All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 791 - Chapter 800

910 Chapters

第791話

「この死に方は......痛みがないという意味では、最も楽な部類でしょうね」そう言いながらも、ジェイソンは軽蔑するように吐き捨てた。「ただし、こんな薬のやり口はあまりにも稚拙です。だからこそ、すでに各病院で禁制薬に指定されていたのですが......まさか今になって、まだ出回っているとは」紗雪と京弥は互いに視線を交わし、思わず大きくため息をついた。危なかった。もし自分が目を覚まさなければ、あとのことなど想像するのも恐ろしい。彼女にとっても、京弥を失うことはあり得なかった。長い時間をかけて、遠回りをして、ようやく辿り着いた関係だ。やっと一緒になれたのに、どうして手放せるだろう。時々、紗雪はあの「事故」にさえ感謝することがある。あれがあったからこそ、最初に自分を救ってくれた『お兄さん』が誰だったのか知ることができたのだから。そう考えると、馬鹿だったのは自分自身だ。三年間という時間を、何の意味もない人に費やしてしまった。その三年は、笑い話のようだった。加津也の目には、自分はどう映っていたのだろう?きっと、心の中で笑っていたに違いない。どうしてこんな馬鹿な女が現れて、自分に従順に尽くし、世話まで焼こうとするのか、と。もし初芽がなければ、紗雪は未だに彼の本当の姿を見抜けなかっただろう。あのとき、本気で心を踏みにじられたからこそ、彼女は目を覚ましたのだ。あの時の恩を理由に、離れずに彼のそばに居続けた可能性もあった。だが、幸いにも運命は彼女をそこから解放してくれた。そして母との賭けをきっかけに、彼女は京弥と出会う。二人の間には子供の頃の縁があった。それだけで十分だった。縁というものは、説明できない不思議な力を持っている。母に背中を押され、偶然が重なって出会った二人は、結婚相手を必要としていた。そうして、そのまま入籍してしまったのだ。思えば、不思議で予想もしなかった展開だった。紗雪が感慨に耽っている一方で、京弥は耐えきれなかった。辰琉。あの男はどうしてここまでのことを?自分の女を、こんなふうに傷つけようとするとは。このまま何もしないなら、男と呼べるのか。そう思うと、京弥の拳は自然と固く握られていた。彼はジェイソンを見やり、軽く手を振った。「も
Read more

第792話

「もういいの。京弥さんのせいじゃないわ。悪人なんてどこにでもいるし、誰がこんなことを予想できないよ」京弥だけじゃない。当事者である紗雪でさえ、彼らの手口がここまで卑劣だとは思ってもみなかった。本来なら、「家族」みたいな関係のはずなのに。だって、どう言おうと辰琉は緒莉と婚約までしていた人だ。それなのに今は、こんなふうに自分を害そうとするなんて。可笑しくて仕方がなかった。家族なのに、どうしてここまで互いを追い詰めようとするのか。辰琉という人間は、本当に恩を仇で返す、どうしようもない存在だ。しかも、こんなに時間が経っても、なお自分を狙ってくるなんて。紗雪の言葉は確かに慰めだった。だが、それでも京弥の胸の中には、苦い思いが残っていた。自分が彼女を守れなかったせいで、こんなに辛い思いをさせてしまった。二度と同じことは起こさせない。京弥は深く息を吸い、真剣な眼差しで誓った。「これからは紗雪のそばを一歩も離れない。絶対にだ。そして、今回が最後だ。二度と同じことは起こさせない」彼の真剣で厳かな表情に、紗雪の胸は温かさで満たされた。最初の頃、彼女はこうした言葉を、ただの形式的なものだと考えていた。言うか言わないかなんて、大差はないと思っていたのだ。けれど、今は違う。こういう言葉こそが、相手の態度を示すものだと気づいた。その態度は、どれだけ自分を大切に思っているか、愛しているかを表す。自分が相手の心の中でどれほどの位置を占めているのか。それは、決して軽く見るべきものではない。「うん」紗雪は彼の背中を軽く叩き、柔らかく微笑んだ。「だから京弥さんもそんなに落ち込まないで。こうして元気にしてるでしょ?これからも、ずっと京弥さんのそばにいるから。離れたりしない」京弥は頷いた。「今の言葉、忘れるなよ。嘘は許さないからな」「約束するわ。嘘なんてつかない。そんなことをしても何の得にもならないじゃない」その一言で、ようやく京弥の胸のつかえは下りた。確かに、彼女を騙したところで、意味なんてない。そして、彼自身ももう昔の京弥ではなかった。これからは本当に、片時も離れずに彼女を守っていくつもりだ。その先のことなど、考える必要はない。「すぐ食事を運ばせるよ」
Read more

第793話

やっぱり、京弥は頼りになる人だ。京弥は軽く頷いた。「ああ。俺はもう食べてきた。これは全部紗雪のために用意したんだ。味はあっさりしてるけど栄養はパッチリ」紗雪は思わず眉を上げた。「へえ......意外と気が利くのね」「当然だろ。紗雪のためならこのくらい、大したことないさ」京弥は得意げに胸を張った。とくに紗雪の前だと、その笑顔は格別に明るかった。だが、彼がスマホを手に取った瞬間、その表情は冷え込んだ。彼は紗雪の柔らかな髪を撫で、小声で囁いた。「先に食べて。電話してくる」紗雪は不思議に思いながらも、何も言わなかった。以前の京弥なら、こんなふうに電話を避けたりはしなかったのに......「うん、行ってらっしゃい」彼女の声は穏やかだった。誰にだって秘密はある。それを一つ見ただけで、相手を全否定するようなことはしたくなかった。紗雪は彼がベランダに出て行くのを見送り、自分は軽く洗面を済ませてから食事を始めた。最初は何も感じなかった。けれど、お粥を口に含んだ瞬間、「ああ、生きてるって、こういうことなんだ」と心から実感した。ほとんど一ヶ月も寝たきりで、命を繋いでいたのは味気ない栄養剤だけ。あれはまるで鳥籠の中の生活みたいだった。毎日、無味乾燥なものばかりで、本当に限界だった。退院したら、絶対に自分にご褒美でお鍋を食べに行こう。そう固く決意した。一方、京弥の電話の相手は警察署長だった。「椎名様、どうしましょうか。この男があまりにも横柄で、転げ回って駄々をこねるばかりで、本当のことを話そうとしません」それを聞いた京弥の瞳は冷たく光った。「ほかの手は全部試したのか?お前は警察署長だろう?そんなことまで、いちいち俺に聞くのか」その声音には、鉄を打っても変わらない苛立ちが滲んでいた。せっかく相手を警察に突き出したというのに、まだこんなことで弱音を吐いているとは。ただ口を割らせるだけ――それが、そんなに難しいのか。署長は困ったように答えた。「ですが、本人は『自分は何もしていない』と繰り返すばかりで......しかも、人脈も広いようで、私どももつい......」たかが『顔が広い』程度で尻込みか。「まったく、無能揃いだな」京弥は眉をひそめ、吐き捨てるよう
Read more

第794話

紗雪を見つめたその瞬間――京弥は、これまで浮草のように漂っていた心が、ようやく寄り添える場所を見つけたのだと感じた。一方で、電話の向こうの署長はまだ愚痴をこぼしていた。大物から直接の保証を取り付けない限り、あの手の有力者の御曹司たちには手を出すのが怖い。うっかり逆らえば、いつ誰を怒らせるかわからない。いまの世の中、豪門はあまりに多い。署長はますます身動きが取れず、ただ悩むばかりだった。自分は所詮、ひとつの警察署をまとめる程度の小者。日々の業務を滞りなく回すことしか考えていなかった。だがその立場に座った以上、安穏と過ごせるはずもない。避けられぬことなのだ。「もういい。くだらないことは言うな」京弥は眉間を押さえ、苛立ちを隠さずに言葉を遮った。「予定通りやれ。必ず吐かせろ。何があっても、俺が責任を取る」そう言い捨てて、京弥は電話を切った。しかし署長は少しも怒らず、むしろ目を細めて笑みを浮かべた。ありがたい。京弥の後ろ盾があるのなら、この先の動きは格段に楽になる。あとの細かいことは、そのときに考えればいい。署長は部下に指示を飛ばした。「遠慮はいらん。どんな手を使ってもいい。正直に白状させろ。それから、必ずやつらの口から薬の成分を吐かせろ」上司の言葉を聞いた警官たちは、腹を括った。どうやら最初の医者の証言は本当らしい。この二人のバックがどれほど強かろうと関係ない。さらにその上に、もっと大きな存在が控えている。今回は、本当に鉄板を蹴飛ばしてしまったのだ。警官の心も一気に軽くなった。「わかりました。必ずやり遂げて見せます」「うむ」署長はそう言って電話を切った。指示はすでに下した。あとは現場に任せればいい。せっかくここまで昇りつめたのだ。少しくらいは、この立場を楽しんで当然だろう。年老いてまで他人の顔色を窺い、好き勝手されるだけでは、これまでの苦労は何だったのか。そんなのは、あまりにも報われない。自分の運命が不遇だなんて、笑わせる。署長は思わず独り笑いを漏らした。その頃、電話を切った警官は再び取調室に戻った。手錠をかけられた辰琉と緒莉を前に、心の奥底から嫌悪がこみ上げる。「まだ素直に吐く気はないのか?」「その薬は一体何だ
Read more

第795話

警官は机をバンッと叩いた。「お前、一体どういうつもりだ!」「それはこっちが聞きたいぜ!」警官の態度も一気に強硬になる。「いいか、ここは警察署だ。お前らが好き勝手できる場所じゃない。コネで切り抜けられると思うな!」「お、俺......」辰琉はその剣幕に押され、言葉を失って呆然とした。最初のうちは、どうせすぐに出られる、何も心配いらないと高を括っていた。だが、目の前の警官の目が本気だと気づいた瞬間、胸の奥に不安が広がった。こいつ、本当に自分の素性を知らないのか?それとも知ったうえで、あえてこんな態度を取っているのか?なぜ、ここまで来ても自分を怒鳴りつけることができるんだ?隣の緒莉も細めた瞳でじっと様子を観察していた。この警官の変わりようは、確かに不自然だ。さっき外に出ていた間に、上の者に相談でもしたのだろうか。戻ってきた途端、態度がまるで別人のようになった。もしや、さらに上の権力者から指示があったのか?緒莉の胸に疑念が募る。一体誰が後ろにいるのか......彼女自身、まだ切り札を使うつもりはなかった。迂闊に出せば自らの立場が露見し、退路が絶たれるからだ。その時、紗雪と戦う術を失い、また一人孤軍奮闘する羽目になる。やはり、人を甘く見てはいけない。常に最悪を想定しておかなければ。そうでなければ、相手に逃げ道を与えるだけだ。一方の辰琉は、全く取り合わない警官にしびれを切らしていた。「おい、何様だ貴様!名前を言え、訴えてやるよ!」彼の声は牢に響き渡った。牢屋の中がどういう場所か、彼はよくわかっている。一度でも足を踏み入れれば、待っているのは地獄のような日々。だからこそ、何としてもここで食い止めたい――それが必死さの理由だった。だが、警官の顔色はまるで揺れない。「何度も言っただろう。身分を振りかざしても、ここでは通用しない。その時間があるなら、正直に話せ。そうすれば情状酌量もあるかもしれない」すでに彼の声には苛立ちが滲んでいた。同じ言葉を何度繰り返させれば気が済むのか。さっさと認めてしまえば、互いに楽になれるものを。しかし、辰琉は頑なに譲らなかった。両親が必ず救いに来る――その確信に縋っていた。「俺は何もことはしていな
Read more

第796話

あまりにも尊大な態度に、警官の方が逆に興味を持ち始めた。「じゃあ言ってみろ。名前と家族のことを。こっちで確認してやる」今まで散々いろんな人間を見てきたが、ここまで威張り散らす奴は初めてだった。ここまで言うからには、よほどの身分なのだろう――そう思い、警官は試しに問いかけた。辰琉は顎をぐいっと上げる。「よく聞けよ。俺はK国・鳴り城の安東家の者だ。うちの親父はその会社の会長だ。信じられないなら今すぐ調べてみろ。俺は一人息子だから、必ず助けに来る。お前らみたいな連中が、よくも俺をこんな扱いするな」そう言って、手錠のかかった手首をカチャッと持ち上げ、不機嫌そうに吐き捨てる。「どうせすぐ痛い目を見るぞ。親父が出てきたら、お前ら全員ただじゃ済まない」その言葉に、警官は少し黙り込んだ。大したことがあるのかと思えば、結局ただの「親の七光り」か。見た目からしても、親父に自分の状況すら知られていないのだろう。恐れる理由などなかった。なぜなら署長の言葉を思い出したからだ。親が誰であろうと関係ない。自分が従うべきは、ただ一人の上司。それだけははっきりしていた。「いいだろう。お父さんに連絡してやろうか?」辰琉の目がぱっと輝く。ちょうど父親にどう連絡を取ろうか考えていたところだ。それが自分から動かずに叶うとは、まさに渡りに船。「ほんとか?」半信半疑ながらも、心の奥では期待が膨らんでいた。警官は淡々とうなずいた。「家族に知らせるくらいの権利はある」その言葉に、辰琉はすっかり安心した。「じゃあかけろよ。親父の番号は......」警官はためらわず電話をかけ始めた。こんなこと、いちいち上に伺いを立てるほどの話でもない。下手にごちゃごちゃ言えば、逆に上司に叱られるだけだ。その様子を見て、緒莉の胸にも安堵が広がった。やはり静観していればいい。何だかんだ言っても、辰琉の両親は鳴り城でも名の通った人物。この程度の警察署を動かすくらい、何の問題もないだろう。本来なら簡単に片付く話なのだ。そもそも警察にまで連れて来られたこと自体が不思議で仕方ない。おそらく京弥がどこかでコネを使って、彼らを外に出させないようにしているのだろう。だが、それにしてもおかしい。京
Read more

第797話

ちょうどその頃、京弥もベランダから部屋へ戻ってきた。食卓を見ると、紗雪はほとんどの料理を半分ずつ平らげていて、京弥の胸に安堵が広がる。彼はその柔らかな髪を撫で、優しい声で問いかけた。「そんなにお腹空いてたんだな?」「うんうん」紗雪はこくりと頷く。「ずっと寝てばかりで、手足がふにゃふにゃになった感じだったけど、今やっと落ち着いてきて......胃が生き返ったみたい」もうすぐ一ヶ月。健康な体でも、寝たきりだと遅かれ早かれ問題が出る。これは誰もが分かっていることだ。京弥は、口を動かしながらも食べ続ける紗雪を見て、胸が痛んだ。この一ヶ月、どれほど辛かったのだろう。昔の彼女はいつも堂々としていて、人前で感情を出すことなんてなかった。けれど今の紗雪は、以前とはまるで違う。「足りなければもっと頼めばいい。すぐ持ってこさせるから」紗雪は思わず笑ってしまった。「もう十分だよ。すごく食べたんだから。それに、一ヶ月近く何も食べてなかったんだから、一気に食べ過ぎたらお腹壊すでしょ」京弥も一理あると気づく。焦りすぎて、そこまで考えが回らなかった。「ああ、ごめん。俺がせっかちすぎた。何かあったら、すぐに言えよ」紗雪は首を振る。「もう退院できると思う。ここに長くいると、骨までカビが生えそうで」京弥はまだ心配そうだった。「もう少し様子を見た方がいいんじゃないか?まだ目を覚ましたばかりだし」だが紗雪には、悠長に待つ余裕がなかった。会社の状況がどうなっているのか分からない。しかも緒莉は常に虎視眈々と狙っている。この一ヶ月、自分が病院にいる間に、彼女が動かないはずがない。もしそうなら、片付けなければならないことは山ほどある。むしろ、前よりもっと多くの問題を抱えているだろう。緒莉の性格からして、人を取り込んでいるに違いない。このまま手をこまねいているわけにはいかない。夢の中では「もっと時間を自分に与えよう」と考えたこともあった。だが、それは強い後ろ盾があってこそ成り立つ話だ。何もない状態で、どうして未来を夢見ることができるのか。だからこそ、紗雪は自分の人生も仕事も豊かにしていくつもりだった。絶対に諦めない。諦めれば、自分にとって何の得にもならないし、むしろ
Read more

第798話

京弥も、これ以上何を言っても無駄だと分かっていた。引き延ばしても意味はない。今の紗雪の様子を見れば、もう決心は固い。もし自分がこれ以上止めれば、かえって自分が無理解な人間になってしまうだろう。彼は以前から口にしていた。紗雪を自由にさせる。彼女はもともと自由な人間であって、鳥籠に閉じ込める存在ではない、と。その気持ちは、今も変わっていない。だからこそ、彼がすべきなのは、紗雪の前に道を整えてやること。決して、その進む道を邪魔してはならない。もしそれを妨げるのなら、他の男たちと何の違いもなくなってしまう。愛する人の成長を阻むだけの存在に成り下がるのなら、自分自身が成長する意味もない。京弥は真剣な眼差しで紗雪を見つめ、短く言った。「分かった。今すぐ医者に聞いて、退院の手続きをしてもらう。紗雪はここで待てて」紗雪は、彼が何も反対しないことに心から安堵した。もっと説得に時間がかかると思っていた。だが、結局その必要はなかった。むしろ、あっさりと認められすぎて、少し戸惑うほどだった。思い返せば、かつて加津也と一緒にいた頃。彼はとにかく支配欲が強く、常に自分中心に物事を考える男だった。それは誰にでも伝わることだったし、ましてや紗雪ならなおさら、一目で分かることだった。だから、三年もの苦しみを経たあと、彼女は無意識に京弥も同じタイプの人間だと思い込んでいた。けれど今、彼は全く違った。説得の言葉を並べる前に、あっさりと受け入れてくれたのだ。一言の無駄もなく。その事実に、紗雪自身が一番驚いていた。どうして?ぽかんと口を開けて固まる紗雪を見て、京弥は思わず笑ってしまった。「どうした?俺が退院を許したから、不満なのか?」紗雪は首を振った。「ううん。ただちょっと意外で」声は小さく震えていた。最初は、もっと食い下がられると思っていたのに。物事があまりにすんなり進んでしまって、拍子抜けしたのだ。その一言で、京弥はすぐに彼女の気持ちを理解した。姿勢を正し、まっすぐ彼女に言う。「俺はそんな男じゃない。まあでも、君を独り占めして、家から出さずにいたいって気持ちはあるけどな」その言葉に、紗雪の指先がぎゅっと強張る。彼女の緊張に気づいた京弥は、その手を優し
Read more

第799話

「うん!」京弥が何か言うより先に、紗雪は思わず彼に飛びつくように抱きついた。その腕には強い力がこもり、決して離したくないという思いが伝わってくる。彼女を愛し、尊重してくれる――しかも子供の頃に命を救ってくれた恩人でもある。そんな「いいとこ」が全部揃ったような男性に、これ以上何を望むというのだろう。紗雪は心の中で固く誓った。これから先、京弥が自分を手放さない限り、自分も決して離れることはないと。「京弥さん......分かってくれてありがとう」京弥も彼女を抱き返し、柔らかく笑った。「礼なんて......俺はただ、紗雪に無理をしてほしくないだけなんだ。紗雪にやるべきことがあるのは分かってる。ちゃんと理解するつもりだ。だから約束してほしい。自分の体だけは大事にするって。俺を心配させないでくれ、いいね?」紗雪は素直にうなずいた。「うん、わかった」二人が約束を交わしたところで、京弥もようやく紗雪の選択を認めることができた。ふと、先ほどベランダで受けた電話を思い出し、彼は隠すことなく切り出した。「さっきの電話、警察からだった。安東の件でな」食事をしながら紗雪は少し驚いた。こんなにあっさり教えてくれるの?てっきり、他人に関わることだから少しは伏せて話すと思っていたのに。「えっ......あ、その後は?」正直、こんなことを自分に直接話していいのかと不安にも思った。彼女の迷いを察したのか、京弥は彼女の手を取り、真剣な眼差しで言った。「俺に隠す理由なんてないだろ。さっき外で電話を受けたのは、君の食事を邪魔したくなかったからだ」紗雪の胸に温かいものが広がった。ああ、これが「思ってくれている」っていう感覚なんだ。自分があれこれ気を回さなくても、相手がすでにすべてを考えてくれる。しかもその中に自分もちゃんと含まれている。そこでようやく、警察にいる辰琉のことを思い出し、渋々聞いた。「警察は......彼のこと、何か言ってた?」京弥は片眉を上げ、紗雪の箸の上にある牛肉をちらりと見て、大きく口を開ける。「俺にもくれ」って言っているような仕草。そんな彼のリラックスした様子に、紗雪もつられて笑顔になった。今まで京弥と一緒にいても、こんなに肩の力を抜いたことはなかった。
Read more

第800話

長い年月の中で、どんな女性も見てきた。けれど心をこんなにも揺さぶられるのは、紗雪だけだった。ただ彼女の笑顔を見るだけで、胸がドキリと跳ねる。だからこそ、彼はいつまでも彼女に新鮮さを感じ続け、心の一番大切な場所に置いて、決してきつい言葉を口にしない。紗雪がやりたいことなら、京弥は黙って支える。愚痴も、不満も、決して口にはしない。自分の女ひとりすら大切にできなくて、何が男だ。そう思うと、京弥は自分でも少し可笑しくなった。「美味しい。さっちゃんがくれるものなら、何だって美味しいよ」そう言って、彼は紗雪の肩を優しく抱き寄せる。そのぬくもりに触れただけで、心臓の奥が震えるようだった。この瞬間、自分は世界そのものを抱きしめている――そう思えた。世界を手に入れるなんて、実は単純なこと。大事なのは遠くにあるものじゃない、今この瞬間を大切にすることなんだ。そう腑に落ちてからは、目の前の景色すべてが柔らかな光を帯びて見えた。彼がそんなふうに浸っているのを見て、紗雪は慌てて話題を変える。「京弥、さっき辰琉のことを言ってたよね?それで?今あの人、警察で何をやってるの?」そう口にした途端、胸の奥がじわりと重くなる。あの男、どうしてこうも落ち着きがないのか。牢屋に入ってまで大人しくできないなんて。自分の罪くらい自分で背負えないのか。もういい歳なのに、人に迷惑ばかりかけて。病室で目を開けたとき、最初に見た顔があの男だった。本当なら一番に京弥の顔を見たかったのに。そのせいで、目覚めた瞬間からずっと気分が悪かった。今ごろ警察でどうしているのか。正直なところ、少し気にならなくもなかった。京弥は警察署長の話をそのまま伝える。「要するに、あまりに横柄。警察署の中でも、自分の『身分』を持ち出してばかりで」紗雪は眉をひそめ、呆れたように笑い出した。「身分を?」思わず吹き出す。「まさかその『身分』って......安東グループのこと?」京弥は小さくうなずいた。「そう。でもそれ以外、彼には何もないけどね」その返事に、紗雪は声を上げて笑った。今の安東グループなんて、ほとんど見かけ倒しにすぎない。周りがどう思っているかはともかく、当の本人が一番わかっているはずだ
Read more
PREV
1
...
7879808182
...
91
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status