All Chapters of 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー: Chapter 31 - Chapter 40

60 Chapters

4話 一途なひまわり《6》// 幕間・思い草《1》

びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。「デートのお誘いは仕事の後にしてください」「へぇへぇ」慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。「……綾さん?」私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。ただただ、目頭が熱くて。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。「……了解。デザートプレート二つね」溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」「は? そうなの?」「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。「片山さん、ごちそうさまでした」作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。「はい……すみません」助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。向日葵畑がいつ咲くのかよりも一瀬さんにどう思われるかそのことばかり気になって、仕方ない私がいることに気が付いてしまった。【一途なひまわり・前編】END――――――――――――――――――――――――――――――――――
last updateLast Updated : 2025-04-16
Read more

幕間ー思い草ー2

別に俺が泣かせた訳でもないのに、罪悪感のようなものがまとわりつく。大体、あんな卑怯な男だとわかっていたら応援したりしなかった。幼馴染みだから、告白だとは思わなかったとか?んなわけない。どうであろうと、バレンタインに女に誘われたならちゃんと二人で会ってやるべきだ。あんな遣り方で牽制した男に腸が煮えくり返って仕方なかった。わざと見せ付けるような二人の空気に黙って引き下がった綾ちゃんが、いじらしいやらもどかしいやら。あんな奴と上手くいかなくて良かったけどさ。一発くらい殴ってやれば良かったんだ。それからというもの彼女が泣いていないか気になって楽しそうにホールを動き回る姿を見るとほっとして客と仲良くなって感情的になる彼女が心配にもなり客の彼氏に誘われてる姿を見てはハラハラしてこんなに俺が心配して振り回されてるっていうのに「悠くんは、あの人みたいに浮気性じゃないですもん」かっちーん。って。初めて綾ちゃんに苛ついちゃった。浮気性かどうかは知らないけどさ本性見抜けてないよな。あんな想いさせられたのに未だに慕ってたりするわけ?「幼馴染ってずるいよな。小さい頃から一緒にいるってだけで妙な信頼関係がある」「だって、悠くんはほんとに」「違うって言える? 幼馴染としてしか接してないのに」「そっ……」言ってしまってから、はっと我に返る。目の前には、明らかに傷ついて表情を固めた綾ちゃんの顔。今にも泣きだしそうに見えて、激しい罪悪感が押し寄せた。何やってんだ、傷つけたあの「悠くん」とやらに腹を立ててたはずなのに、俺が傷つけてどうするんだ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」慌てて謝って頭を下げて、彼女は少し頬を引き攣らせたままだったけれど。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」じきにほんとに笑顔になって、柔らかく首を振る。今傷つけたのは俺なのになんだか。そんな表情を見ていたら、何故だかもうたまらなくなって「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」気付いたら、そんなことを口にしていた。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」思案顔で、俯いたままの彼女にそっと
last updateLast Updated : 2025-04-17
Read more

幕間ー思い草ー3

まあ、否定しない。今までそうだったし。「何ソレ。別にまだ付き合ってもいないんだし、スタイル変えることないじゃん。ばかばかし」「いや、そうかもしんないけどさ。禊っていうの?」なんとかどうにか綾ちゃんに近づきたいと思う。だけど、あの子見てると今までの自分が情けなくなる。綾ちゃんは、なんにでも一生懸命だ。大学受験に失敗して、引きこもってしまった、と恥ずかしそうに話していたけれど。同じように俺も失敗したけど、別にショックを受けるでもなく家庭環境も手伝って流されるように製菓の専門学校に入学した。自分の意思だったかというと、よくわからない。俺みたいにになんとなく生きていくよりも彼女みたいに逐一額面通りに受け取って、逐一ショックを受けて悩む方がずっとしんどいに決まってる。そんな綾ちゃんを見てると俺もちょっとは、心を入れ替えるべきかな、と思っちゃったんだよ。「だから、まずは色々と整理整頓しようかと思って」「……あんたそれ。人を小馬鹿にしてるって気付いてる?」さっきまではちょっと不機嫌な程度だった愛ちゃんが急に怖い顔で睨んでくる。別に馬鹿にしてるつもりはないんだけど。「なんで? なんも変わらないまま綾ちゃんに言い寄る方が馬鹿にしてる気がしねえ?」本気でわからなくてそう首を傾げると、愛ちゃんはますます怖い顔で溜息をついた。「……それが馬鹿にしてるっての。わかんないなら一生そのままでいれば」そう言って、ホテルに向かうことは諦めたのかバッグから煙草を取り出して火をつけた。女向けのメンソールの煙草を、細い指に挟んで唇の隙間から煙を吐き出す。しっくりくるその姿を見ながら、テーブルの端にある灰皿を差し出した。「驚かないんだ。私アンタの前で吸ったことなかったでしょ」「知ってたよ」「えっ、なんで?」「匂い」正直にそう言うと、「げ」と嫌そうに顔を顰め、肩に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せる。身体からっていうより、キスしたりするとやっぱりわかるんだよな。俺が吸わないから。でも。「俺が煙草苦手だから、気を使ってくれてたんでしょ。知ってるよ」愛ちゃんは少し目を見開くと、すぐにまた顔を顰めて目を逸らす。だけどその頬はちょっと赤い。「やっぱアンタ嫌い」「ひでー」「酷いのはどっちよ。まー……好きな女が出来たらそんなもんなのかもね」「だか
last updateLast Updated : 2025-04-18
Read more

幕間ー思い草ー4

「俺のじゃないよ、それ」「えっ? そうなんですか?」「うん、俺吸わないし」ボールに入ったバターとマスタードをホイッパーでかき混ぜながら答えると、綾ちゃんは手を引っ込めて手のひらで転がしながらそれを見つめる。「じゃあ、通りすがりの人の落とし物かな? お店の裏口だからてっきり……」「いやいや。俺じゃないってだけで他に聞く人いるでしょ」「えっ?」こちらを見上げるきょとんとした表情が、ちょっとリスみたいで可愛い。くそ、何やっても可愛いけど。煙草イコール俺に繋がったくせに、なんであの人には繋がらないんだ。「綾ちゃんじゃないんなら」「私じゃないですよ!」「じゃあ、マスターしかいないでしょ」表情が、くるくる変わるのは本当に面白い。その視線の先に、なんで俺じゃなくてあの不愛想なマスターしかいないんだ。綾ちゃんが、「嘘っ」と驚いた声を上げ目を見開いた。「マスター、煙草吸うんですか? 全然イメージじゃなかった……すごく真面目そうだし」「へー……綾ちゃんの中では煙草=不真面目=俺なんだ」「えっ? あ、いえ。そういう意味じゃ……」しまった、と思いっきり顔に出して慌てて取り繕うけど、もう遅い。思いっきり拗ねたぞ、俺は。「マスター、吸うよ。綾ちゃんも帰った後、ラストに良く外で吸ってる」「そうなんですか。でも、想像すると似合いそうです。『大人の男の人』って感じで……」「大人だよ、様になってて男の俺から見てもカッコイイ」「へえ……」「隣に立つのは、やっぱカッコイイ大人の女が似合うよな」そうだよ、向こうはずーっとオトナなの。綾ちゃんからは、ちょっと遠いんじゃない?「そー、ですね」へらりといつもと同じ笑顔に見えても明らかに元気のない、風船から空気が抜けて萎んでいくような様子を視界の端に捕らえながら。「落ち着いた、大人の女の人が似合いそうですよね」「落ち着いた、っていうか。気の強そうなキャリアウーマンって感じだったな」俺の口は、止まらない。別に傷付けたい訳じゃないのに……ほんと、カッコ悪い。「キャリアウーマン?」「そう、元婚約者。オープン当初はよく店に来てたよ」「え」「この店、ほんとは彼女と二人でやるつもりだったらしいから」気付いたら、綾ちゃんは泣きそうなのを通り越して、呆然と口を半開きにしていた。「婚約、されてたんですか」
last updateLast Updated : 2025-04-19
Read more

幕間ー思い草ー5

愛ちゃんと飲んだ日の帰り道彼女が歩きながら煙草に火をつけたので行儀が悪いと窘めたらバツの悪そうな顔をして道の端に寄った。『そんな嫌そうな顔しないでよ』『男で煙草吸わない人ってさ、まるで愛煙家を親の仇みたいな目で見るのよね』『それこそ偏見でしょ』別に、他人が吸う分には俺はなんとも思わない。だけど、煙草のイメージアップを計ったのか愛ちゃんが煙草にも花言葉があるのだと胡散臭いことを言い始めた。『ほんとだってば! 煙草って別名思い草って言ってね』『へえへえ』むっと唇を尖らせていた愛ちゃんが、ふと真面目な顔をした。『あなたが居れば寂しくない』『へえ……』と相槌を打ったものの、それ以上言葉もなく。視線を絡ませたまままるで時間を止められたような錯覚。消すつもりのないらしい煙草の先から白く細い煙が上り、風に揺れて散らばった。『後はねえ、秘密の恋、孤独な愛、とか。 結構色気のある花言葉だと思わない?』にっ、と再び笑った愛ちゃんはいつもの愛ちゃんだった。『確かに。愛ちゃんには似合わないよね』『何おぅ!』結構本気の平手が飛んできて危うく顔面に食らうとこだった。今思い出しても、愛ちゃんはもうちょい明るいイメージで、やっぱりその花言葉は似合わない。もっと儚げな女か影のありそうな男とか。例えばこの、目の前の眼鏡堅物とか。確か、オープンした頃はマスターが愛煙家であることを知らなかった。多分ひと月ほどした頃だ。婚約者が店を訪れることはなくなり、裏口で煙草を燻らす姿を見るようになった。『煙草って別名思い草って言ってね』そんな風に聞けば、尚更その姿が意味深に見えてくる。「……何か?」「別に」視線を感じたマスターに問いかけられて、咄嗟に俯いてごみ淹れの蓋を締め直す。車のタイヤが道路との僅かな段差を超える音がして、そちらを向くと乗用車が一台駐車場に入ってくるのが見えた。もう外観の灯りは消してあるから、閉店しているのはわかるはずだ。方向転換でもして道路に戻るだろうと思っていたら、俺の(正確には親父の店の)白いバンの横の駐車した。店の正面ではなく側道に面した僅か数台が停められる程度のその駐車場は、裏口からでも良く見える。「あれ……あの車」紺のワーゲン。見たことある、と思ったもののすぐには思い出せなかったが。運転席から降りた女の
last updateLast Updated : 2025-04-26
Read more

5話 一途なひまわり・後編《1》

梅雨が明けるとひと息に気温が上がり、急ぎ足で真夏がやってきたような感覚だ。蝉の泣き声が余計に体感気温を上昇させている。朝から既に汗を掻きつつ歩く店までの道中で、神社の参道に植えられた百日紅が鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。夏の花は発色の鮮やかなものが多い気がする。店に先日からならんでいるミニ向日葵の鉢植えも、目に眩しい黄色の花をたくさん咲かせてくれている。夏と言えば大きくて背が高い向日葵が浮かぶけれど、ミニサイズの向日葵もまた雰囲気が違って可愛らしい。向日葵は太陽を追いかけて咲くという。この子達も、小さいなりに太陽を追いかけるのだろうか。店の外に並べて陽の光の下水やりをしながら、じっと花の角度を眺めてしまった。「綾さん、そろそろオープンしましょうか」扉が開いて、一瀬さんが顔を覗かせて声をかけてくれる。「はぁい」と私が返事をしたのを確認すると、扉の真ん中にフックでかけられているプレートを『OPEN』にひっくり返してまた中へと戻って行った。私はじょうろの中の水を空にして、今日も暑くなりそうな青空を見上げる。「多分、もう見頃なんだろうな」片山さんに誘われたまま、まだ返事をしていない向日葵畑。きっと今が丁度見頃の時期だろう。ちゃんと返事をしなきゃって思ってるのに、このところの私は他のことばかりに気を取られて、正直向日葵畑どころではなく……。なんて、そんな風だと片山さんにも失礼だなってわかってるんだけど。この頃、毎日の様に閉店間際に来る女性のお客様がいる。その人は一瀬さんと片山さんの知り合いみたいで……特に一瀬さんには特別な人のようだった。なぜって、その人がまだ客席に居ても、マスターはさらりといつものように私に言う。『今日はもう、仕舞いにしましょうか』と。彼女……雪さんがマスターの目の前でカウンターに座っていても、いつもそれほど話が盛り上がってる風でもない。雪さんが話しかけて、ぽつぽつと短い会話をしては、すぐに途切れる。彼女は少し肩を竦めて、また珈琲の香りを楽しむ。そんな空気が、酷く二人に似合っていて、まるで透明なアクリル板に阻まれたように私は二人に近づくことも会話を聞き取ることすらできなかった。今日も多分、夕方になるといらっしゃるんだろうな。片山さんが作ってくれた今日の賄いも、いつも通り美味しいのにあまり箸が進ま
last updateLast Updated : 2025-05-05
Read more

5話 一途なひまわり・後編《2》

「……それでもまだ悩むなら、最悪マスターも一緒でいいよ」むすっと唇を尖らせてそう言ってくれた片山さん。「……最悪?」「そう、最悪。誘っとこうか?」なんだかそのやりとりが可笑しくて、変に堅苦しく考えてた自分のことも、少し可笑しくて。ぷっ、と思わず吹き出して、笑ってしまった。「いえ、大丈夫です。二人で行きましょう、向日葵畑」笑いながらそう言うと、片山さんはまた拗ねるかと思ったけどふわりと嬉しそうに笑ってくれた。そんなに、私と行きたいと思ってくれてたんだろうか。なんだか散々迷ったことが申し訳なるような嬉しそうな笑顔で言った。「良かった、最近元気なかったから」「そうですか?」「そうでもない?」「ないですよ」別に、ちょっと気になってるだけで元気がないことはないもん。そう思いながら、ハンバーグの最後の一口を口に入れた。片山さんの、「デートだと思わなくていいから」という言葉に力が抜けたのもあるけれど、反発心のようなものも含まれていたかもしれない。散々悩んでおきながら、こんなにあっさりと了承の返事をしてしまったのは。『嫌なら嫌と言えばいい』突き放されたような気がした、一瀬さんのあの時の言葉や、毎日目の前で感じるアクリル版で囲われた空間に。ふと、また私の立ち入れないあの空間が目の前を過った気がして、追い払うように頭を振る。「楽しみです、明日」「俺も楽しみ」笑い合って、私はお皿に残った惣菜を片付けながら片山さんと明日の話をした。片山さんは、余裕だなあ、と思う。彼から感じる好意はただからかわれているだけでもなく、そこはかとなく本気を思わせるのに、私が尻込みしてもなんだかんだ答えを待ってくれる。一瀬さんが絡むと、ちょっと大人げないとこはあるけど。『デートだと思わなくていい』それはつまり、片山さんの気持ちに応えるかどうかをまだ判断しなくてもいいよって、そういう意味なのだと思った。夕方、カウベルが鳴って。お客様じゃないとなんとなく、気が付いてしまう。いや、お客様には違いないんだけど。出入り口を見ると、やっぱり雪さんがいた。今日も淡い色のスーツが似合うすらりとした立ち姿で、夏の暑さを感じさせない、涼やかな微笑みを湛えている。「いらっしゃいませ」「こんばんは」雪さんは、いつも私にもきちんと挨拶をしてくれる。だけど、いつも案
last updateLast Updated : 2025-05-06
Read more

5話 一途なひまわり・後編《3》

一瀬さんて、普段はあんな話し方するんだ。敬語じゃなくて。気になっていたアクリル板の中の世界は、思っていた以上に居心地の悪いものでかなりのダメージを受けてしまった。カウンターの中から厨房に声をかければいいだけなのだけれど、同じ空間から少しでも離れたくて厨房の中に入り込む。「片山さん、デザートプレート一つお願いします、シフォンで」「へーい。……って何、綾ちゃんなんでそんなヘロヘロなの」「別になんもないです」ヘロヘロになってる人間にヘロヘロを指摘するのは余計にヘロヘロになるのでやめて欲しいです。「ちょっと大人の空気が居心地悪かっただけです」肩を竦め乍ら、笑って舌を出して見せると。「……なるほど」意味がわかったのか、片山さんはちらりとカウンターの方角へ目を向けた後、黙ってプレートの用意をし始めた。作業する片山さんの背中を見てから少し迷ったけれど、戻らずにこのままプレートが出来上がるのを待たせてもらうことにした。反対側の壁際にある業務用の冷蔵庫にもたれ掛かって、靴の爪先を眺める。今は、雪さん以外にお客さんいないし。誰か来たら、ここにいてもカウベルの音は聞こえる。そう、ここにとどまる言い訳を自分の中でしていると、ふとさっきまで聞こえていた調理器具が触れ合うような音が消えた。「綾ちゃん、ちょっとごめんね」気づくとすぐ目の前に片山さんがいて、不意をつかれた心臓がどくんと大きく高鳴る。片山さんは、観音開きの冷蔵庫の扉を開いて中から大きな絞り出し袋に入ったホイップクリームを取り出した。私が余程情けない顔をしていたのか、片山さんは間近で目を合わせた後、ふっと苦笑いをして背を向けた。「……全く、あの人も性懲りもなく毎日毎日、粘着質だよな」「あの……雪さんって、ただマスターに会いに来てるだけ、なんですか?」店が終わって私が帰った後、一体どんな話をしてるんだろう。こうも毎日っていうのは、何か理由があって来てるのじゃないだろうか。片山さんは私よりも遅くまで店に居るから、何か知っているんじゃないかと思って聞いてみた。片山さんは、作業の手を止めることなく、何か唸るような声を出してからひとつ溜め息を落とす。「ん……なんか、店の事を話し合っちゃいるけどね。雪さんは、やっぱり未練があんのかなぁ」「えっ……未練って。お店で働きたいってことですか?」
last updateLast Updated : 2025-05-07
Read more

5話 一途なひまわり・後編《4》

その過程で結局寄りが戻っちゃったりとか、そういう可能性も十分あるってことだし。悠くんの時以上に手の届かない感じに溜息を落としながら、片山さんの手からデザートプレートを受け取った。「片山さん?」まるきり反応も返事もなくなったことに気が付いて、首を傾げ乍ら見上げる。そこには、少し怖い顔の片山さんがいて、驚いて思わず一歩後ずさった。「あ、ごめんなさい。私なんか偉そうなこと言っちゃいました……」ただ、冷たく突き放したりとか追い返したりとかするのがちょっと想像できなかっただけで。一瀬さんの無表情しか知らなかった頃なら、もしかしたら同意していたかもしれないけど、小さな優しさをたくさん知ってしまったから。「……すみません」やっぱり、生意気だと思われたんだ。そう思ってもう一度謝ると、片山さんの口許が漸く緩んで少しほっとした。途端に、デコピンされたけど。「いたっ!」「早く持ってって」「あ、はい」そうだ、早くしなくちゃ。生クリームがぬるくなっちゃう。踵を返して店内に戻ろうとして、やっぱりさっきの片山さんの表情が気になって、もう一度振り返った。気付いた片山さんは、小さく苦笑いをしながら「別に怒ってない」と言って店内を指し示す。早く持ってけってことだろう。「でもグズグズして生クリームが崩れたら怒るよ」「はいっ」その言葉に、ピンっと背筋を伸ばして今度こそ雪さんのもとへ届けに行った。淡い黄色の向日葵を一輪、それを引き立てるように白い小花を散らしてグリーンを挿す。出来上がったミニブーケは、よく見る向日葵のイメージよりも夏の暑さを少し和らげるような優しい雰囲気のもの。少し大人っぽく仕上がって、雪さんには似合うかもしれない。「こんな感じでよろしいですか?」「あら可愛い」やっぱり今日もラストまでいた雪さんに、閉店してからブーケを見せると嬉しそうに受け取ってくれた。「こんな向日葵もいいわね。ありがとう」そう言いながら、なぜか手で隣のスツールをポンと叩く。私は意味がわからなくて、ちょっと首を傾げて雪さんを見た。「お疲れさま。座って?」「えっ? あ、いえ。私はこれから後片付けが」「そんなの陵と片山くんだけで十分でしょ? 貴女がブーケを作ってくれるようになってからここの経営が持ち直したって聞いて、一度お話してみたかったの」「ええっ?」
last updateLast Updated : 2025-05-08
Read more

5話 一途なひまわり・後編《5》

「えっ? でも、まだ後片付けが」「いいって、後で俺やるし。明日の待ち合わせもまだ決めてないだろ」「あ、だったら後片付けしながら……」「明日?」その時、ずっと店内の清掃をしていてこちらの会話に目もくれなかった一瀬さんが、初めて反応した。「そう、明日デートだから。いつも頑張ってるんだし、早めに帰してあげてもいいんじゃない?」「えっ、そんな」片山さんのセリフに狼狽えて一瀬さんを見る。デートだと思わなくていいって言ったのに、こんな風に『デート』という単語を使うなんて、と焦って訂正しようとしたけれど。一瀬さんは一瞬瞠目した後、「ああ」と納得した様子で頷いた。「向日葵畑ですか。どうぞ、今日は上がってください」「で、でも」一瀬さんが、私と片山さんがデートしようがしまいが気にも留めてはくれないことくらいわかってるから今更ショックでもないけど。ほんのちょっとは、痛かった。だけど気にする間もなく、いつの間にか私の鞄を持って近づいてきた片山さんに手首を取られて反射的に立ち上がる。「えっ、えっ、えっ」引きずられて流れる視界で、驚いた顔の雪さんと一瀬さんを見えた。カランコロンとカウベルが鳴って、扉を通過する寸前に私は慌てて言った。「雪さん、すみませんお話途中で! お先に失礼します!」扉が閉まりきる隙間で、雪さんが笑顔でひらひらと手を振っているのが見えた。「あの……なんであんな連れ出し方したんですか?」「……別に。面接気取りでムカついただけ」「ほんとに?」何だか、私の知らない話がまだあるような気がする。片山さんが、わざと話を遮ったような気がしたんだけど……彼は重ねて尋ねた私の言葉には答えずに、ぶつぶつと腹立ちまぎれの言葉を繰り返した。「何様だよ、マスターも何好き放題言わせてんだか」「マスターは、お掃除してくださってたから、聞いてなかったのかも」「だとしたって、あの女の相手綾ちゃんにさせといてほったらかしって」すたすたと歩く速度は、こないだみたいにゆっくりじゃなくて、私は若干小走りで隣を歩く。片山さんの横顔が、街灯に照らされて余計に険しく見えた。「わっ」引っ張られる早さに足がおっつかなくて、爪先が小さな段差にひっかかってつんのめる。膝を擦りそうなくらいに体勢が崩れて、慌てて片手を付こうとしたけど。ギリギリで延びてきた腕に上半身を
last updateLast Updated : 2025-05-09
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status