夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 1101 - チャプター 1110

1339 チャプター

第1101話

これは、今まで一度も起きたことのない出来事だった。浩太は、両親にとってたった一人の息子だ。だから、彼が突然姿を消したと知った瞬間、二人は当然ながら取り乱した。すぐに手配して調査させた。だが結果は──浩太は、雲井家の宴会場から一歩も出ていない、というものだった。浩太は秘書を連れて会場に来ていた。だが、その秘書の姿も消えていた。その報告を聞いた小林夫妻の顔に、じわりと不安が広がる。浩太が最後に姿を見せた場所は、雲井家の宴会。ならば、まず雲井家を問いただしに行くしかない。ちょうど階段を降りてきた忠は、小林夫妻の言葉を聞くや、あざ笑うように言った。「小林伯父さん、小林伯母さん。よくもまあ、そんな口がきけますね。こっちこそ、まだ文句言ってないんだけど?あなたたちの息子、浩太は──明日香の誕生日パーティーで、星に薬を盛ったんですよ。既成事実を作って、無理やりうちの星に浩太を押しつけるつもりだったんでしょう?」忠でも、浩太の下心くらいは察せられた。星を娶ろうとしていた──つまり、雲井グループの株が狙いだ。だから兄が怒るのも当然だ。星を利用して雲井家と揉めさせ、その隙に星の持つ株を奪い、最終的に雲井グループを掌握する──そんな筋書きだったのだろう。よくもまあ、こんな浅ましい計画を立てたものだ。雲井家の株を、他所の家に奪われるなんて論外だ。小林家は本当に分をわきまえていない。忠の言葉に、正道と靖の表情がさっと変わる。止めようとしたがもう遅かった。小林夫妻は顔を見合わせると、険しい目を向けてきた。「そんなことまでしていたとは──つまり、浩太を雲井家が隠しているでしょう?」忠はさらに何か言おうとしたが、靖が鋭い視線で制した。確かに、両家の間に揉め事があったと知られれば、浩太が雲井家の宴会で消えた時点で、雲井家が最も怪しいと思われても仕方ない。忠もすぐに気づき、口をつぐんだ。だがもう後の祭りだ。小林夫妻は「やはり」と言わんばかりに、二人をにらみつけた。「浩太がそんなことをしたかどうか、私たちは知らない。まずは、浩太をここへ連れて来てくれ。直接、確かめる」正道が静かに言う。「小林さん。浩太さんはここにはいない。もしここにいるのなら、こちらもあなたがたに説
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第1102話

ちょうどそのとき、扉のほうでノブが回る音がした。浩太は、びくりと肩を震わせて扉の方に目をやった。ゆっくりと部屋に入ってきたのは、若く整った顔立ちの男だった。すらりとした長身に、非の打ちどころのない容姿。まとっている空気は、どこか優雅で、氷のように冷たい。どう見てもただのボディーガードなんかじゃない。浩太はすぐに相手が誰かに気づき、怒鳴り声を上げた。「お前か!星のヒモ野郎!」その瞬間、仁志の黒い瞳が細くすぼまる。深い闇を思わせる冷たい視線が鋭く光り、言葉にできない圧が、室内の空気を一気に重くした。浩太の背筋を、ぞわりと冷たいものが走る。理由なんてわからない。ただ本能が「危ない」と叫び、膝が勝手に震えだした。「な、何をするつもりだ?誰に許可を得て俺をさらってきた!さっさと放せ!いいか、今ここで解放すりゃ命だけは助けてやる。そうじゃなきゃ……お前なんて、バラバラにしてやるからな!ああ、そうだ。あの雇い主の星、お前とデキてるんだろ?ふん、だったらまとめて捕まえてやるさ。俺があいつをどうしてやるか――目の前で見せてやる……うあっ!」殺気が、稲妻のように走った。仁志がどう動いたのか、浩太にはまるでわからなかった。気づいたときには床に押し倒され、顔面を革靴で踏みつけられていたのだ。鼻骨と歯が砕ける、ぞっとするような鈍い音が響く。その光景を見た女秘書は、ついさっきまで気を失っていたはずなのに、「ひっ」と短い悲鳴を上げた。仁志はゆっくりと顔を上げ、無表情のまま彼女へ視線を向ける。秘書の顔から、みるみる血の気が引いていく。口を両手で押さえ、部屋の隅で小さく縮こまりながら震えるばかりで、声を出すことすらできない。そのとき、再び扉が開いた。今度はスーツ姿の若い男が、恭しく歩み寄ってきて、仁志の前で深く頭を垂れる。「溝口様。この二人……どのように処理いたしましょうか?」「黒幕を吐かせろ」仁志の目に、わずかに血の色がにじむ。「それから――『あそこ』を切り落として、秘書に食わせろ」若い男の眉がぴくりと震えた。息を呑み、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。「……かしこまりました」「まだある」まだあるのかよ――心の中でそう毒づきながらも、若い男は顔には出さない。仁志は冷ややかに、足元の浩太を見下
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第1103話

浩太の失踪――それがいったい、星とどう関係しているというのか。星には、揺るぎないアリバイがあった。小林夫妻は、「星が浩太を誘拐した」と頑なに主張する。だが星も、一歩も引かない。むしろ浩太の両親こそ、責任を逃れるために、わざと息子をどこかに隠して、自分たちの前で芝居を打っているんじゃないかと。そのとき、雅臣が静かに口を開いた。「星から伺いましたが、小林家と雲井家は、代々のお付き合いだそうですね。それなのに浩太さんは、こんな下劣な真似をしました。挙げ句の果てには動画まで撮って、星をゆすろうとしていました。この件について、小林家として星にきちんと筋の通った説明をしていただけないのなら……明日のニュースのトップに映るのは、浩太さんの姿になります」雅臣は、声のトーンを変えずに続けた。「小林さんは、近ごろ選挙の準備をされているそうですね。そんな息子さんが『品行に問題あり』と報道されたら、有権者はどう感じるでしょう。周囲からの信頼も失われます。どちらが重く、どちらが軽いのか……小林さんなら、お分かりですよね」小林家は、代々続く政治家一族だ。悪い噂は、一つでも少ないほうがいい。まして今は、国政選挙を目前に控えている。この動画が表に出れば――小林父の頬が、ぴくりと引きつる。その先の未来が、あまりにもはっきりと見えてしまったからだ。落選は、ほぼ確定だろう。星は、雲井家の娘。そして、雅臣という男も、ひと筋縄ではいかない相手だ。この一件を「なかったこと」にするのは、どう考えても難しい。やがて小林父は、渋々と口を開いた。「……では、どうすれば、その動画を渡してもらえる?」ついに折れたのだ。雅臣は星に視線を送る。星は、小さく頷いた。それを確認すると、雅臣はあらかじめ用意していた契約書を、静かに小林父の前へ差し出す。ざっと目を通した小林父は、顔を真っ赤にして震えた。「これは……足元を見すぎだろう!」星が求めているのは、小林家の中核事業会社の株――二十パーセント。だが、小林家の株は広く分散している。その二十パーセントは、実質的に『主導権』の譲渡を意味していた。雅臣は、落ち着き払った声で言った。「小林さん。俺たちはあくまで、市場価格での買収をご提案しています。不当な条件ではありません。それに、星は
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第1104話

雅臣は、ふっと口元を緩めた。「もちろんです。同じ仲間なんですから、誰が案件を取ろうと構わないでしょう。小林グループも、この最先端企業群の追い風に乗れれば、一気に名前を上げられるかもしれませんよ」星は、ほんの一瞬だけ眉をぴくりと動かした。星はずっと、雅臣は寡黙で、必要以上のことは口にしないタイプだと思っていた。まさか……こんなふうに『上手く夢を見せる』人だったなんて。雅臣の言葉に、小林父の怒りは少しずつ収まり、むしろ星へ笑みさえ向けてきた。「星さん、後ほど秘書に株式譲渡契約書を作らせる。そちらも資金のご用意をお願い。三日後に、正式に調印といこう」星はにこりと微笑み、こくりと頷いた。「約束ですよ」小林父は、早々に席を立った。星が支配する先端テクノロジー企業は、各国の情勢にすら影響を及ぼす存在だ。そんな企業と太いパイプを持てるのなら、得こそあれ、損はない。しかも、星は市場価格で買うと言っている。冷静に考えれば、悪い取引ではない。小林父が去ったあと、星はわずかに眉をひそめた。小林グループは、雲井家ほどの規模ではないとはいえ、背後にはM国政府がついている。その中核企業の株を二十パーセントも買うとなれば、必要な金額は決して少なくない。星は多くの「資源」を持っている。だが、すぐ動かせる現金となると、それほど潤沢ではなかった。もちろん、彼女にとっての切り札である『原株』を売って資金を作るつもりは、これっぽっちもない。少し考えた末、星は澄玲と奏の力を借りることにした。澄玲は芸術専攻ではあるが、株や投資にも手を伸ばしている。裕福な志村家のお嬢様で、資金も人脈も十分。今や立派な『ヤングリッチ』だ。事情を聞いた澄玲は、ほとんど迷いも見せずに引き受けてくれた。すぐさま自分の流動資金の計算を始める。ほとんどは投資に回していて、すぐ現金化できるものは少ないらしい。スマホ越しに、柔らかな声が響いた。「ごめんね、星。私個人で今すぐ出せるのは、百億円くらいかな。でも、両親と兄にも頼めば……もう百億円はどうにかなると思う。合わせて二百億円。足りる?足りなかったら、他の手も考えてみるよ」「十分よ。あとは先輩から少し回してもらえれば、何とかなる」二百億円は、決して小さくない額だ。だが、買収対象が小林グループの
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第1105話

星は、黙り込んだ。何て返せばいいのか、自分でもわからない。昔の彼女なら、雅臣の前では、話したいことがいくらでもあった。今は、こうして向かい合っていても、言葉が出てこない。清子がいなくなった今、二人はもう、あの頃のようにケンカをすることさえできなくなってしまった。雅臣は、星の沈黙に気づかないふりをしたのか、静かに口を開いた。「星……お前は、本当に変わったな。昔の俺はさ、俺たちの間には翔太がいるんだから、少し俺が折れて、お前を甘やかしてやれば、そのうち前みたいに戻れると思ってた。翔太をうまく使えば、お前の心も揺らぐだろうって。でも、翔太が言うんだ。『今のママのほうが楽しそうだ』って」最初は意味がわからなかった、と彼は続けた。「母親がそばにいることって、子どもにとって一番の幸せなんじゃないのかって。だけど……今思うと、あのときの俺は、五歳の子ども以下だったんだな」星の瞳に、久しぶりに光が宿っていることに気づく。そのきらめきは、この数年、一度も見ることのなかったものだ。雅臣はふと思い出した。結婚したばかりの頃、星の目はいつも明るく、楽しげに輝いていた。彼が結婚を選んだ理由は、翔太の存在だけではない。当時、彼女を妻として迎えるのも悪くない――そう思っていたからだ。嫌いではなかった。むしろ、好意すらあった。自分の母親と決裂しかけてまで選んだ相手だった。――じゃあ、いつからだ?彼女の目から光が消えていったのは。もう思い出せない。思い出せないほど長いあいだ、彼は彼女をいて当たり前の存在として扱い、無意識のうちに、ないがしろにしてきた。星は口数が減り、笑顔も少なくなった。枯れていく薔薇みたいに、日を追うごとに色を失っていった。花を育てるように、愛情も育てなければ枯れてしまう。どんなふうに育てたかの結果にしかならない。ふいに雅臣は、星の手をそっと握った。「俺はずっと、『愛』っていうのは、もっと情熱的で、全部を投げ出せるようなものだと思ってた。でも……誰が決めたんだろうな。激しいものだけが愛で、穏やかな日々は愛じゃないって。星、離婚してから、ずっと考えてた。俺が離婚したくなかったのは、お前が翔太の母親だからでも、よく出来た妻だったからでもない。一番の理由は……俺が本当は――」言い終
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第1106話

仁志は、いつも通りの淡々とした声で言った。「星野さんは翔太さんのお母様ですが……あなたのお母様ではありません。確かにあなたは翔太さんのお父様ですが、あなたと星野さんの関係など、とっくに終わっています。「当然」だとか「義務」だとか、そういった言い方は、もう通用しませんよ」星は、思わず言葉を失った。――この人の口の悪さ、本当にブレないわね。仁志が昨夜ここにいなかったことを、星も雅臣も深くは考えていなかった。きっと翔太の世話をしていたのだろう――それくらいにしか思っていない。雅臣は、もともと口喧嘩が好きなタイプではない。まして、こんな子どもじみた言い合いに付き合う気はさらさらなかった。彼は仁志を無視し、星のほうへ向き直る。「星、資金のことは急がなくていい。俺がなんとかする。今、神谷グループで動かせる流動資金は千億円くらいある。足りない分は、別の手を考える。三日以内には、必ず揃えてみせる」その言葉に、仁志が星へ視線を向けた。「どうして急に、そんな大金が要るんですか?」星は、小林家の株式を買い取るつもりでいることを、かいつまんで話した。「浩太はいま行方不明。当分のあいだ、本人に直接責任を取らせるのは無理よ。だったら、このタイミングでこっちが『得』を取ったほうがいい。浩太のお父さんは、もうすぐ選挙に出る。今が一番、交渉しやすい時期。選挙が終わったら、あの人もそう簡単には動かないわ。それに……浩太を見つけたところで、せいぜい謝らせるくらいしかできない。未遂で終わって、実害は出てない。小林家は雲井家と昔から付き合いがあるし、本人を潰したり、殺したりなんてありえない。小林家が絶対に許さないもの。どうせ雲井家も、この件を理由に小林家を揺さぶって、利益を吸い上げるでしょう。だったら先に動いて、この苦しみの『元を取る』のは私でいいって思ったの」これは、誰に入れ知恵されたわけでもない、星自身の決断だった。だからこそ、雅臣ははっきりと感じていた。――星は、前とはまるで違う。大人の世界には、正しさよりも利益が優先される瞬間がある。星はもう、感情だけで動いていられる立場ではなくなったのだ。きっと雲井家は、この件をダシにして小林家を揺さぶり、たっぷり利益を吸い取る。最後に浩太に頭を下げさせて、一件落着――そんな未来が、容易に想像
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第1107話

星は、心から感心したように口を開いた。「仁志……本当に、頭いいわね」仁志は、持ってきた朝食をテーブルに並べながら、軽くうなずいた。「浩太が行方不明のままなのですから、今の状況で取れる手としては、これが一番ましですよ」雅臣も、もちろん馬鹿ではない。利益を取るという点では、これが最も合理的な選択だということは理解している。――それでも。もし星が「どうしても許せない」と言うのなら。そのときは、彼女のために全力で戦うつもりだった。これまで星は、雅臣の事情のせいで、あまりにも多くを譲り、数えきれない理不尽に耐えてきた。もうこれ以上、星だけに我慢を強いるような真似はしたくない。……正道と靖が病院に到着したちょうどその頃、満面の笑みを浮かべた小林父が、病院から出てくるところだった。二人は歩みを止め、顔を見合わせる。――どういうことだ?昨日、あの小林家は血相を変えて使いを寄こし、「浩太を引き渡さなければ絶縁だ」と息巻いていたはずだ。それなのに今日は、ずいぶんと上機嫌ではないか。まさか……浩太が見つかったのか?その考えが頭をよぎった瞬間、靖の瞳が冷たく光った。彼はまっすぐに小林父の前へ歩み出る。「小林おじさん、そんなに急いで病院を出て……浩太が見つかったんですか?」小林父は顔を上げ、二人に気づいた。笑顔が、ほんの少しだけ強張る。「まだだよ」浩太の失踪――犯人が怜央でないのなら、次に疑うべきは雲井家だ。星の可能性は、もっとも低い。彼女は薬を盛られた後、すぐに倒れた。その状態で浩太を誘拐する気力があるはずがない。だが、雲井家なら――話は別だ。いかにも『うちは無関係』って顔をしておきながら、裏で浩太を押さえて、小林家を揺さぶっている可能性は十分ある。そんな疑念が、小林父の頭にはごく自然に浮かぶ。正道とは、これまで何度もやり合ってきた。あの老獪な男にいいように利用された経験は、一度や二度ではない。正道は、いつも通り穏やかな笑みを浮かべたまま近づき、口を開いた。「小林、病院に来たってことは……星の様子を見に来てくれたのか?」小林父は、どこか皮肉っぽい作り笑いで答えた。「もちろんさ。なんだかんだ言っても、星が入院したのは、うちのバカ息子のせいだからね。見舞いに来るのは、当然だろ
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第1108話

「父さん、小林おじさんが株を二十パーセントも譲るって……本気か?前に俺たちが『十パーセントだけでいい』ってお願いしたときでさえ、頑として首を縦に振らなかったのに。昔、母さんに世話になったとか、情に訴えるようなことまで言われて、それでも強引に買うことはできなかったじゃないか。それなのに、星になら売るって……どういうこと?」靖がそう言うと、正道は小林父が去っていった方角を見つめたまま、落ち着いた声で答えた。「小林家が星を受け入れたのは、星が握っている先端テック系の企業を高く評価しているからだ。小林家の株価は、うちほどではないにせよ、それでも二十パーセントともなれば、普通なら簡単に手が出せる額じゃない。星が持っている資金だけじゃ、とても払えないはずだ。いずれ星は、俺たちに支援を求めてくるだろう」たとえ雲井家であっても、企業買収のための資金を動かすには、最低一年はかけて手当てをする必要がある。企業価値はどれだけ巨大でも、手元の流動資金には限りがあるのだ。優秀な商人なら、資金は常に投資に回しておく。銀行に寝かせて利息を待つのは、一般人の発想だ。靖が、わずかに身を乗り出した。「もし星が、俺たちに助けを求めてきたら……そのタイミングを利用して、星の持っている原株を買い取ることはできないか?」正道は、じっと息子を見つめた。「靖。原株の価値は、お前も俺も嫌というほど分かっているだろう?それを星が分かっていないと、思うか?株に関する知識が皆無なら、そもそも雲井家に入ってこない。自分のことだと想像してみなさい。そんな価値のある原株を、簡単に手放すか?」靖は口を閉ざした。言い返せない。正道は、さらに続けた。「お前が理解している理屈を、星だけが理解していないなんて、おかしな話だろう。それに、星がうちを頼るとしたら、理由は何だ?うちと他の企業が同じ条件を出したなら、星は必ず比較する。それでもうちを選ぶとしたら――そこには理由が必要だ」靖は、思わず「家族だから」と言いかけた。身内に渡すのなら、外部に渡すよりずっといい――そう思ったのだ。だが、その言葉は喉の奥で止まった。父の意図に、ようやく気づいたからだ。二人の企みは、あまりにも露骨すぎた。まあ、確かに二人とも、星の手元にある原株を狙っているのは明らか
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第1109話

七千二百億円――その数字を見た瞬間、星は息が詰まりそうになった。澄玲が出せるのは、二百億円。奏のほうは、川澄家に話を通したものの、動かせるのは六百億円ほど。川澄グループの運転資金を確保しなければならない以上、それが限界だった。雅臣は、当面動かせる流動資金が千四百億円。だが、その千四百億円を丸ごと星に渡してしまえば、会社の投資判断は極端に慎重にならざるを得ない。資金繰りが詰まるようなことになれば――目も当てられない。航平も事情を聞き、八百億円なら出せると言ってくれ、それに加え影斗も、一千億円を出すと言ってくれた。ここまでかき集めても、合計で四千億円。それでも、なお三千億円以上の穴が残る。葛西先生に頼ったとしても、一気に三千二百億円を用意するのは難しいだろう。それに――星は、雅臣や影斗、航平の会社から、運営資金を根こそぎ抜くような真似はできない。もし彼らの会社の資金繰りに問題が出て、肝心なときに星が返済できなかったとしたら。そのときこそ、本当に取り返しがつかない。退院に問題がないと判断されるやいなや、星はすぐに病院を後にした。どうにかして、この資金を工面しなければならない。今の彼女の唯一の「資本」――それは、母が遺した原株だった。星は考えた末、凌駕に頼んで、夜派の株主たちに連絡を取ってもらうつもりでいた。その意図を察したのか、仁志はすぐに口を開いた。「……原株を、彼らに売るつもりですか?」星はうなずいた。「今の私が動かせる現金は、本当に限られてる。雅臣が助けてくれるとしても、三日以内にこの額はどうにもならない。それに……彼らが私を助けてくれたせいで、自分たちの資金が縛られるなんて嫌なの。短期間で返せる額じゃないから。もし流動資金が足りなくなれば、投資判断にも影響が出る。そんな大きな借りは、背負いたくない。頼れるのは自分だけ。誰かに縋る形になるのは、もうやめたい。それに、小林家を買わないにしても、流動資金が少なすぎるのは、いずれ必ず壁になる。どこかで解決しなきゃいけなかった問題だもの」仁志は、少し驚いたように眉を上げた。「あなたは……原株を手放すのを、もっと惜しまれるかと思っていました」星は、ふっと笑みを浮かべた。「物は物よ。死んだまま抱え込んでいても意味がない。母が残した
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第1110話

「最後は、どうせ話がまとまらない。私は、あんな人たちに時間も気力も使うつもりはないわ」星の言葉に、仁志は静かにうなずいた。まるで彼女の判断を、そのまま肯定するように。「うん。あなたの考えは正しいですよ。雲井家にせよ、その他の誰にせよ――僕たちには、ああいうところに恩を売られる必要なんてありません」星は携帯を手に取り、凌駕に電話をかけようとした。そのとき、オフィスの扉がノックされた。凌駕が顔を出した。「星野さん、外にお会いしたいという方がいらっしゃってます」星は少し眉を上げた。「誰?」凌駕は、すこし困ったような顔で答えた。「お名前は名乗られませんでしたが……投資をしたいので、星野さんと直接話したいっと」投資家を門前払いする経営者はいない。凌駕もその重要性は理解しており、すぐに星へ確認しに来たのだ。ちょうど今は、流動資金が喉から手が出るほど欲しい時期。金額は読めないが、会ってみる価値はある。「通して」「はい」ほどなくして、凌駕に案内されて、一人の男性が入ってきた。二十五、六といったところの、若い男だった。柔らかな笑みを浮かべた整った顔立ちは、どこか中性的で、人当たりが良さそうに見える。星の隣に立つ仁志を見た瞬間、その視線が一瞬だけ止まった――だがすぐに、穏やかな笑みへと戻った。「初めまして、星野さん。藤原謙信(ふじわら けんしん)と申します。本日は、うちの旦那様の代理人として参りました。星野さんは雲井家のお嬢様であり、世界トップクラスのテック企業をいくつもお持ちだと伺っています。うちの旦那様は、その将来性を非常に高く評価しておりまして……ぜひ投資させていただきたいのですが、星野さん、ご興味はございますか?」星は、雲井家に戻ってから何度も投資話という名の、実際は株を奪うための接触を受けてきた。実際には投資する気などなく、彼女を若くて経験のない後継者だと侮って、取り込もうとする相手ばかりだ。星は礼儀正しく、にこやかに微笑んだ。「申し訳ありません。私は決裁には関われますが、株式の構造を変えることはできません。もし投資をご希望でしたら、各社の社長とご相談ください」謙信は、慌てて両手を振った。「いえいえ、星野さん。誤解なさらないでください。うちの旦那様は、あの企業群に出資したいわけ
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