星は「仁志」という名前を聞いた瞬間、ほんのわずかに視線を揺らした。だが結局、何も言わずに黙り込む。その空気を察して、彩香が慌てて話題を変えた。「星、後片付け終わったらさ、外出て買い物行こ。街ぶらしよ?この前なんてずっと健人のとこに入り浸りで、全然ショッピングできなかったじゃん」星は短く答える。「うん、行こう」……ここ最近の星は、連日の残業でほとんど休めていなかった。ようやく一区切りついて、体の奥で張りつめていたものが、やっと緩む。机の上には、まだ三、四件の書類が残っていた。今夜中に片付けて、明日は彩香と出かける――そう決める。少しだけ休もう。そう思って机に突っ伏したが、そのまま眠りに落ちてしまった。どれくらい経ったのか。誰かがそっと肩に上着をかけてくれた気配がした。星ははっと目を覚ます。目をこすりながら、ぼんやりと口にした。「また寝ちゃってた……仁志、今何時?」――空気が、一瞬だけ固まる。静まり返った中で、彩香の声が落ちた。「星……もう十一時半だよ」星は振り返り、彩香のどこか切なげな目と視線がぶつかる。そして、ゆっくりと目を伏せた。彩香は小さくため息をつき、無言のまま星の後ろに回る。そっと手を伸ばし、頭のツボをやさしくほぐし始めた。星のまつ毛が、かすかに揺れる。何か言おうとして、言葉を飲み込む。その気配を察した彩香が、低く言った。「聞きたいんでしょ。このマッサージ、どこで覚えたのかって」手を動かしながら続ける。「仁志が出ていく前にね、ノートを一冊くれたの。あなたの生活習慣、全部書いてあるやつ。真相知ったばかりの頃は、正直……私も仁志のこと責めたよ。でも、そのノート読んだら……もう責められなかった」少しだけ声がやわらぐ。「私たち、長い付き合いじゃん。自分では、あなたのことちゃんと分かってるつもりだった。でも仁志と比べたら……ほんと、恥ずかしくなった。コーヒーの温度とか、お茶の適温とかまで細かく書いてあってさ。私なんて、温かい飲み物が好きってことくらいしか知らなかったのに……読んで初めて気づいたよ。私が知ってることなんて、あの人に比べたら全然だって」少し笑うように、でもどこか悔しそうに。「このマッサージも、そのノートで覚えたの。私、仁志みたいに頭良くないからさ、こっそりずっと
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