湯気が満ちていた。窓から射し込む朝の光が木の机にまだら模様を描き、食器の音と小さなざわめきが混じり合う。そのざわめきは、トマスとレナータが肩を並べて座るだけでいつもより濃くなっていた。「女王様が……」「まさか、庶民食堂に……」ざわめきが広がり、食器の音がやけに大きく響いた。無数の視線が一斉に注がれるのを、トマスは肌で感じた。トマスはスープをすくいながら、落ち着かない視線を泳がせる。「……やっぱり目立つな」隣のレナータは、周囲のざわめきを気にも留めず、パンを小さくちぎって口に運んだ。「気にしなくていいわ。ここで食べたいと思ったから来ただけ。誰に遠慮する必要があるの?」その堂々とした笑みに、トマスは思わず苦笑した。「……ほんと、強いな」「あなたが隣にいるから、怖くなんてないわ」レナータは肩をすくめて、少しだけ声を落とす。「そういえば、マリナはどこかしら?」「さぁ……今日は見てないな。寝坊なんかしないと思うんだけど」トマスはスープの匙を止め、首を傾げる。レナータは答えを聞いても微笑まず、カップを見つめた。(マリナ……)その姿を、食堂の外の扉の隙間からマリナ自身がそっと覗いていた。胸が締め付けられる。あの人の隣にいるのは、自分じゃなくてもいいのだと突きつけられるようで。けれど、それでも二人を嫌いになれない――その複雑さが、彼女の瞳に揺れていた。中庭のベンチに並んで腰かけると、春の風が花壇を揺らした。花弁に宿る淡い魔力がふわりと舞い、光の粒が二人を包んだ。トマスは周囲の視線に肩をすくめた。「……ほら、また見られてる」「見られてるのは知ってるわ」レナータはパンジーの花を指でなぞりながら、隣の手を離さない。「でもいいの。あなたの隣にいることを、隠したくないから」「……強いな」トマスは苦笑し、けれど胸の奥が跳ねる。彼女の指先が自分を選んで絡まっている、その事実だけで息が詰まりそうだった。レナータは彼の反応を楽しむように小さく笑った。「強いんじゃないわ。あなたと一緒だから平気なだけ」そう言って、そっと肩に身を寄せる。衣擦れの気配と甘い髪の香りが鼻先をかすめ、トマスは息を詰めた。「……人前だぞ」「知ってる。でも、隠したくない」冗談ではないと、一目でわかる眼差しだった。
粗末な木製の家具に囲まれた部屋。窓際の魔石ランプがまだ淡く光を残し、昨日のパンが机の端に置きっぱなしになっている。そんな庶民寮の一室に、借り物の寝間着姿のレナータが腰を下ろしていた。「おはよう、レナータ」髪を結いながら、マリナは振り返る。まだ夢の中にいるような、不思議な感覚だった。「おはよう。よく眠れたわ」レナータは袖を整えながら微笑む。「あなたの部屋、思ってたより居心地がいいのね」マリナの手が止まる。「思ってたより、って…」「あ、違うのよ!悪い意味じゃなくて」レナータが慌てて手を振る。その慌てぶりが可愛くて、マリナは思わず笑ってしまった。「ふふ、女王様が慌ててる」「もう、からかわないでよ」レナータが頬を膨らませる。その表情はあまりにも普通の女の子で、マリナの胸がきゅっと締まった。(この人、本当は…こんなに可愛い人だったんだ)「ねえ、レナータ」「何?」マリナは少し躊躇してから口を開く。「昨日まで、あなたのこと怖いって思ってた。近寄りがたくて、冷たい人だって」レナータの表情が曇る。「…そう見えるのね、やっぱり」「でも違った」マリナは首を振る。「本当は優しくて、寂しがりやで…ちょっと不器用で」「不器用って…」「ほら、さっきみたいに慌てちゃうところとか」レナータは恥ずかしそうに俯く。「あなたの前だから、素が出ちゃうのかも」その言葉に、マリナの胸が痛んだ。(私の前で素を出してくれてる…でも、トマスの前ではもっと…)「マリナ?どうしたの?」「何でもない!」慌てて笑顔を作るマリナ。でも胸の奥で、確実に何かが変わり始めていた。(この人になら…負けても仕方ないかもしれない)「そうそう、昨日のことだけど」レナータが声を落とす。「トマスには内緒よ?」「うん、絶対に言わない」マリナは頷く。「私たちの秘密ね」二人の間に、新しい絆が生まれた瞬間だった。朝の学院は、いつもよりざわめきが強かった。「聞いた?女王様が庶民寮に泊まったんだって!」「まさか…本当かよ」教室へ続く石畳の廊下。壁に埋め込まれた鏡がざわざわと揺れ、そこから噂の言葉が漏れ出していた。まるで学院そのものが一斉に囁いているかのようだった。「信じられない」「相手は誰?」「トマスって…庶民だろ?」名前が出るたびに、鋭い視線がトマスに突き
石造りの教室の隅。トマスは机に腰を下ろし、静かにノートを開いていた。その瞬間、ページの上にじわりと黒い染みが浮かび上がる。インクが勝手ににじむ呪い——文字が歪み、滲んで、せっかく書いた文が黒い花のように広がって飲み込まれていく。「ははっ、またかよ。庶民用の紙は安物だからな」「ちょっと触っただけで滲むんだろ?」周囲で笑う下級貴族たち。トマスは黙ってノートを閉じ、袖で黒い染みを拭う。だが余計に汚れが広がるだけ。ページの端を押さえる指先がわずかに震える。それでも顔には怒りも悔しさも浮かばない。小さく息を吐き、彼は立ち上がった。言葉ひとつ残さず、静かに教室を出て行く。その背中には、抑え込んだ感情の重さだけが滲んでいた。トマスが去ったあと、残された貴族たちは嘲るように声を上げる。「庶民はやっぱり扱いやすいな」「黙ってりゃ、全部やり過ごせると思ってんだ」笑い声が廊下に響いたその時。「——しょうもないことはやめなさい」凛とした声が割り込んだ。振り返ると、レナータが颯爽と立っていた。金の髪が揺れ、紅の瞳が鋭く光る。「れ、レナータ様……」取り巻きは慌てて視線を逸らし、口ごもる。「で、でも……」レナータは一歩踏み出し、凛とした声で告げる。「私とエリシア、どちらの言葉が重いと思う?」一瞬で空気が凍りついた。取り巻きたちの顔色が青ざめ、返す言葉を失う。その時、奥からエリシアが現れた。笑みを崩さず、冷ややかに言う。「庶民が少し恥をかいたくらいで。女王なら気にすることじゃないでしょう?」レナータは表情を崩さず応じる。「彼らも同じ学院で学ぶ生徒よ」エリシアの笑みは深まる。「居場所を与えられているだけで十分よ」「与えられているのは私たちの方。彼らは勝ち取ってここに来ているわ」「生まれがすべてを決める世界で、努力なんて砂粒みたいなものよ」一瞬、レナータの瞳が揺れた。ほんの刹那だけ、胸の奥に寂しさが滲む。だがすぐに紅の瞳を持ち直し、静かに告げた。「……そう。あなたもそんな考えなのね。残念だわ」レナータは取り巻きに向き直り、杖を構える。紅の瞳が凛と輝き、息を呑むような沈黙が場を支配した。「とにかく、貴族の格を落とすような真似はやめなさい」凛とした声を残し、レナータは杖を下ろす。そして金髪をなびかせ、颯爽と背を向けて歩み去
石造りの回廊は、夜更けの冷たい風に満たされていた。魔力を帯びた灯火石はほとんど落ち、壁に並ぶ燭台の明かりが細く揺れている。トマスは一人、その中を歩いていた。表情は硬く、感情を押し殺したように無機質で、靴音だけが乾いた調子で響く。昨日から続く噂のざわめきはもう聞こえない。だが、その静けさこそが、彼の孤立を際立たせていた。ふいに背後から、柔らかい声が落ちてくる。「……ねぇ、少し話せる?」足が止まった。驚きに肩がわずかに震え、振り返った先に立っていたのはレナータだった。紅の瞳が夜灯りを映し込み、揺らめく光とともに真っ直ぐに彼を射抜いている。一歩近づいたレナータは、間を置いてから静かに口を開いた。「講堂でのあなた……少し驚いたわ。事実なのに、どうして否定したの?」声は穏やかだが、奥には迷いが潜んでいた。紅い瞳は真っ直ぐで、それが返答を逃がさない。トマスは目を逸らさなかった。唇を結び、硬い声を押し出す。「俺が悪者になれば、あなたは守られる。一夜の過ちは忘れるべきだ」その顔は真剣で、決意の硬さが無理やり形を作っていた。自分を切り捨ててでも、彼女を守るという意思。レナータは息を呑んだ。瞳がわずかに揺れ、吐息が震える。「……あなたのような人に会ったことがないわ」その一言は、夜の静けさに溶けて消える。二人の間に短い沈黙が落ちた。けれど彼女はすぐに顔を上げ、紅い瞳を細めて微笑んだ。「だからこそ……知りたいの。あなたの本当を」一歩近づき、声を落とす。「……深夜二時、湖を散歩しない? 誰にも邪魔されないわ」あまりにも唐突な誘いに、トマスの胸がざわついた。息を呑み、思わず冗談めかして吐き出す。「……俺なんかと?」レナータの唇が小さく震えた。だが次の瞬間、彼女はほんの一瞬だけ少女の顔に戻り、真っ直ぐに告げる。「あなたじゃなきゃ、意味がないの」心臓が強く打つ。トマスは目を逸らさず、真剣な顔で言葉を返した。「でも、それだと……また噂になる」揺るぎない瞳で、レナータは迷いなく答える。「私は気にしないわ。約束よ」胸の奥でざわつきを抱えながらも、トマスは小さく頷いた。「……わかった」満足げな微笑みを浮かべたレナータは、振り返り、静かな足取りで歩み去っていく。その場に残されたトマスのもとに、足音が近づいた。マリナだった。
講堂はざわめきに飲まれていた。女子たちの視線は氷のように冷たく、嫉妬と軽蔑を滲ませながら舞台上のレナータを射抜く。男子たちは口元を隠し、面白がる囁きを次々と落とした。「女王様、自分で冠落としただけよ」「……でも、あの鏡は本当なの?」「いや、幻影魔法の悪戯じゃないのか」「沈黙は肯定ってやつでしょ」言葉は次々と飛び交い、ざわめきは渦を巻く。笑い、嘲り、疑念。そのすべてが一人の少女を飲み込もうとしていた。舞台上に座るレナータは、紅の瞳を伏せたまま黙している。ほんの一瞬、迷いが走った。けれど答えを出すのに時間はいらなかった。そのとき、濃い栗色の髪が揺れた。氷のような灰色の瞳が、舞台を射抜く。エリシア・ロイアナ──女王の隣を歩いてきた少女。「あんなの嘘に決まってるわ。あなたが庶民なんかと関わるはずないわよね?」低い声はレナータの耳元にだけ届いた。確信に満ちたその響きに、レナータは一拍置き、かすかに微笑んで小さく答える。「……ええ」その短い返答は、講堂全体には届かない。けれどエリシアには十分だった。周囲のざわめきはさらに熱を帯びる。「女性様には幻滅だわ」「庶民程度に触れられるのか、俺もお願いしたいぜ」失笑と嘲りが波のように押し寄せる。レナータは沈黙を貫いた。胸の奥が焼ける。喉が詰まる。笑い声が突き刺さるたびに、自分が切り刻まれていくようだった。それでも女王は何も言わない。──なら、自分が言うしかない。トマスは立ち上がり、講堂に響く声で叫んだ。「あの鏡は嘘だ!俺とレナータが、そんなはずがない!」一瞬の静寂。だがすぐに嘲笑が爆ぜた。「庶民が何を必死に!」「夢見すぎだろ!」ただ一人、マリナだけが真剣な眼差しを送っていた。その瞳には心配と痛みが宿っていたが──トマスには気づく余裕はない。レナータはゆるやかに腰を上げた。紅の瞳で全員を見渡し、ふっと微笑む。「噂話なんて、好きに楽しめばいいじゃない」余裕そのものの声。ほんの一瞬の揺らぎは消え、学院の太陽を取り戻していた。だが、その余裕が、トマスの孤立を決定づけた。最後にエリシアが冷たく告げる。「レナータを守るためにも──庶民には身の程をわきまえてもらわないとね」その一言で、視線は完全にトマスへ。貴族たちは頷き合い、彼に冷笑を向ける。マリナだけが小さく「や