All Chapters of 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私: Chapter 1071 - Chapter 1080

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第1071話

この状況を前にして、若子はしばし呆然としてしまった。―どうやって、どんな顔をして受け止めればいいのか、分からない。誰よりも大切だったおばあさんが、もう自分を覚えていない。他の女を、自分の代わりの孫娘だと信じている。けれど、それを否定することすらできなかった。無理に訂正すれば、おばあさんを傷つけてしまうかもしれないから。だから、若子は苦笑いを浮かべて言った。「そうなんです。友達として......会いに来たんです」「そうかいそうかい」華は穏やかな笑みを浮かべ、「あんたも美人さんだね。名字も松本かい?赤ちゃん、ちょっと見せてごらん」「はい」若子は胸の奥の痛みを抑えながら、暁をそっとおばあさんの腕の中に預けた。石田華はその小さな命を抱きながら、うれしそうに目を細めた。「まぁ、かわいいねぇ。この子、なんて名前?」「......松本暁です」若子は声を震わせないように、精一杯こらえた。「いい名前だねぇ」石田華はうれしそうに顔を上げ、侑子へ話しかけた。「若子、あんたも修と一緒に早く子どもを作りなさいよ。おばあさん、待ちきれないよ」「......」侑子の頬が、みるみる赤く染まった。若子はその光景をただ見つめるしかなかった。胸の奥で何かが崩れていくのを感じながら、それでも表情には出さないように努めた。ちょうどそのとき、修が姿を現した。さっきまで洗面所にいたらしく、リビングに入ってきた瞬間、若子を見つけ、視線をしばらく彼女に固定したまま動かなかった。「修、あんたの話をちょうどしてたところだよ」と石田華が言った。修は一瞬、どの「若子」の話か分からず戸惑ったようだった。「おばあさん、私たちも考えているから」侑子が修の腕にそっと手を添えた。「焦らず自然に、ってことになってるよ」「そうそう、自然が一番だねぇ」その瞬間、修にも分かった―おばあさんは、本物の若子を見ても、それが誰か分からないんだ。この家での「若子」の立場は、すでに侑子に取って代わられていた。しかも修も、それを黙認している。訂正なんて、もうできない。石田華のためにも、見て見ぬふりをするしかなかった。若子は何も言わず、暁をそっと抱き直し、立ち上がった。―もう、ここにいる理由はない。「石田さん、私、ちょっと用事があるのでこれ
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第1072話

「もういいわ。行くね」若子はぽつりとそう言って、背を向けようとした。「俺、今日これから手術なんだ。明日の夜、一緒にご飯......食べてくれないか?」修の言葉に、若子は足を止める。「何のつもり?アメリカで最後に一緒に食事したときのこと、忘れたわけじゃないでしょ。今は、もう侑子がいるんだから」「......もし、俺が手術で死んだら?」その目に宿ったのは、重く苦しい決意。「手術ってのはリスクがある。もし本当に命を落としたら、もう二度と会えなくなる......だから、最後の晩餐だと思ってさ。お願い」若子はしばらく沈黙していた。そして―「......分かった。行くよ」修の顔が、ぱっと明るくなった。彼はそっと暁の額に手を伸ばして触れた。若子は避けようかと思ったけど、その優しい目を見て、黙ってその場に立ち尽くした。「可愛いな、この子」修は、じっと子どもを見つめていた。そのとき、若子の視線がふと横に向く。少し離れた場所に、侑子がこちらを見て立っていた。修と侑子の今の関係を思えば、たとえ「この子はあなたの子よ」と伝えたとして―いったい何になるというのだろう。「修。私ね、西也とはもう話をつけた。今回戻ってきて、ちゃんと向き合って、離婚するって決めた」修は驚いたように顔を上げた。「本当に?」若子は小さくうなずいた。修が何か言いかけた、その瞬間―若子が先に口を開いた。「でも、離婚したからって、別に何かが変わるわけじゃない。私はこの子と一緒に、自分の人生をちゃんと生きていくつもり。あなたと山田さんが一緒におばあさんの面倒を見てあげて。私も、時間ができたら会いに来るから」修はふうっと小さく息をついて、うなずいた。「分かった......じゃあ、明日の食事の店、予約しておくよ。暁も一緒に来てくれたら嬉しい」「......それなら、山田さんも連れてきなさいよ。どうせまた変な誤解されたら面倒でしょ」「......うん、そうだな」修は小さくうなずいた。若子が暁を抱いてその場を離れていく。修はその背中を、ただ黙って見送った。長い間、その場から動けずにいた。そんな彼の背後から、そっと腕が回される。「修......おばあさん、孫が欲しいって言ってたわ。私、叶えてあげられるかな?」侑
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第1073話

「......え?」「もう心臓移植の手術も終わって、侑子は回復してる。もう無理をする必要もない。別れればきっと傷つくだろうけど、それで命に関わることはない。だから......慰謝料としてまとまった金を渡す」「それで?それで終わりってわけ?」若子が詰め寄る。「仮にあんたが山田さんと別れたとしても、私たちの関係はもう終わったの。あんた、まさか―」「若子」修が言葉を遮った。「そんなつもりじゃない。そこまで深くは考えてない。心配しなくていい。俺、数日後に手術なんだ。この食事だけでも一緒にできないか?」若子は子どもを抱いたまま、しばらく考え込んで、それから静かに頷いた。修は嬉しそうに彼女のために椅子を引いた。彼は若子の腕に抱かれた赤ん坊を見て言った。「少し、抱かせてもらっていいか?」若子が頷き、赤ん坊をそっと渡す。修は赤ん坊を抱きしめ、その小さな存在がとてもおとなしいことに、目を細めた。「全然、遠藤には似てないな。お前にそっくりだ」赤ん坊は修の腕の中で、不思議なくらいに穏やかだった。修はそのまま赤ん坊を抱きしめたまま、椅子に腰を下ろした。「若子、このまま少しだけ、抱かせてくれ。大丈夫、俺、ちゃんと気をつける。痛くなんてしないから」若子は頷いた。「いいわ」二人の間に、静かで落ち着いた空気が流れていた。料理が運ばれてくるまでの間、修はひたすら話題を探して彼女と話した。気がつけば、二人は昔の楽しかった思い出を語り合い、思わず笑い合っていた。修の腕の中にいた赤ん坊も、そんな雰囲気に影響されたのか、ふにゃっと笑い声を上げた。若子の胸に、込み上げるものがあった。本当なら、これが家族三人の姿だったはずなのに―「修、ひとつだけ話しておきたいことがあるの」彼女は、もう我慢できなかった。「何かあったのか?」修が顔を上げて訊いた。若子はぎゅっと服の裾を握りしめた。心の中は嵐のようで、これを口に出したら、どうなるのか想像もつかなかった。ちょうどそのとき―彼女のスマホが「ピン」と鳴った。若子は画面を見た。メールが一通届いていた。タップして開くと、それは英語の添付ファイルだった。じっくり見てみると―それは修の医療検査の報告書だった。彼の胃は確かにあまり良くないが、腫瘍は見つかっていない。
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第1074話

「あんた、あれだけ何度も抗がん剤治療したのに、なんで髪が全然抜けてないの?顔色だって、全然やつれてないじゃない」若子の声には、震えが混じっていた。初めはその点にも違和感を覚えた。でも―修の説明を聞いて、なんとなく納得していた。あのメールを見るまでは。「薬の種類によって副作用は違う。全部が全部、髪が抜けるわけじゃないんだ。人によって体質もあるし」「じゃあ、あんたは本当に化学療法を受けたって言うのね?」「若子......まさか、俺が嘘ついてるって言いたいのか?治療なんて受けてないとでも?」若子は深く息を吸い、スマホを取り出して画面を開いた。「......これ、あんたの検査結果でしょ?」修はスマホを受け取り、画面を見て顔色を変えた。「なんで、お前がこれを......?」その反応を見た瞬間、若子の中で何かが確信に変わった―やっぱり、本当だった。「......あんた、私に嘘ついてたんでしょ。癌なんてなってなかった。治療もしてない。手術だって全部嘘......あんた、私に同情してほしくて、そばにいてほしくて、そんな話をでっちあげたのね?そりゃそうよね、私が治療に付き添うって言った時、やけに拒んだもの。バレるのが怖かったんでしょ」修は言葉を失い、黙り込んだままだった。若子はスマホを取り返し、乾いた笑いをこぼした。「修、ほんと笑えるわ。どうしてそんなにも何度も私を騙せるの?......こんなことでさえ、嘘をつけるなんて」―これ以上、落胆することなんてないと思っていた。でも修は、唯一裏切らないでほしいところで、いつだって裏切ってくれる。そのことだけは、決して例外がなかった。若子は立ち上がり、修の腕の中にいた赤ん坊を無理やり抱き取った。驚いた赤ん坊は、びくっとして泣き出してしまう。「ごめんね、怖かったね......泣かないで、いい子だから」若子はあわてて子どもをあやす。修も慌てて立ち上がり、必死に声をかけた。「若子、頼む、話だけでも聞いてくれ―!」「黙って!」若子が鋭く言葉を投げつけた。「聞きたくない。何もかも......もう、うんざりなの。あんたってほんと最低。そんなことまでして騙すなんて......あんた、西也のことを『手段を選ばない奴』って言ってたけど、自分だって同じじゃない!もう
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第1075話

彼女の心をぐちゃぐちゃにかき回したのは修なのに、いざとなると「いい人」みたいな顔をして―ほんとうにただ一つ、「離れてさえくれれば、私は平気になれる」どうしてそれが分からないの?いや、分かってない。彼はいつだってそう。どこまでも、自己中心的。「若子......もうこんな風にならないでくれ。確かに、俺はお前に嘘をついた。でも、それだって......お前と少しでも一緒にいたかったからで......どうすれば良かったのか、俺には......」修の声には、すがるような弱さが滲んでいた。「頼むよ......」そう言いながら、彼は手を伸ばして若子に触れようとする。けれど、若子は数歩後ろに下がり、拒絶するように叫んだ。「触らないで!!」そのとき―冷たい声が静かに響いた。まるで闇夜に現れるサタンみたいに、背筋がぞくりとするほどに。「藤沢さん、彼女が『離れて』って言われてただろ?人の言葉が通じないのか?」その声を聞いた瞬間、若子は驚いて振り向いた。すぐそこ、壁にもたれるようにして立っていたのは―黒いラフな服を着て、ポケットに手を突っ込みながら、どこか気だるげな様子の千景。だけどその立ち姿には、生まれつきの威圧感が漂っていた。「千景......なんでここに?」彼はゆっくりと体を起こして歩み寄り、若子の隣にすっと立った。修は目を見開き、言葉を詰まらせる。「なんでお前が―」「ちょっと旅行に来ただけさ。ついでに友達にも会っておこうかなって」そう言いながら、千景は若子に視線を向ける。その眼差しには、優しさがふんわりと宿っていた。「最近、元気だったか?」若子はこくんと頷いた。目が輝いていた。「うん、元気だよ」「ならよかった」そう言ってから、千景は修の方へ顔を向ける。その目はさっきとは打って変わって、冷たい光を宿していた。「彼女は俺が送る。悪いけど、もう近づかないでくれ」「お前......自分が何やってるかわかってんのか?」修の声は怒りをはらんでいた。拳を強く握りしめながら、唇を噛む。前に話したこと、全部右から左に流されたのか......?「もちろんわかってるさ。ここはB国だ、アメリカじゃない。俺の敵はいない。だからお前が心配する必要もない―ただし、お前が騒ぎ立てて、俺がここにいることを広めたいなら話
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第1076話

千景の運転する車が、ホテルへと向かって走る。若子の腕の中で、暁はとてもおとなしく、すやすやと眠っていた。ふたりとも、まるで子どもを起こさないようにとでもいうかのように、車内では一言も話さなかった。その沈黙は、ホテルの前にたどり着くまでずっと続いた。「ありがとう......でもどうしてここに?」若子が静かに尋ねる。「ちょっと旅行がてらさ。ついでに君の顔を見にね」彼の口調は、まるで風が通り過ぎるようにあっさりしていた。けれど若子には、それが本音とは思えなかった。でも、こうして彼が無事でいる。それだけで胸がいっぱいだった。一瞬、ふたりの間に沈黙が流れる。何を言えばいいのか、見つからない。やがて若子が口を開いた。「夕飯、もう食べた?」千景は首を振る。「いや、まだ」「じゃあ、上がっていかない?何か頼もうよ。私もちょうど、まだ食べてなかったの」―本当は修と一緒に食べるはずだった。でも、料理が出る前にあの嘘を知ってしまって、それどころじゃなくなった。......でも、千景は別だった。「......君、迷惑じゃないのか?」千景が少し表情を和らげて聞く。若子はくすっと笑った。「別に。だって、千景は悪い人じゃないし」「じゃあ、お言葉に甘えるよ」車を停めると、三人はそのままホテルへと入っていった。若子の部屋はスイートルームで、リビングもついている広めの作りだった。彼女はそっと暁をベッドに寝かせ、布団をかけてやると、電話を手に取って料理を頼む準備を始めた。「何か食べたいものある?」「特にないな。なんでも食べるよ」「じゃあ、私の好きなものを適当に頼むね」「うん」料理の注文を終えた若子は、受話器を置いて、リビングのソファへと戻った。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、千景に手渡す。「この数ヶ月、元気だった?」「うん、全然問題なし。見てのとおり、ピンピンしてるよ。君はどう?」若子は苦笑いを浮かべた。「私もつい最近、帰国したばかりなの。戻ってきてすぐ、西也と離婚しようって話を切り出したんだけど、彼......拒否したの。あろうことか、自分の胸を銃で撃ってまで―今、病院にいるのよ」その話を聞いて、千景の目がわずかに細まる。眉間には皺が寄った。「まさか、あいつが
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第1077話

「......あいつらも、君を愛してるんだろうさ。ただ―遠藤も藤沢も、その方法を間違えたんだ」千景の声には、どこかため息のような色が混じっていた。「間違った方法なら、最初からそんなふうに愛さないでほしいのよ」若子はきっぱりと言った。「私は、嘘をつかれるのが一番嫌い。たとえ修がガンじゃなかったって、喜ぶべきなのかもしれないけど......でも、騙されたってことが、どうしても受け入れられないの。あるならある、ないならない。なのに嘘をついて、私の弱さにつけ込むなんて......」彼女の中で、それは決して軽く済ませられることじゃなかった。「......俺は、君に会うためにここまで来た」ふと、千景がぽつりと告げた。若子は目を瞬かせる。「......なんで急にそんなこと言うの?」その疑問の視線を受けて、千景は少し照れくさそうに視線を逸らした。「君は、嘘をつかれるのが嫌いだから。だから俺も、君にだけは嘘をつきたくなかった。観光とか言ったけど、本当は......君に会うために来たんだ。ついでに観光しただけさ」その真剣な顔に、若子は思わず吹き出してしまった。「ありがとね、ちゃんと本当のことを言ってくれて」正直、こんなちょっとしたことなんて、嘘をつかれても平気だったかもしれない。でも―もし嘘をつくなら、それは絶対に、大事なことであっては困る。たとえば、他に女の人がいるとか。たとえば、病気のことをでっちあげるとか。そういうのだけは......許せないと思った。でも、こんな些細なこと―彼の正直さが、心に温かく沁みた。若子の笑顔を見て、千景の表情にもようやく安堵が浮かぶ。やがて料理が運ばれてきて、ふたりはテーブルを挟んで向かい合い、和やかに夕食をとった。重たい話はもうしない。ただ、日常のささいなことを話して、たわいもない出来事を笑い合う。―楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。すっかり夜も更け、若子は千景を部屋のドアまで見送った。「ねぇ、今どこに泊まってるの?」「近くのホテルに部屋を取ってある。今から戻るよ」「そっか......気をつけて帰ってね」「うん。君も、早めに休めよ」千景が去っていったあと、若子は静かにドアを閉める。部屋に戻り、ベッドの端に腰を下ろした―子どもはまだすやすや
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第1078話

「......お前っ」 高峯は一歩前に出て、成之に詰め寄ろうとした。だが、その鋭い視線と冷たい空気に気圧され、目的を思い出して踏みとどまる。 彼は黙ってソファへ腰を下ろすと、静かに切り出した。 「帳簿を調べたのは......お前か?」 成之は肩をすくめ、まるでどうでもいいことのように答えた。 「なんだ?お前の帳簿って、そんなに見せられないものだったのか?抜き打ち検査は合法だ。何か文句でも?」 「わざとだな......俺が、お前の妹と離婚したからって、私怨で報復してるんじゃないだろうな。離婚はあいつが納得して決めたことだ。俺はあいつに何もしてない。信じられないなら本人に聞け!こんな真似、卑劣すぎるぞ!」 「卑劣、ね......」 その言葉に、成之は鼻で笑うと、ゆっくりと椅子の背にもたれた。 「お前が俺に『卑劣』なんて言葉を使う資格があると思ってるのか?妹の件だって、本当ならとっくに落とし前をつけさせてた。けど―あいつが馬鹿みたいに庇ってたんだよ。『高峯を潰すなんてやめて』ってさ」 高峯の眉間がさらに深く寄る。 「......じゃあ、なんで今になって動いた?お前の目的は何だ......いくら欲しい?」 「賄賂?」 成之は軽蔑するように鼻を鳴らす。 「お前、俺がその程度の金に困ってると思ってんのか?」 「だったら何が目的だ。理由くらいあるだろ」 ―正直、帳簿の中身はまずい。 もし事前に通達があれば、証拠になるものはすべて消せたはずだ。 だが今回は完全な奇襲。逃げ道がない。 下手をすれば......牢獄行きだ。 成之は悠々と椅子にもたれ、鋭い視線を真っすぐに向けた。 「お前、伊藤光莉と......どこまで関係ある?」 「......っ」 その名前が出た瞬間、高峯の顔色が変わる。 「......なんで、その名前が出てくる」 「最近、伊藤さんにちょっとしたトラブルがあったみたいだな―お前が原因らしいが?」 その言葉に、高峯の顔がみるみる険しくなる。 「......お前、彼女とどういう関係だ?」 成之はゆったりと笑みを浮かべながら言い返した。 「お前が想像してるほど親しくはないさ―ただ、お前と比べたらマシだ。お前の『親密さ』なんて、無理やり押しつけただけだろ。伊藤さ
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第1079話

―もし村崎家に、西也と村崎家が血の繋がりがないと知られたら。そのときは......村崎家は一切の情けをかけず、容赦なく切り捨てにくるだろう。今のところ、紀子はこのことを黙っている。それなら―今はまだ、隠しておいた方がいい。成之が低い声で問いかけた。「......お前と伊藤さん、今さら何があるっていうんだ。まさか『まだ愛してる』なんて言う気じゃないだろうな?」「つまり......お前は、俺と光莉の関係に首を突っ込む気なのか?」成之の口調が一段と冷たくなる。「遠藤高峯、俺の我慢にも限界がある。これが最初で最後の警告だ。次に彼女を煩わせたら―今度は穏やかに済ませる気はない。今のお前の地位?そんなもん、元通りの『無一文』にしてやる。それどころか、牢屋の中に逆戻りだ」張り詰めた空気の中で、高峯は拳を固く握りしめる。その眉間には怒りの炎が灯っていた。「......あいつには旦那がいるって、知ってるよな?まさかお前、人妻に興味でもあるのか?」「ここに残って、俺と彼女の関係を詮索していくか、それとも―とっとと会社に戻って、自分の尻ぬぐいを始めるか」成之の声は、どこまでも冷静だった。「......さすがは成之さん。そっちの趣味があるとは思いませんでしたよ。本当に感心しますね」吐き捨てるように言い残し、高峯は怒りをぶつけるようにして背を向けた。バタン―重いドアが閉まる音。成之はその音にも動じず、静かにスマホを取り出し、ひとつの番号へ電話をかけた。「......ここ数日、あいつを見張っておいてくれ。ちゃんと大人しくしてるか、確認したい」......カフェの店内。若子と西也が向かい合って座っていた。テーブルの上に、若子は一通の書類を差し出す。「西也、これにサインして。そしたら、一緒に役所行って、ちゃんと手続きしよう」目の前に置かれた離婚届を見つめながら、西也の胸が張り裂けそうになった。今日、若子から会いたいと連絡がきて、正直、彼はすごく嬉しかった。けれど、会って早々に手渡されたのは―離婚届だった。彼女は、本気で離婚するつもりだった。「若子......頼む、離婚しないって選択肢はないのか?もう二度と、藤沢とは会わない。誓うよ、これからは絶対に―」「西也」若子がその言葉を遮っ
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第1080話

西也にはもう、どうしようもないってわかってた。たとえサインを拒んでも、若子が黙って済ませてくれるわけがない。 少しでも時間を稼げたら―そう思っていたのに、返ってきたのは、若子のより強い決意だった。 最後には、西也がペンを手に取った。 「......サインする。でもその前に、一つだけ聞かせてくれ」 「なに?」 「さっき言ってたよな。サインすれば、離婚しても、友達でいられるって。あれ......本当なんだよな?」 若子は短く頷いた。 「ええ」 「じゃあ......それってつまり、これからも会えるし、あの子にも会えるってことか?」 「あなたが私を困らせたり、しつこくしなければ......普通に友達としてなら、子どもに会うのを止めたりはしないわ」 子どもに向けた西也の気持ちも、世話をしてくれた日々も、若子はちゃんと見ていた。そこまで冷たくはなれなかった。 「じゃあ、昔みたいな......結婚する前の、友達に戻れるってことだよな?」 若子はまた「うん」と頷いた。 今の彼女が望んでいるのは、ただ離婚すること。それさえ叶えば、他のことはどうでもよかった。 しばらく迷った末に、西也はついにサインした。 若子は小さく息をついて、離婚届を手元に引き寄せた。そこには、しっかりと西也の署名があった。 「ありがとう、西也」 彼がサインを渋ると思っていた。けれど、こんなにもあっさり応じるとは、想定外だった。 「若子......俺たちは友達だって言ったから、俺はサインした。裏切らないでくれ」 「うん、嘘なんてつかないよ」 離婚届に両方のサインがそろったあと、ふたりはすぐに役所へ向かい、離婚手続きを終えた。それで、正式に夫婦じゃなくなった。 市役所の入口で、若子は手の中にある、離婚届受理証明書を見つめながら、思った。 ―あっという間だったな。 西也も、離婚届受理証明書をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。 そんな彼に、若子が口を開く。 「西也......これで、あなたは自由よ」 「若子、お前だってそうだ......で、藤沢と......また―」 「もう彼の話はしないで」 若子が食い気味に遮る。 「修とは無理。たとえあなたと別れても、彼と復縁するつもりはないわ。私は......彼
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