「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」
嵐の音だけが響く部屋に、拓也の冷たい声が落ちた。
フロアランプの灯りが彼の顔に深い影を作り、その表情は読めない。「た、ただいま……拓也。すごい嵐で、大変だったから」
平静を装って答える私の声は、自分でも情けないほど震えていた。
腕の中の子猫を隠すように、コートをぎゅっと抱きしめる。「……ふぅん。で、腕に隠してるソレ、何?」
――ミャ……
私の祈りもむなしく、コートの中からか細い鳴き声が漏れた。
その瞬間、拓也の顔があからさまな嫌悪感で歪む。「は? 猫? 捨て猫を拾ってきたのか。お前、正気かぁ? ゴミでも拾ってきたのかよ」
(バレた。最悪のタイミングで!)
心臓が氷水に浸されたみたいに冷たくなった。
(でも、この子を見捨てるなんて、もうできない)
何とか拓也を説得して、猫の世話をしないと。小さな体は冷え切っている。今すぐに温めなければ。
私が説得の言葉を考えていると、リビングの奥から知らないはずなのに聞き覚えのある、甘ったるい声がした。「拓也さーん、どうしたのー?」
現れたのは、人気インフルエンサーの坂田クルミだった。
完璧なメイクに、あざとく体のラインを強調する服。ずぶ濡れで立つ私とは、あまりにも対照的な姿だった。(坂田クルミ!?)
頭が真っ白になる。
(なんで。どうして、この人が、この部屋にいるの……?)
クルミは私を値踏みするように上から下まで眺めると、腕の中の子猫に気づいて、大げさに顔をしかめた。
「うわ、何それ、ドブネズミみたい! 汚い! 拓也さんの綺麗な部屋が、バイ菌だらけになっちゃう!」
クルミは媚びるように拓也の腕にしがみついた。拓也に向ける顔は、あくまで可愛らしい。けど私に対しては、同一人物か疑いたくなるほどに見下した表情をしてくる。
拓也はそんな彼女を庇うように、私を睨みつけた。「大丈夫だよ、クルミちゃん。こいつが拾ってきたゴミは、俺が今すぐ処分させるから」
(ゴミ……)
この子も、私も、あなたにとってはもう、ただのゴミなんだ。
投げつけられた言葉が、心に突き刺さった。クルミは勝ち誇ったように、私を見下して拓也に囁く。
「ねぇ、拓也さん。トップインフルエンサーのあなたが、こんな薄汚い女と婚約してるなんて、イメージダウンだよ? ブランド価値、だだ下がりじゃない?」
「……ああ、そうだな。クルミちゃんの言う通りだ。みのり、お前はもう俺のブランドにとって邪魔なだけだ」
「邪魔……? 拓也、あなた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
私の問いかけに、拓也は心底うんざりしたようにため息をついた。
「分かってるよ。だから言ってんだ。この婚約、なしにしようぜ。お前、クビだから」
(……クビ?)
そんな言い方、私がここの従業員みたいじゃない。
ううん、従業員以下か。ただの便利な道具。 拓也と暮らした数年間が、ガラガラと音を立てて崩れていく錯覚に囚われた。拓也は玄関のドアを指さした。
「分かったら、その汚い猫と一緒に今すぐ出ていけ!」
唇を噛みしめる。涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。
腕の中の子猫を抱き、言われた通りに出ていこうと、静かに踵を返した、その時――。「あーあ、ゴミがゴミを拾っちゃったんだね。せいぜいお似合いの場所で暮らしなよ」
クルミの嘲笑が、背中に突き刺さる。
――ぷつん、と。
私の中で、何かが切れる音がした。私は足を止め、ゆっくりと振り返る。
もう恐怖はない。あるのは怒りだけだ。「ゴミだなんて、言わないで」
はっきりと言った。
「この子は、ゴミなんかじゃない。私が助けるって決めた、かけがえのない命です!」
こんな人たちに馬鹿にされたくない。この子猫は必死で生きている。
私の魂からの叫びだった。予想外の反論に、拓也とクルミは一瞬、言葉を失う。
けれど拓也はすぐに我に返ると、面白いものを見つけたかのように、意地の悪い笑みを浮かべた。「へぇ。言うようになったじゃん。……あっそ。分かったよ」
彼の視線が、部屋の隅で不安そうに鳴いているマロンに向けられる。
マロンは、助けを求めるように私を見ていた。拓也はマロンを指さした。
「じゃあ、マロンは置いていけよ。お前はもう、こいつの飼い主でもなんでもないんだから。関係ないだろ」
私がマロンを可愛がっているのを知っていて、あえて言ったのだ。
確かにマロンはもともと、拓也の飼い犬だった。反論はできない。 拓也の悪意とマロンとの別れ。そのどちらもが私の心を締め付けた。でも今さら、彼らの言いなりにはならない。何よりも腕の中の小さな命を見放せない。
「分かった。さようなら。マロンのお世話だけは、しっかり頼みます」
そうして私は部屋を去った。
大事にしていたマロンと、数年間の思い出を残したまま。「ルナ&マロン財団」のオフィスは、私の新しい本当の居場所になった。 記者会見から数ヶ月後。 かつては段ボールが積まれていただけの空間は、今ではすっかり機能的で温かい空気に満ちている。 壁には蓮さんが撮影した、財団が支援する保護動物たちの生き生きとした写真が飾られていた。「……そうです。その子はきっと、男性に酷いことをされたトラウマがあるんだと思います。焦らず、まずはあなたが安心できる存在だと、時間をかけて伝えてあげてください」 私はパソコンの画面越しに、ビデオチャットでアドバイスを送っていた。 相手は提携を結んだ地方の小さなシェルターの代表。財団ではこうした団体といくつも提携して、ノウハウと資金を融通している。(これが、私の仕事。私が、本当にやりたかったことなんだ。一匹でも多くの命を、未来に繋ぐこと) 部屋の向こうでは、蓮さんがスタッフと一緒に写真展の準備を進めている。 第一回のチャリティー写真展は、数週間後にニューヨークで開かれる予定だ。写真集『月の光』の評判もあり、前売りチケットはかなりの販売率だと聞いている。きっと成功するだろう。 私たちはそれぞれの場所で、同じ夢を動かしていた。◇「みのりちゃん、おめでとう!」 その日の午後、オフィスのドアを開けて入ってきたのは、私が以前勤めていたペットサロンのオーナーだった。 手にはお祝いの綺麗な花束が抱えられている。「みのりちゃん、本当に立派になって……。あの時は、お店を守るために休職なんてこと言っちゃって、本当にごめんなさいね」「とんでもないです! オーナーが私を信じて、居場所を守ってくれていたから、今の私があるんです。本当にありがとうございました」 過去のしがらみは、もう何もない。心からの感謝を伝え合う。 オーナーは、私の隣で穏やかに微笑む蓮さんの姿を見て、安心したように目を細めた。「素敵なパートナーも見つかったみたいで、安心したわ。みのりちゃん、本当に良かったわね」
財団設立の記者会見、当日。 用意されたホテルの控室で、私はプロのヘアメイクさんに髪を整えてもらいながら、鏡の中の自分を落ち着かない心地で見つめていた。 服装は、蓮さんが「君に似合うと思って」と選んでくれた、若葉のような淡いグリーンのワンピース。 拓也の隣でブランドロゴが目立つ服を着て作り笑顔を浮かべていた頃とは全然違う緊張感が、私の心を支配していた。(私なんかが、こんな場所に立っていいんだろうか。ただ動物が好きなだけの、普通のトリマーなのに……) 緊張で指先が少しだけ冷たい。 私は部屋の隅に置いたルナとマロンのキャリーバッグに目をやった。 二匹は落ち着いたもので、ルナは香箱座りでうつらうつらとしている。マロンはルナの横に寄り添って、軽く尻尾を振ってくれた。あの子たちの姿を見ていると、力が湧いてくる。(大丈夫。これは拓也のための舞台じゃない。私自身とこの子たちのための――それにまだ見ぬ多くの子たちのための、始まりの場所なんだから)◇ 壇上の袖から見える会見場は、スポットライトの眩しさと、大勢の記者が発する熱気に満ちていた。 足がすくみそうになる私に、隣に立つ蓮さんが小さく頷いてくれる。 先にステージに上がった蓮さんが、力強く落ち着いた声で挨拶を始めた。 彼はまず、世界的ベストセラーになった写真集『月の光』への感謝を述べる。その物語の続きとして、財団設立に至った経緯を語った。「……この財団は、私一人では決して成り立ちません。彼女の動物に対する深い愛情と、傷ついた心を癒やす確かな技術。それなくして、この物語は始まりませんでした」 蓮さんが壇上の袖にいる私に、手を差し伸べる。「この財団の心臓部であり、私の最も尊敬するパートナー、佐藤みのりさんです」(パートナー……) 蓮さんは私を対等な仲間として、紹介してくれているんだ。 その言葉に勇気づけられ、私は一歩、光の中へと足を踏み出した。◇ マイクの前に立つ。 用意された原稿はあったけど、私はそれを見ずに自分
それから数週間後。 都心に借りたまだ真新しい匂いがする小さなオフィスで、私たちは初めての設立準備会議を開いていた。 部屋にはまだ段ボールが積まれてたままになっているが、集まったスタッフ全員の顔は希望に満ち溢れている。 ホワイトボードには、「会員制サロン事業計画」「トリマー育成アカデミー設立準備」「第一回チャリティー写真展(ニューヨーク)について」といった、具体的な議題が書き出されていく。 私たちの夢が確かな形になっていく様子を見ていると、実感が込み上げてきた。「会員制サロンの集客は、どうやりましょうか」「奇跡の猫の知名度がある。SNSでの認知度を活かしながら、みのりさんの確かな腕前をアピールしていこう」「育成アカデミーの設立については?」「基金を立てて資金を確保し、アカデミーの場所となる土地と建物を確保しなければ。資金面の問題もあるから、新築だけに限らず、既存の建物をリフォームする形でもいいですね」 などなど、議題は尽きない。 会議の最後に、蓮さんが財団のロゴマークのラフ案をプロジェクターに映し出した。 それは月(ルナ)と、ふわふわの綿毛(マロン)が、優しく寄り添うデザインだった。 オフィスの中を興味深そうに探検していたルナとマロンが、そのタイミングで私の足元にやってくる。 私は二匹を愛情を込めて撫でながら、言った。「この子たちが、私たちの希望のシンボルです」◇ 長い会議が終わって、スタッフたちが帰っていく。 オフィスには私と蓮さん、ルナとマロンだけが残った。 窓の外はもう夜。明かりがぽつぽつと灯って、都会の夜景が広がり始めている。(半年前、私は全てを失った。でも、今は……失ったものより、ずっと多くのものを手に入れた気がする。これが、私の新しい日常の始まりなんだ) 私たちはしばらく言葉もなく、大きな窓の外に広がる夜景を眺めていた。 無数のビルの灯りが、まるで宝石みたいにきらめいている。こんな景色を、こんな穏やかな気持ちで見られる日が
「新しい、こと……ですか?」 私の問いかけに、蓮さんは少しだけ微笑んだ。 彼の考えていた大きな計画を、一つ一つ丁寧に説明し始める。「君の才能と、僕の技術。ルナとマロンがくれた奇跡。これらを僕たちだけのものにしておくのは、あまりにもったいないと思わないか?」「もったいない、ですか……?」「ああ。だから、僕と一緒に財団を作らないか」 蓮さんの口から、信じられない言葉が飛び出した。「行き場のない動物たちを救い、君のような素晴らしいトリマーを育て、命の尊さを世界中に伝えていくための……『ルナ&マロン財団』だ」 彼は、私が持つ高いトリマーの技術を活かした、会員制プレミアムペットサロンの運営を提案した。 さらには後進を育てる専門アカデミーの設立。 それが財団の安定した収益の柱になる、と。(財団? 私が? そんな大きなこと、できるわけない。拓也のサポートですら、満足にできなかったのに) 拓也に利用されて自信を失っていた過去が、私の心にブレーキをかける。「で、でも、私にはそんな、経営の知識もありませんし、人前に出るのも得意じゃなくて」 しどろもどろになる私に、蓮さんは静かに言った。 私の言葉を遮らず、最後まで聞いてから。「知識は、専門家を雇えばいい。僕が欲しいのは、君の愛情とその手だ。君がいなければ、この財団は魂のないただの箱になる」 彼の真剣な言葉が、私の心の奥深くに染み込んでいく。 彼は私に着飾ったインフルエンサーになれと言っているわけじゃない。 ただ、「みのり」のままでいてほしい、と言ってくれている。(……私が、本当にやりたかったこと) 一匹でも多くの行き場のない子を助けるために、トリマーの知識と技術を使えれば。新しい家族へ繋ぐために。新しい幸せを手に入れるために……。 その夢がこんな大きな形で、実現できるかもしれ
あれから数日が経った。 ネットニュースやワイドショーをあれだけ賑わせた拓也たちの騒動も、新しいニュースの波に押されて、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。 私は蓮さんのノートパソコンで、一連の騒動の結末をまとめた記事を改めて読んでいる。 そこに書かれていたのは、あまりにもあっけない結末だった。 拓也のSNSアカウントは、度重なる規約違反によって全て永久凍結。 坂田クルミは所属事務所から契約を解除され、事実上の芸能界引退。 複数のスポンサー企業がブランドイメージを著しく毀損されたとして、拓也に対して損害賠償を求める訴訟を準備しているらしい。 記事の最後は、ゴシップサイトが報じた二人のみじめな結末で締めくくられていた。 タワマンから荷物を運び出し路上で罵り合って、そのまま別々の方向に去っていった、と。(結局、二人とも一人になっちゃったんだ。虚像の人気なんて、砂のお城みたいだったんだね。波が来たら、あっという間に消えちゃう) 私は静かにパソコンを閉じる。 心の中にあった拓也への怒りや憎しみ、恐怖は、もうどこにもなかった。(さようなら、拓也。もう私の人生に、あなたの居場所はない)◇ その日の夜、蓮さんが私の部屋を訪ねてきた。 手には、近所の小さなケーキ屋さんの箱が提げられている。「お祝いだ」 彼は少し照れくさそうに笑って、箱をテーブルに置いた。「今度こそ、私がコーヒーを淹れますね」「それは楽しみだ」 私たちは部屋の小さなローテーブルを挟んで、ささやかなショートケーキを食べる。 テレビもつけず、静かな時間が流れる。 傍らではルナとマロンが安心しきった様子で丸くなって、すやすやと寝息を立てていた。愛らしい二匹の寝顔に、思わず笑顔がこぼれた。(こんなに心が穏やかなのは、何年ぶりだろう) 拓也といた頃は、いつも何かに怯えて気を張っていた気がする。 でも今は……。 ルナとマロンと、それに――蓮さんがいるこの空
暴露記事が公開された翌朝、ネットの世界は拓也の話題で持ちきりになっていた。 蓮さんのノートパソコンの画面には、昨日までとは比べ物にならないほど大きな規模で、拓也とクルミへの非難が殺到している様子が映し出されている。(すごい……) 私はそのすさまじい勢いを、どこか他人事のように眺めていた。(たった一晩で、人の人生って、こんなに簡単に壊れてしまうんだ。昨日まで彼らをちやほやしていた人たちが、今は石を投げている) 人々の変わり身の早さが、怖くもある。 画面の中では拓也のスポンサーだった企業が、次々と契約解除を発表する公式声明が並んでいく。 ファッションブランド、コスメ会社、エナジードリンク……。 クルミが所属していた事務所も、彼女との契約解除を正式に発表した。 彼らが必死で築き上げた「キラキラした俺、私」のイメージが、根底から崩れ去っていく。「……これが、蓮さんの言っていた『先手を打つ』ということなんですね」「ああ。彼らは虚像で人気を得ていた。その土台が嘘だと証明されれば、崩れるのは一瞬だ。本物の絆で結ばれた君たちとは違う」 蓮さんの淡々とした言葉が、私の心にすとんと落ちた。◇ その時だった。 蓮さんが「……これは」と画面を指さす。 拓也が、アカウント停止を食らったメインチャンネルではなく、サブチャンネルで最後のライブ配信を始めたのだ。 そこに映っていたのは、いつものタワマンではない。 安っぽいビジネスホテルのような、殺風景な部屋だった。 拓也とクルミは、やつれた顔で並んで座っている。完璧だったはずの髪は乱れて、クルミのメイクは涙を演じたせいで崩れていた。『この度は、お騒がせして、本当に……申し訳ありませんでした……』 拓也の弱々しい声が、スピーカーから聞こえる。 この前の『悲劇のヒーロー』は演技だったけど、今回は本当に参っているようだった。目は落ち窪んで、色の濃いくまができている。『私たちは、ただ……若くて考えが足りなかっただけなんです