All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1191 - Chapter 1200

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第1191話

そう言い終えると、手を握られた。来た人物がもう一度口を開く。「彰人、私よ」言葉よりも先に涙がこぼれた。彰人にとって、舞はただの親族ではなかった。恩人であり、まるで母のような存在でもあった。彼は舞に対して負い目があった。願乃を幸せにできなかったこと。過去に背負ったもの、そしてこれからの人生でも背負い続けるもの――そのすべてを。彰人は身体を起こそうとした。だが舞はそれを許さなかった。手首を押さえ、ベッドに寝かせたままにする。何度も感情を押し殺した末、舞は低く言った。「モナが私を呼んだこと、責めないであげて。あなたのカルテは見たわ。確かに、簡単な状況じゃない。彰人、私にとってあなたは願乃の夫であるだけじゃない。私が育ててきた子でもあるの。だから、メディアの株を売ったと聞いたとき、本当に胸が痛んだの。たとえ願乃のためだとしても、許せなかった。私はずっと、公私を分けられる人であってほしかった。でもあなたは……ただ、愛に生きる人でいようとしたのね」彰人はうつむき、かすれた声で言った。「母さん」舞の声はさらに低くなる。「でも彰人。メディアを手放して、そのうえ想いも報われなかった……後悔していないの?」周防家を離れ、メディアを手放す――それは上流社会から追放されることと同じだった。それでも、彼は後悔しているのだろうか。「後悔していない。母さん、俺は一度も……後悔したことはない」――最後の数文字は震えていた。どうして後悔などできるだろうか。彼が抱いているのはただ一つ、憎しみだった。不公平な運命への怒り。あとほんの少しだけ足りなかった、自分の運の悪さへの悔しさ。願乃とのすべてにおいて――彼は一度たりとも後悔していない。彼女を傷つけたことも。彼女を不機嫌にさせたことも。それでも、後悔はない。それが彼という人間だった。だが、それでも彼は手放すことを選ぶ。願乃、俺は身を引く。だから――ほんの少しでいい、俺を恨む気持ちを和らげてほしい。しばらく言葉を交わした後、舞は決断した。それは一人の母としての決断だった。願乃の母であり、同時に、彰人の母でもある者としての。「彰人、ベルリンに行きましょう。肝臓の治療ができるか診てもらう。それから、脳の専門医と精神科医も探すわ。あ
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第1192話

遠くから、一人の人影が歩いてくる。涼香だった。冬のベルリンはやはり厳しく冷え込んでいる。涼香はダウンコートに身を包み、大きな帽子を深くかぶっていた。そのせいで顔がいっそう小さく見え、どこか願乃に似た雰囲気をまとっている。彰人はしばらく黙って彼女を見つめていた。その視線に気づいた涼香は静かに問いかける。「彼女のこと、考えていたんですか?」彰人は答えなかった。沈黙がそのまま答えだった。涼香は彼の隣に立ち、同じように遠くを見つめる。遊んでいる子どもたちの方へと。彼の苦しみは分かっていた。全身を病に侵され、願乃のもとへ戻ることもできない。舞の意向はベルリンで適合する肝臓を待ちながら、一つずつ治療を進めるというものだった。彰人がぽつりと呟く。「ここにいたくない」声はかすかに震えていた。立都市へ戻りたかった。遠くからでいい。願乃を見守りたかった。結代のことも、そして――これから生まれてくる小さな命も。そのために、舞とは激しく衝突した。彼女は一切容赦しなかった。言い合いの末、思いきり頬を打たれたほどだ。だから今、彰人はただ静かにここにいる。それから一週間ほどベルリンに滞在したのち、彰人の強い希望により、結局一行は立都市へ戻ることになった。彰人は舞を安心させるように言った。体調に気をつけながら、肝臓のドナーを待つ、と。その日、専用機は立都市に降り立った。黒塗りの車が彰人を邸宅へと送り届ける。舞は帰る前、涼香を呼び止め、二人きりで少し話をした。書斎に入るとき、涼香は内心ひどく怯えていた。自分がどんな扱いを受けるのか、想像がつかなかったからだ。弁解しようと口を開きかけたとき、大きな窓の前に立つ舞が先に静かに言った。「あなたのことは知っているわ。モナから聞いた。彰人が一年で一千万円を支払って、あなたに身の回りの世話を頼んでいるって。でもね、もしあなたが彼を好きになって、いつか彰人もあなたを好きになったなら……私を気にする必要はないわ。反対なんてしない。むしろ祝福する。彰人と願乃はもう別れている。お互い自由な身よ――分かるわね?」……涼香は言葉を失った。責められるものだと思っていた。自分の過去は決して誇れるものではない。かつては彼のそばにい
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第1193話

待つというのはあまりにも長い。それが望みの薄いものを待つとなれば、なおさらだ。年の瀬が近づく頃。彰人の脳腫瘍はまだ発症していなかったが、肝臓の病はほとんど爆発的に悪化していた。一度入院して治療を受けたものの、退院後は薬でどうにか持たせている状態だった。涼香はほとんど付きっきりで彼の世話をしていた。彼女の部屋は寝室の隣にあり、ほかに二人の看護スタッフも常駐している。彰人と願乃がまったく顔を合わせていないわけではなかった。メディアの業務は舞と京介が引き継いでいたものの、莫高チップとのやり取りなど、いくつかの案件は彰人自身が直接関わっていた。――そのわずかな口実を使って。彰人は願乃と二度だけ会っている。いずれも会社での、事務的な面会だった。舞はそれを知り、呆れながらも、どこか哀れに思っていた。年末が迫るある日。彰人はふと、結代に会いに行きたいと思った。何か、プレゼントも買ってやりたかった。だが彼の体調は日に日に悪くなっている。脳の状態もあり、ひとりで外出することは許されていない。そのため外に出るときは、必ず涼香が付き添った。その日も二人で出かけた。ちょうど莫高チップから、冬の福利厚生として支給されたダウンコートがあった。倹約家の涼香はそれを二着受け取り、交互に着ていた。一方の彰人は病気になってからというもの、願乃と会う予定でもなければ身なりに気を使わなくなっていた。会社の作業用ダウンは黒一色で、着慣れていることもあり、そのまま外に出ても違和感がない。――並んで歩けば、まるで恋人同士のようだった。ショッピングモールに着くと、彰人は本心ではない様子で品物を選びながら、涼香に意見を求めた。長く一緒にいるうちに、彼はすでに彼女を妹のように感じていた。もともと彼女はずっと年下だ。もし時代が違えば、父親と呼ばれていてもおかしくないほどに。涼香は嬉しかった。彼に想いを寄せている彼女にとって、結代のこともまた、大切な存在だったからだ。だからこそ、心から選んでいた。彼女はふわふわのうさぎがついたヘアピンを手に取り、試しにつけてみる。鏡の前で何度も角度を変えながら、楽しそうに笑っている。その様子を彰人は静かに見つめていた。――まるで、若い頃の願乃を見てい
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第1194話

願乃はその場で足を止めた。視線を落とし、男の手を見る。しばらく会わないうちに、ずいぶん痩せたように見える。――新しい恋人のせいだろうか。それにしては少し無理をしすぎている気もする。そんな取りとめのない考えが頭をよぎり、願乃はそっとその手を振りほどいた。気まずくはしたくなかった。だから、低い声で淡々と言う。「会いに行きたいなら、結代に直接連絡すればいいわ。もう個人のスマホを持ってるの。あとで連絡先、登録しておくから。毎晩一時間だけ、通話や調べものに使わせてるの」彰人は何か言おうとした。けれど――願乃は軽く微笑んでそれを遮る。夕梨に声をかけ、そのまま立ち去った。少し離れたところまで来て、ようやく歩みを緩める。前を見つめたまま、ぼんやりと。――自分は間違っていた。平気だと思っていた。何も感じないはずだと。でも、知るのと――実際に目にするのとではまったく違う。彰人があの子を見つめる目はあまりにも優しくて。その瞳の中には、彼女しかいなかった。願乃の目にわずかな潤みが浮かぶ。夕梨がそっと近づき、肩を軽く叩いた。言葉はなくても、それだけで十分だった。願乃は無理に笑う。「少し、見て回ろうか」少しは辛い。けれど、生活は続いていく。きちんと別れたのだ。彰人も子どもには十分すぎるほどの保障を残した。十年以上、メディアのために働き続けたのと同じくらいに。そう考えれば、少しだけ心が軽くなる。――感情なんて。誰にだって過去はある。そして、未来もある。きっと、そのうち慣れる。彰人のいない生活にも。彼が誰かの夫になることにも。彼に、別の子どもができることにも。……きっと、慣れていくのだろう。願乃の背中が遠ざかっていく。彰人はその場に立ち尽くしたまま、長い間動けなかった。やがて、涼香がそっと近づいてくる。手にはあの可愛らしいうさぎのヘアピン。「これ、どうしますか?」慎重に尋ねる。彰人はそれを受け取り、しばらく見つめていたが、やがて首を振った。「いらない」涼香は唇を噛み、ためらいながら言う。「きっと、誤解しているんだと思います。説明されたらどうですか?私たちはそういう関係じゃないって。私はただの付き添いだって
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第1195話

願乃はソファに座り、本を読んでいた。結代はその横に寄り添い、顔を近づけて一緒に覗き込む。ときどき、ふくらんだお腹にそっと触れては嬉しそうに頬をほころばせた。満ち足りた心を持つ子だ。両親が離れても、卑屈になることも寂しさに沈むこともない。そこへ、彰人が入ってきた。足音に気づき、願乃が顔を上げる。彰人はゆっくりと手を拭きながら、静かに言った。「山の方から取り寄せた年の食材を、少し持ってきた。山で獲れたジビエが手に入ってな。今、下処理させてる。あとで結代に食べさせてやろうと思って……年の瀬だし、一緒に食事でもどうかと思って。午後四時には帰る」淡々とした口調。だがその奥には遠慮とどこかすがるような気配があった。離婚しただけではない。別れただけでもない。彼にはすでに別の女性がいる。――どこを取っても、気持ちよく再会できる関係ではない。願乃が断ることも、関わりを一切断つことも当然の選択だった。言い終えた彰人はわずかに緊張していた。拒まれることを恐れていた。願乃は膝に小さなブランケットをかけ、本をその上に置いたまま、彼を見る。それから、結代の期待に満ちた目を見て――ふっと微笑んだ。「この前、お料理を習いたいって言ってたでしょう?ちょうどいいわ。あとでパパが作るのを横で見て覚えなさい。教えるなら、あの人の方が上手だから」結代は大喜びだった。ぱっと駆け寄り、彰人の腕に抱きつく。「パパ!この前のテスト、学年一位だったの!賞状もいっぱいもらった!」彰人の表情が誇らしさと優しさで満ちる。「それは……ご褒美をあげないとな」レザージャケットのポケットを探り、取り出したのは小さなミルクキャンディ。結代は嬉しそうに受け取り、すぐに口へ入れる。そしてそのまま彰人の手を引き、台所へ向かった。「パパ、山鶏とキノコの炒め物が食べたい!」「分かった」そう答えながらも、彰人の視線はなおも願乃の顔に留まっていた。離しがたく。数秒後、ようやく結代に引かれていく。こんな時間は彼にとってあまりにも貴重だった。あと何度、こうしていられるのか分からない。残された時間も。脳に潜む爆弾がいつ発火するのかも。何一つ、確かなものはない。だからこそ、願乃と娘には穏やかで幸せな日
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第1196話

明らかに、彰人はまだ目を覚ましていなかった。痛みに意識が揺らぎ、書斎に漂う静かな空気の中で、彼は再びあの夢の中へと引き込まれていく。書き換えられた結末――願乃と金婚を迎え、雪の降る周防本邸の庭を並んで歩く夢。彼女の髪には、淡くやわらかな雪が降り積もっていた。現実では身体は激しく痛んでいる。夢だけはあまりにも穏やかで、美しかった。彰人は願乃を強く抱きしめ、かすれた声で夢の中の言葉をこぼす。だが願乃には、その言葉ははっきりとは聞き取れないし、聞こうとも思わなかった。彼女は軽く彼の腕を押し、彼がぼんやりと目覚めるのを待ってから、小さく囁いた。「彰人、手……離して」男の瞳はまだ焦点が定まらず、ゆっくりと現実へ戻ってくる。本来なら、すぐにでも手を離すべきだった。けれど――離したくなかった。彼は静かに願乃を見つめ、その手をそっと彼女の大きく膨らんだ腹へと添える。低くかすれた声で、問いかけた。「願乃、今、何時だ?」こんな時だけだ。意識がはっきりしていないふりをして、こうして名前を呼べるのは。――自分の感情を取り乱さずに済むから。案の定、願乃は彼がまだ完全に目覚めていないと思っている。彰人はそっと、胎内の命の気配を感じ取る。清席――彼の、まだこの世に生まれていない清席。生まれるその時、自分はまだ生きているのだろうか。もし生きていたとしても、どれだけの時間を共に過ごせるのか。何度、この子の顔を見られるのか。――これはもしかすると最後になるかもしれない。掌の下で、胎児がゆっくりと動いた。七ヶ月。すでに命の気配があり、心音も刻まれている。もしかしたら――これが父親だと感じているのかもしれない。いつの間にか夕方になっていた。雪はとっくに止んでいる。床まで届く大きな窓から、柔らかな夕陽が差し込み、書斎の中を淡い橙色に染め上げる。そこに、かすかな温もりが宿っていた。どれほどの時間が過ぎたのか。願乃が静かに口を開く。「もう離して、彰人。起きてるの、分かってる」彰人はゆっくりと目を上げ、彼女と視線を交わす。そこに宿るのは言葉にできない深いもの。彼は手を離した。――もう、自分は別の女性と付き合っている男だ。未練を見せるわけにはいかない。言えるのはただひとつ。……
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第1197話

幸い、ピックアップトラックは頑丈だった。ドンッ。激しい衝撃音が響いたものの、車体は横転せずに済んだ。そのすぐそばを、一台のレンジローバーが猛スピードで通り過ぎる。急ブレーキをかけて停車すると、運転席から男が苛立たしげに降りてきた。「ちっ、なんで俺がこんな面倒なこと――」文句を垂れながらも車を降りたのは愛する妻に命じられたからだ。でなければ、こんな事故現場に首を突っ込むつもりなど毛頭なかった。翔雅は善人ではないし、ましてやお人よしでもない。下手をすれば、事故を装って金を巻き上げられる可能性だってある。だが、ピックアップの運転席を覗き込んだ瞬間、彼は言葉を失った。「……は?」そこにいたのは彰人だった。……彰人が目を覚ましたとき、そこは病院だった。まぶたを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはぎっしりと人の詰まった病室。京介と舞の夫婦、澪安、そして翔雅夫婦――見知った顔ばかりが揃っていた。誰もが口を閉ざし、ただ見つめ合うばかりで、重たい沈黙が流れる。やがて、その空気を破ったのは翔雅だった。皮肉とも、苛立ちとも、あるいはどうしようもない苦さともつかない声音で、吐き捨てるように言う。「彰人、お前さ……自分が悲劇の主人公にでもなったつもりか?そんなやり方で、願乃が幸せに一生過ごせると思ってんのかよ。で、お前はどうする?ああ、立派だな。誰にも何も言わずに死んで、薄情な男の汚名だけ背負ってさ。まあ……元々そういうとこあるけどな」そこで言葉が途切れた。それ以上は続けられなかった。どうすればいい。こんな状態になってまで強がって、まだ恋愛なんてしているつもりなのか。彰人は何も答えず、ただ静かに横たわっている。痛みのせいで、すでに体は限界だった。周防家の面々もまた、沈黙していた。あまりにも難しい。――舞が真実を知ったときと同じだ。どちらを選んでも誰かが傷つく。そのときだった。ドアが開き、雅南が検査結果の紙を手に入ってくる。その後ろには涼香が続いていた。彼女の目は赤く腫れている。その様子を見ただけで、彰人はすべてを察した。――良くないな。彼は静かに口を開く。「二人とも、少し外してくれるか。話がある」涼香は唇を噛んだ。「でも……」彼女は彰人に好意を抱
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第1198話

あの日を境に彰人は姿を消した。年末年始になっても、彼が訪れることはなかった。年が明け、春を迎えるころには願乃の腹はさらに大きくなっていた。それでも、彰人は戻ってこない。ただ、時折結代にメッセージを送ってくるだけだった。――海外出張中だ、と。大きなプロジェクトを自ら開拓している、と。そんな言葉ばかりだった。人づてにいろいろな噂も耳に入る。――あの新しい恋人、涼香を連れて行ったらしい。――海外で二人を見かけたという人もいる。――腕を組んで、仲睦まじく買い物をしていた、と。その話を聞くたびに、願乃はただ淡く微笑むだけだった。気にしているのは結代のことだけだ。「パパに会いたい?」そう尋ねると、結代はうなずいた。「会いたい。でもね、パパは忘れないよ」そう言って、小さく笑う。「きっと、清席に会いに戻ってくる」その言葉がどこか救いのように響いた。やがて、願乃の腹は九ヶ月を迎えた。それでも、彰人は戻らなかった。まるで、この世界から消えてしまったかのように。……その夜、願乃は夢を見た。雪が降っていた。周防本邸の庭が静かに白く染まっていく。そして、彰人と初めて出会った、あの日のこと。あの頃はまだ、春だった。暖かな風の中、彼の隣を歩きながら、胸の奥は緊張でいっぱいで、それでも必死に平静を装っていた。――自分はもう、大人なのだと。あの頃の二人はあまりにも違っていた。願乃はまだ何も知らない少女だった。夢の中では、結代も、清席も、すでに大人になっていた。そこにはもう涼香も、鈴音もいない。ただ、彼と自分だけ。時は静かに流れ、やがて二人は老い、初雪のように白い髪を重ねる。――金婚の年齢にまで、たどり着いていた。そして、夢から目を覚ましたとき。足元にじわりとした感触が広がっていた。破水。清席が予定より早くこの世に生まれようとしていた。……その夜、願乃は病院へと運ばれた。四月初旬の、静かな夜。四時間にわたる懸命な出産の末――清席はこの世界に生まれた。小さな、愛らしい命。清席がそっと願乃のもとへ運ばれてくる。その瞬間、彼女の頬を熱い涙が伝った。胸に抱き寄せると、じんわりとした温もりが伝わってくる。その温かさが心の奥に残
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第1199話

病室の扉がきい、と小さく軋んだ音を立てて開く。入ってきたのは涼香だった。手には薬のトレー。今夜、彰人が服用しなければならない薬がずらりと並んでいる。錠剤だけで二十錠近く――見ているだけで、飲み込むのが辛くなる量だ。彰人がぼんやりと画面を見つめているのに気づき、涼香も視線を向ける。そこには小さな赤ん坊の写真。彼女はトレーをそっと置き、しゃがみ込んで一緒に覗き込みながら、心からの声で言った。「きれいな子ですね、氷室さん。とても似ています。清席、でしたよね?前におっしゃっていました」彰人は小さくうなずく。「……ああ、清席だ。いい名前だろう?」その声にはわずかな苦さが滲んでいた。涼香はそっと彼の手の甲に触れ、やわらかく言葉を重ねる。「一緒にいられないのは仕方のないことです。でも、あの子のそばには周防さんと、ご家族がいます」静かに、しかし確かに伝えるように。「清席はきっと、ちゃんと守られて、大切に育てられます。誰にも見下されることもなく……きっと、幸せな人生を歩みます」彰人は彼女を見つめた。――図星だった。清席は周防の名を持つ子だ。生まれながらにして守られている。自分のような――あの冷えた出自とは違う。だからこそ、安心できる。それでも、会いに帰りたかった。だが、この身体では、それすら叶わない。穏やかな時間が続くことの方が珍しく、いつ激しい頭痛に襲われるか、いつ拒絶反応で全身が腫れ上がるかも分からない。薬を口に運びながら、ふと彰人は言った。「涼香。立都市に行ってくれないか」彼はベッド脇から、小さな箱を取り出す。「これを……願乃に渡してほしい。子どもへの、俺からの贈り物だ」中に入っていたのはやわらかな布でできた、小さな靴。丁寧な刺繍が施されている。そして、淡い水色の小さなウサギのぬいぐるみ。それは彰人が幼い頃に、どうしても欲しかったものだった。だから、清席には自分が与えたかった。そのすべてをそこに込めて。涼香はそれを受け取り、じっと見つめる。やがて、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。しばらくしてから、彼女は静かにうなずく。「分かりました」……だが、その約束が果たされたのは六月になってからだった。彰人の体調は良くなったり悪くなったりを繰
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第1200話

涼香は一瞬、言葉に詰まったがすぐに柔らかな笑みを浮かべた。「氷室さんは元気にされています。海外にいらっしゃいますよ。少し落ち着いたら、結代にビデオ通話してくださると思います」その言葉で、願乃はすべてを察した。――これ以上、聞いても意味はない。それ以上は何も追及しなかった。帰宅し、車を降りたとき。澄佳は願乃の様子を気遣い、「少し一緒にいようか」と声をかけたが願乃は静かに首を振った。「大丈夫。姉さん、ほんとに平気。みんな、それぞれ前に進んでるから」それでも澄佳は安心しきれず、結代に言い含める。「何かあったら、すぐ連絡してね」結代はしっかりとうなずいた。「うん。任せて。ママと清席、ちゃんと私が見るから」その言葉に、澄佳は少しだけ安堵する。結代の頭をそっと撫でる。その顔立ちはどこか彰人に似ていた。――どうか、無事でいてほしい。どんな形であれ、かつては家族だったのだから。たとえ縁が尽きたとしても――生きていてくれさえすればいい。澄佳はそう願いながら、静かに家を後にした。家では、ベビーシッターが清席を二階の寝室へと運ぶ。そこには小さなベビーベッドが新たに置かれていた。願乃がすぐに世話をできるように。結代も休みの日には一緒に寝たがり、夜中に弟が起きれば、おむつを替えるのを手伝うこともある。まだ幼いのに、どこか大人びていた。――ママのそばには人が必要だと分かっている。――そして、その「人」は自分なのだと。結代は感じ取っていた。ママはきっと、パパを想っている。パパとママは本当に終わってしまったのだろうか。その日、清席は午前中ずっとぐずっていたが、ようやく深く眠りについた。願乃は小さな靴を履かせ、ベッドの枕元に淡い水色のウサギを置く。それだけで、清席の愛らしさが一層際立つ。彰人が残していった、たったひとつの父としてのかたち。願乃は静かに、それを見つめていた。ふと、視界がにじむ。涙がこぼれそうになるのを必死に抑える。結代には見せたくなかった。だが、その隣で、結代はそっと言った。「ママ、想うことって、恥ずかしいことじゃないよ」やさしい声だった。「私も、パパに会いたい。でもね、いなくても……こうして清席にプレゼントしてくれてるってこと
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