夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 441 - チャプター 450

534 チャプター

第441話

さらに厄介なのは、翔太の存在だった。清子という愛人のせいで離婚にまで至り、ついには刃傷沙汰にまで発展した――そんな話題、上流社会においては格好の酒肴となる。神谷家も雅臣も、これ以上の醜聞は許されない。その意図を察した航平は、しばし黙考したのちに口を開いた。「星......それは賭けだ。もし雅臣が本当に意地を通すつもりなら、君自身を犠牲にすることになる」だが星はあっさりと笑った。「それでもね。この鬱憤を晴らさなきゃ、いつか本当に手を下してしまうかもしれない」航平は言いかけて、結局は口をつぐんだ。――もうここまでこじれてしまったのだ。奏の件が雅臣の仕業でないことも、今さら伝えるべきではないだろう。そのころ。影斗は部下の報告を聞き、眉をわずかに上げた。「つまり、彩香にちょっかいをかけた遠藤とかいうのは、雅臣の差し金じゃないと?」「はい。実は......川澄奏の身内です」「身内、か」影斗は渡された資料に目を走らせ、漆黒の瞳を細める。「奏のスキャンダルを流したのも、雅臣じゃなくて川澄家?」「その通りです。川澄家の人間は奏を家に戻したがっています。しかし本人が拒否したため、強引に追い込もうとしたようです」「本人は、それを知ってるのか?」「恐らく知っているはずです。家族が何度か接触しています」影斗はソファに身を預け、唇の端に皮肉めいた笑みを浮かべた。「分かっていながら、星ちゃんには黙っていた......あの男も腹黒いな」部下がさらに報告を続ける。「調査の途中で、航平も同じ件を探っているのを見ました。彼も恐らく、事情を把握しているはずです」影斗の唇に、意味深な弧が浮かぶ。「奏は黙っているし、雅臣の親友であるはずの航平まで、口を閉ざしている。本来なら星ちゃんに情報を流しているはずの彼が、わざと黙っていて、雅臣に濡れ衣を着せている......面白いじゃないか」宿題をしていた怜が顔を上げた。「お父さん、じゃあ星野おばさんに教えてあげないの?」影斗はちらりと息子を見下ろし、どこか楽しげに答える。「奏も航平も、そろって沈黙を選んだ。なのに俺がわざわざ口を出すと思うか?雅臣の人望のなさは明らかだ。親友すら庇わない。俺が助け舟を出
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第442話

影斗は気怠げに笑った。「雅臣は星ちゃんを屈服させたいんだろうが、彼女は翔太の母親だ。しかも彼に背いたことなど一度もない。そんな相手に、ビジネスの駆け引きを持ち込もうものなら......俺どころか、葛西先生だって黙っていないさ」奏の件については、すでにニュースで目にしていた。だが、彼が動こうとは思わなかった。星本人のことなら全力で守る。だが、その周囲の人間までは――彼はそこまで善人ではなかった。今回介入したのも、奏と彩香の一件が、星に関わると知ったからだ。ところが調べてみれば、思いもよらぬ収穫があった。影斗の目が愉快そうに細められる。「最初にきちんと説明していれば、星ちゃんも多少は信じただろう。だが両手に欲を抱えて立ち回った結果、賢さが仇になった。自惚れの代償を払うことになるさ」病院では、雅臣がゆっくりと意識を取り戻していた。霞む視界の先、細い影がベッド脇に突っ伏している。「......星」かすかな声が漏れる。するとその影は勢いよく顔を上げ、喜びに満ちた声が響いた。「雅臣!目が覚めたのね!」雅臣は一瞬戸惑い、思わずつぶやく。「......清子?どうしてお前が」「あなたが怪我をしたのよ。当然、付き添うわよ」清子は彼が周囲を見回しているのに気づき、何を探しているのかを悟った。拳を握りしめながらも、声はいつも通り優しい。「雅臣......星野さんは、手術が終わったあと病室には入らず、そのまま帰ったわ」雅臣の瞳が暗く沈む。「......何か言っていたか」彼の表情を探るように、清子は答える。「ただ一言――彼は私に何もできないと。それだけ言って出ていったの。雅臣、彼女はあなたを殺しかけたのよ。絶対に許しちゃだめよ!」だが雅臣はすぐには同意せず、遠くを見つめるように思考を漂わせた。ふと脳裏をよぎったのは、熱を出したときのことだった。過酷な残業の末に高熱を出し、倒れ込んだあの日。一昼夜、眠らずに傍らで看病し続けてくれたのは――星だった。意識が戻るや否や仕事に行こうとする彼に、彼女は初めて声を荒げた。「倉田秘書。たかが数日、社長が休んだくらいで傾く会社なら、いずれ潰れるわ。本当に雅臣を思うなら、この時期に書類なんて持
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第443話

たとえ星と離婚することになっても、今この瞬間だけは、病み上がりのせいか、胸の奥に妙な感情がかすかに芽生えていた。「雅臣......聞いてる?」清子の声が、その思考を遮った。雅臣は我に返り、胸の奥に生じた違和感も一瞬で霧散する。掠れた声で言った。「星を呼べ。すぐにここへ来るように」清子は、彼が星を糾弾するつもりだと考え、うなずいた。「分かったわ」病院からの連絡を受けた星は、朝食を済ませた後、ゆったりと病室へ向かった。扉の前に着いたとき、中から清子の声が聞こえてきた。「雅臣、一口だけでも食べて。食べなきゃ治らないわ」しばらくして、低くかすれた声が返る。「......いい、食欲がない」なおも彼女が説得しようとしたとき、星は扉をノックして入室した。入ってきた彼女を見た瞬間、雅臣の瞳にかすかな光が宿る。思わず彼女の手元に視線を落とすが――持っていたのはバッグだけ。花束もなければ、彼女の得意とする薬膳もない。瞳がわずかに陰る。星が目にしたのは、清子が湯気を立てるお粥を手に、彼に食べさせようとしている場面だった。どうやら彼は受け入れる気がなさそうだった。星はそのお粥を一瞥し、さらりと告げた。「小林さん。雅臣の口は相当贅沢になってるわ。外で買ったお粥には口をつけない。自分で煮れば、きっと食べるはずよ」元々はそこまでこだわる男ではなかった。ただ、この数年、彼女が手ずから整えてきたことで、舌が肥えてしまっただけだ。星の姿を見た清子の表情が冷たくなる。「あなた、雅臣に許しを乞いに来たの?」星は淡く笑んだ。「許しを乞うのは私じゃなくて――彼の方よ」視線を雅臣へと移し、気のない調子で問いかける。「体調はどう?」雅臣は彼女をじっと見つめ、掠れ声を落とす。「......お前の煮たお粥が食べたい」清子の顔が固まった。だが星は表情一つ変えない。「食べたいなら小林さんか、使用人に頼めばいいじゃない。私はもう、あなたの家政婦じゃないのよ」黒い瞳に、彼女の冷淡な顔が映り込む。かつてなら、病気や怪我のときに見せた彼女の心配げな表情は、そこにはなかった。まるで他人を見るような目。声が不意にかすれる。「......星。そんな態度とって
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第444話

清子は星を鋭くにらみつけ、瞳にぎらりと光を宿した。「私はすべてを捨てても構わない。この殺人犯を野放しにするくらいなら!」雅臣の眉が思わずひそめられる。「清子、落ち着け」「こんな怪我を負わされて、どうして落ち着けるの!」清子の目は真っ赤に潤み、声には切実さがにじんでいた。「清子......」雅臣が口を開きかけるも、彼女の激情がそのまま遮る。清子は真剣な眼差しで訴えた。「雅臣、スタジオも作曲家も、また探せばいいわ。どんな屈辱も耐えられる。でも――あなたが傷つくことだけは、絶対に許せない!」星は静かに立ち、二人の情深いやり取りを眺めていた。紅い唇をゆるやかに上げ、冷ややかに言い放つ。「小林さん、あなたがすべてを捨てるというのは、雅臣があなたのためにしてきた努力を、全部水の泡になるということよ。彼が受けた傷ですら、無意味になるのよ。それでも構わないの?」清子は睨み返し、吐き捨てるように言った。「無駄になどしないわ。あなたには必ず報いを受けさせる。雅臣のためなら、私は何もいらない」その言葉は勇ましく聞こえたが、星には分かっていた。先ほど自分が持ちかけた「賭け」に触発され、意地になっているだけだと。「残念ね」星は笑う。「どう思おうと関係ない。大事なのは、雅臣がどう決めるかよ」清子の視線が無意識に雅臣へ向かう。だが、彼の深い眼差しは星の顔に注がれていた。胸の奥に冷たい不安が広がる。「雅臣......まさか、本当に彼女を許すつもりじゃないでしょうね?」雅臣の瞳が一瞬揺れ、低く言った。「清子。演奏会は目前だ。お前の体調が最後まで持つかどうかも分からない。無駄にできる時間は、もう残されていないんだ」星は清子に向かって穏やかに笑う。「小林さん、ご覧なさい。雅臣はあなたを想うあまり、私に刺されたことすら飲み込んでいる。普段なら絶対に見逃さない人なのにね」清子は唇を噛み、血の味が口に広がる。――これは誇示だ。かつて病を盾に、数えきれないほどの恩恵を得てきた。その病が、今や彼女自身を縛る鎖になっていた。「......私は受け入れられないわ」声を震わせながらも、清子は必死に言い切った。雅臣の声音が低く響く。
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第445話

星の返答は、雅臣にとって予想外だった。瞳にかすかな動揺が走るが、すぐにいつもの冷静さを取り戻す。「星......お前は人の性に賭けている。だがもし俺が、本気で代償を払わせると決めたら?人の性ほど、危ういものはない」星は静かに言い放つ。「あなたは清子のために離婚すら選んだ。私に二百億を渡すこともできた。たかが私を少し傷つけた程度のこと、あなたにとって何の意味があるの?」唇に淡い笑みを浮かべる。「そうね、人の性を賭けの材料にするべきじゃない。でも私が賭けているのは、あなたの罪悪感なんかじゃない。――清子への感情よ。私にスタジオを渡させ、彼女に曲を作らせようとしたのも、結局はその性に賭けていたんじゃない?あなたが永遠に勝ち続けることなんて、あり得ないの」雅臣は人心を操ることに長けている。だが彼には資産も立場もあり、負けても大した痛手ではない。一方で彼女は、わずかな差で命取りになる。それでも、星は恐れなかった。人生そのものが賭けだ。負けを恐れる者は、永遠に勝てない。今まで散々苦汁をなめさせられた分、今回は彼にその屈辱を味わわせる。巡り巡って、今度は彼の番だった。彼女はバッグから契約書を取り出した。「......契約はどうする?気が変わってないなら、すぐに署名して。新しいスタジオを借りて、機材を整えるには時間が要るから」雅臣はしばらく彼女を見据えたのち、低く言った。「ペンを」差し出されたペンを受け取り、几帳面にサインを重ねていく。その姿を見つめながら、星の瞳にかすかな嘲笑が浮かぶ。――やはり妥協した。今回の勝負は、彼女の勝ちだ。だが、その顔に勝利の色はなかった。雅臣が応じる可能性は九割。残りの一割は、彼の気まぐれな意地。勝負の体裁を取っていても、結末は初めから見えていた。署名が終わり、立ち去ろうとしたとき、背後から声が飛んだ。「......もし俺が奏の件は俺じゃない、と言ったら?」星は視線だけ落とし、冷ややかに返す。「答えが分かりきってる質問は、しない方がいいわ」「本当に俺じゃない。お前は誤解している」彼女は皮肉げに笑った。「契約にサインした途端に、今さら誤解だですって?あなた自身、そんな言葉を
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第446話

星はそう言い残し、病室を後にした。数日後、奏を陥れようとした一家は警察に逮捕された。警察は奏の潔白を証明し、世間に向けて「子どもは奏のものではなく、女側が独断で機関の職員を買収したものだ」と説明した。これでようやく、奏を巡る騒動は決着を見た。星が事前に彩香へ根回しをしていたおかげで、新しいスタジオはすぐに稼働を始めた。凛もすでに曲の練習に取りかかっている。その日、星が凛と音楽会の段取りについて話していると、勇から電話がかかってきた。「お前のオリジナル楽譜を清子の会場まで届けろ。今日、彼女はその曲を演奏するんだ」今の勇は、清子の半ばマネージャーのような存在だ。もともと放蕩息子で、会社の仕事にはまったく身が入らなかったが、清子のコンサートが迫ってきたため、つきっきりで手伝っているのだ。星は冷ややかに答えた。「住所を送って」数秒後、勇から住所が送られてきた。「送ったぞ。遅れるんじゃない。今日は大事な舞台だからな。清子の演奏に支障が出たら、ただじゃおかないぞ。俺は雅臣みたいに甘くないからな」送られてきた住所はクルーズ船だった。どうやら今日の清子の舞台は、そこで行われるらしい。だが星は知っている。清子はまだ自分の曲を練習していない。今日の演奏で披露できるはずもない。つまり勇が彼女を呼んだのは、単に「清子はこれほど順風満帆に舞台を用意されている」と見せつけるためだろう。彩香は勇の企みを警戒し、わざわざ裏を取ってきてくれた。「調べたんだけど、今日の公演は上流階級向けで、海外の大物たちまで招かれているみたい。それに......」彼女は言葉を区切り、星の表情を窺った。「今回の音楽会は、ワーナー先生が主催しているの。あの人にしか、これほどの財界人を動かす力はない。どうやら本格的に清子を育てるつもりらしいわ」清子がワーナー先生の弟子になったばかりで、もう上流社会を前に演奏できるとは、それだけで彼女への重視が分かる。さらに清子には雅臣と勇の後押しがあり、そこにワーナー先生の強力な資源が加わる。彼女の出発点はあまりにも高い。星の才能と実力がどれほど優れていても、短期間で追い越すのは容易ではない。普通の家庭で育った子どもと、裕福な家で徹底的に養成された
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第447話

星は数秒黙り込み、やっとこう言った。「まあ、ゆっくりいきましょう」彩香がふとあることを思い出したように言う。「そういえば、葛西先生が先日、お見舞いのミニ演奏を頼んでほしいって電話してたけど、日時は決まったのかな?最近、怜くんも一生懸命ピアノを練習してるって言ってたよ。前に葛西先生に話したとき、老人たちの前でちょっと弾くって言ってたの」星は小さく頷いた。「今月末よ。ただ――」彩香が戸惑いを見せるのに気づいて尋ねる。「ただって、どうしたの?」星は眉を寄せる。「葛西先生から教えてもらった会場が、S市で一番格式の高いプライベートクラブなの。会員証がなきゃ入れないような所だって聞いたわ」彩香は気にしない様子で答えた。「たぶん、葛西先生が招くのは昔からの友人たちで、久しぶりの催しだから気合を入れたいんじゃないかな。あの診療所、外見は古いけど、葛西先生は医者としての蓄えも人脈もある。たまにはいい場所で演奏会を開いても、おかしくないでしょ。彼も年だし、物欲があるタイプでもないから、お金をこういうことに使いたいのかもしれないよ」星は頷き、そういうものだろうと考えを改めた。彩香が提案した。「夜、私も一緒に行こうか?もし勇たちが変な企てをするようなら、誰か側にいた方が安心だし」星は軽く首を振る。「大丈夫、自分で対応できるわ」彼女は自分の身を心配しているのではなく、勇たちの狙いが彩香に向くのを気にしての発言だった。彩香はそれを察して、それ以上は強く促さなかった。「何かあったら、すぐ連絡してね」「わかった」夜になり、星は勇の指定どおりの時間にクルーズ船の会場へと向かった。入り口で嫌がらせを受けると思わせれば、彼女はきっと引き下がる――そう踏んでいるのだろう。だが彼女はあっさり乗船を許され、船内へと入ることができた。その豪華さは想像を超えていた。金銀がきらめく内装、ところどころに配された調度品の豪奢さ。雲井家に戻っていた数年間でいくつかの大きな催しを見てきたが、このクルーズの格は間違いなくトップクラスだった。「どうだ、こんな場には来たことがないだろ?」知らぬうちに、勇が彼女の背後に現れていた。咥えタバコで、あざとく傍らに立つ。星は淡々と尋ねる。
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第448話

星にとって、勇の小賢しい挑発など、取るに足らないものだった。むしろ彼女がここへ来たのは、ワーナー先生が手がける音楽会を一目見たいと思ったからだ。本人が登壇するわけではないが、その名のもとに企画された舞台は、それだけで学ぶ価値がある。勇は彼女を呼びつけ、苛立たせようとしたのだろう。だが実際には、星は少しも腹を立てず、心の中では礼を言いたいくらいだった。今の彼女の立場で、本来なら招かれるはずのない場に足を踏み入れられたのだから。星は勇を、新たな視線で見つめた。彼はまたしても意図せずして、彼女に大きな好機を与えたのだ。勇は彼女の顔に怒りや屈辱が浮かんでいないことに気づき、かえって不気味に感じた。しかも、その目には妙な光が宿っている。「......星、お前、なんだその目は?」「もちろん、あなたを見ているのよ」「俺なんか見ても仕方ないだろ!」女狐のようにずる賢い彼女が、何を企んでいるのか。勇は思わず身構える。星は唇の端をわずかに上げた。「別に。小林さんのところへ案内してくれるんでしょう?急がなければ、もう演奏が終わってしまうわよ」時間を確認した勇は、音楽会がまもなく始まることに気づき、それ以上は何も言わず彼女を会場へと連れて行った。ホールはすでに満席で、場内の灯りも落とされていた。勇は最後列の空席を指差す。「清子の出番が終わったら、会わせてやる。ここで大人しくしてろ」「ええ」星は素直に頷いた。あまりにもあっさり承諾されたため、勇はかえって不安になった。「勝手な真似をしてトラブルを起こしたら、自己責任だぞ」心の中では、彼女が場を乱すことを期待していた。そう思ったからこそ、勇は敢えて傍に張りつかず、前方の自分の席へと戻っていった。「どこへ行っていた?随分遅かったな」雅臣が怪訝そうに眉をひそめる。「ちょっと電話を取ってただけだ」勇は視線を逸らした。幸い、場内は暗く、彼の顔に浮かんだ気まずさを隠してくれる。やがて音楽が鳴り始めると、雅臣の注意はそちらへ移り、勇は胸をなで下ろした。スポットライトが舞台を照らす。清子の細身の姿が、中央に浮かび上がった。星は思わず眉を上げた。ワーナー先生の期待は本物らしい。開演の大役を任され、し
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第449話

「まったく隙のない演奏だ。さすがワーナー先生、眼力は相変わらずだな」「それに美貌も抜群だ。見れば見るほど引き込まれる」「これから音楽界に、新たな天才が現れることになるかもしれないぞ」「この小林さんは、これだけの名士たちの前で顔を売った。将来の前途は計り知れないな」清子は深々と一礼し、観客の熱い拍手に送られて舞台を後にした。だが星はすぐに動くことなく、そのまま席に残って次の演奏を楽しんでいた。およそ三十分後、音楽の部はほぼ終わり、別のパフォーマンスに移っていった。時計を確認した星は、そろそろ清子の様子を見に行こうと席を立つ。――ところが、楽屋に向かう途中で喧噪が耳に飛び込んできた。星はふと気づく。これほど長く会場にいたのに、勇から一度も連絡が来ていない。まさか――足を速め、人だかりのする扉の前へと向かった。人垣の隙間から見えたのは、雅臣に抱きかかえられて出てきた女性の姿だった。女性は髪が乱れ、頬は大きく腫れ上がり、肩には雅臣のジャケットが掛けられている。その正体は他でもない、清子だった。勇はどこからともなく現れ、雅臣のそばへ駆け寄る。「状況は調べたか?」雅臣の黒い瞳が彼に向けられる。「さっき清子を襲ったのは水野亮(みずの りょう)っていう御曹司。業界でも顔の利く相手で、清子を新人と思ってか、酒の勢いもあって手を出したようだ。でも清子にスタンドを叩きつけられて、脳震盪を起こし、今は病院で治療中。しかもまだただじゃおかないなんて息巻いてる」「水野亮......」星の目が細められる。雲井家にいた頃、確かにその名を耳にしたことがある。大きな財閥を背後に持つ家の御曹司だ。そのとき、雅臣の声が低く鋭く響いた。「今後、Z国でその名前を二度と俺の耳に入らないようにしろ」星は悟った。――彼は国内から完全に締め出される。「わかった、すぐに手を回す」勇が頷く。「待て」雅臣が再び制した。「あんな人間を野放しにするな。牢に入れろ」「安心しろ。中で手厚く迎えてやるさ」勇が冷笑する。星の脳裏に、ふと一つの言葉が浮かんだ。――愛する女のために怒りを爆発させる恋する女のために、富も人脈も顧みず怒りをぶつける、その姿そのものだ
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第450話

星は淡々と口を開いた。「楽譜を届けに来いと、山田さんに頼まれたの」清子はすぐに勇の意図を察し、心の中でほくそ笑んだ。――やっと少しは頭を使った行動をしたようね。長い睫毛を伏せて、柔らかく微笑む。「星野さん、ごめんなさいね。こっちでちょっとトラブルがあって......今日はせっかく来てもらったのに、無駄足を踏ませちゃったわ」「気にしないで。山田さんに音楽会を見せてもらったと思えばいいわ」「そうね、危うく忘れるところだったわ。星野さんはこういう規模の演奏会に来ること、滅多にないでしょう?実を言えば、私だってワーナー先生の引き立てがなければ、こんな場に出ることは難しかったの」そう言って、清子はちらりと雅臣に目を向け、感極まったように続けた。「もちろん、雅臣がワーナー先生を紹介してくれたおかげでもあるの」星は心の中で冷笑する。――裏でどれだけ汚い手を使ったか、本人が一番よく知っているはずなのに。それを誇らしげに口にしてみせるとは、厚顔無恥もここまで来ればたいしたものだ。「小林さん、自分の立場をちゃんとわきまえているなんて、意外だったわ」星は唇に笑みを浮かべた。皮肉は聞き流し、清子は笑顔を崩さなかった。「星野さんは、こういう貴重な舞台の機会はなかなか得られないでしょう?もしよかったら、私ワーナー先生にお願いして、演奏の場を紹介してあげてもいいわよ」「ええ、お願いするわ。ぜひ頼むわね」思いがけない返答に、清子の笑みが固まった。雅臣の前で、星はきっと拒むと思っていたのだ。ここ最近ずっと、彼女は毅然とした態度を貫いてきたはずなのに――沈黙を見透かすように、星が追い打ちをかける。「小林さん、何かご事情でも?それとも、さっきのはただの社交辞令だった?」清子は雅臣の前では決して取り繕わねばならない。星のように遠慮なく言い返すことはできないのだ。降って湧いた機会を彼女が逃す理由はない。慌てて笑顔を作り直す。「そんなはずないわ。星野さんさえ構わなければ、ワーナー先生にお願いしてみるわ」そう言いながら、清子の視線は思わず雅臣のほうへ揺れる。だが彼は何も口を出さず、止めようともしなかった。胸の奥に重たい感情が広がる。「じゃあ、よろしくお願いす
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