元カレのことを絶対に許さない雨宮さん のすべてのチャプター: チャプター 631 - チャプター 640

668 チャプター

第0631話

上条は処分を受けたばかりだというのに、続けざまに自分名義の二つの実験室が改善命令を貼られるのを目の当たりにした。まるで頭の上から空が落ちてきたような衝撃だった。「おば……上条先生、これからどうしたらいいんですか?」真由美は取り乱して彼女の袖をつかんだ。浩史も居ても立ってもいられず、頭をかきむしって右往左往している。期末が目前に迫ったこの時期に実験室が使えなくなれば、研究は止まってしまう。途中経過を出せなければ、期末に提出できるものなど何もない。それはそのまま成績に響き、下手をすれば卒業にも関わってくる。那月も呆然と立ち尽くしていた。考えるまでもなく、誰の仕業かは明らかだった。凛たちだ。だが思えば、自分たちも以前は同じように相手を追い込んできたのではないか。結局は自業自得……告発が一度乱用されれば、自分ができることは他人にもできる。その場で一番落ち着いていたのは亜希子だった。もともと研究に興味もなく、学問的な才能や志もなかった。大学院に進んだのも、将来の就職や結婚に少しでも箔をつけるためにすぎない。だから実験室が使えなくなろうが、研究課題に影響が出ようが、彼女にとっては大した問題ではなかった。ましてや今の彼女には海斗がいる……この男をつかまえてしまえば、残りの人生を案ずる必要はない。「……改善とは言っても、期間は示されていません。いつまでかかるんでしょう?」浩史は焦りを隠せず口を開いた。「雨宮たちの実験室を見ればわかるだろう。二ヶ月近く経ってもまだ通っていない。まさか僕たちまで、あの人みたいに自分で実験室を作るわけにはいかないだろう?」自分で実験室を作る……上条はその言葉に目を光らせ、振り向いて那月を見た。その瞬間、那月の背筋に冷たいものが走った。那月は乾いた笑いを漏らした。「実験室なんて簡単に建てられると思ってるの?資金はまだしも、土地と認可が一番の難関よ。誰が用地を手に入れられるの?政府に顔が利いて、特別扱いしてくれる人に当てなんてある?……浩史、あんたにある?真由美は?」浩史は渋い顔で言った。「ただの口先の話だろ、なんで僕を指名するんだよ」真由美は首をすくめ、黙ってやり過ごそうとした。上条はようやく実験室建設の考えを打ち消した。那月はほっと息を吐いた。馬鹿にし
続きを読む

第0632話

章夫の表情はようやく和らいだ。「……大谷の方は、慰めておいた方がいいのではないか?」「いや、必要ない」大介は静かに答えた。「大谷のことは分かっている。彼女の関心は権力争いにも内輪揉めにもない。学問に腰を据えて取り組める、貴重な人材だ」「だが、彼女の指導する三人の学生と、新聞で大きく取り上げられた実験室は……」大介は机を指で軽く叩いた。そこには『帝都日報』が広げられており、ちょうど凛たち三人が自分たちで実験室を設立したことを報じた紙面が開かれていた。沈黙がしばし続いた。章夫も言葉を発さなかった。やがて、大介が口を開いた。「……そのままにしておけ。この三人の学生は資金も土地も持ち、審査の関門まで通してしまった。確かに只者ではない。だが、実験室を作ったからといって成果が出るとは限らない。先のことはまだ分からない。仮に成果が出たとしても、学校の名義になる。大局に影響はない」章夫は鼻で笑った。「大学院一年生の三人が、いったいどんな成果を出せるというんだ?雨宮がScienceに一度載ったことがあるとはいえ、あれは評論記事であってResearch論文じゃない。格が全然違う」だがその言葉は、ほどなくして大きく覆されることになった。研究室の完成からわずか半月後、凛・早苗・学而の三人が共同で執筆した論文Computational principles and challenges in single-cell data integration(『単細胞データ統合の計算原理と課題』)がNature Biotechnologyに掲載されたのだ。この報せはたちまち学内を騒然とさせた。Nature Biotechnology、通称NBTは、世界三大トップジャーナルの一つ・Natureの姉妹誌であり、バイオテクノロジー分野の最新成果を扱う。生物科学領域でも最高峰の雑誌の一つであり、インパクトファクターは33.1。要するに、発表レベルで言えば真由美がこれまで出してきた国内誌の論文など、比べものにならなかった。特筆すべきは、この論文が「ボーダレス」の名義で掲載され、研究科どころか大学とも一切関わりがなかったことだ。論文の「謝辞」にも、「B大学」や「生命科学研究科」といった名称はまったく記されていなかった。この知らせを受けた章夫は
続きを読む

第0633話

「そんなはずはない!?」凛たち三人がB大の学生であることはもちろん、指導教員であり連絡著者でもある大谷も、現役の正規教員なのだ。「大学名を入れずに、いったいどこを入れるっていうんだ?」秘書が答えた。「ボーダレスです」章夫は何かに気づいたようにマウスを握り、論文を開いてくまなく確認した。だが、どこにも大谷の名前は見当たらなかった。「……連絡著者がいない?いや……そんなはずは……」彼は独り言のように呟いた。秘書が補足した。「規定では連絡著者が記載されていない場合、第一著者が自動的に連絡著者と見なされます。ですから彼らの手続きに問題はありません」問題はなかった。だが――なぜ大谷はそうしたのか。本来なら署名して、この栄誉を受け取ることができたはずなのに。なぜ……その時、大介が校長室から足早に出てきた。章夫は、彼の顔にこれほど重苦しい表情を見るのは珍しかった。「国府田――どうしたんだ?」「ちょうどいい、あなたも一緒に南国へ行こう」大介は短く言った。「えっ、突然南国へ?どうしてだ?」「大谷に会いにだ」落成儀式が終わったあと、大谷は文を連れて南国に戻り、療養を続けていた。章夫はふと足を止めた。「……あなたも知らせを受けたのか?」大介の顔色は険しかった。章夫が口を開いた。「電話で済ませたらどうだ?わざわざ出向く必要はないだろう?」「まだこの件の重大さを分かっていない。彼女はわざと――」大介の声が熱を帯び始めたその時、不意に携帯が鳴った。大谷からの電話だった。大介はすぐに出て、冷ややかな声で言った。「大谷、学校に対して説明する義務があるんじゃないのか?!」「説明?」大谷は笑った。「どんな説明のことを言っているんだ?」「あなたは勝手に署名を放棄し、学生たちに成果を自分の実験室名義で出すよう促した。これは明らかに大学の利益を損なう行為だ!」「ふっ……」大谷は笑った。学校側が責任を問うことは予想していたが、大介がここまで感情をあらわにするとは思ってもみなかった。だが考えてみれば、それも当然だ。今回の掲載誌は普通のジャーナルではなく、『Nature Biotechnology』――世界の生物学分野で最高峰の一つなのだから。これまで動じなかったのは、利益が小さすぎたからにすぎない。
続きを読む

第0634話

「な、なにを……っ」大谷は一語一語を噛みしめるように続けた。「自分の教え子を一番大切に思うのは教師だ。私は名誉など要らない。彼らを傷つけた連中に利をさらわせるつもりはない。――もういい。今回は署名しなかったが、これからも署名することはない。学校側も覚悟しておきなさい。今日のように大騒ぎしないで済むように」「……」大介は言葉を失った。凛たち三人が今後どれほどの成果を出そうとも、自分たちには一切関わりがなくなる――その未来を彼はすでに見ていた。その横顔を見て、章夫は恐る恐る口を開いた。「どうだった?まだ挽回の余地はあるのか?」「あるわけねえだろう!浪川の処分を十二ヶ月に延長しろ!」そう怒鳴りつけると、大介は踵を返してオフィスに戻り、ドアをバタンと閉めた。章夫は肝を冷やした。大介がこれほどまでに激怒する姿は、これまで一度も見たことがなかった…………バシッ――実験室の休憩スペースで、学而が再び的の中心を射抜いた。彼は勢いのまま残りのダーツも次々と投げ放ち、パンパンパン――鋭く正確で、すべてが十点だった。「すごい……!」早苗は目を見開いた。「学而ちゃん、練習してたの?この正確さ、信じられない!」学而は淡々と答えた。「数ヶ月やってただけだ」「……」早苗は眉をひそめた。数ヶ月?それでこの腕前?どう考えてもただの自慢に聞こえる……「学校はもう情報を受け取ってると思う?」早苗が尋ねた。学而はミネラルウォーターのキャップをひねりながら言った。「たぶんな」「じゃあ、どうして何の反応もないの?」凛はスマホをしまい、顔を上げた。「大谷先生のおかげよ。もう学校側と交渉してくれた」「学校側はなんて言ってたの?」早苗は目を丸くした。「何も言えなかったよ」「そりゃそうだよね。最初に私たちがいじめられてた時は助けもしなかったくせに、今になって利益が見えると寄ってくるなんて、そんな虫のいい話ある?今日はいい日だし、決めた!ごちそう食べる!」学而は眉をひそめた。「ダイエットやめたんじゃなかったの?」「やめたんだけど、この前の健康診断で脂肪肝って言われちゃって……だからちょっとは控えようかと思って!」早苗は口を尖らせた。学而は沈黙した。「その顔なに?!私をバカにしてるんでしょ!」「違う……」「そう
続きを読む

第0635話

小林家の屋敷は現代的な洋風の別荘ではなく、古風な邸宅だった。中庭は前後に通じ、全体に灰色がかった趣で、ところどころ壁の漆喰が剥がれ落ちている。前庭には石板が敷き詰められ、一見するとずいぶんと古びて見えた。しかし奥へ進むにつれ、ふっと温もりが漂い始め、柱は重厚で古雅な趣を放ち、軒先には堂々たる気配があった。石板の両脇には、野菜を植えた小さな畑が広がっている。帝都の都心、旧皇居のすぐそばという立地で、こんな場所を野菜畑に充てているとは……まったく贅沢な話だ。学而は二人の姿を見つけると、自ら走って出迎えた。「早く中に入って、ここは暖かいよ。紹介するね、こちらが僕の両親……」父の小林徹はグレーのスーツに身を包み、穏やかで教養ある雰囲気を漂わせていた。眉間には年月が刻んだ落ち着きと風格がにじんでいた。母・小林麗華(こばやし れいか)はベージュのニットワンピースに淡い茶色のショールを合わせ、白く血色のいい肌には年齢を感じさせるものがなかった。長い髪は一本の簪で後ろにまとめられ、生まれつきの、言葉にしがたい親しみやすさを漂わせていた。凛の脳裏にふと浮かんだ言葉は、風格があり端正、上品で優雅。仮に両親の与える衝撃にまだ耐えられたとしても、学而の祖父を目にした瞬間、凛と早苗は完全に息を呑み、反応を失った。早苗は人形のように固まりながら、学而に連れられて年長者たちへ挨拶を済ませ、そのまま席に着いた。腰を下ろすや否や、彼女は思わず凛の袖をつかみ、言葉をもつらせた。「凛さん……わ、私……今の見た?学而のおじいさんの顔、ニュース番組の生放送現場に迷い込んだのかと思った……!」凛は何を言いたいのか察し、なだめるように言った。「落ち着いて。来る前から覚悟はしてたでしょ?」「覚悟はしてたけど……ここまでとは思わなかった……こんなに……」言葉にできない。凛と早苗はそれぞれ用意してきた贈り物を差し出した。時間がなく、入念な準備まではできなかったが、二人で昨日デパートに行って選んだ品だった。凛が選んだのは最新型のVR一体型ヘッドセット。早苗は限定モデルのランニングシューズを選んでいた。贈り物を受け取った学而は、とても嬉しそうに笑った。「来てくれてありがとう」早苗は歯ぎしりしながら小声で文句をもらした。「なんで先に
続きを読む

第0636話

凛は礼儀として軽く手を握り返したが、すぐに手を引っ込めた。秀章は少し考えてから、今度は早苗に目で合図した。早苗はちょうどエッグタルトを食べ終えたばかりで、指先にまだ生地のくずがついていた。困ったように小さく謝りながら言った。「……握手はやめておくね。すみません」「大丈夫、大丈夫」秀章は手を振って、気にしないと示した。その時、秀章の隣に座っていてほとんど口を開かなかった男が、ふいに声を出した。「雨宮さん……どこかで見覚えがあるような?」凛が顔を上げた。学而がこの人たちを紹介した時、彼女はすでに相手の正体に気づいていた。仕方のないことだが、記憶力が良すぎるのも時に厄介だった。その男は学而や秀章とは明らかに同世代ではなく、ずっと大人びて見え、視線には一種の深みが宿っていた。それなのに、この男は彼らのテーブルに腰を下ろしていた……おそらく大人たちのテーブルに座る資格がなく、どうしてもこのホームパーティーに参加したくて、中途半端な位置に座ったのだろう。先ほど学而が幼なじみを紹介したときにも、この男については一言も触れなかった。やはり――「兄さん、雨宮さんのこと知ってるのか?」秀章が振り向いた。佐藤和明(さとう かずあき)は口の端をつり上げた。「見れば見るほど思い出す。間違いなければ、入江海斗の……」「和明さん」学而が突然口を挟み、思わず強い調子になった。「今日は僕の誕生日だ。この子は僕が招いた客だ」――つまり、主役の客に無礼を働くつもりか?和明の顔色がわずかに変わったが、すぐに気持ちを整え、笑顔を作った。「よく見れば違うな。俺の口が軽すぎた。何でもかんでも口にしてしまって……すまなかった、雨宮さん」学而の表情はようやく和らいだ。早苗はこっそり親指を立ててみせる。学而の口元がわずかに緩んだ。その場でいちばん冷静だったのは、当の本人である凛だった。和明は海斗と親しく、これまでビジネスパーティーで何度か顔を合わせたことがある。会うたびに、和明の視線はねっとりと彼女に貼りつき、どこか不快な値踏みのようなまなざしだった。帰宅後、凛はこのことを海斗に話した。だが海斗は彼女の考えすぎだと受け取り、次の場にも変わらず彼女を連れて和明のいる席に出た。数回そうした後、凛は自分から「もう行か
続きを読む

第0637話

凛は静かに視線を戻し、料理に集中した。小林家が客をもてなす料理は当然ながら一流で、この日は特別にミシュランレストランの料理長を招いて腕を振るわせたという。皿の一つ一つが精緻で、色・香り・味のすべてが揃っていた。途中で出されたシンプルなデザートですら、普段では予約しないと食べられない人気メニューだった。早苗にとって、これ以上の幸せはないだろう。「凛さん、これすごく美味しいよ……それにこれも……これも……早く食べてみて!」彼女は夢中で口に運びながらも、凛に勧め続けた。凛は苦笑し、「うん、食べてるって」と返した。二人が料理を楽しんでいると、学而がふいに立ち上がった。「凛、早苗、ちょっと来て」二人は顔を見合わせてきょとんとした。「え、何の用?」と早苗が首をかしげた。顔にはまるで「食事の邪魔しないで」と大きく書いてあるようだった。学而は困ったように言った。「一緒にメインテーブルへ行こう。ご挨拶して」早苗は「行かなくてもいいんじゃない?」と言いかけた。どうせ知らない人ばかりだし、会ったところで意味はない。それよりも料理をもっと楽しみたい。けれども、学而がわざわざ誘ってくれたうえに、相手は目上の方なのだから、どう考えても断るのは礼を欠く。そもそも普通の友人なら、学而が自分から家族に紹介しようとはしないだろう。そこで二人はグラスを手に、学而と共にメインテーブルへ向かった。屏風を回り込むと、凛はある程度予想していたものの、陽一の姿を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。上座には泰彦が腰かけ、左右には幸乃と徹が並んでいる。そして陽一は徹の隣に座っている。さらに驚いたのは、時也までそこにいて、しかも陽一のすぐそばにいたことだった。「学而――」幸乃は孫の姿を見るなり、笑みを浮かべた。「まあ、この子たちがあなたのお友達なのね?」「おばあさん、はじめまして!」凛と早苗は声を揃えて挨拶した。「ええ、はじめまして。本当にいい子たちだこと」徹はすぐに立ち上がり、笑顔で学而のそばへ来ると、凛と早苗を指して紹介した。「お二人は学而の同級生で、実験室でも共に励んでいる仲間だ」それから徹が順に、在席の人々を一人ずつ紹介していった。一方、自ら取り入ろうと酒を勧め、愛想笑いを浮かべていた和明は、無情にも相手にさ
続きを読む

第0638話

なんだか空気がひんやりするような気がする……陽一が今日ここに顔を出したのは、まったくの偶然だった。庄司家の祖父と学而の祖父・泰彦は若い頃、ともに苦労を分かち合った盟友だったが、後にそれぞれ別の道を選んだ。一人は実業家に、もう一人は政治家になった。そしてそれぞれの分野で頂点を極めた。ここ数年、庄司家と小林家は交流を保ってはいたが、小林家は極めて慎ましく、頻繁に顔を合わせることはなかった。今回、小林家からの招待状を受け取った悠人は非常に重んじ、自ら出席するつもりだった。だが一昨日、突如アレルギー性喘息を発症して入院してしまった。やむなく、長男の智樹が代理で出席することになった。しかし智樹は典型的なビジネスマンで、近年は小林家との往来も少なく、しかも小林家は名誉を大事にするため、ビジネスマンと深く交わることを望まない。ゆえに彼の立場は必ずしもふさわしいものではなかった。そこで、この役目は敦史に回ってきた。彼は弁護士で、商売には関わっていないため、一見すると適任のように見えた。だが徹は司法関係の要職にあり、弁護士という立場は商人以上に扱いが難しい。結局、出ることになったのは陽一だった。彼は徹とも付き合いがあり、庄司家の中でこれ以上ふさわしい人はいなかった。この話を智樹が持ち出した時、陽一が断るのではないかと心配した。何しろ陽一は学会や研究報告会以外、社交の場にはほとんど顔を出さず、実験室にこもって実験や論文執筆に没頭するのが唯一の楽しみだったのだから。彼が社交の場に出ると言うなんて、考えられないことだった……だが今回は、意外なほどあっさり承諾したのだった。「……い、行ってくれるのか?」陽一は軽くうなずいた。「ああ。兄さん、口が開きすぎだ」「……ああ!」智樹は慌てて口を閉じたが、目にはまだ信じられない色が残っていた。振り返って知波に小声で話した。「……母さん、陽一の様子、どうもおかしいよ」知波の顔には疑問符が浮かんだ。「誰か腕の立つ人に診てもらった方がいいんじゃない?」智樹が続けた。「診てもらうって、何を?」「悪霊にでも取り憑かれたんじゃないかと心配で。本気で」「……」知波は言葉を失った。母親に遠回しに問いかけられても、陽一は多くを語らず、ただ「ちょっと見てみたくて……
続きを読む

第0639話

「違うだろう。もし僕の記憶が正しければ、瀬戸家と小林家は遠いながらも縁戚で、世代で言えば学而は君を……やはり『おじさん』と呼ぶのが正しいのでは?」――それこそ、時也が商人でありながら小林家の上客として迎えられる理由だった。両家は親戚筋なのだ。陽一は薄く口角を上げた。「学而の同級生なら、当然彼に倣って呼ぶべきだ。『おじさん』と呼んでも差し支えないだろう」この言葉を聞いて、時也の顔色が瞬時に真っ黒になった。瀬戸家と小林家に縁があるのは事実だが、もはや何代前の話かも分からず、ほとんど縁もゆかりもないと言ってよかった。だが陽一は無理やりその血筋を持ち出し、呼び方にまでこじつけてきたのだ。凛は目をくるりと動かし、すぐに素直そうに「おじさん~」と声をかけた。言った途端、自分でも吹き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。時也は黙り込んだ。腹の底から煮えくり返る……誰が彼女の「おじさん」なんかになるものか?!――くそっ。「瀬戸社長」と呼ばれる方が、あの呼び方よりよほどましだ。陽一……よくもやってくれたな。この借りは必ず返す…………食事が終わり、テーブルが片付けられた。四角いケーキが運び込まれる。徹は息子の肩に手を置き、満ち足りた笑みを浮かべた。「学而、誕生日おめでとう。このケーキのように、いつまでも角を保ち、年齢を重ねても丸くならず、時の流れにも腐らない人間であってほしい」「ありがとう、父さん」麗華は徹の隣に立ち、話が済むのを待ってから微笑んだ。「さあ、学而。願い事を言って」これまで学而の誕生日が大きく祝われたことはなく、今回が初めてだった。祖父母や両親、親族が揃い、幼なじみたち、さらにともに戦う二人の友人までいる。その光景に、学而の胸は温かさで満たされた。これまでなら気恥ずかしく感じていたはずの願い事の時間も、今ではすんなり受け入れられるようになっていた。学而は目を閉じ、ひととき黙した。両手を合わせるような大げさな仕草はしなかったが、目を開けた瞬間のまなざしは揺るぎなく力強かった。口元を上げ、ろうそくの火を吹き消す。早苗が先に拍手を始め、それにつられて周囲も手を叩き出す。やがてケーキが切り分けられ、学而は最初の一切れを凛の前に差し出した。年長者たちが揃っている中
続きを読む

第0640話

初恋の頃から今では息子もすっかり大きくなったが、夫婦の仲は今もなお蜜のように甘い。徹は腰をつねられて顔をしかめ、軽く咳払いして表情を整えた。「言いたいのはさ、学而ももう大人だから、恋心が芽生えるのは自然なことだろう。春を待たない少女はいないし、恋に惹かれない少年もいない」麗華は凛を上から下まで眺めて言った。「この子は顔立ちも姿も整っているし、何より雰囲気がとてもいいわ。今回の自主ラボ設立も彼女が音頭を取ったんでしょう?本当にしっかりしてる子ね」見れば見るほど気に入り、目元から笑みがこぼれそうになった。「B大学の学長たちは不公正な対応をしたけれど、この子は動じずにこんな方法を考え出して、しかも成功させたのよ。こんな優秀で先を見据えられる子なら、学而が好きになっても私が反対するわけないわ」徹は何かを思い巡らせていた。実のところ、小林家はこの代で既に最盛期を迎えており、地位を固めるために政略結婚をする必要はなかった。もし息子の嫁が凛だとしたら……悪くない話だ。徹の目が輝いた。「俺も反対はしない。全部お前に任せるよ」陽一と時也はすぐ横に立っていたが、「……」と言葉も出なかった。まるで自分たちがいないかのような扱いではないか。陽一の目が鋭さを帯び、時也は無表情のままだった。その時、不意に肩をぶつけられ、陽一は振り向いた。徹は手をこすりながら陽一に声をかけた。「陽一くん、凛はお前の教え子なんだろう?」「はい」「二人の様子を見てると、なかなか仲が良さそうじゃないか」「……徹さん、何が言いたいのですか?」「へへ……ちょっと気になってな。凛のご両親って帝都の出身か?お前は知ってる?もし機会があれば紹介してくれないかな。友達づきあいを広げたいだけなんだ」陽一は答えた。「知りませんよ。面識もない」「そうか……」徹は落胆もせずに続けた。「じゃあ、お前から見て凛ってどうなんだ?学而と付き合ったら、結構いいカップルになるんじゃない?うちの息子は爽やかでハンサム、凛は頭が良くて美人。どう見ても理想のカップルだろう?」考えれば考えるほど悪くないと思い、徹はすでに披露宴で何人の客を招待するかまで思い描いていた。陽一は「……」と言葉を失っていた。「陽一くん、どうして黙ってるんだ?」「何を話せばいいんです?」
続きを読む
前へ
1
...
626364656667
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status